穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「新屋敷第六氏の生活と意見」は伝記小説か

2018-05-29 20:08:03 | 新屋敷第六氏の生活と意見

 拙著のタイトルから伝記的な、ノンフィクション的なものと思われる読者もいるようだ。「中途退職者 新屋敷第六氏の生活と意見」というタイトルからリアリズムというか実在の背景があるかと思って、それにしては描写が中途半端だというような批判がある。

  前にも書いたが18世紀のイギリスの小説家ローレンス・スターンの「紳士トリストラム・シャンデイの生活と意見」というふざけた滑稽小説をまねたものであるが、スターンの小説も現実のモデルがいたわけではない。そういう前例もあるから必ずしもリアリズムでなくてもいいだろうと紛らわしい題をつけたわけで読者を惑わせたとしたらお詫びしなければいけない。

  失業者の意識と生活はどういうものか、と社会学的興味から手に取られた方にはお詫びを申し上げる。もっとも内容はスターンと似ているところはない。タイトルと文章が戯文調なところが似ているだけである。面白いと思っていただければ望外の喜びである。

  あとはPTSDといっても教科書に出ているような例ばかりではないよ、といったところが特徴かもしれない。

 


ライプニッツをまねるウィトゲンシュタイン

2018-05-09 07:17:48 | 哲学書評

  6.44「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

  言うまでもなくこれはラプニッツが提出した問いである、

“Why There Is Something Rather than Nothing”

と関連している。

  世界の外にある世界(存在)は命題で言表出来ないから神秘である、あるいは解けない謎である << がWの意見である(あろう)。

 とにかく、6.4以降はカビの生えた哲学上のissueを、どういうつもりか議論の展開もなしに拾い上げて陳列している。6.3で止めておけばよかったものを。理解できない。彼の筆記帖から拾い集めた問題を大して吟味もせずに羅列したのだろうか。


世界の外に「何かがある」とウィトゲンシュタインは言う

2018-05-08 22:32:04 | 哲学書評

  「6・41 それは世界の外になければならない」

言うまでもないがこれは近代以降の自然科学のパラダイムではない。世界の外になにかがあるというのは、オカルト信者である。また世界の外にある(超越的存在)は神であるとするのが一神教(キリスト教やユダヤ教)である。世界の外にあるからもちろん論理が通用する世界ではない。だがあるとWは「信じて」いるらしい。あるいは自分が信じていることに気が付いていない。

  論理哲学論考はジャーゴンの集積以外の何物でもないので論理的に整然と説明しにくいが、

「6・43 それゆえ(反問す、なにゆえ?)倫理学の命題も存在しえない」。これも舌足らずな表現だが、Wの言う「世界には存在しない」ということだろう。

  「命題は倫理というより高い次元を表現できない」。含意するところは「世界」の外(上)に倫理という第二の世界があるというわけで言葉では表現できないと言いたいのだろう。

であるがゆえに「倫理は超越論的である 6・42)

 「倫理と美は一つである。6・41」。意味不明だが命題で表現できる世界にないという共通点があるといいたいのだろう。倫理と美が一つであるわけがない。

  また、どこかでそういうことは表現できないから示せるだけだという。まあ、それはいい。

しかし、それは言語ではかたれない、示せないというなら間違いだ。

言語表現というのはWの言う論理的言語だけではない。そういうことをほのめかす、例えをとおして示唆するのも言語の役割である。Wは晩年日常言語だとかなんとか言い出したらしいがこんなことは、最初から気づいていなければいけない。

 「6.432 神は世界の内には姿を現さない」これは三位一体、キリストを否定しているのかな。とにかくこの辺の文章は雑ぱくでとりとめがない文章が続くが。

  付け足しのように唐突に見える6.43は若き日にショウペンハウアーに魅せられたWの反省の弁かもしれない。

  とにかく、Wがどうして6.4以降を書いたのかよく分からない印象です。わざわざ書かなくてもいいのに。

 


ウィトゲンシュタインのスピノザの真似は他にも

2018-05-08 18:45:05 | 哲学書評

 ウィトゲンシュタイン(以下W)の論理哲学論考のタイトル表記はスピノザの「神学政治論」の真似であると前回書いた。もう一つスピノザの真似をしているのに気が付いたのだが、叙述のスタイルはスピノザのエチカをまねている。箇条書きで公理から定理、結論へと展開していく。

  Wはユダヤ系だった。100パーセントじゃなかったと思うが、50パーセントか25パーセントかぐらいだったか。スピノザは100パーセント、ユダヤだったので、その辺の親近感もあるのかもしれない。

  元来公理から理論を展開して行くやり方は哲学にはなじまない。数学や幾何学と違うのだから。もしこのやり方を試みるなら公理の立て方から慎重な計画を立てるべきである。スピノザのエチカは読んだことはあるが、大分昔のことですっかり忘れているが、公理の立て方にはそれほど奇異な点はなかったようだ。あれば違和感が記憶として残っている筈である。

  このやり方をした本でかろうじて後世に余命を保っているのがエチカぐらいなのをみてもそのことが分かる。

  公理をたてるなら誰にでも反対できないように自明な公理、定義が必要である。さて、論理哲学論考のなかの一例をあげる。論考の -1-にはこうある。

 「世界は成立していることがら(case)の総体である。」

 この文章の中で「世界」という言葉ほど人によって、場合によって意味する内容が違う言葉はない。どの場合の世界なのか定義すべきである。また「ことがら」とはなんぞや。これだけでは大学センター入試でも通らないのではないか。翻訳が悪いのではない。原文ではcaseであるが、これも曖昧至極である。まさか「ことがら」から成り立っているのが世界だなどとアクロバットなことを言うのではあるまい。それでは「なにも言っていることに」ならない。

  論理哲学論考の解説書や講釈書には、それはこういう意味ですよと解釈しているものがあるが、本当かな、と首をかしげる。-1-を読んでなるほど、と思う人がいるのかな。

 


命題は人間が作るが

2018-05-07 08:56:09 | 哲学書評

  二十世紀哲学界の天一坊といえばウィトゲンシュタインにとどめをさすだろう。心理学界でのフロイトに相当する。ハイデガーについてもその気味はあるが。

  ウィトゲンシュタイン(以後W)には後期の哲学と言われるものがあるそうだ。私は一冊も読んでいない。だから「論理哲学論考」のみについての感想である。

  昔読んだ(聞いた)ところでは命題の真偽値の議論が喧伝されていた印象だった。それに基づいて従来のすべての哲学、形而上学の理論はタワゴト、ジャーゴンであると啖呵を切ったというあたりが受けたようだ。

  これがW自身の言葉かその追随者の言葉かは定かに知らない。命題というのは人間しか作れない。言葉を操れるのは人間だけだからね。Wの主要関心事は命題内の無矛盾だけであったようである。つまりトートロジー(同義反復)しか真なる命題はない。

  しかし、命題のほとんどは対象を描写するものだ。とくにWが関心を持っていた自然科学は。したがって命題論をするなら、対象との関係や認識主体(人間)への言及が不可欠だが、その辺にキレのある描写がなかったような記憶がある。

  総合的命題(いわゆる経験的命題)についてはほとんど触れていない。単にヒュームの徒であったようである。どこかで「今朝太陽が昇ったからといって、明日また昇るという保証はない」(因果律の否定)というようなことを言っている。ヒュームのことばを繰り返したのだろうが。

  したがって「6・54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う」。

 ここまで書いたWを捉えたのは徒労感であっただろうか ?

  以上説明したようにWの思想には彼を有力なメンバーとして熱心にスカウトしようとしたウィーン学団(論理実証主義者)との共通点はない。ウィーン学団もバートランド・ラッセルもWを誤解したのである。

 


「論理哲学論考」が正しいか?

2018-05-06 15:07:54 | 哲学書評

 この「論理哲学論考」の英国で出版したときの原題は凝っている。

 TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUSというラテン語である。この本は最初にドイツ(あるいはオ-ストリア?)で出版されたらしいが、そのタイトルはLOGISCH-PHILOSOPHIE ABHANDLUNGというらしい。やはり妙なところにハイフンがあるから、ラテン語のほうも間違えたのではないらしい。

  このハイフンが昔から気になっていた。英語のタイトルがないらしいからたしかめられないが、(所ならぬ)ところにあるハイフンは意味があるのか。つまり「論理哲学論考」なのか「論理・哲学論考」なのかまぎらわしい。だいたい、そういえば論理哲学なんて言葉があるのだろうか。哲学的論理学ならなんとなく分かるが。日本語では中点を充てたが、ハイフンや中点のあるなしではテーマの範囲が違ってくる。中点だとすれば「論理および哲学についての論考」となるだろう。

  そこで不図気が付いてSPINOZAのたしか「神学政治論」と訳されていた本があったんじゃないかとインターネットで調べた。ありましたね、こうある、、

TRACTATUS THEOLOGICO-POLITICUS

やっぱりハイフンがあるんだな。これをまねたらしい。

  そこで岩波文庫版で「論理哲学論考」を流し読みした。ほとんどが論理学的というか、そういう記述だが、最後の二ページほど(6・4以下)で形而上学(哲学)や倫理にふれている。もちろん否定的に。ただし、それは論理的命題としては成立しない(無意味)という意味においてだが。そうすると日本語の訳は「論理・哲学論考」になるのかな。



書店本棚に見るウィトゲンシュタインの日本における需要の歴史

2018-05-05 06:40:58 | 哲学書評

 昔はウィトゲンシュタインって何(what)というものであったそうである。ウィトゲン山から切り出しいた石材かと思われたらしい。なにしろカント、ヘーゲルの解説書しか書店の本棚にはなかったそうだ。カント、ヘーゲルの原著の翻訳もなかったらしい、一般書店の店頭には。

  だいぶ経ってから、ようやくウィトゲンシュタインって誰(who)というようになったらしい。「論理哲学論考」風にいえば「答えが出る疑問」つまり意味のある「質問」に昇格したのである。

  いまは分析哲学という立派なコーナーが大抵の書店にはある。場合によっては分析哲学棚から独立してウィトゲン・コーナーがある。もっともウィトゲンシュタインを分析哲学ととらえるのも問題があるのだが、ま、その程度の理解であったわけである。

  勿論それより前から、英米哲学研究者や科学哲学研究者の研究室には船便で丸善や北沢書店から取り寄せた原著があったのだろうが。


追記: タイトルの需要は受容と書くべきでしたが、考えてみると需要でも意味が通りそうなのでそのままにします。以上うるさい読者向けの言い訳です。