穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

19の夢(1)

2021-11-26 08:26:25 | 小説みたいなもの

 五十日露州(イカロシュウ)は自分は名前に負けていると思った。五十日(イカ)という姓は祖先代々のものでしょうがないとあきらめているが名前のほうが嫌でたまらなかった。彼の母方の祖父が強制的に押しつけた名前である。働きのない父親はこの祖父の援助がなくては生活できなかったので祖父の命名に反対できなかった。

 祖父は九州の山奥に住まいなす資産家で下手な俳句を捻り回す田舎俳人であった。それで孫にまでいかにもそれらしい名前を押し付けたのである。そう言われてみると露州というのはいかにも俳人くさい名前のように聞こえる。祖父は大変な迷信家でもあった。姓名判断に凝っていて露州は姓の五十日と組み合わさってとてつもない偉人に育つと信じ切ったのである。孫本人にとっては迷惑至極なことであった。

 彼の半生は、四十歳に手が届こうという現在までうだつの上がらないものだった。名前の仰々しさを彼は背負いききれなかった。しかし、と彼は振り返る。時々というか、人生で間歇的に強烈に発光するときがあるのである。普段は20ワットの鈍い行燈のような光なのだが、突如何の前触れもなく200ワットに燃え上がるのである。

 躁うつ病という精神病がある。これは感情の起伏が激しいのだが、彼の場合は感情ではなくて、知的活動の振幅が極端なのである。いわば知的躁うつ病とでもいうのだろう。勿論知的鬱状態が常態で躁状態は短期間しか続かない。

 彼は会社に勤めていたころに、同業者の国際的な寄り合いがあり、一月以上南フランスのカンヌに派遣されて滞在していたことがる。会社からは一人だけの参加だったので、夜は毎晩カジノに顔を出した。うだつの上がらない会社員であったが、博才だけはどういうわけかあった。欧州だからルーレットが主流である。彼も初めての経験だった。見ているとなんとなく『流れ』がある。出る目と言うか球の落ちる番号に傾向があることに気が付いた。テーブルの傍には目を記録する無料の紙がどこのカジノにもおいてある。彼はそれを手に取って目をしばらく記入したみた。もちろん流れのない、あるいはつかめない状態も頻出するが、なんとなく流れがつかめる状態もある。

 彼も参加して小金からかけ始めた。しばらくはとったり、取られたりしていたが、かけ方のコツをつかむと波に乗り出した。もともと儲けるつもりはないから適当にやっていたが大分チップが溜まって余裕が出来たので、もっともギャンブル性が高いかけ方、つまり単番号にかけてみた。十九番。それが当たった。掛け金は三十数倍になってチップが押し戻されてくる。気の迷いか?強気になったのかもう一度十九番に儲けた全部のチップを置いた。来た。驚いたね。それからはさすがに単はやめてもっと穏やかなかけ方にもどったが、ツキを呼び込んだのかチップはたまるばかり。クルピエは感心したのか、あきれたような顔をして、かれが目の前のチップの山を押し出すと、マキシマムを超えているからここでは受けられないと申し訳なさそうに言った。

 

 

コメント
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