穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

S・キング悪霊の島プロクシーとしての人形

2010-10-23 21:03:44 | 書評

オカルトもので人形(ヒトガタ或いはニンギョウ)は定番なのだが、キングではどうかな。あんまり他の作品では見ないような気もするが。

プロクシーと言ってもよい。メディアと言ってもよい。キャリアと言ってもよい。悪霊の島ではたくさん出てくる。そしていずれも主役級だ。

主人公は50代のエクゼキュティヴだと書いたが、大けがをした後のリハビリで赤ん坊のように人形を看護師からあてがわれて、寝るときには人形を抱いて寝る。60近い男がである。是によってエドガーは相当認知症傾向があったことを暗示している。

老人ホームなんかに行くと老人たちのベッドに女の子みたいに人形が添い寝をしている。治療法の定番なのだろう。キングもそうした現場を見て人形を登場させたのだろう。それと冒頭に言ったように人形はカルトでは大事なヨリシロでありプロクシーである。

全部で人形が何体でてくるかな。ちなみに化け物パーシーの人形もある。この人形を真水の入った容器に閉じ込めるとお化けは非活性化することになっている。

閉じ込めてそれをさらに金属の重い容器に密閉して深い湖に沈めてめでたしめでたしとなる。要約するとしまらない結末である。

一応これで終わりにしておこう。これで四千円分は回収しただろう。


S・キング悪霊の島35キロ付近

2010-10-23 18:58:24 | 書評

マラソンでは35キロ付近が勝負どころらしいが、悪霊の島は35キロ付近からのラストスパートに完全に失敗している。下巻の真ん中あたりから細かいつじつま合わせが始まるがこれが退屈きわまりない。

それまでは奔放に乱暴にキングは書き散らかしてきた。それはそれで読めないことはない。そのままの勢いで押し切ればよかったのだが、長年の濫作で筆が枯れたのかな。

最後に開陳すべきは、お化けパーシーがどうしてデュマ島の住民に取りついたかという説明である。細かい日時や過程が矛盾しないように説明するのはいい。うまく面白く説明できればね。

キングが急に細かいつじつま合わせに汲々としているのを見ると笑えてくる。

散々浪費してきた人間が最後になって帳簿の一円二円の帳尻にこだわりだして脂汗を流しているのを見るようで読者の憫笑をかう。

そして終わってみると肝心のパーシーの存在理由がうっちゃらかしで終わっている。

もうすこし続けるかな、どうしよう。小道具のことでも書くか。


キング悪霊の島こわくないお化け

2010-10-23 18:10:27 | 書評

キングの書くお化けは怖くない。そのなかでも少し怖いのはシャイニングぐらいだろう。これは筆がまだ枯れていないころの彼の技で一応読ませている。

怖くない理由を考えてみると、主人公や登場人物に絡まる恨みに発するものがない。つまりお岩さんタイプ、怪談タイプじゃない。これで怖がらせるのは相当の筆力がいる。成功しているのはシャイニングくらいだろう。

話は飛ぶが、ラブクラフトもクルツゥ人だっけ、地下神話とかがキモなんだけど怨念、情念は関係ない。僕なんかこわくもないし、面白いとも思わない。日本にも大分フアンはいるらしいけど、よくわからない人気だ。

このタイプのホラーは必然的にマンガチックになる。劇画に堕する。ところがキングは劇画に徹しないんだね。そこが彼の中途半端なところだ。

以下次号


S・キング悪霊の島独白じゃないだろう

2010-10-23 08:42:00 | 書評

主人公のエドガーは成功した建設会社のオーナー社長であった。大事故で瀕死の重傷を負い、片腕を失う。過酷で長期のリハビリの後、回復に向かい後遺症に苦しみながら絵を描くようになる。

絵を描くことが超能力のメディアとなる。つまり彼に透視や千里眼の能力を与えた。念動能力も獲得する。この能力によってお化けのパーシーとも過去の修正、再設計競争が出来るようになる。現在未来の設計もパーシーと争う。

世界各地、古今の超能力者の例は、その超能力は遺伝するか、大病などの強烈なストレスを受けた後に獲得することを示している。つまり、超能力は遺伝病によるか、生死の淵をさまようような大病や大けがあるいはストレスのあとで獲得する一種の補完能力である。注

キングの超能力物は多いが、一応この前提に沿っている。具体的にいえばほとんどの場合大事故を前奏曲としている。処女作キャリーの場合だけは遺伝病(幼児の出来ごとが暗示)が思春期のいじめというストレスで火を噴く。

ここまで書かないとタイトルの説明が出来ないのだが、小説に「絵の描き方」という章が10か所ほどある。訳者はあとがきでこれはエドガーの独白であるという。

違うだろう。あるいは、キングがどこかでそのような説明をしているかもしれない。もしそうならキングは嘘をついている。

これらの章はいわゆる「自動書記」ないしは「お筆先」である。つまりどこかにフワフワ浮いている霊がエドガーの口を通じて語っているのである。腹話術だね。腹話術といえば別の個所でキングは腹話術をうまく使っていたっけ。

この内容が本筋とシンクロするようでシンクロしていない。そこが妙と言えば妙なんだ。キングが何故これを入れたか。

ずばり廃品利用だと思う。つまり初期草稿、シラバス、メモの類を捨てるのはもったいない、なんとか使いたいと思った。御筆書きとして適当に挿入して紙数を稼いだのだ。本人は一種の味が出ると思ったのではないか。つまり一石二鳥を狙ったというわけ、廃品利用、エコだ。

注:世界各地のシャーマンを調査した民俗学者はみな、この傾向に気が付いている。

注2:そういえば薬の影響で、というのもキングにはあったね。ファイアスターターだったかな。幻覚剤、麻薬などの影響で新しい「知覚の扉」が開くこともあるようである。

未開民族のシャーマンが薬草を利用するのは周知の事実で、そのようなものが先進国で麻薬などとして製品化している例もある。

つづく


S.キング悪霊の島

2010-10-23 00:01:25 | 社会・経済

私にとってキングというのは厄介な作家である。というのは世評からすると素晴らしいエンターテーンメント作家らしい。しかし私にはどうしてだか理解出来ないという点で。人がいい、いい、と言うのに理解できないというのは教科書を自分だけが理解できないのかと不安になる気持ちと似ている。

あれだけの大量生産作家であるから、そのごく一部した読んでいないが、勿論なかにはそのテーマとそれをどう処理しているか理解できる作品もある。初期の作品あるいは彼としては比較的短い作品にはそういうのがある。

あの冗長性がいいというのだろうが、辟易する。悪霊の島は長い作品に入るだろう。なぜ、それならキングを読むのかという疑問はもっともである。あとがきに引かれてとしまらない理由からである。

散歩の途中で本屋による。昔は適当なところどころに喫茶店なるものがあって疲れるとちょっと小憩したものだが、最近はマクドナルドとか画一的なチェーン店が多くなって、とてもゆっくり休めない。また、コーヒーも大分不味くなった。健康志向とかで細いスティックで砂糖が出る。三グラムしかない。最低6グラムはないとね。

それに街中で安心して散歩出来る道はほとんどなくなった。細い道は込み合っている上に自転車にぶつかられる危険性が高い。広いゆったりした道で通行人が少ない道がいいかと言うと、とんでもない話である。女や業務用の自転車がとんでもないスピードで飛んでくる。なかにはスポーツ用の自転車を歩道で全速力で走らせるバカがいる。

てなわけで散歩の途中で本屋に寄ることが多くなった。大きな書店だと一回りすると結構な散歩になる。中には3フロアもある本屋がある。で店内をぶらぶらしながら、棚から本を取りだす。だいたい、あとがきを見るね。それでオイラはバカだから、解説や訳者あとがきにスゴイことが書いてあると買ってしまうのだ。

悪霊の島の訳者あとがきにはしびれた。アメリカでベストセラーで売れに売れているというのだ。アメリカ・ホラー作家協会の最優秀長編賞を受賞したというのだ。書評やインターネットでの評判もすごい、というのだ。

それと技法と言うか、テーマと言うか解説されていることにちょっと興味をひかれたものでマンマとセールス・トークに引っかかってしまった。

以下次号


支那虎のはなし

2010-10-11 08:32:10 | ミステリー書評

またまたシナ飯・チャンドリアの話だ。おっと間違えた、チャンドラーのはなし。

処女長編「大いなる眠り」と晩年の「長いお別れ」はタイトルからしても対になっている。両作ともにサイコの女があっと驚く真犯人というわけ。そして一人は未成年の色情狂、殺人狂として施設に送り込まれてしめくくる。 長いお別れではドリームガールは自殺に誘導される。

要するにチャンドラー永遠のテーマだったわけ。長いお別れはチャンドラーのギムレット友達テリー・レノックスのための(四字抹消*に対する*)復讐である。アイリーンを自殺に追い込んだ時点ではマーロウはテリーの自殺に半信半疑だが、色情狂の娘がスキャンダルになるのを防ぐために、大富豪の女の父に言い含められて自殺したかもしれないと思っている。

最後のドンデンで整形をしたテリーが現れて、生きていることが分かるがこれは後日談。最後の二人の再開の場では単なる友情話で終わらせていない。ここのところも読みどころだ。読者をやきもきさせる。一応握手はするが、友情の復活はない。

全体を通して、最初から友情などなかったという隠し味だろう。友情というより、「なにか説明出来ないが気にかかる相手」というのがベースだろう。

32章で、マーロウがいやいやその謎の大富豪の家に連れて行かれるところがある。そこでその成金ポッター親父がひとくさり演説をする。評論屋がありがたがるお説教をするわけだが、ポッター親父の人生論、資本主義論は陳腐月並みである。チャンドラーはこういう大上段に振りかぶった政談をやらせると生彩を欠く。

とにかくポッターにとって、プライバシーがなにより大切だから娘の事件をほじくり返すなと脅したりすかしたりする。マーロウもさるもの、へいへいとはいわない。が最後はなんとなく器質的に二人は意気投合して握手して別れる。

ポッターのプライバシーを尊重して事件を追わないとは口約束は与えなかったが、なんとなく伏線となるものがある。

最後にマーロウはアイリーンを心理的に問い詰めて実質的な告白を得る。並みのミステリーならここで自殺などの予防のために、警察に報告して身柄を確保させるものだ。マーロウはそうしない。放置する。そしてその夜アイリーンは服毒自殺をする。

アイリーンを尋問したときに同席した証人ともいうべき出版社の社長が強く警察への連絡を主張したのに対してマーロウは同意しない。あとで彼女は精神がおかしいし、大金持ちだから告訴されて裁判になっても有能な弁護士がつき、精神鑑定を受けて無罪になる可能性が高いだろうと、マーロウは認めている。それでも自殺させるほうを選んだのである。

これでなくてはハードボイルドとはいえない。

そこで副伏線としてポッター親父との阿吽の呼吸での意思疎通が問題となる。裁判になって娘を殺したアイリーンが法廷に出てくればいかにポッターが大金持ちでもマスコミを黙らせることが出来ない。

マーロウはポッター親父のプライバシーを守ってくれという要請、脅迫をかなえてやったわけである。再読してみてロンググッドバイのテンポは悠然と流れるが、よく構成されたゴチック建築のようであることが分かる。

& ちなみに支那虎はラーメン屋の名前である。


村上春樹のチャンドラー観

2010-10-08 20:13:45 | 書評

村上春樹が翻訳したチャンドラーのロンググッドバイが文庫本になって書店に並んでいる。巻末にかなり長い彼の解説がある。本屋で立ち読みをした。あまり思い出さないのでハードカバーで買った時にはよく読まなかったらしい。

この(訳者あとがき)はハードカバーのときのものに手を加えたのかしら。瞥見したところそうでもないらしい。そこで家に帰ってからハードカバーを探し出して読んだ。

かなり強引という印象だ。とりあえず気になったところはまず、(チャンドラーの独自性)というところ。チャンドラーに独自性がないなどとはいうつもりはないが、内容だ。簡潔に要約するのは困難だが、たとえば『自我の存在場所に、チャンドラーは「仮説」というあらたな概念を持ち込んだのだ』などというところ。

これはすでに誰かの言ったことなのか、あるいはチャンドラーの残したメモや手紙のなかで言っていることなのか。それなら頭をもうすこしひねらないといけないのかもしれないが、ちょっと理解しかねる。

ジョイス・キャロル・オーツの評を援用しているが、これも村上が敷衍しているような意味でいっているのかね。そうは思えない。ま、引用されている文章しか知らないためかもしれないが。

つぎに、(二人の見事な語り手)という節。これはマーロウとgreat Gのキャラウェイのことだが、村上春樹は構造的にグレートギャツビーをチャンドラーがミステリーとしてなぞったものと言うが、ちがうんじゃないかな。そういう定説があるなら降参するが。

たしかにマーロウとニック・キャラウェイ(great G)は似ているところもあるが似ていないところもある。少し言いすぎではないか。

実をいうと数年前にこの翻訳を観て村上春樹に興味を持った。それまでは彼の本は一冊も読んだことがない。訳そのものは原文に忠実のような印象だったが、あとがきの勢い込んだ思い入れはちょっと抵抗がある。

村上春樹のロンググッドバイ観はテリーを主役と見なし、マーロウをナレーターと見るところにあるわけだが、主役はマーロウだ。これに異を唱える村上は相当に乱暴な腕力派だ。このL.GBYEといういっぷう変わった小説に友情という横糸をはるためにテリーという人物が絶妙に造形されていることは特筆すべきだが、それ以上ではない。

いっぽうグレートギャツビーのほうのニックは縦横斜めどこから見てもナレーターとしてフィッツジェラルドの筆で操られている。

自分の主たる?翻訳本二冊を強引に結びつける手腕というところだろう。


ジェフリー・ディーヴァーのチャンドラー論

2010-10-02 07:12:57 | ミステリー書評

論というのは大げさだが、Penguin Crime Fictionのロンググッドバイにディーヴァーの紹介文がある。わずか数ページの短いものだ。

このブログでも触れてきたチャンドラーの特徴をディーヴァーも指摘している。無聊に苦しんで、ロンググッドバイ本文を再読、三読だったかな、四読だったかな)しようと手に取りディーヴァーの文章があるのに気がついて初めて読んだ。

いくつか要点だけ紹介する。

*チャンドラーの作品は再読可能(rereadable)である。ここは重要だ。ミステリー、犯罪小説、ノワール小説で再読に耐えるものはまずない。小欄もノワールなんて言葉を使いだした。便利だね、たしかに。

村上春樹もロンググッドバイは何度も読んだと言っていたようだ。わたしも折に触れて(大体退屈した時だが、退屈でも再読したくなるものはあまりないが)読む。新しい訳が出ると、どんな具合かなとそれも読む。

*プロットやどんでん返しにこらない。種明しが終われば御用済みとなる大部分のミステリーとは違う。情景描写や雰囲気の描写に素晴らしいものがある。テンポは遅い。小生の考えではこれらはすべて関連している。プロットにこって複雑にすると文章として腕をふるう機会は著しく制約される。

もともと文章の下手な作家はプロットにこっても失うものはすくないが、チャンドラーの場合は品質とのトレードオフに耐えない。

*ミステリーのジャンルを超えている。これも上記の諸点と関連している。

*チャンドラーの長編でどれがベストということがいえない。これも小欄で再三述べてきた下記の事実によるものであろう。

チャンドラーは51歳で最初の長編を出したそうだ。短編を書き始めたのも40代から。すなわち文章力が出来あがった大人として最初から書いている。作品ごとの出来のばらつきはすくない。平均値は高く、偏差値の幅は小さい。当たり外れが少ない。

*あたらしいTip。おそらくチャンドラーの評伝にもなかったと思う指摘がひとつある。

マーロウの名前はチャンドラーが学んだイギリスのDulwich CollegeにあるMarlowe学寮に因んだものではないか、とディーヴァーは推理している。