レミゼラブルとはユゴーの小説である。この間映画を見た。で、なんとかいう賞を取ったんだね。
アカデミー賞だっけ。主演女優賞、助演女優賞 ?? ま、そんなことはどうでもいい。
前回、芥川賞の書評をするために文芸春秋を買った。abさんごを数ページ読んで書評を書いたわけだ。文芸春秋というのは高いんだね。千円ちかくする。
で、数ページ読んだだけじゃ元はとれないと、スケベ根性で目次を見るとレミゼの座談会がある(332ページから)。
鹿島茂さんというフランス文学者がいうにはフランスの文学者(日本のフランス文学者ではないらしい)でもレミゼを通して読んだ人はいないというんだな。
はなしが関係ないところにあちこちするそうだ。たかが文庫で5分冊(新潮)の長さの小説なんて腐るほどフランスにもあるのに、全巻通読したひとはあまりいないというんだ。上等じゃないか、と思ったね。無聊を持て余すオイラには格好のおしゃぶりだ。1年間は持ちそうだ、といま二巻目のおわりあたり。ジャンバルジャンがコゼットを連れて修道院に逃げ込むあたりだ。
ユゴーは時代を描きたかったらしい。彼自身も政治家だったし、一席歴史をぶつ欲求を抑えられなかったらしい。たしかにワルテーローの戦いとか女子修道院のあたりでは無慮100ページにもわたり、彼の歴史考証趣味を発揮している。
ここで思い出したのが、司馬遼太郎だ。かれにもこの気味がある。しかし、話の本筋との絡みが明瞭で退屈させない。たいして、レミゼは本筋の理解に読まなければならないようなことは書いていない。飛ばして読んでまったく問題ない。
その意味では司馬のほうに技がある。しかし、本文というか、地語りの部分ではユゴーの筆は司馬とは比較にならぬほど傑出している。
マドレーヌと改名して地方の市長になったジャンバルジャンが人違いで自分と間違えられて捕まった盗人を救うために証言するまでの内心の葛藤を長々と描写するあたりはドストエフスキーの罪と罰のラスコリニコフの内面の対話に勝るともおとらない。
また、孤児のコゼットが雇い主から犬や牛のように虐待される場面などの描写は卓絶している。こういう場面は司馬にはもともとあまりないが、司馬の表現は平板な部類に入るだろう。
司馬の歴史考証的余談も鼻につく教訓臭を消せばもっと読めるようになるだろう。
アカデミー賞だっけ。主演女優賞、助演女優賞 ?? ま、そんなことはどうでもいい。
前回、芥川賞の書評をするために文芸春秋を買った。abさんごを数ページ読んで書評を書いたわけだ。文芸春秋というのは高いんだね。千円ちかくする。
で、数ページ読んだだけじゃ元はとれないと、スケベ根性で目次を見るとレミゼの座談会がある(332ページから)。
鹿島茂さんというフランス文学者がいうにはフランスの文学者(日本のフランス文学者ではないらしい)でもレミゼを通して読んだ人はいないというんだな。
はなしが関係ないところにあちこちするそうだ。たかが文庫で5分冊(新潮)の長さの小説なんて腐るほどフランスにもあるのに、全巻通読したひとはあまりいないというんだ。上等じゃないか、と思ったね。無聊を持て余すオイラには格好のおしゃぶりだ。1年間は持ちそうだ、といま二巻目のおわりあたり。ジャンバルジャンがコゼットを連れて修道院に逃げ込むあたりだ。
ユゴーは時代を描きたかったらしい。彼自身も政治家だったし、一席歴史をぶつ欲求を抑えられなかったらしい。たしかにワルテーローの戦いとか女子修道院のあたりでは無慮100ページにもわたり、彼の歴史考証趣味を発揮している。
ここで思い出したのが、司馬遼太郎だ。かれにもこの気味がある。しかし、話の本筋との絡みが明瞭で退屈させない。たいして、レミゼは本筋の理解に読まなければならないようなことは書いていない。飛ばして読んでまったく問題ない。
その意味では司馬のほうに技がある。しかし、本文というか、地語りの部分ではユゴーの筆は司馬とは比較にならぬほど傑出している。
マドレーヌと改名して地方の市長になったジャンバルジャンが人違いで自分と間違えられて捕まった盗人を救うために証言するまでの内心の葛藤を長々と描写するあたりはドストエフスキーの罪と罰のラスコリニコフの内面の対話に勝るともおとらない。
また、孤児のコゼットが雇い主から犬や牛のように虐待される場面などの描写は卓絶している。こういう場面は司馬にはもともとあまりないが、司馬の表現は平板な部類に入るだろう。
司馬の歴史考証的余談も鼻につく教訓臭を消せばもっと読めるようになるだろう。