穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

レミゼラブルと司馬遼太郎

2013-02-28 10:40:25 | 書評
レミゼラブルとはユゴーの小説である。この間映画を見た。で、なんとかいう賞を取ったんだね。
アカデミー賞だっけ。主演女優賞、助演女優賞 ?? ま、そんなことはどうでもいい。

前回、芥川賞の書評をするために文芸春秋を買った。abさんごを数ページ読んで書評を書いたわけだ。文芸春秋というのは高いんだね。千円ちかくする。

で、数ページ読んだだけじゃ元はとれないと、スケベ根性で目次を見るとレミゼの座談会がある(332ページから)。
鹿島茂さんというフランス文学者がいうにはフランスの文学者(日本のフランス文学者ではないらしい)でもレミゼを通して読んだ人はいないというんだな。

はなしが関係ないところにあちこちするそうだ。たかが文庫で5分冊(新潮)の長さの小説なんて腐るほどフランスにもあるのに、全巻通読したひとはあまりいないというんだ。上等じゃないか、と思ったね。無聊を持て余すオイラには格好のおしゃぶりだ。1年間は持ちそうだ、といま二巻目のおわりあたり。ジャンバルジャンがコゼットを連れて修道院に逃げ込むあたりだ。

ユゴーは時代を描きたかったらしい。彼自身も政治家だったし、一席歴史をぶつ欲求を抑えられなかったらしい。たしかにワルテーローの戦いとか女子修道院のあたりでは無慮100ページにもわたり、彼の歴史考証趣味を発揮している。

ここで思い出したのが、司馬遼太郎だ。かれにもこの気味がある。しかし、話の本筋との絡みが明瞭で退屈させない。たいして、レミゼは本筋の理解に読まなければならないようなことは書いていない。飛ばして読んでまったく問題ない。

その意味では司馬のほうに技がある。しかし、本文というか、地語りの部分ではユゴーの筆は司馬とは比較にならぬほど傑出している。

マドレーヌと改名して地方の市長になったジャンバルジャンが人違いで自分と間違えられて捕まった盗人を救うために証言するまでの内心の葛藤を長々と描写するあたりはドストエフスキーの罪と罰のラスコリニコフの内面の対話に勝るともおとらない。

また、孤児のコゼットが雇い主から犬や牛のように虐待される場面などの描写は卓絶している。こういう場面は司馬にはもともとあまりないが、司馬の表現は平板な部類に入るだろう。

司馬の歴史考証的余談も鼻につく教訓臭を消せばもっと読めるようになるだろう。








abさんご、僭越ながら技の提案

2013-02-20 21:44:46 | 書評
さて、インターネットを漁って少し皆さんの意見を読ませていただけました。

参考になるところもあり、有益なる情報を得ることも出来ました。

さて、次々と技を繰り出す黒田夏子さんでありますが、なぜ右から左に書かなかったのでしょうね。昔の日本はそうでしたし、アラビア語もたしか右から書きます(横書きでね)。会社の文章みたいに左から右というのはいかにも味がありません。横書きにするときは支那の文章もそうでした。

それと、もっと解せないのは句読点が残っていることです。日本式の句読点からピリオドとカンマにはなっていますがね。日本語というものは句読点なしで達意の文章が書けるものです。明治維新前までずっとそうしてきたわけです。

モロコシでも句読点はありません(伝統的な文章では)。

横書きで句読点があるのは事務文書みたいでよくありません。その句読点が.と,というのもね。

あと、単語の選択と言う点でも一部(大部分?)の人が言うようにセンスがあるとは思えません。天井と書かないでてんじょうと書いてあるとぐんと迫ってくるなんていう記事がありましたが、目を疑いました。

ちょっと訓練された読者なら漢語でも読むと同時にその音を内耳で玩味しているものです。そしてその言葉の選択が適切かどうか評価あるいは鑑賞しているものです。


私は未だに三章ほどざっと目を通しただけですが、単語の選択に唸らせるものがあるなら数ページ読めばわかるものです。

これはインターネットで得た情報ですが、蓮實重彦とかいう人が彼女を見つけて絶賛したのが事の起こりらしい。

この人物がどういう人か知りませんが、フランス文学者で元東大総長だそうです。なんとなく、彼女いや彼女の文章と相性がよさそうです。

くどくどと嫌みを言っているように聞こえると困るのですが、このブログでは社会的に、あるいはこの業界でニュースになった事象を取り上げているものですから、極めて特異な現象のように思われるのでやや長くなってしまいました。

黒田夏子さんはワープロで文章を書くのでしょうか。それとも手書きですか。






abさんごは結局技の問題?

2013-02-19 20:40:52 | 書評
前回に続きabさんごだが、その道の玄人たちの評がピンとこないのは、テクニックというか、文体というか、その与える効果がすばらしいという一点しかポイントがないということなんだろうな。

たしかにある効果は有る。時間差攻撃というのは有る程度有効だからね。難しい本と同じで「訳が分からない方」がありがたみがある。

読みにくさ、は時間差攻撃にもなるし(読むのをつき合おうという気持ちがあれば)、思いがけない印象をバイプロダクトでうむ。

しかし、テクニックというのは必要最小限に止めるのがスマートなんじゃないかな。はじめから終わりまでテクニック過多だし、そのテクニックがすぎれば、しかも同じテクニックばかりでは月並みな印象を与えて逆効果だろう。

選者が奇をてらって流行を作ろうとしていることは分かる。それが芥川賞の使命なのかな。なかには、みんながいいいい、と言い出すと乗り遅れまいと珍妙な褒め方をするものがいる、村上龍や宮本輝のように。

三回ほど、芥川選評評(間違いではありません)をやったが、いつも山田詠美氏はまともだと思ったが、今回はネガテイブな評は彼女だけだね。

おまけだが、彼女のテクニックの一つに持って回った非日常的説明がある、傘のこととか。こういうのを読んでいると、これは校正者としての経歴かなとおもう。いま、プレスコードで禁句がおおくなって妙な表現が強要されるだろう、脚が不自由なかたとか、目が明るくない方とか。こういう言い換えに校正者として腐心した技術が反映していると思うね。







abさんご、遅ればせながら

2013-02-16 13:21:30 | 書評
単行本も結構売れているらしいが、文芸春秋で最初のほうを読んでみた。

このブログは世間で取り上げられている本を取り上げるというのが一つの方針で好き嫌いなしだ。

で読んでみた。

この小説を書くのに10ヶ月だかかかったという記事が出ていたが、中編というか短編というか、長く時間をかけたものだから読む方にも理解するのに相応の時間を要求するのか、あるいはじっくりと書き込まれたから逆に一読猛烈な迫力で文句なしに迫ってくるというのか。

どうも私のように感受性の鈍いものには相当の時間をかけないといけないようだ。

それで各種書評で勉強させてもらおうと文春の選者評やらインターネットですこし当たってみた。褒めているのが多いが、瑞々しいとか、感性が新鮮だとかいう評が多い。だが、それだけなので、つまり素っ気ない結論だけの評なので、どうして、どこが、そうなのかというのが鈍感な私にはわからない。

こんなことでは世の中に遅れるわい、と一生懸命に読みたいと思っている。

&: さてと、風呂に入ってからまた雑誌を取り上げる。この小説はランダム・アクセスのほうがいいかもしれない。『前衛』作品なのに章ごとに見出しがついている。窓の木から読み始めると分かりやすい。それから最初の晩餐と続く。

もっとも、窓の木というのは父の書斎とか書庫の思い出なんだが、こうして書かれてみるとオイラの親父の部屋に似ているところがあって、すらすら入って行けただけかもしれない。一つの趣向だとは思うが、卓越した筆致とも思えないが、まあ、話の筋が見えてくれば読むのに抵抗がなくなるのも事実である。