穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

146:ユンクの診断は正しいか

2020-10-31 08:06:36 | 破片

 ハイデガーは言う。ここに瓶がある。瓶とはなにか、ものである、とね」

「そこまではまともだね」と下駄顔が評した。

「カメとは何か、その形状は、大きさは、色は。そんなことは問題じゃない。それはプラトンが言う、エイドスとかイデア先行の考えにとらわれている。正しくない」

「へえ、だんだんおかしくなるね」

「瓶とは空洞である。なぜ空洞か。水やワインを注ぎ入れて蓄えるでためある」

「ふむふむ」

「蓄えてどうするのか。人間が飲むためである、また注ぎだした水やワインは神的なものたちへ捧げる、つまりお神酒ですな。さて瓶は何からできているか、大地が長い年月をかけてこしらえた土からできている。土は天地の合作である。大地の割れ目から染み出す水もそうである。ワインの原料となるブドウも天地の合作である」

「なーる、それで天、地、人、神的なものがそろったわけだね」

「もっとも彼の講演ではこう分かりやすくいっていない。私の要約が正しければ以上のようになる」

 立花が注釈を加えた。アリストテレスは原因に四つあるといった。質量因、形相因、目的因、作用因です。ハイデガーは瓶の分析においてアリストテレスのいう目的因を重視しているらしい。もちろん彼はそんな言葉を使用しないだろうが。注ぐとか捧げるというのは機能ですからね。あるいは別の言い方をすれば瓶の使用目的です」

「そのとおりですね。彼はしきりと機能と言っていたが、目的因とおなじですね」

それで、と立花は促した。その四方同士の関係はどうなんです?

「そこですよ、これが難物でしてね。ハイデガーはいろんな表現を使っている。しかもそれらを系統だってというか一つにまとめて説明していない。講演のあちこちで脈絡もなしに少しずつ表現を変えて出てくる」

「厄介ですな」

「まったくです。これは彼の癖なのか。私はボケの表れとみるんですがね」

「これはきびしいね」

「こういったクセは他の講演にも頻出する。特にひどいのは、この本の最後に収録されている『技術とは何だろうか』ではひどい。前後に何の説明もなしに結論の命題が繰り返して出てくる。いまご説明してる『物』では手を変え品を変えて短い説明をしているのですがね」

たとえば?と立花が聞いた。

「あるところでは、四者(四方)は、おのずから一つの組になりつつ、一なる四方界を織りなす単一性にもとづいて、連関しつつ帰属しています。四者の各々が、それぞれの仕方で残る三者の本質を反照し返します。云々、・・・反照させるはたらきは、四者のいずれをも開け開きつつ、それらの固有な本質を、単一に織りなされる固有化のうちへ、おたがいに組み合わせて、出来事として本有化するのです、・・・だとかね」

 


145:四方界とは

2020-10-30 08:01:05 | 破片

「思い出したんだが」と立花は愁い顔の長南さんの不遜にも威嚇的に突き上げているブレストのかたまりを凝視しながら聞いた。「あなたにこの間見せてもらったグレアム・ハーマンね、思弁的実在論入門と言う本の中で、彼はハイデガーの道具論を一生懸命に勉強したというんだが『四方対象』とか妙なことを書いていた。何のことか分からない。なにかそんな言葉がハイデガーの本に出ていましたか」と第九に聞いた。

「さあてね」と第九は一呼吸おいた。「・・・そういえば四方界ということが書いてありました。天、地、神的なものたち、人間たちの四つで世界が出来ているそうですよ」

「へえ、世界がね、世界と言うのは存在とは違うんですか」

「どうですか、はっきりしませんね」

「日本では三才といって天地人というがね、天というのは神と言う概念に近いようだが、ハイデガーの場合はどうなんですか」

第九は考え込んでいたが、「神的な意味は無いようですね、太陽とか、月とか、星と言うことらしい。私も読んでいて妙に思ったんだが、神という概念はどこにもないみたいですね。神的なものというのがあるが、これはどうもキリスト教でいう精霊のようなつもりらしい」

「たしかに『神的なものたち』と複数になっているから唯一神としての神様じゃないわな。ハイデガーは多神論者ではないんだろう?」

「そうですかね」

「かといって、キリスト教でもない?」

「どうでしょうね、かの地ではキリスト教との距離感をはっきり表明することは哲学者にとっても危険でしょうからね。曖昧にしている」

「ところでその四方界にどうやって説明を持っていくんですか。いきなり頭ごなしにどやしつけるんですか」

「いや、彼独特の方法で持って回った説明でそこへ持っていくんですよ。翻訳者の説明によると、なんでも現象学的アプローチらしい。わたしの理解するところではトンチ的、しりとり的強引さですね」

 トンチ的と聞いて憂い顔の美女は膝を乗り出した。

彼女の顔を見ながら「読んだことははっきりと覚えていないんだが、こういう風なんですよ」と第九は始めた。「現象学者らしく卑近なものを例にとりあげる。この場合は瓶です」

「そりゃよかった」と立花が安堵したようにため息を吐いた。

「は?」

「いやさ、またリンゴや机が出てくるかと思ったのさ」と彼は説明した。「とすると、『瓶とは何じゃらほい』と始めるわけですな。謹聴謹聴」

第九は閉口して「正確に覚えているわけではありませんよ」とことわった。

「ここに瓶がある」

 


144:そのほかに感想がありますか

2020-10-28 06:26:02 | 破片

 その他に感想がありますか、と立花は第九に問うた。

「そうですねえ、この翻訳書には感心なことに索引が付いていますね」

「ほう」

「しかし、出来はよくないようです。それに訳語に気になるところがいくつかありました」

「たとえば」

「本有という訳語がある。あんまり使わない言葉ではありませんか。こっちが学がないだけの話かもしれないが」

 みんなも初めて聞いたような顔をしている。

「私はね、最初は仏典あたりにありそうな言葉かと思ったんですよ。だけど念のために辞書をひいた。電子辞書ですけどね、そうしたらちゃんと出ているんですね。そんなにもったいぶった言葉ではないらしい」

「しかし初めて聞くな」と齢百歳になんなんとする下駄顔が不審な顔をした。「どういう意味なんです」

「本来の、とか生得のと言う意味らしい。別に仏典や漢籍までたどることはないらしい。いや全く自分の無学を恥じましたね、毎度のことだけど」

「いやいやご謙遜で。私も初めて聞いた」

「この言葉が肝心なところで何回も出てくる。よほど重要な概念に違いない。しかし、本来のという意味を気取って本有と言ったところで前後の文脈で意味が通じない」

「へええ」

「それでね、この訳にはカッコつきでもとのドイツ語が示してある、良心的ですね。それを訳すると(とどまりながら生じる)となる。もともとはドイツ語で二語なんですよ。前後の文章から推測すると、(変化していく、あるいは成長していく、あるいは技術によって完成していくが本来の性格あるいは本質は変わらない)という意味らしい。そうとると前後の文脈にうまくハマる。生来の、だけではハイデガーの造語の、あるいは表現の工夫、襞(ヒダ)がまったく伝わらない。どうしてこんな風に訳しているのか分からない」

そして思い出したように付け加えた。

「それからね、これは(建てること、住むこと、考えること)という講演記録にあるんだが、橋、駅、飛行機格納庫、道路なども住むという領域内にあるというところがある。これは訳者が住むという部分がドイツ語でどう書いてあったか示していないが、おかしいでしょう。強弁すれば住むという語の代わりに生活する為の(場所)として橋や格納庫もあると言えばなんとなくわかる、もっと正確に言えば生活するというよりは生計を立てる場所といえば分かる。航空会社の職員にとっては格納庫はそこで働いて生計を立てる場所ですからね。橋は会社への通勤の経路にあれば生計のための構造物と強弁出来るかもしれない。もっとも橋下(ハシモト)さんなんて名前もあるけどね。もとは橋の下で生活していたのかもしれない。いまでもいますよね。橋の下で雨露をしのいで掘っ立て小屋に住んでいる人がね。しかし、ハイデガーがそんな人のこと(家)を意味しているとは思えない。

 皆が笑った。エッグヘッドが締めくくった。「すくなくとも、橋に住むとは言わない。もっとも橋上あるいは橋下生活者と言うのはいるかもしれないが」

 立花さんが言った。「ハイデガーはもともと奇をてらう言い方をする人だが、翻訳者がそれに輪をかけているわけだ」

 

 


143:アリストテレスを買った立花さん

2020-10-26 08:30:57 | 破片

 ダウンタウンではここ二、三日立花さんのすがたを見かけないな、と第九は気が付いた。彼は洋美のために夕食の支度をしなければならないからあまり遅くまでいられない。立花は普通四時前後にパチンコを切り上げて獲得した景品を女ボイへのお土産に店に現れるのであるが、パチンコの成績が思わしくなくて未練がましく遅くまでねばっているのか。ひょっとしたら病気なのかもしれない。コロナかもしれない。肥満体は重症化するというから、重症化したのかな、と彼は手持ちのハイデッゲル教授についての質問をぶつけられないでいるのである。

 レジのあたりが騒がしくなった。女ボーイたちの嬌声があがる。振り向くと、立花が若い女性たちに獲得したチョコレイトやクッキーの景品を分配している。

席に現れた彼に「今日は調子がいいらしいな」と下駄顔が声をかけた。

「いや、ツキが回ってきたらしいです。パチンコだけではなくて昨日はアリストテレスを抑えで当てましたよ」

下駄顔はきょとんとしている。「菊花賞ですか」と競馬狂のクルーケースの男が言った。

「そう、頭で狙ったんだがね、抑えのほうが来ちゃった」

「惜しかったですね。クビ差の二着でしたね。もう中盤からルメールはぴったりとコントレイルにくっ付いていましたからね」

立花は真っ赤な顔からにじみ出ている汗を変色してすでにびしょびしょになったフェイスタオルで何回も偏執狂的にゴシゴシとぬぐっていたが、第九に気が付くと「読んでみましたか」と聞いた。

「ええ、難儀をしましたよ。素っ頓狂な本ですね」

「あはは、素っ頓狂はいい」

「やたらと語源調べが多くてね、違和感を覚えましたね」

そこへ憂い顔の長南が注文を取りに来たが、「ギリシャ語の語源遊びでしょう」と若き女性哲学徒らしく聞いた。

「うん、ギリシャ語もあったけど、とにかく思いつく言語すべての語源を調べたという印象だな」

「ふーん、アタイは存在と時間を読んだけど、ギリシャ語だったような気がするな」

「いやいや、ギリシャ語はすくない、古ドイツ語だとか、古いザクセン語だとか高地ドイツ語だとかね。それに古代ラテン語、ラテン語だろう、それにフランス語や英語までほじくっている。サンスクリットまである」

「そうなの」と彼女は狐につままれたような表情をして、「どうなんですか」と哲学の先輩を見た。

「たしかに存在と時間ではギリシャ語だけだったような気がする。ハイデガーはその後、いろいろな言語を勉強したんでしょうな」

「語源調べを自分の哲学の根拠とするなんてありなんですか」と第九は問いかけた。

「ないでしょうな、古文、古典の解釈には有効な手段だろうが、哲学の論証には使えるわけがない」と立花は切り捨てた。

「本居宣長の古事記考じゃあるまいしね」

 

 

 

 


142:第九、三畳の部屋で奮闘

2020-10-24 10:20:07 | 破片

 それから二、三日、第九は洋美からあてがわれた三畳ほどの部屋でハイデガーの「技術とは何だろうか」と奮闘していた。新しい下町のマンションに移ってから、彼はようやく自分の部屋を与えられたのである。昔風に言えば三畳の納戸のようなスペースである。もともとは収納スペースとして設計されていたらしい。窓はない。机もない。机なんか置いた日にはスペースがなくなる。彼は折りたたみいすの上に座ってハイデッゲル教授の妙な本と取り組んでいた。

 いきなり、バタン、バタンと乱暴にドアを開け閉めする振動が響く。今は安マンションでも隣の部屋の話し声というのは聞こえない、たいていの場合はね。夫婦げんかで相手に絞殺されそうになって絶叫でもしない限り遮音されている。ところが鉄筋コンクリート造りのマンションでは壁とか柱とかの構造物をたたくと、その音が増幅されて隣室はおろか、上下左右、数個先の部屋まで響いてくる。鉄筋は優れた伝導体である。もう本は読めない。ただでさえややこしいことが書いてある本である。

「また、となりの樹違い女か」と第九は舌打ちした。どんなマンションにもひとりや二人はおかしな人間がいるものである。となりの女は乱暴にドアを開け閉めする。何回もドアを叩きつけるように七、八回は連続して開閉する。最初は立て付けが悪くてうまく開閉しないのかな、思ったがそうではないらしい。一度、注意しようと思って外に出たら、そこにいた若い女は第九の顔を見ると身を翻して部屋の中に入ってしまった。まだ20台の若い女だった。ちらと見た目は普通の女のようだったが、この頃の世間は分からないからな、彼は呟いた。

 あれは発作なのだろう。外出するときや帰宅した時ばかりではなく日に数回発作が起こるらしい。女に同棲者がいるかどうかは分からない。その気配もない。しかし、一度ドアの上に張り紙がしてあった。「祥子、お父さんに連絡しなさい」と書いてあった。父親が訪ねてきてもドアを開けなかったのかもしれない。発作が起こるのは日中だけなので、洋美は気が付いていないらしい。気の荒い彼女のことだ、きっとそのうちに大揉めにもめるに違いない。

 そっちのほうはワイフに任しておいて、と彼はH教授の本を取り上げた。「彼は遅れてきた本居宣長だな」とつぶやいた。やたらに古い言葉の語源漁りが横溢している。『古い土語でこう言っているだろう、どうだ」とドヤ顔をしてふんぞり返っている。こんなことが哲学探究の根拠になるのかな、そうなら哲学なんて大したことはないな。これは今度ダウンタウンに行ったときに立花さんに聞いてみよう』とかれは決めた。

 


141:ハイデッゲル教授の後期哲学

2020-10-21 08:47:02 | 破片

「どうだい、読んだかい」と立花さんが第九に問いかけた。

「いやどうも大変なものですな」と第九は応じた。精神分析の大家ユングがハイデガーのことを評して狂人と言ったと聞いたことがあるが、この文章は難物ですね。ユンクはハイデガーの『存在と時間』時代つまり前期ハイデガー哲学のことをいったのか、後期の哲学のことをそういったのか、いや彼の全著作をそう評したのかもしれませんが、立花さんは存在と時間はもちろん読まれているのでしょう」

「存在と時間も何というか厄介な本だが、狂気の書とまではいえないね、ユンクはいわゆる後期哲学のことを言っているのかもしれない。僕はその本を読んでいないから何とも言えないが」

 相変わらずスタッグ・カフェ「ダウンタウン」の客足は戻ってこない。昼下がりの閑散とした店内にはいつものアウトサイダー集団が屯しているだけである。

 絶望とは死に至る病だとキルケゴールが言ったとか、言わなかったとか。本当かね、と第九は思うのであった。彼の切実な病は目下のところ退屈である。退屈は高齢者にとっては痴呆にいたる病である。まだ体内にガソリンが残っている壮年者にとっては精神と言うエンジンの空焚きの危険性であり、つまり自傷、いや自焼の危険がある。

 てなわけで彼はパチプロの立花さんに相談したのである。立花さんはもと精神科医であり、もと哲学専攻大学生である。精神と言うエンジンに食わせるものが途絶した第九は立花さんに意見を求めた。

「そうねえ、そういう時には禅の公案でも解くといいんだが」

「お寺に行くのも面倒くさいですね。それになんだか剣呑だ。本当に精神がおかしくなりそうだ」

「言えてるね、それじゃね、難しい本でも読んでみたら。何を言っているんだか分からない本とにらめっこしていると時間がつぶれる」

「なるほど、どんな本がいいですかね」

「そうだね、ハイデガーの『技術とは何だろうか』なんかどうだ。いや大した理由はないよ、ふと思いついただけだ」と無責任なことを言った。

「翻訳があるんですか」

「うん、講談社学術文庫にある。読んではいないんだが、本屋で訳者後書きを見ただけだ。それによると彼の後期哲学の代表的な論文(講演)だそうだ。ここで前に新実在論のことが話題になっただろう。そこでグレアム・ハーマンというのがしきりとハイデガーの道具論を勉強したと言っているそうだ。道具論とはなんだ、存在と時間にそんなテーマがあったかな、と考えたが思い出せない。それで書店で偶然この本を見かけて道具論というのは技術論のことかな、と引っこ抜いて手っ取り早く後書きで見当をつけたら、どうも当たりらしいんだ。ハイデガーの後期哲学なんだそうだ。それで今頭に浮かんだだけさ。薄っぺらな本だから読んでみたら」と言われて第九は720円(税抜き)で贖ったのである。

 

 


アウトサイダーに巡り合う

2020-10-09 09:57:50 | 破片

 といっても知己ではない。コリン・ウイルソンはもう昔の名前である。ひところは新作が出るたびに書店の店頭を賑わしたものであるが、最近はとんとお目にかかれない。それですっかり忘れていたが、先日書店巡察の途次棚にひっそりと並べてあるのに出会った。中公文庫「アウトサイダー」上下二巻である。

 私も昔彼の本を何冊か、たぶん二冊ぐらい読んだ。この「アウトサイダー」と言うのはひところは「実存主義」と同じくらい流通した言葉であった。しかし私は当時もこの本は読まなかった。とくに理由はない。たまたまそういうめぐりあわせだったのだろう。現在私の書棚には彼の「オカルト」上下二巻が残っている。読んだ本は処分してしまう私にしては何となく捨てるのを躊躇っている本(文庫上下二冊)である。

 彼の著作の特徴らしいが、テーマについて広範、多数の引用があるので、後々検索用の文献として使うこともあるかな、ということで廃棄を免れている。もっとも、実際に利用したことは記憶にないが。引用が正確であるか、各個の解釈が適切であるかどうかは専門家ではないから評価できない。評者によっては問題を指摘しているらしいが。正しくなくても、間違っていてもいいではないか。読んだあとで本当かなと調べればいいことだ。とにかく索引の第一段階には役にたつ。

  奥付を見る。単行本翻訳の初版は1988年であるが、中公文庫の初版は2012年であり、2017年に再版とある。今手元に取ったのはこの再版である。やはり流行ではないのだろう、売れていないようである。あとがきで見ると、やはり多数の作家、思想家?の引用があり、彼の論旨は50ページに纏められるが、引用で500ページになったとある。相変わらず「オカルト」と同じ手法らしい。それで索引になるかと贖った次第であった。

 中を眺めてみるとなるほど、多数の引用がある。中には名前を知っていて読んだことのあるドストだとか、ニーチェ、カミュ、サルトルほかがある。名前を知っているが読んだことがないのもある。初めて聞く名前も多数ある。なるほど、知っている名前からの引用はともかく、彼が与えている解釈は何とも言えない。しかし、これを見てそれらの作品を再読しようかなという気になった。

 画家のゴッホがある。舞踏家のニジンスキーがある。どうやって論じるのかと思ったら、彼らの日記とか手紙とか伝記から迫ろうというようである。「アラビアのロレンス」まで詳細に論じられているのには驚いた。ロレンスは第一次大戦でアラビアのベトヴィンの部族と一緒に参謀として指揮官としてオスマントルコと戦った人物である。テロ、列車襲撃や数々の凄惨な戦闘にかかわった人物として知られるが、アウトサイダーとして取り上げられているのには驚いた。

 ざっと眺めたところで、小生得意の「読みながら書評」をしようかと思ったが、アウトサイダーの定義が見つからない。で読みながら書評はお預けにする。しかしなんだね、これを見ると誰でも表現家、言いなれない、聞きなれない言葉を使ってすみません。つまり作家、画家、バレーダンサーあるいは音楽家要するに「芸術家」はすべてアウトサイダーになるのかな。金儲けオリエンテッドの芸能人、大衆作家以外はすべてアウトサイダーという考え方もあるだろう。

 昨日村上春樹がまたノーベル賞を受賞できなかったが、金をもうけすぎているから、その上、名誉と言うのもどうかな、ということかもしれない。それにしても、毎年テレビにでてくる村上春樹ファンクラブの連中はやはり奇観というか偉観というべきだろう。

 

 


破片:140 物事自体

2020-10-02 09:05:43 | 破片

 お待たせしました。連載「破片」に戻ります。

 うりざね顔の美女が弾かれたように、何かに気が付いて突然立ち上がった。皆がびっくりしたような表情で彼女を見上げたが、彼女は無言でレジの後ろの店員たちの私物が置いてあるスペースに行くと、大きなバッグの中をかき回していたが、黒い表紙の厚い本を取り出して戻ってきた。

「なんだい、それは?」

「うん、、」というと彼女は終わりのほうのページをめくっていたが、「あったわ、Dinge an sich だわね。Things in themselvessだってさ」

「いったいなんのことだい」

「さっき、カントの物自体の物は単数形か複数かって話していたじゃない」とはるか昔にだれかが話題にして、とっくの昔に別の話題に移っていたのでみんなはポカンとした。

「何ですか、それは」と彼女が手にしている本を指さして、まず聞いたのはCCである。

「カントの純粋理性批判の英訳、ペンギンブックスよ。ひょっとしたら索引に出ていないかな、と思ってみたわけ」

「欧米の哲学書にはまず索引のないのはないからな。まして翻訳書なら」と立花がつぶやいた。

「Dingeと複数形だから物事とか事柄という意味よね」と彼女は下駄顔の顔を見た。

「そうか、それでハーマンが東インド会社を扱ったんだな」と立花は気が付いた。

「そすうると、安倍前内閣も事柄と言うか政治的事象だから、実在論者の哲学的探究の対象になるわけだね」

「そうだわね、なんでも対象になるみたいね」

「しかし、安倍内閣が政治学や歴史学あるいは外交論の対象になるのは分かるが、哲学的対象になるというのはどういうことだい。思弁的にニチャニチャやろうということかい」とエッグヘッドがもっともな疑問を口にした。

「そうさな、ハーマンの本でも読んでみるか」と立花が応じた。

「しかし、なんだね」と割り込んだのは下駄顔である。「これまでの話は、つまり哲学史ではさっき話していた相関主義と言うのは、人間の認識は知覚を通して人間の内部に表象なり観念が出来るというのだろう。ものというのは知覚を通して知覚を刺激をして内部に入ってくるというのだろうか。そうすると、物事や事象が知覚の経路を通して入ってくるというのは大分議論が逸れているのではないか」

「そうですね、机やリンゴ(哲学者お得意の例)が知覚されるのと、安倍政権が意識に捉えられるというか何というかは、まったく違うね。それをおなじ括りにいれて論じるのは論理の破綻じゃないか」

「そのとおりです」

「ようするにだな、物自体というのは明治時代以来一度も誰も疑問に思わなかった誤訳ということだな」

「幕末からかもしれませんよ。西周なんて江戸時代にカントを読んでいたかもしれませんからね」

「そうすると、物自体ゴミ箱説を復活するか。要するに訳の分からない、はみ出したものを放り込んでおくファイルにつけたラベルと考えれば、カントもあまり厳密には考えなかったのだろう」