穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーとディケンズ

2010-05-19 18:40:50 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーはディケンズに影響を受けたか。前から気になっていたが両者の関係に言及した研究があるのかどうか。

二人は同世代人であるといってよい。ディケンズがわずか9歳年上だ。前にドストの虐げられた人びとの書評を本欄でしたが、最近読んだエドガー・アラン・ポーの書評を読んで、この本はディケンズの骨董屋に影響、あるいは触発された作品であるとしてよかろうと思う。

同時代人とはいえ、ディケンズの骨董屋は1841年、虐げられた人びとは1961年の作品。ドストエフスキーが英語が読めたかどうかは知らないが、フランス語は翻訳をしたものがあるくらいだから不自由しなかっただろう。

ドイツ語もかなりできたらしい。ディケンズは人気作家だから発表差が20年ならフランス語かドイツ語に翻訳されてドストが読んでいた可能性はある。

ドストの虐げられた人びとを読んだときに登場人物の名前がスミス老人とか少女ネリーとかおよそロシア的でないのにまず気になった。ロシアに帰化したイギリス人かなと思って読んでいたが。

骨董屋の少女はネルという。ドストは本歌取りを公言して名前も変えなかったのではないか。

布石は違う。虐げられた人びとでは老人が先に死ぬ。ネリーは老人に逆らった結婚をして家を出奔した娘の子供である。

骨董屋では老人と孫娘ネルは困窮の中に一緒に住む。そして借金で家を追われて孫娘に手を引かれて田舎をさまよう。孫の両親は死んでいてみなしごである。

共通しているのはポーの言葉でいえば二作品の哀切きわまる「トーン」である。ドストはディケンズの「トーン」を取り入れ、布石については正反対にする(老人と孫娘の関係を)ことによってやはり参考にしている。

以上骨董屋を読まない考察である。ちくま文庫にあるようだが、いま出庫が途絶えている時期らしい。原文はペンギンであるが、これが活字が超微細。最近は細かい活字は読まないことにしているので、ポーの書評のみから判断した。まず間違っていまい。

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短編の翻訳は読めるか

2010-05-13 18:52:36 | 社会・経済

最近キングのシャイニングを再読した。しきりにポーの赤死病に言及している。前に読んだ時には気にならなかったが今回はポーを読んでみる気になった。

たしか前に岩波で読んだが本棚にない。そこで数年前に買った英文で読んでみたが確かにゴシック小説の傑作だね。今日、本屋をぶらついていたら新潮文庫にも翻訳がある。立ち読みだから冒頭、結末夫々一ページほどながしたんだが、あまり原文を読んだ時に感じた迫るものがない。まあまあの翻訳だとは思うが。

それで思い当たったのだが、短編はその文章の結晶度が当然に高いわけで翻訳はなかなか難しいのだろうということ。森鴎外みたいに原作より数段優れた翻訳になることもあるが之は例外だ。

この前読んだ新潮文庫のジョイスのダブリナーの翻訳はひどい。英語的には問題がないのかもしれないが日本語としてなっていない。本人はジョイスの雰囲気を出そうとしたらしいが、とんちんかんなものに仕上がっている。これは原文が手元にないのでちくま文庫の翻訳を買ってあらためて読み比べた。

結論からいうと、ちくま文庫の翻訳は新潮よりはるかにいい。日本語のセンスの有無もあるが、短編の翻訳は訳者によって大きな差が出る。

話は飛ぶが、ハードボイルドでも言えるかな。チャンドラーやハメットの短編の翻訳も水っぽいのが多いのは同じことなのかもしれない。

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