穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ヘミングウェイ、誰がために鐘は鳴る

2014-08-30 07:34:35 | 書評
# 主人公は成熟、布石はしっかり

ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」を最初の1、2章と最後の部分をすこし原文で読んだ。彼の文章がいかなるものなのか知りたかったのである。

軽快ではあるが流麗ではない。読みやすいことは確かだ。ごく若い時に新聞記者として鍛えられた文章と言う。それをベースにその後も精進をかさねたのであろう。

もっとも最近の日本では老年、実年になってもまともな文章の書けない記者が多い。朝日新聞の様に。ま、かの国は違うのか。もっとも日本でも昔は新聞記者の文章というのは一応の水準にあったが。

閑話休題、「日はまた昇る」では主人公達にはどうしても遊民的要素が強い。ロスト・ジェネレイションと気取っていうが第一次世界大戦戦勝国の若者がドルの思わぬ異常高の恩恵を欧州で満喫しているということだろう。

「武器よさらば」では主人公は赤十字のボランテアとして最前線に出ているが、休暇のすごし方や彼を取り巻く人間達は遊民的雰囲気である。「日はまた昇る」はロスト・ジェネレイション別名遊民の群れである。

それに比べると、「誰がために」のジョーダンはずっと落ち着いた成熟したダイナマイターである。まわりの人間もちがう。スペインの山岳部に潜伏するゲリラのなかで橋脚爆破の任務を命じられる。

ゲリラ達はいわば、日本のサンカのような人たちである。カタカナでかけばプレスコードに引っかからないかな。遊民的な要素はかけらもない。発生する恋愛(これがないと小説にならないらしいが)ゲリラの女であり、全二作の女達とはまったく違う。もっと先を読めば明らかになるだろう。またそう展開しなければ小説として破綻するわけだが。

ヘミングウェイは男女関係の三つのパターンを三作で描き分けている。「日はまた昇る」では戦傷による不能な男とだれでもOKな女とのかっこ良くいえば(性なき愛)を描いた。

第二作の「武器よさらば」では重傷もなんのその、種馬のごとき男と看護婦の恋愛がテーマだ。それにしても負傷した箇所が膝でよかった。鼠蹊部だったら小説がなりたたなくなる。トリストラム・シャンデイのトビーおじさんみたいになってしまう。あるいは第一作のようになってしまう。

ゲリラの群れの中の娘とダイナマイターの情事はどうなるか、自ずから前二作とは異なったものとなろう。

## 布石はしっかりしてきた。

前二作には筋というほどのものはない。「武器よ」ではややドラマとしてのメリハリは出てきたが、前半は成り行きまかせで筆を走らせているかんじだ。書いているうちに結末を思いついたという感じである。

「誰がために」では第一章から確りと布石を敷いている。ジョーダンが初対面のゲリラ隊長パブロについて心中の観察を述べている。【どうも彼の悲しげな様子が気に食わない・・・彼が陽気になった時には彼が決断したときだ。裏切りを決意したときだから注意していないといけない】と冒頭から布石を打つ。

また彼が強奪した見事な馬を見た時にジョーダンのガイドであるアンセルモに「あんたは今では資本家になった。奪い、殺すけれども戦わない」と言わせているあたりも見事な布石だ。

最初の20ページほどしか読んでいないからどう展開するか知らないが、これが布石でなくてどうする。英文で500ページ、日本語に訳せば千二,三百ページになるであろう長編である。この布石でぐいぐい最後まで引っ張って行けたらたいしたものである。




ヘミングウェイ「武器よさらば」終局へ

2014-08-28 03:13:52 | 書評
余談が二回ほど入ったが、ヘミングウェイ「武器よさらば」の第四部と第五部について簡単にふれる。

敵前逃亡の罪を着せられてイタリア憲兵に軍法会議(裁判)なしの即決銃殺をされるところを逃亡した主人公はミラノへたどり着いた。恋人の看護婦のいる病院へ行くと彼女は休暇で友達と北部の湖畔の観光地に行っているという。

友人の家で私服をかりて北部のストレーザに向かい、恋人に会う。例によって彼女の同僚の看護婦から恋人を引き離ししっぽりと濡れていると、ある夜、ホテルの老ウェイターが深夜、明日早朝当局が逮捕に来るという情報を伝えにくる。

主人公を前に見知っていた市民が軍服を脱いで私服でいる主人公を見て脱走したのではないかと警察(憲兵)に通報したらしい。主人公と恋人はウェイターの手助けでて手漕ぎのボートで深夜35キロの湖を渡ってスイスに入る。

スイスへ無事入国出来た二人はモントルー郊外の山中の山小屋で幸せな一冬を過ごす。雪解けとともに、かねて妊娠していた彼女の陣痛が始まり市内の病院に入院。難産で帝王切開をするが、子供は死産、彼女も出血多量で死亡するところでエンディング。

第四部と第五部はがらっとトーンが変わるが筆は軽快に走っている。とくに出産場面はいい。ドストエフスキーの悪霊の出産場面を思い出した。まったく設定は違うが、小説の出産場面で印象的で記憶に残る。



ヘミングウェイはハードボイルド作家か

2014-08-27 08:04:12 | 書評
ミステリーの初期ハードボイルド作家とならんでヘミングウェイをハードボイルド作家ということがある。これまでに読んだところでは同意しかねる説である。

もっとも初期の短編「殺し屋」はサスペンスとしても読める通俗作品ではある。さて、「武器よさらば」の主人公はタフガイである。ま、ハードボイルド小説に登場する主人公に似ているともいえないことはない。

やたらに酒を飲む場面が多い。不自然である。これはハードボイルド・ミステリーの多くのヒーローと同じである。いやマーロウの何十倍も飲んでいるようだ。不自然であるゆえに興ざめである。もっとも青少年読者にはかっこいいと受けるのかも知れない。水だってあんなにガブガブ飲めるものではない。

女の方もすごい。脚を負傷してベッドから起き上がれなくても年がら年中、病室のドアを開けっ放しで女とシコシコ、ギッタンバッコだ。手術の直前だろうと関係なし。種馬同様のはりきりかたである。大変に不自然なタフガイである。
マイク・ハマーも真っ青である。

最近は禁煙風潮で映画でも喫煙場面は少ないようだが、昔の若者向けの映画では日本でも、洋画でもやたらに喫煙場面が多かった。映画のポスターでもそういう場面が売りだった。チンピラがなにかというとタバコを唇のわきからたらす。あれがかっこいいんだね。ヘミングウェイの飲酒場面もその趣がある。

やはり原文で読まないとハードボイルドの所以は理解出来ないか。なにか読んでみるかな。あらかた、めぼしいところは読んでしまったし、後のこっているのは、「誰がために鐘は鳴る」くらいかな。それとも読んでしまったが「われらが時代」かな。これは短いからいいかも知れない。

しかし、翻訳で読んでもハードボイルドを予想させるような作品ではないしな。



ママ、かまぼこはおととから出来るの ?

2014-08-26 10:44:17 | 書評
カマトトの語源というか由来である。現代の児女は切り身しかみたことがない。捌いた後スーパーのパックで売られているものが魚だと思っている。魚屋のご用聞きが持ってきた魚を母親が台所で捌くところを見たことが無い。だからパックされたものしか魚の知識がない。

戦争についての現代日本人の概念も似たようなものである。真実を理解しないものにはどんな危険がまっているかしれない。

前に「風とともに去りぬ」を書評した。銃後に残された女性達の視点から南北戦争を描いた小説である。不埒、理不尽なアメリカのwar guilty プログラムで中枢神経に永久麻酔をかけられた日本人には銃後の生活がいかなるものであるか、世代から世代に正しく継承された知識が無い。

さて、ヘミングウェイの「武器よさらば」である。この小説は前線の兵士の視点で描かれたもので、戦場の性の実態が記述の相当部分を占めている。おおよそ真実を反映しているだろう。主人公は中尉である。経験をもとにノンフィクション風に書くのがヘミングウェイである。構成では前作と比べてフィクション化の腕前はあがっているが、ネタには加工が加えられていない。

最前線のすぐ後方に待機し、死傷者を戦場から輸送車で後送する部隊に主人公は属している。かれ(フレドリック・ヘンリー)の宿舎では軍医達と一緒である。神父も夕食に加わる。いうまでもなく、従軍神父は死亡して行く兵士に最終処理を施すのである。

戦闘が始まらない間、神父を除き彼らは夕食後毎晩のように娼婦を買いに出る。いわゆる慰安所である。将校専用と兵士専用の慰安所は分かれている。ちなみに、戦後アメリカ軍が進駐してきた時に、日本にも彼ら用の慰安所が設けられた。アメリカ軍の命令で日本の医師が性病検査をやらされた。わが町にも将校用の慰安所があった。グリーホテルとふざけた名前がついていて、日本人立ち入り禁止であった。慰安所があるにも関わらず、一般市民の子女はタダであるし、性病の心配がないというので、毎晩多数の米兵による婦女暴行事件が発生した。新聞は米兵による婦女暴行と書くとたちまち発禁処分をうけるので、現場に32文いや16文だったかな、の大きな靴の足跡が残っていたと書いた。また、犯人はよく日焼けしていたとか身長が六尺以上(180センチ以上)あったとか比喩的に書かざるをえなかったのである。

イタリア軍の監視、保護のもとにこれらの慰安所はある。兵士のあいだでは、その実態から政府が経営していると思われていた。新潮文庫313ページに兵士の会話がある。「あの慰安所は法外な値段を吹っかけるんだから、おれたちから金をまきあげているんですよね、政府は」。

慰安婦達はその経営者と一緒に軍隊と一緒に移動する。

これが戦場の性の実態である。イタリアだけの特殊例ではない。なかにはかってのソ連のように兵士に女が買えるような給料を与えていない軍隊では飢えた兵士を一般婦女子の暴行へオオカミの様に兵士をおっ放したところもある(満州の惨状)。このように放任、黙認すれば政府、軍首脳は監督責任を問われることがない。ソ連流の知恵というべきか。

日本の戦争小説に戦争の真実に肉薄した作品があるのかどうか知らない。日本の若い人たちは「武器よさらば」を読んで勉強するといい。




空間作家ヘミングウェイ

2014-08-25 21:23:56 | 書評
アメリカ作家には時間的あるいは歴史的なものがない、空間的に広がって行くだけだと言う趣旨の解説を書いたのは福田恆存である。翻訳「老人と海」の後書きに書いている。

アメリカ作家と一概に普遍的に決めつけるのはチト酷のような気がする。しかし、ヘミングウェイは間違いなく空間作家である。彼の描写で迫力のあるのは道行き部分である。もっとも道行きだって時間的な要素はある。移動には時速何キロというやつがあるわけで、それまで時間的というならば話が混乱する訳である。

もっとも福田恒存は「老人と海」を時間的としてはじめてヘミングウェイを認めている。多分大物カジキと何日間も格闘した老漁師の物語を時間的と捉えたのだろうが、この議論には首を傾げる。

なぜなら、福田が時間的云々の欠如をアメリカ文化の欠点として上げているのは欧州の批評家の説を援用しているのであるが、その趣旨は「老人と海」には当てはまらない、ピント外れだと考えられるからである。

彼の【武器よさらば】を読んだ。第一次世界大戦にアメリカが参戦する前に赤十字の要員として最前線で勤務したヘミングウェイの体験を下敷きにしている。

第一部は主人公が砲弾で負傷するまで、第二部は治療の為にミラノの病院に後送される。第三部は傷癒えて前線に復帰する。この辺りはさして筆の冴えは見られない。

とくに会話部分に難があるようだ。これは「日はまた昇る」の始めのパリのカフェでの交遊の部分にも言えることだ。

第三部の後半は史実でもあるイタリア北部戦線(カポレット)でドイツ、オーストリア軍の攻撃を受けて、イタリア兵が算を乱して敗走する場面であるが、この部分は秀逸である。ある橋を渡ったところでは、イタリア憲兵が敗走する将校を片っ端から捕まえて短い尋問の後全員を銃殺していく場面がある。敵前逃亡を問われればどの軍隊でも非情な措置が取られる訳だ。

主人公も憲兵に連行されて尋問を待っている間にも佐官、尉官の将校は片っ端から川岸で憲兵に銃殺されていく。

主人公には敵前逃亡の罪の他に、アメリカ人でイタリア語になまりがあるということでドイツのスパイと間違えられて処刑される可能性があるとおもった主人公は川に飛び込んで九死に一生を得る。そして軍用貨車に無賃乗車してミラノに入り、恋人のイギリス人看護婦に再開する。

この大混乱する敗走場面の描写はすぐれている。もっとも主人公も捕まる前にトラックに同乗させた敗残兵を命令不服従のかどで銃殺しているのである。ま、戦争とはそういうものだ。それにしてもイタリア軍というのは国民性というのか、第二次大戦でも真っ先に崩壊したし、いざとなると規律も何も無くなる軍隊らしい。多かれ少なかれどの国の軍隊でも起こりうることだが、イタリアはちょっと桁外れのようでもある。

以上で第三部まで触れた。その後四部、五部と続くのだが、それは次回に述べるとして、ヘミングウェイが空間作家である証左として、小説の中でギミックとして出てくる芸術に絵画、建築の話はあるが時間芸術である音楽の話題は出てこない。



昏く淀むヘミングウェイの精神

2014-08-18 07:33:14 | 書評
彼のキューバ時代以降の作品でキューバとマイアミを往復する密輸業者を扱った作品が新潮文庫ヘミングウェイ短編集3に二つある。色調が暗く重苦しい。題材のせいなのだろうが、カリブ海の明るい強烈な陽光と対照的なくらさである。

また、この短編集にスペイン内戦を扱った数編の作品があるが、同様に暗く、やりきれない重苦しさがある。キューバの明るい日差しのもとでヘミングウェイの精神は暗く淀んできたようだ。

勿論作品の質と言うかテクニックというのは、一応水準にあるのだろうが、暗さ、重苦しさは加齢によるヘミングウェイの精神の変化と影響があるのではないか。

ところで、死後出版された「海流の中の島々」だか最初の方を少し読んだところで、どうも感心しないと前に書いた。しかし、これを彼の創作メモと考えて、彼が心身共に充実していたら、この創作ノートをどう完成させていったかな、と思いながら読むと多少興味があるかもしれない。ほとんど、書評屋、研究者の読み方だけどね。

この短編集三にも死後発表された作品が数編ある。これらも「創作メモ」つまり素材として、どう完成させるつもりだったのかな、と考えながら読むといいのかもしれない。

それを考えると、52歳の時に発表した「老人と海」はヘミングウェイが創作の活力を取り戻した一瞬だったのかもしれない。この作品なしにノーベル賞の受賞はなかったわけだし、幸福な一瞬の輝きだった。




ヘミングウェイの描写力

2014-08-16 15:32:58 | 書評
ヘミングウェイの描写でイメージ喚起力があるのは、旅行中の風景描写、釣り、闘牛、狩猟などであろうか。戦争体験に基づく戦場描写もすぐれているのだろう。この小説には出てこないが。

福田恆存氏が面白いことを言っていた。アメリカ人は歴史がない。横へ横へと侵略して行くので空間的な小説が多い、というようなことを何処かで言っていた。

ヘミングウェイもそのせいか、道行きの描写はうまい。レイモンド・チャンドラーもそういえば自動車での移動中の描写が多く、独特の味がある。

日はまた昇る、でパリの退屈でいささかヘミングウェイには似合わない文学青年談義からスペインの闘牛を見に行く第二部あたりから調子が出てくる。途中バスク地方を通ってスペインに入るあたりも記述はさまになっている。

わたしも昔通った道なので、彼のイメージ喚起力に感心した。そして闘牛のある祭りが始まるまでの数日間川釣りをするのだが、この辺も短編で何回も手がけた手慣れた場面で読んでいて安心感がある。

そしてパンプローナでのフィエスタと闘牛、これはもうヘミングウェイの十八番である。ちょっと読み間違えたのは、例のブレットを巡る鞘当てでユダヤ人ボクサーのコーンに叩きのめされた若い闘牛士が闘牛中に事故死するのではないか、と、まあそういう風に想像していたのだが見事に外れた。趣向だね

この作品は出版する前にフィッツジェラルドに原稿を見てもらったそうだ。それで彼の助言で最初の30ページほどを削除したそうである。何れにしても第一部はまとまりがない。ま、福田恒存氏がいうように通俗小説のジャンルかもしれない。

かっちりした構成があるというよりかは、ルポルタージュ風の作品である。

こんなところかしら。書評は。



命より大切なものを捧げた男の物語

2014-08-16 07:06:24 | 書評
日はまた昇る、の語り手は25、6歳のジェイクである。プリンストン大学を出てアメリカかカナダの新聞社のパリの特派員ということになっている。三人称一視点というのかな、難しくいうと。

彼は大戦に参加して命より大事な機能を大義に捧げたのである。すなわちお珍珍を捧げたのである。インポテンツである。この彼と性なき愛を結ぶのが34歳の大年増イギリスのアシュレー卿夫人ブレットである。彼女はすでに二度離婚しており、現在はジェイクのグループの二人とさらに闘牛士と性的関係にある。ウィキペディアは「ふしだらな」女と書いているが、端的に言えば「高級移動式公衆トイレ」である。

彼女が口癖の様にいうセリフがある。「あたし、お風呂に入らなくっちゃ」というのだが、前後から相当浮いたセリフなのでヘミングウェイは意図的に挿入している。「あたし、準備しておくから今晩OKよ」と言うサインなのだろう。日本でも芸者は朝風呂に入るというし。

これってジェンダー主義者によると開放された現代的な女性の理想像ということになるらしい。

ただ、貴族だから取引に正札をつけたりするようなはしたないことはしない。おここころざしでいいのである。ジェイクに対するのとは異なり他の男との関係はウィキペディアによれば「愛なき性」である。見事に対句になったようで。もっとも19歳の闘牛士に対する関係はもそっと愛情らしき雰囲気が出ている。

ロバート・コーンはジェイクのプリンストン大学の同窓生である。彼はミドル級のボクシング学生チャンピオンである。第一部冒頭にそう出てくる。それがどういう伏線でそんなことを書くのかな、と思っていたら第二部の終わりで伏線が顕在線となる。彼は作家希望で第一作を出し、好評だったが、二作目に難渋している。

コーンはユダヤ人である。ブレットと短い性愛旅行を楽しんだ。その後もブレットにつきまとい、「ユダヤ野郎」と仲間にいわれる。

ブレットは現在イギリス人かスコットランド人のマイクと婚約している。だからコーンとの関係は不倫だった訳だ。マイクはイギリスで破産宣告を受けているが、あちこちから借金しまくり派手な生活をしている。

あとはアメリカ人でビルというのが途中で加わる。この役割は判然としない。枯れ木も山のにぎわいという役どころか。

他にブレットと性的関係にあるのは、第二部の後半に出てくるパンブローナ(スペイン)の闘牛士ロメロ19歳である。

第三部で彼女はロメロを捨て、あるいは捨てられて、マドリッドの安ホテルにいるところを何時もこういう時に白馬の騎士のように現れるジェイクに救われる。

この物語はインポの傷痍軍人と純情なところのある「ふしだらな」大年増との悲しくも優しいプラトニック・ラブの物語と粉飾することも出来る(これは出版社宣伝用)。



ヘミングウェイのもっとも重要な作品

2014-08-16 00:45:06 | 書評
これから色々と感想を書いてみようと思うのだが、雲霞のごとく存在する研究家がすてに述べていることならあえて書くこともないので、一応英文Wikipediaで調べてみた。要領よくまとめているが、まだ書く余地はあるなと感じたのである。

専門のヘミングウェイ読みによると、「日はまた昇る」は彼のもっとも偉大な作品だそうだ。また別の研究者によると本書は彼のもっとも重要な作品であるという。このシリーズの冒頭でも書いたように徒然なるままに書き始めた理由の一つに彼は加齢劣化型の作家ではないか、という仮説を確認したいということだったが、上記の専門家の意見はやはり加齢劣化型の作家であるということであろうか。

前回軽快な作品であると書いたがそれは後半であって、前半のパリのカフェにたむろして怪し気なる欧州の「貴族」と主人公達が交わったりするところは退屈だし、とくに会話の不自然さが鼻につく。

頭でっかちの父ちゃん坊やや、鼻持ちのならない文学少女が身に付かない人工的な、本から引っ張ってきたような、きいたような口を聞く会話の連続で読み続けるのは忍耐力が必要である。

第一次大戦後のパリには大変な数のアメリカの若い遊民が集まったようである。ま、彼らの青春群像の描写と思えばいいのかも知れない。彼らを引きつけたのは第一次大戦後の為替事情がある。戦勝国であり、しかも戦渦を受けていないアメリカはいわゆるドル高でちょっとした小金を持って行けばパリで遊べた。

この事情は大戦の戦勝国である日本でも同じで、この時期日本人の金持ちの桁外れな豪遊の逸話にはことかかない。欧州でも敗戦国であるドイツやオーストリアにいけばもっとドル高、円高でアメリカ人、日本人はいい目を見られたのである。

親戚に当時ドイツに留学した者がいたのでその辺の事情は聞いていたが、フランスでも似たような状態であったようだ。

次回は「遊民」群像について。



ヘミングウェイ「日はまた昇る」

2014-08-15 20:35:46 | 書評
読みました。軽快だな。文体でハードボイルドの新鮮味は感じなかった。もっとも現代はみんなHB調なので目立たないのかも知れない。

もっとも、しきりに卵を食べる、それも固ゆでを食べる場面が出てくる。一流のホテルで卵料理とか茹卵ばかり食べているようだが、食通ではないな。第一場違いな感じがする。ハードボイルドの評価はこのあたりからきているのかな。

料理について言うと、いい料理というのは豚の照り焼きしか出てこない、たしか。この辺も野暮ったい印象である。

そのかわり、ワインとかカクテルのことになるとなかなか饒舌になる。また、登場人物が浴びる様に酒のはしごをするわりにはピンピン動き回る。この辺はミステリーのハードボイル小説の探偵の超人ぶり(不自然さ)と同じだ。



ヘミングウェイ、36歳で白鳥の歌

2014-08-11 22:21:54 | 書評
36歳のヘミングウェイはなかなか好調のようだ。短編集2で「マカンバー」と「キリマンジャロ」はいい。マカンバー第一位、二位キリマンジャロというところだ。

ヘミングウェイは自伝的作家のようだ。私小説作家という意味ではない。多くの作品は彼のどの時期の経験の反映か、というのが容易にたどれる場合が多い。

私小説の様に、ルポ風に心理を深刻めかして深堀りするわけではない。うまく料理はしてある。

36歳にしては早すぎるが、キリマンジャロは彼の白鳥の歌のような趣が有る。「日はまた昇る」の始めの方に「ぼく」と友人のユダヤ青年ロバートとの会話で、ロバート(26歳くらいか、)が「知ってるかい、あと35年もすれば、ぼくらは死んでしまうってこと」という。

当時の平均寿命はそのくらいだったのかな。しかし20年とか2、30年と丸めて言わないで、35年と刻むのは妙で引っかかる。

26歳足す35年は61歳だ。実際ヘミングウェイは61歳で猟銃自殺している。自分の(どうもヘミングウェイの)終末を25歳で設定するのは尋常ではない。

「キリマンジャロの雪」は金持ちの妻をもらって、贅沢三昧に暮らしているうちに才能が鈍麻して行く作家の自覚を書いている。実際アフリカにサファリに行った頃の妻の叔父はべらぼうな金持ちでヘミングウェイのサファリ費用、ヨット購入資金、キューバの屋敷の購入資金などを援助している。

アフリカへサファリにいって怪我が元で壊疽にかかり、物理的な死を迎えることとパラレルに書かれている。物理的ではなくて、自分の作家としての生命の終わりを予感した白鳥の歌ととれる。

さて、次は短編集3を読むか、「日はまた昇る」を読むか。




ヘミングウェイ研究者のレベル(視点)

2014-08-11 22:20:40 | 書評
「フランシス・マカンバー」の解説で妙なことが書いてある。視点が四つあるというのだな。フランシス・マカンバー(サファリの客)、その夫人、ガイド、ライオンというわけだ。大胆な説と言わざるをえない。

もっとも訳者独自の大胆な説ではないだろう。解説の末尾に参照したという多数の文献を掲げている。欧米の代表的な評論をコピペ?したのだろう。

フランシス・マカンバーの視点とガイドの視点はいい。それに夫人の存在が絡まってくる構成になっている。視点と言えるからには質量ともに充実した記述があり、常識的に納得できるものでなければならない。

夫人について、最後に夫を故殺(あるいは誤射)したと諸説が出てくる下りで【マカンバー夫人はバファローを狙い撃った】とはっきり書いてあるのが彼女の視点の根拠らしい。【バファローを狙って撃ったようだ】ではどう考えてもインパクトがない。たんなる表現のあやだろう。

また、ライオンについては、一体どこからそんな説が出てくるのかと読み返したが、「ライオンは捨て身の反撃に出る気になっていた」あたりに根拠があるらしい。ここは【・・捨て身の反撃を試みる気配をみせていた】と書いても同じことだ。表現のアヤにすぎない。

おかしいのは獲物にも視点を与えるならバファローにもそういう記述をするのがいいが、バファローについては、そう言う記述はない。要するに訳者の四視点説は全く恣意的な、まるでコンピュターがテクストを機械的に分類するようなやり方で、滑稽と言わざるを得ない。

これが多数列挙した本国のヘミングウェイ研究書の孫引きなら、かの地での研究レベルも相当低いと言わざるをえない。

ところでガイドのウィルスンはよく描かれている。いささか皮肉なコード・マンの趣もある。



今日は、コード・マン

2014-08-11 06:53:39 | 書評
新潮文庫の訳者は高見浩という人だが、どういう人だか私は知らないのだが、訳者解説に時々変なことを書いている。ヘミングウェイの主役、登場人物にはコード・マンが多いという。

コード・マンとは自分の信じるコード(信条、行動規範)に馬鹿正直というか忠実に生きるというタイプという意味で高見氏が使っているとすると、ヘミングウェイの主人公でそういう人物がいるのかな、と首をかしげる。

私がこれまでに読んだ主として短編の主人公でコード・マンだと感じさせる人物はいない。長編の主人公にはいるのか。

コード・マン登場と言うとハードボイルド小説の定番のようだが、くっきりとそういう人物造形をしているのはレイモンド・チャンドラーの登場人物であるフィリップ・マーロウくらいではないか。

マーロウはまさに首尾一貫して自分の探偵としての独自のコード(職業倫理)を持っている。いかなる状況でもそれを堅持している。それは依頼者の秘密と警察への協力の選択である。いかなる場合もマーロウは依頼者のプライバシーを第一に考える(一作例外あり、湖中の女だったかな)。これはハメットやほかのハードボルド作家には見られない特徴である。



フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯

2014-08-11 06:49:02 | 書評
さて、ヘミングウェイ短編集2「勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪」で(新潮文庫)で経年劣化を確かめる。

このシリーズは概ね年代順に並べてあるようだ。

第二編は印象的な作品が少ない。読んだ後から忘れてしまう。それが全体の半分以上ある。そのまた半分は、あれ、どんな作品だったかな、と冒頭を眺めても内容を思い出せない作品がある。タイトルの作品まで読んだ。まだ有名な「キリマンジャロの雪」は読んでいない。いや大分前に読んだ、だから書棚にあるわけだが、内容はまったく憶えていない。

キリマンジャロの前にあるこの「フランシス・マカンバーの」はいい。この作品は私の読み方が適しているようだ。すなわち冒頭を適当なところまで読んで後は最後の数ページを読んだり、ランダムに開いたところを読んだりしながら通読すると余計興趣がわく。要するにそういう読み方をすると小説の仕掛けというか構成が分かる。分かったから「なあんだ」とつまらなくなることはない。なるほどな、とかえって感心する。

こういう読み方を敵視する書評屋がミステリー業界には多いが、あるいは一般の小説の評論家にも多いかも知れない。これをウロボロス読みという。ウロボロスというのは錬金術の代表的な表象であるが、蛇が丸くなって自分の尾を噛んでいるイメージである。

閑話休題、あるところで評論家の一人がヘミングウェイの作品は完全に直線的に、つまり時系列的に記述していく、と書いていたが、まったく違うね。この作品でも記述は前後する。他の作品でもフラッシュバックは多い。それも予告なしにというか、いかにも時系列に書いているようで、いつの間にか過去のことを書いていたりする。高等テクニックなのかもしれない。それで評論家諸君はだまされたのかな。



ハードボイルドといえば

2014-08-10 10:26:02 | 書評
ハードボイルドといえば、このブログの書評で大分前にかなりの分量を書いた。チャンドラー、ハメット、ロスマグ、M・スピレーンなど。この順番に書いた分量が多い。

もっともハードボイルといっても、どうも二つの定義があるようだ。文体に関するものと、主人公の行動の特徴に関するもの。

文体に関して言えば上記の作家でハードボイルドに該当するのはハメットの一部の作品とスピレーンだけだろう。

なぜ、またこんなことを書くことになったかというと、先日数日間旅行をした。ホテルで深夜目が醒めて眠れないときのためになにか文庫本を持って行こうと本棚を探していたところヘミングウェイの短編集に目を留めた訳である。

ヘミングウェイを読んだ時には全く感興が湧かなかったのであるが、ソファに寝転がってぱらぱらとページを繰りながら吟味をしていると、これが案外いける。眠れない時に10ページほど読むのにはいいだろう。ほかにめぼしい本が棚に見つからなかったことも有るし。

そういえば、ヘミングウェイもハードボイルと言われていたんじゃないかな。これは上記の定義によれば文体のことだろう。それとも主人公の行動規範だろうか。

というわけで、旅行中に新潮社の短編集「我らが時代」の三分の一ほど読んだかな。なかなかいいじゃないの、というわけだ。いいというのは感銘を受けたということでもない。才能を予感させたとでもいうか。

彼については、この短編集のほかにノーベル文学賞の対象になったという「老人と海」を読んだことがある。あまり感銘を受けなかった。テーマは私の好きな部類に入るのだが作品には感心しなかった。

で、一つの仮説をたてた。かれは加齢劣化型の作家か。それを検証しようと買ったのが「海流の中の島」。死後遺稿を出版した作品だそうだが、これが感心しない。もっとも、最初の方だけした読んでいないが。

なぜ買ったかと言うと、奥付をみるとこの小説が一番売れているようだ、というミーハー的な理由である。

加齢劣化型かどうか検証するためには「日は又昇る」を買わなければいけなかったね。我らが時代は彼の最初の本だから、次に読むのはその後に出た「日はまた、」だろう。