穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

The Insulted and the Injured

2009-11-26 12:00:40 | ドストエフスキー書評

前の「虐げられた人びと」(ドスト)の書評で触れたが、この訳は蟹工船を連想させるが、内容は全く違うと書いた。

ロシア語は分からないのだが、あるところで彼の著作履歴を見ていたら、この小説は英訳では

The Insulted and the Injured

というらしい。これを虐げられた人びとと訳するのは誤解のもとだね。日本では前の訳者から虐げられた人びととしているが適切とは思えない。大体、意味がまったく違う。

そして内容からすると、英訳のほうがぴったりとしている。

だれがinsultedでだれがinjuredと考えながら読むと面白いかもしれない。


虐げられた人びと2、ドストエフスキー

2009-11-21 18:46:15 | ドストエフスキー書評

公爵から娘と金をだましとられた工場主はスミスというのだが、これが冒頭死ぬ。この場面はいささかホフマン調だ。話が進むとすでに何日か前に娘が野垂れ死にをしていることが分かる。

そして小説の最後で老人の孫娘ネリーが死ぬ。この少女ネリーが最高に印象的だ。カラマーゾフのコーリャ少年など比較にならぬ。

この小説の語り手は一人称の私で、新進の小説家である。ドストエフスキーの自画像だというが、そこまで感情移入はしていないと見るのが穏当だろう。平均的な新進作家という描写だ。

この語り手の小説家の幼友達ナターシャが例の色仕掛けで金をスミス親子から巻き上げた公爵の息子と恋仲になるというわけだ。

ナターシャも印象的だが、とびきり印象的というわけでもない。ドストの小説によく出てくる気の強い女である。こういう女たちにとって愛するということは相手を支配して思い通りに動かすのと同義である。がゆえに常に現実とのギャップに悩む。

つまりうまくいくときには幸せの絶頂にいると思い込み、相手がフラフラしだすと地獄にいるような焦燥感を味わう。いささか神経症的な女だ。カラマーゾフにも二人ほどいるだろう。

公爵の息子で娘の恋人はアリョーシャ、あとで「白痴」の主人公につながっていくキャラだ。純真無邪気で大人になりきっていない。無責任そのものだが悪意はまったくない。言っていることがその時々で矛盾してもなんとも思わない。

要するにAという美女の前にいけば彼女にメロメロ、1時間後にBというグラマーの前にいけばAのことを忘れて夢中になる。その一時間後にAのところに戻ればAしか目に入らないといった男だ。考えてみると女だとかなりこういうのがいるね。男では珍しい。悪党でそういう男はいるが、アリョーシャは純真無垢でこうなのだから、男では珍しい。

このキャラもそこそこというところだ。少女ネリーとともに圧倒的な存在感をあたえるのが父親のコワルスキー公爵である。「小悪好き」公爵だね。もとは日本語だったかな。

この類型は罪と罰のスヴィドリガイリョフ、悪霊のスタブロ銀次、カラマーゾフのイワンで、みなその仲間である。いわば堕天使ルシファーである。しかし、私は初出のコワルスキー公爵こそ、このキャラ造形の最高傑作と断じる。

なかでも「私」を深夜レストラン、日本でいえば終夜営業の居酒屋か、に連れ込んで得々と自説を披歴するところは他作品の同様の場面に比べて最高だ。罪と罰にしろ、カラマーゾフにしろ、こういう堕天使が居酒屋に相手を連れ込んで自説を披歴する。まったくおなじパターンである。

豊崎某女によればネタの使いまわしだ(彼女が書評で村上春樹に難癖をつけたときの言い草)。いいではないか。使いまわし大いに奨励する。

小説としてはドストのなかでもっとも脂の乗り切った傑作ではないか。通俗小説に弱いわたしはそう思うのであった。

星五つ半。


虐げられた人びと、ドストエフスキー

2009-11-21 08:46:25 | ドストエフスキー書評

虐げられし人びと、と覚えていたが「虐げられた人びと」なんだね。昔は「し」だったような記憶があるが。学生時代に読んだ粗悪な紙に細かい活字の本でね。誰の訳だったか忘れた。

この頃、文庫本の活字が大きくなった。それなのに、厚さは変わりがない。あれは大変な技術革新だ。

新聞のインクが手に付かなくなったのに匹敵する技術革命だよ。技術開発社にして者に一票。ノーベル文化賞に推薦する。

先鞭をつけたのは新潮文庫かな。それで改訂版が出るとあがなって、再読することが多い。此処で触れたドスト本のすべてが大型活字改訂版で再読した後に書いた。

光文社の「カラマーゾフ」も「罪と罰」もそうだった。

そこで「虐げられた人びと」も新潮社文庫32版で最近再読した。

これは「カニ工船」ではない。虐げられた、なんていうと社会主義的な内容を想定するがそうではない。貧困は例のドストエフスキーの納豆性のある筆力でこれでもか、これでもかと描かれてはいるがね。ま、貧困と広い意味でのドメスティック・バイオレンスが描かれている。

もっとも親の意思に逆らった結婚をして家を出奔した娘が乞食にまで落ちて、病死するなんて話が現代の日本の馬鹿娘に理解できるかどうか。

親の意思に逆らって駆け落ちした二人の娘の物語である。一方の家庭は詐欺師の公爵に色仕掛けで娘と財産をだまし取られた父親。そして娘は捨てられる。

もう一方はロシア版ロメオとジュリエットだ。親同士が経済問題で裁判を争っている二家の息子と娘のはなし。

二人の娘は江戸っ子みたいに誇りが高くてやせ我慢する。これも日本の現代娘には理解できないだろう。

つづく


ハメット、ゴアス

2009-11-18 18:56:59 | 書評

インターネットを見るとデイン家の呪いをほめているのもあるね。提灯屋に提灯がついたということかな。

もうひとつ、ハメちゃんシリーズを行こう。ハヤカワ・ミステリーの新刊、黄色い背表紙。ジョー・ゴアス著、稲葉明雄訳、「ハメット」。原作は1975年

ピンカートン探偵社を辞めて作家になったダシール・ハメットが再び探偵に、という趣向だ。同時に執筆活動も続けているという設定。1928年という設定らしい。その時に何を書きながらとか彼がどこに住んでいたとかいう記述は事実にそっているそうだ。

ハメットの評伝もあるし、「学問的」研究もある(パーカーなど)からその部分はノンフィクションだろう。探偵をしていたというのはフィクションだ。

ノンフィクション部分で興味があるのは彼の長編はほとんど2年ほどの間に矢継ぎ早に、同時執筆で進行していたらしい。それと彼の長編はほとんどがそれまでにブラック・マスクに書きなぐった短編を数編つなぎ合わせたものだそうだ。

前回このブログで書評を書いたデイン家の呪いはまさにこの小説と同時進行になっている。

きわめて短い期間で同時進行でいくつもの長編を執筆して、作品の質が維持することはむずかしい。ハメットの作品のムラもこの辺にも理由があるような気がする。

そういえば、ハメットの作品でいいのは短編、中編に集中している。

それと、短編をつなぎ合わせるというのはチャンドラーもいくつかの長編でやっているが、チャンドラーの場合は一作に相当の時間をかけている。初期は1、2年間隔の時もあるが大体作品と作品の間は4,5年ある。

肺病やみはせっかちと言うが、ハメットの執筆姿勢にはちょっと首をかしげるね。

ハメット、チャンドラーに短編の継ぎ足しが多いのはハードボイルド小説の本質にかかわる問題で別にそれで作品の質が落ちるということはない。こうなるのは、ハードボイルド小説に内在する必然性によるところもあるような気がする。今回は詳しく書かないが、いずれ書いてみたい。

さて、このゴアスの作品だが、一応の水準ではなかろうか。それに稲葉氏の訳が一定の品質を保証している。

星二つか三つだな。デイン家よりはいい。


デイン家の呪い、ハメット

2009-11-12 09:19:49 | 社会・経済

まったく記憶に残らない小説というのが結構ある。これはその一つだ。最近書店で早川文庫の新刊を目にした。ずいぶん昔にハヤカワのポケミスで出ていたらしいが、書店で見かけることがなかった。

それで英文で読んだことがある(Dain Curse)のだが、このごろドストエフスキーにしろ、何にしろ新訳が出るとセンチメンタル・ジャーニーを決め込むことがあるので購った次第である。

読み始めて驚いた。まったく内容に記憶がないのである。いくら印象の薄かった本でも読んでいくうちに筋など思い出してくるものだが、それが全然。ここまで記憶から消えているケースは珍しい。自分のことをそういうのも何だか妙だがね。読んだことだけは覚えているのである。

大分前に此処でだか、何処でだか書いた記憶があるが、ハメットは作品の出来不出来の差がはなはだしい。また出来不出来とは別に、様々な風味の作品がある。思うに若いころから(それでも30前後からだろうが)、書き始めたので自分で色々なスタイルを実験的に試みたということによるのかもしれない。

この辺が50近くになってから、手すさびに犯罪小説を書き始めたチャンドラーと違うところだ。チャンドラーはいいにしろ、悪いにしろ、スタイルは固まっている。程度の差はあるにしても作品の質は狭い偏差値のなかにおさまり、平均値はかなり高い。

さてデイン家の呪いはオプもの(大探偵社の社員調査員)物語である。ハメットには短編、中編に多くのオプものがあるが、長編では赤い収穫と本作だけである。おなじオプだし、小太りの背の低い中年男だから同一オプのようだが、キャラは赤い収穫とはまったく違う。だからしコンチネンタル・オプ シリーズの一作とは違う。試行錯誤、常に発展途上のハメットには連作はないのかもしれない。

デインはオカルトものというか、ゴシック・ロマンふうというか、そんな味もついている。

最初に読後の印象が残っていないとかいたが、作品の質としては悪い部類に入ることはまちがいない。

登場人物の印象がみな薄い。はやりの言葉でいえばキャラがたっていない、というのかな。

訳者は最後にどんでん返しもあるし、芸のあるようなことをいっているが、切れはまったくない。キレのないどんでん返しなんておよそ意味がなかろう。

説明部分、謎解き部分が不釣り合いに長い。そして退屈そのものである。工夫がない。

ミステリーの書評では読者にタネを明かしてはいけないそうだが、私は業界の人間でもないし、そんなことに制約されない。が、ま、ちょこっと漏らすと種明かしはーー実は「デイン家の呪い」ではなかったーーということである。

これから全編をとおしての犯人は容易に想像がつくだろう。多分三分の一を読んだところで見当をつけなければミステリーの読み手とはいえない。

この本は書評欄には載せられない。あえて星付けをすれば評価は星一つだろうが、星一つのをのせるのもどうかね。というわけで左コラムにはのせない。