穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「ダブル」トリロジーを読み終わる

2019-07-31 20:55:16 | ポール・オースター

 オースターのいわゆるニューヨーク三部作の最後「鍵のかかった部屋」を読んだ。三部作なのになぜダブルだって。ご疑問ごもっともなれど、ダブルはダブルなれど分身あるいは生き写しのダブルだ。前回のアップでも触れたが前の二作は分身小説だと言った。この「鍵のかかる部屋」も分身小説である。あるいは自我のコピー小説といってもいい。

  この作品ではファンショーは「僕」の分身である。182ページ(白水Uブックス)に次の文章がある。

>>この前に出た二冊の本についても同じことが言える。『ガラスの街』、『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語はみな同じ物語なのだ。<< ということ。

  したがってNewYork TrilogyはDouble Trilogyと言える、あるいは言ってもいい。

 


ついて来るな!自我の犬

2019-07-28 19:11:30 | ポール・オースター

 近代ではどこに行っても自我という名の犬が付いてくる、とあきらめ気味に喝破したのはニーチェであった。困ったものである。

  さて、オースターの小説であるが、買い求めた作品でまだ読んでいない後期の作品が三つほどあるが、どうも覗いてみても読書の感興が湧かない。そこで初期の「ガラスの街」と「幽霊たち」を読み返した。歯ごたえがあるね。腹持ちがいい。

  この二作品は自我に関する寓話ではないか。好き嫌いでいうと「ガラスの街」のほうがおもしろい。自我という幽霊が自分から染み出して外界に浮遊する。固定観念になって反射してきて(折れかえって)自分に帰ってきて取り付く。

  作品としてはガラスの街のほうがよくできているが、テーマはまだあいまいなところがある。主人公のクインはミステリー作家のウィルソンと、その作品の主人公である探偵のワーク、そしてポール・オースターという間違い電話の探偵という三つの分身を持っている。

 そしてスティルマンという男を尾行しているうちにこの男とも一体化する。これは分身小説の範疇だね。ただ、「幽霊たち」に比べるとまだテーマは判然と浮かび上がってこない。

  最後の部分、尾行していたスティルマンを見失ってから人格が崩壊していく過程はまだ筆力が未完成である。それに比べると「幽霊たち」は叙述に統一性がある。ブルーとブラックは分身同士である。最後は一方の分身が他方の分身を我慢出来なくなって殺害して新天地を求めて行方知れずになるのである。つまり自己嫌悪である。

  これらの作品については書評を当たってみたがどうも腑に落ちるものが見つからなかった。インターネットでも探したが中途半端なものばかりだ。もっとも検索の仕方が悪かったのかもしれない。

 


最後の者たちの国で

2019-07-19 11:20:31 | ポール・オースター

 オースターの初期の作品である該書を読んだ。彼の作品は出来るだけ執筆年代順に読んでいるのであるが、何故今頃読んだかと言うと書店で見かけることがなかったからである。

  オースターの本はおおきな書店でもあまり品ぞろえがない。せいぜい新潮文庫で初期作品が3冊くらい、たまに5,6冊あるところがあるが単行本はまず見かけない。自転車にぶつけられないで一日一万歩を稼ぐには大型商業モールか大型書店の中を歩くのが一番安心である。そんなわけで大型書店も毎日覘くのであるが「最後の者たちの国で」は見たことがない。

 一度店員に調べてもらったら絶版で再版の予定もないとのことであった。図書館に行けばあるだろうが、図書館から本を借りることはしない。古本屋とかアマゾンで調べれば古本はあるだろうが、古本も買わないから今まで読む機会がなかった。それが先日某所某日に某書店の棚にあったので贖った。

  訳者は例によって柴田元幸氏であるが、あとがきに読者からこの本が一番好きだと言われたと書いてある。どうしてだろう。人気がないから書店に出ないのか、ほかに理由があるのか。この後書きによるとアメリカでもこの本は「埋もれてしまっている」そうである。

  ディストピア小説(ユートピア小説の反対)という世間の評価があるらしい。一読荒廃した国というか地域というか、小説の舞台を読んで北朝鮮を連想した。読後の印象だがほかの作品に比べて市場性がないということはないと思うのだが、どうして書店に表れないのだろう。念のために奥付を見ると、2005年7月20日第七刷発行とある。再版ではない。すると、何かの拍子に書店の倉庫の中から店員が見つけて並べたということかな。

  例によって失踪がキックオフになっている。ジャーナリストの兄が取材にいった国で音信不通になったので妹が探しにいくというわけ。この辺も北朝鮮みたい。

  もっとも、最近はオ-スターの単行本でも古い年月の奥付のものが書店に出てきた。需要が出てきたのだろうか。

 

 

 

 

 


よく出来たチャイニーズ・ボックス

2019-07-16 08:23:21 | ポール・オースター

  オースターの「インヴィンシブル」を読み終わった。オースターの作品の半分くらいは読んだであろうか。この作品はチャイニーズ・ボックス的な入れ子細工としてはこれまで私が読んだ作品の中で一番よい出来である。

  作家ギルトにとっかかりをつかむと作家は延命策として通俗小説に向かうのは日米で同じだろう。これは通俗小説なのだが、複雑なつくり(invinsible)なわりには、文章の滑らかさ、構成の一体感、分かりやすさでいわゆる「円熟」の境地に達している。日本だとこうなると「文豪」という呼称をたてまつるのだろうか。

  後書きで訳者はこの作品が初期の「ムーンパレス」と世間で比較されるというが、訳者も指摘しているように全然違うようだ。


Invisibleとは

2019-07-11 07:41:40 | ポール・オースター

前回の補足、Invisibleについて

 前回の最後で触れた日本語ガイドからの英文の引用であるが、考え直してみるとどうもしっくりとしない。そこで英文で読んだ。faber and faber版89ページにある。前後の文章をよんで腑に落ちた。この文章は作中登場の作家(オースターに擬されている)が青年時代に体験し後悔しているインシデントの回想記を書く段になって行き詰ったと昔の友人である作家に相談した個所である。

  友人の作家ジムは返事で自分のことを書くときは三人称のほうがいい、と勧告している。一人称で書くと、いろいろと心理的な規制が働くから問題を正確にとらえられない、つまり書けなかったと自分の体験を述べている。つまり「invisible」とは一人称で書くとテーマを判然と自分で表象できない、あるいは捉えられない、表現できないという意味なのである。これならわかる。

 それにしても、オースターは一作おきに分かりやすい作品を書くみたいだな。



アクロバティックな視点移動

2019-07-09 08:51:33 | ポール・オースター

 オースターの貢献と言えば、見方によってはハチャメチャな視点の浮遊移動であろう。

もっとも、私はひろく現代小説を漁っているわけではないから、なにもオースターの専売特許ではないかもしれないが。前に短編小説のごった煮と書いたが、チャンドラーもこの手を使うが、彼はマーロウの一人称固定であり、ごった煮といってもせいぜい短編二つまでである。一方オースターは錯乱的なごった煮である。腕力でこれを通用させてしまったところがすごい。人称の固定を金科玉条のように唱える日本の文学賞選考委員など吹っ飛んでしまう。

 ま、小説もこういうふうにも書けるんだ、という勇気を後輩に与えた効果はあるだろう。

  そこで彼の小説を要約することは非常に難しい。いま「インヴィンシブル」を読んでいるので、例の「現代作家ガイド」のなかにある要約を読んでいる。なかなか苦労してまとめてある。もっとも冒頭319ページの最後数行の要約は小説の叙述が前後して紹介されているようであるが。

  よくわからないからだろうがこの要約の最後に引用している次の文章がが面白い。

By writing about myself in the first person, I had smothered myself and made myself invisible.

 これって前にも書いたが自分を徹底的に隠蔽して小説なり映画なりに自己表現欲を集中するというオースターの方法論をよく表している。すなわち鍵のかかる部屋の(たしか記述者の友人)や幻影の書の愛人の死体遺棄を手伝って姿をくらましたコメディアンがだれにも見せない映画製作に打ち込む姿に描かれている。

  現代作家ガイドのI氏の評言によれば

「自分を見えなくすることで、自分のことが書けるという逆説」。そういうことだろう。


オースターの三つの位相の関係

2019-07-08 07:52:58 | ポール・オースター

オースターの三つの位相の関係

まずオースターとあなた(現代作家ガイドの評者)の関係

日本の(専門家)の意見というのは内包も外延も欧米の評論家と同じだろう。

 オースターは積極的にインタビューに応じるタイプらしい。評論家もそれを材料にするだろうから、(あなた)とオースター自身の位相は疑似イコール(つまり50パーセント以上)の関係と想定する。

 そこで私の位相と(あなた)の位相の関係であるが、理論的に全体的に比較できるほどの読み込みはモチロンしていないから、雑駁な印象の羅列になることをお断りしておく。

  これはテーマなのか(使いやすい常用の道具)なのか分からないが、まず印象に残るのはオースターが執拗に繰り返し描写する「失踪」である。失踪は当然追跡あるいは尾行を誘発する(ペアになる)。

 いわゆるニューヨーク三部作が探偵小説的と言われるゆえんである。勿論読者の皆様がご案内のように探偵小説的な謎解きは一切していない。いわば物語のレールというか状況設定である。匿名の依頼者として自分自身の尾行記録を探偵に作成させる作品もある。これって外部的に自分はどう見えるかな、という興味を描いているのだろうか。ホフマンなどが描いた分身(ドッペルゲンガー)現象に通じるところもあるようだ。

 また失踪の裏返しとしての自己露出が付随する。もっともひねりがあって、作品(自分の書いた小説)のみによる露出、(鍵のかかる部屋の場合)や(誰にも見せない映画製作、なんだっけか、幻影の書だったかな)。

  失踪は長期の不在(視野のそと)というケースもある。ほとんどの作品で主要な筋としてではなくても挿話として失踪が組み込まれている。

 失踪が何かを著わす寓話的なものなのか、主要テーマなのかは判然としない。余談だが村上春樹の作品を貫くものは喪失感だとかいうのを読んだ記憶がある。正確かどうかおぼつかないが。失踪されたものには喪失感を味わうのか。いや、これは全くの余談です。言葉遊びでした。

 


あなたのオースター、私のオースター、そしてオースターのオースター

2019-07-07 19:53:49 | ポール・オースター

ポール・オースターについてはこのブログの様々なカテゴリーで書いてきました今後は「カテゴリー=オースター」でアップしますのでよろしくお願いします。

さて「あなたのオースター」というのはアメリカ文学の大学教師による作家論なんですが、前回読み直してみると書きましたが、なかなか時間が取れない。これも前に書きましたがニューヨーク三部作を除き記憶に残る印象がない。それで現代作家ガイド「ポール・オースター」という本を買いました。超マイナーな本のようで運がよくないと見つからないかもしえません。

それで、何時もの通り小当たりに中身を当たってみたのですが「ちがうな」という印象です。それで「あなたのオースター」というわけです。もっとも日本の大学の先生ですから、かの地の文芸評論をベースにしているのでしょうから「一般的」な評価なのでしょうが。

 

そこで、私の怪しげな記憶をたよりに「私のオースター」を書いてみようと思います。