穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

南国太平記を資料として読むとはどういうことか

2017-12-13 14:53:22 | 直木賞と本屋大賞

 はやとちりの読者がいるといけないので断っておくが幕末薩摩藩の内情の「史実」を南国太平記に求めたわけではない。そんなバカげた誤解をする読者はいないと思うが。

 私が読んだのは幕末のアルカイダ西郷隆盛の怪文書として読んだのである。すなわち西郷党の宣伝パンフレットとして調べたのである。川口松太郎という大衆作家がいた。たしか川口浩とか川口ひとみとかいう映画俳優の父親ではなかったか。直木三十五の使い走りとして出発した人物である。彼が南国太平記には種本があったらしいとのちに書いている。直木は絶対にその資料を川口に見せなかったそうである。これは西郷一派が久光派を狙い撃ちしたスキャンダル文書であることは間違いない。西郷一派のことであるからどこまで本当か分からないが薩摩藩士に相当の影響力を与えたらしい。ま、稗史という言葉もある。

 西郷一派がどういう宣伝工作を行っていたかという「史実」を私は調べたわけである。なぜそんなことを調べたのかというのか。若干家の歴史に関係してくるのでね。詳しくは話せないが。

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直木三十五「南国太平記」に再会

2017-12-12 22:33:38 | 直木賞と本屋大賞

 犬も歩けば棒にあたるといいますが、わたくしという「自我を失った犬」が本日市中徘徊中に珍しい本に遭遇しました。探していた訳ではなくて行き当たりばったりに眼についたのです。

 直木三十五といえば菊池寛の友達で芥川賞と一緒に直木賞を作ってもらった作家で、生前は飛ぶ鳥を落とす勢いの流行作家だったというが、現在一冊の本も手に入らない(古本を除く)。ま、大衆作家というのはそう言う者では有りますが。例外的には吉川英治などがあるが彼とてほぞぼそと文庫が生存しているに過ぎない。

 南国太平記は彼の代表作と言うことになっており、書名だけは好事家の間では有名ですが読んだ人はほとんどいないのではないか。私は大分昔になりますが、幕末の薩摩藩のことを調べる必要があって、古本屋で見つけて購ったのであります。古本に手を出すことの無い私として異例のことでした。

 それが角川文庫で先月出たのですね。上・下二巻約1200ページ。私が読んだのは単行本でたしか五分冊だった。文庫本上下で収まるのかな、と疑いましたがとりあえず購入。昔読んだ本は出版社の名前は忘れたが、確か昭和30年頃の発行だと怪しげな記憶が有る。原作は昭和5年から6年にかけて新聞に連載された。

 この文庫には北上次郎氏の短い解説が載っている。大変面白いとあるが私の記憶では別に面白くもなかった。上に申し上げた様に資料として読んだだけですから。

 その後、つまり昭和30年ころ?以降に再版されなかったとおもっていたが、北上氏によると、1997年に講談社から出版されたそうだ。これには気が付かなかった。それで(一部の大衆文学史では)有名な割には再版されないのは訳があると思っていた。それが正しいかどうかは分からないが、出版界には皇室に対する自主規制というか遠慮があったのではないか、と理解していた。

 おいおい後で回を改めて述べるつもりだが、簡単にいうとこれは薩摩藩の有名なお家騒動を扱っている。世にお由羅(またお油羅)騒動という。簡単に言ってしまうが、香淳皇后(昭和天皇の皇后)はおゆらさまから五代目の子孫であらせられる。

 小説では、またその元になった流説ではおゆらは希代の毒婦である。島津

斉興の側室となり島津久光を生む。斉興が正室に生ませた斉アキラのこどもを次々と呪殺させたとして西郷隆盛に毛嫌いされた女性である。

 昭和天皇がご婚約を発表された時には薩摩の西郷党(昭和の初めでも右翼の間では勢力があったらしい)一派は右翼を結集してこの婚約を破棄させようとした。世にこれを宮中某重大事件という。直木三十五の南国太平記はまさにこのような時に書かれた。軍部の青年将校の間でも愛読者が多かったと言われる。

 戦後この本が出版界で日の目を見なかったのは出版業界の自主規制ではないかというのはこのことである。1997年の講談社の本もあまり注目されなかったようだし、今回の角川文庫はどうなのかな。時代の変遷で受容の仕方も違うのかも知れない。>>

 

 

 

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村上春樹チャンドラー長編全訳達成

2017-12-07 20:29:51 | チャンドラー

 十二月十五日発行の「水底の女」でチャンドラーの全長編翻訳達成。

今日は七日だっけ。いずれにせよ、達成したわけだ。残っていたのはこれだけだったが、なかなか出てこなかったので心配していたが約束通りに完訳した。例によってあとがきしか読んでいないところでのアップであるが、「楽しんで訳した」とあるので安心した。出来栄えが楽しみだ。律儀に約束を守ろうとして苦しんでいるのかなと心配していたがよかった。

 前に全訳するとすればという前提で翻訳の順序を予測したことがあった。大体当たったが、ひとつ外れた。「大いなる眠り」は二番目(一番目)と予測したが大分遅れた。なにか版権をとるうえで問題があったのかもしれない。この「水底の女」(旧湖中の女)は最後になるだろうと予測した。村上氏の訳も同じ順番になった。あとがきでは別に翻訳の順番で最後にした理由は書いていないが。

 出版社に対する仁義もあるから翻訳者が原作のことを悪く言うわけはないが、このあとがきはこれまでのものと比べてあまり入れ込むところがなく、あっさりと短いものとなっている。そんなようなわけで、翻訳でどれだけ化粧のりがよくなったかが読みどころである。

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シェイクスピアをまとめて読む

2017-12-06 11:50:13 | 本と雑誌

 師走、年末年始はシェイクスピアを読むことにした。作品は沢山あるからもっと長引くかも知れない。悲劇と言われる作品は大昔に読んだから喜劇からはじめるか。もっともハムレット青年もマクベスなどもほとんど覚えていないから初読も同然ではあるが、ま喜劇と言われる作品はまったく読んでいないのでその辺からと思っている。

 ところでロミオとジュリエットは悲劇かね。新潮文庫で少女向きのピンクのカバーで出ていたので先日読んだ。初読である。本当の初読でね。むかしつまらない洋画で見たことは有るが。

 中野好夫氏によるとシェイクスピアは看るものというより聞くものである。同感である。私はさらに敷衍して読むものであるといいたい。エリザベス朝時代の劇場の制約から舞台装置、書き割りの類いはほとんどなく、舞台はシンプルで演出家が演出に凝る余地はほとんどない。また比較的小劇場であるからじっくりと話芸を楽しむ日本の寄席のようなものである。あるいは舞台が簡単なのは日本の能舞台のごとしという。

 それなら劇場に言って日本の俳優ががらんどうの大劇場でセリフと言えば興ざめでしかない「わめき」「どなる」のが演技と思っているさまに感興を殺がれることもない。みかんの皮を猿の様にこたつで剝きながら読んで可である。

 作品の数は多いが脚本は短い。200ページくらいだろう。最近は内外でも目方で売るせいか長い小説が多いが最後まで興を失わないのは稀である。正確には絶無と言っていい。私が分冊になっている小説で最後まで読めたのは、レミゼラブル、風とともに去りぬ、デイヴィッド・コパーフィールド、白鯨のみである。

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