穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

Z(13)章 兜

2017-04-30 19:54:19 | 反復と忘却

 デパートのエスカレーターで降りて行く途中で端午の節句向けの販売を当て込んでミニアチュアの兜や鎧が展示してあるのが目に入った。今度はどうしたものかな、と三四郎はいつも引っ越しの時に迷うことを考えた。

 その兜の存在は父が死ぬまで知らなかった。遺品を整理していた時に、妹が納戸の押し入れの上の天袋から大きな黒塗りの木の箱を取り出した。三四郎はその脚のついた木箱を見るのは初めてであった。紐のかけてあった箱の中には実物の兜が仕舞われていた。彼が見るのは初めてであったが、妹は母から見せてもらったことがあるらしく、「おじいさんが贈ってくれたのよね」と言った。

 妹によると三四郎の誕生を祝って母の父が贈ってきたものだという。なんという名称なのか知らないが、兜の前面に装着する二つの角みたいな飾りが一緒に入っていた。顎当ても付いている。取り出してみると猛烈に重い。戯れに頭にかぶってみると首が胴体にめり込みそうになる。相当に厚い鉄で出来ているのだろう。実戦用と同じ作りなのだろうか。こんなに重くては屈強の武士といえども動き回れまいと思われた。大将なんかがそれを被って床几の上に座って指揮をとっていたのだろうか。とても動き回ることは出来ないと思われた。

 箱の中に入っていた木組みを組み立てると支柱、兜掛けとか兜立てとでもいうのだろうか、が出来上がりその上に兜が置ける様になっている。床の間に飾るものなのかな、と言いながら彼は支柱を組み立てて、床の間に置きその上に慎重に兜を乗せた。

「このごろは五月の端午の節句に近づくと四月のうちからデパートなんかでは兜を売り出しているな。もっとも最近のものはミニアチュアでちゃちなものだからずっと軽いんだろうけどね」

「そうね、段ボールに銀紙なんかを貼ってある感じね。完全な飾り物であれじゃ子供でも小さくて被れないわよ。それでもびっくりするような高い値段がついているのよ」

「しかし、不思議だな。僕がこれを見るのは初めてだし、家で端午の節句に取り出して飾った見たことも記憶にない」

 家では毎年三月のひな祭りの節句には床の間に赤い毛氈を敷いた段の上に雛人形がひと月ちかくも並べられていたが五月の節句には兜も取り出されずなにも祝われなかった。せいぜい思い出したように菖蒲湯を沸かしていたくらいであった。

別に不思議とも思わなかったが、母が隠す様に押し入れの上に仕舞っておいてかれに一度も見せたことがない兜を始めて見た彼は不思議に思った。

 「お兄さん達が反発したらしいわね。それでお母さんが遠慮したのよ」

「どうしてだい」

「だって、兜は武士の嫡男であることを象徴するんじゃないの。そうじゃないかもしれないけどお兄さん達はそう思ったのよ」

先妻の息子達は母に対してことごとに反抗したらしい。兜を飾ることを母が遠慮したのもそのためかも知れない。とにかく、祖父の彼に対する贈り物である兜を生前一度も飾らないどころか、彼の目に触れさせなかった母の心情、苦労がはじめて分かったような気がした。

 そういうわけで、はじめて兜は彼のものとなり、三四郎は引っ越しの度に、その木箱も一緒に運んでいるのである。壊れやすい木箱の中に非常に重い鉄のかたまりが入っている。運送屋には壊れ物として注意を与えているのだが、それでも木箱にはすでにひびが入っていた。その上、狭いマンションでは結構場所をとる。処分するにもどうして良いか分からないから持って行くのである。今度はどうしようかな、と三四郎は迷っている。そして結局処分する決断が付かないままに持って行くことになりそうである。

 

 

 


Z(12)章 美と崇高の観念は三四郎を金縛りにした

2017-04-29 08:43:07 | 反復と忘却

三四郎が愛読する戦前の急進的国家神道の指導者である土野面提手(ドノツラ・テイシュ)の著書によると、一人の人間は八百万の霊魂が高分子的に固まったものである。死とはその高分子的結合がバラバラになることである。個々の霊魂は変化しない。

 植物も霊魂が高分子化したものであるが、集約度が人間に比べて少ない。そこに死んでバラバラになった人間の霊魂が憑依すると、その植物は異常に成長速度を速める。母が亡くなった後でその霊魂の大部分は成層圏から飛び出したらしいが、一部は庭の植物の上に落ちたと思われる節がある。母は園芸が趣味でよく庭いじりをしていたので自分が丹精した草花に惹かれたのであろう。

 なかでも母が好んだ紅蜀葵は普通では人間の背丈を超えることはないが、すざましい勢いで伸びて二階のベランダより高くなった。幹の太さは木の様になった。そのかわり花はつけなくなった。

 さて、なぜこんな話をしたかというと、人間の魂の集約度は鼻あたりが高いという。日本人の鼻は、勿論女性も含めて、大きい。肉厚である。黒人ほどではないが。白人の鼻は高いが肉は薄めである。美とはほど遠い。理想的な美は日本人と白人の中間であろうか。これは滅多にいない。これがいたので有る、しかも埼京線の車内に。鼻孔の縦横の比率も理想的であった。この女性を見て三四郎はぱっと燭光に射られれた様になった。もっともそれだけなのだが。美と崇高の観念を抱かせる美人に遭うと三四郎はかならず金縛りになる。それが愛情に変化することはない。まして肉情まで降りて行くことは有り得ない。

 普通は愛情から肉情に降りて行くのが結婚とか同棲になるのだろうが。三四郎はいまではそれほどではないが、若年のころ、まだ獣欲が熾烈な時には情欲を喚起したのは一言で言えば不均衡であった。ピカソの描く女のようであるとか、上半身と下半身の比率が6:4とか7:3つまり尻がその辺りで揺れている女であった。アメリカ人などが日本女性に惹かれるのもそのようなアンバランスにあるようである。八頭身で腰高(つまり足が長い)な女性はいくらでもいるから珍しくない。

 その女性も池袋でおりた。三四郎の視線に気が付いたようで三四郎の前をゆっくりと誘う様に歩いていたが、三四郎は何しろ金縛りの状態であるから、女神を避けるかのようにホームを反対方向に歩いていった。

 

 


Z(11)章 完璧な鼻

2017-04-28 10:35:10 | 反復と忘却

今日三四郎は日課にしている市中徘徊の途次完璧な鼻を見た。携帯電話、スマホというのかな、には歩数計が付いている。どれだけ正確か分からないが一応の目安として一日1万歩を目ざしている。そこで徘徊の途中で大書店を見かけると全店内を最低二回巡回することにしている。またデパートや電気製品の量販店を見かけると同様にじっくりと全店内を数回まわる。

 なぜかと言えばそういう店内にはサイレントキラーがいないからである。歩道を歩けば自転車にぶつけられる。前方だけ注意していればいいという時代ではない。三四郎は不幸なことに後頭部に目がないので不便でしょうがない。後ろの自転車に前方を注意する全責任があるが、そんな配慮をする自転車乗りはいない。歩道を歩いているのに歩線を変更するのにいちいち後方確認をして方向指示器を出さなければ危なくて歩道をあるけない。

 大型書店や商店の中には自転車が走っていないから安心して歩数がかせげる。歩道でも自転車の少ない裏路地というのは有るが自宅の近所でないとどこが安心して歩ける裏道かの知識がない。勢い大型店舗で歩数を稼ぐのである。

 昔は大型書店に行くと、思いがけない拾い物にぶつかることがあったが、めぼしい本は読んでしまったので最近ではまず書店をめぐっても収穫はないのである。

しかし活字中毒の三四郎は読む本が途切れる間が持たない。最近は下らない本でも多少読める所がありそうなものは妥協して買ってみるのである。

 ところで同じ盛り場、駅周辺に大型店舗がいくつもあるわけではない。そこで長い一日を消すためには、電車や地下鉄を利用して数カ所の盛り場をうろつくのである。昔の山手線は裏というか西側つまり五反田から池袋の区間は昼間の他の路線では大抵車内がガラガラな時間でも超満員で三四郎は敬遠していたのであるが、昨日は歩き疲れたのがたまたま渋谷であったので池袋まで埼京線に乗った。

 ほとんど立っている乗客がいなかったのに驚いた。埼京線の延伸とか副都心線とかが出来たので混雑が緩和されたのかも知れない。三四郎も座席に座った。立っている乗客が視界を遮らないから向かい側の乗客の顔がよく見える。そこで完璧な鼻を見つけた。美と崇高の感情を呼び起こさせるような完璧な鼻であった。ミロのヴィーナスをはるかに超えていた。

 

 


カミュ「最初の人間」であるはずの父はアルジェリアへの入植者

2017-04-25 10:16:10 | カミユ

アルジェリアにフランスが勢力を伸ばし始めたのは19世紀前半らしい。しかし植民地としての地位を確立したのは1905年であるという。なにか法律でも出来たのであろう(電子辞書版百科事典による)。

 ジャックの父は1913、4年(つまり第一次大戦直前)フランスから入植地の管理人として赴任したがすぐに戦争に招集され、あっという間に欧州戦線で戦死する。父親すなわち最初の人間である父を知ろうとジャックは巡礼の旅にでるのであるが(故郷に母や親族を尋ねるのであるが)誰の記憶にも残っていない。

 だからジャック自身が最初の人間なのである(というのが題名の意味だろう)。フランスからのアルジェリアへの入植者はいってみれば日本で1931年から1945年までに実施された満蒙開拓団と同じである。現代ではイスラエルがパレスチナ人の居住地に入植を強行しているのと同じである。

 入植者というのは本国で生計が立ち行かなくなった農民が主体である。中には本国で失業した肉体労働者そして一部の事務労働者(サラリーマン)もいたであろう。ジャックの父は管理人という立場で赴任したのだからフランスではどうにか文字の読める階級であったらしい。

当然現地のベルベル人、アラブ人との紛争がおこる。現地人による残虐行為がある。フランスの軍隊、官憲も報復する。入植地ではどこでもあることである。

 父は現地アルジェリアで先住の欧州人家族から妻を調達したらしい。夫が戦死したから妻(母)一族はアルジェに出て来た。ジャックはそこで育つ。

 ところで前回カミュの幼少年時代に電灯があったのかあまり記述に記憶に残る所が無かったと書いたが、「最初の人間」の第二部にいたり、石油ランプの記述が頻出する。つまり貧困地区の家庭では電灯は敷かれていなかったのである。

 カミュは太陽の作家である。光線の作家である。意識の芽生えてくる少年期の恐怖は闇(すなわち夜)である。そこで夜の不安を語る様になって急に石油ランプへの言及が多くなった。

 アルジェリアは8年間にわたる独立戦争により1962年フランスから独立した。カミュが自動車事故で死んだ二年後であった。


 

 

 


カミュ「最初の人間」掃き溜めに(の)鶴

2017-04-24 07:04:37 | カミユ

掃き溜めに(の)鶴というと、イメージとしては場末や貧民街に突如現れた美少女とか美人というところだろう。つまり将来の芸者予備軍ということになる。カミュは男だから「鶏群の一鶴」と漢語風に表現するほうが適切かもしれない。

小説でジャックの父は第一次大戦勃発後すぐに戦死している。そしてジャックは父の戦死したときに零歳であったからカミュとは同年である。カミュは1913年生まれ、第一次世界大戦は1914年勃発。まあほぼパラレルと見てよかろう。

 彼の幼年、少年時代は1910年代から1920年代の初め頃となる。日本でいえば大正時代である。その頃のアルジェといえば、路面電車もあるし自動車も走っていた。彼のアパートが電灯だったかランプだったかははっきりしない(ぼんやり読んでいたから気が付かなかった、幸福な死、異邦人、最初の人間に描かれている所に基づくと)。電話は彼の勤めている会社にはあったようである〈1930年代あたりということになる)。

 一方で家族の方はどうかというと父親は戦死して母子家庭である。母親は家政婦に働きに出ている。祖母は家にいて孫達を牛の腱で作った鞭で四六時中ひっぱたいている。この祖母はスペイン系の血が混じっているらしい。家族で字が読める者は一人もいない。まして字が書ける者はいない。母親も目に文字がないが署名用に変にのたくった符丁のようなものを書くことだけを教えられている。

 小学校はあったらしい。そこでこの環境の中でカミュの才能を見抜いた小学校の先生は慧眼であった。リセに入るために奨学金を手配してやり、上級学校にやる。家族は子供が9歳になればもう小僧に奉公に出して金を稼がせたいのであるが、この小学校の先生はそういう祖母や母の説得にもあたった(これは小説でも実人生でもそうであったらしい。

 後年カミュがノーベル文学賞を受賞すると、かれは真っ先にその知らせを小学校の先生に伝える感謝の手紙を送っている。この手紙は「最初の人間」の最後に収録されている。まさに掃き溜めから鶴は飛び立ったのである。

こういう環境に育つと大抵は連帯と称して群れて左翼社会運動に参加するものであるが、カミュは最後まで孤高に「不条理に反抗」の姿勢を貫いた。


 


カミュ「最初の人間」は自伝ではない

2017-04-23 07:25:09 | カミユ

最初の人間は自伝的小説と言われている。ウィキペディアなどの簡単な評伝を読んで比較すると構造的には自伝的である。しかし、ノンフィクションでもルポルタージュでもない。しかしアルジェリアへのフランス人入植者の歴史等はカミユが大分資料をあたったようでルポルタージュ的ではある。

 アルジェでの幼年時代(リセ入学前)の沢山のエピソードが詳細かつ具体的そして生き生きと書き込まれているが、これは彼の記憶に基づいて書かれたものではない(と断定しても良い)。成人してからの近親者、友人、知人などからの伝聞をもとに創作したものであることは間違いない。

 リセ入学後の記述はそれに比べると彼の記憶によるところが増えているのだろう。近親者、親戚、友人等からの伝聞と書いたが、実際にはこぐわずかの記憶の切れ端や断片的な伝聞を膨らませて創作した部分が大きいと思われる。というのはアルジェの貧民街で余裕のない生活に追われていた彼らが老人となってカミユに後年彼の幼年時代を詳細に語っていたとは考えられないのである。

 この小説はひところ流行った言葉でいえば「ルーツ探しの旅」である。冒頭の書き出しは40歳になった主人公ジャックがフランス地方の第一次世界大戦の戦没者墓地に父の墓参りを始めてして父のことを調べる気になる。父は彼が零歳の時に戦死していている。母も父のことをなにも彼に語ったことがない。

 この冒頭には「何故」調べようと思ったかが書かれていない。意図的なものか、カミユの趣向があるのかは分からない。ただ父について何も知らないということを初めて意識したとあるだけである。それで十分なのかもしれないが。

 そういえば彼がどういう職業でどういう経歴で結婚して家庭も持っているのか、いないのか一切書かれていない。謎の人物である。いわばカメラアイである。

 

 


カミユ「最初の人間」は満蒙開拓団の物語である

2017-04-22 09:14:19 | カミユ

カミユには出版された中編以上の作品(小説)は三作しかない。異邦人(中編)、ペスト(まあ長編)、転落(中編)の三つしかないようだ。「最初の人間」は未完の小説で“まあ長編”(文庫本訳で400ページほど)である。作品の構成に幾何学的な彫琢を長期間入念に加えた作家らしく、昨今の作家のように目方(ページ数)で売り上げを伸ばそうという野卑な生き方をしなかった作家である。

「最初の人間」は死後未完の作品として残されたものを関係者(夫人、娘)などが整理したのだが、かなりまとまった作品として読める。「転落」に続く四作目の長編としてみると、四作目でようやく小説らしい作品を書いたと言える。大衆作家としてではなくて一般作家(文学者なんて言葉も有るが)として、世間一般の「小説」という概念に近い作品にしようとしていたようである。

文庫本の解説にあったが、誰だかフランスの評論家が若い読者にカミユの作品でまず読むことを進めるのが本書であるそうだが、適切なアドバイスだろう。実は私はこの作品は初読である。第二部のはじめあたりまでよんでいる。

このブログで何回かカミユを取り上げたので、この機会に手に入る作品(小説)を一通り読んでみようと新潮文庫で出ていて未読の作品を買って来た。この「最初の人間」とこれも完成した作品というよりか創作ノートあるいは「資料」とも言われている「幸福な死」である。取りあえず「最初の人間」を読んでいる。

そうそう、その時に洋書の棚も見たが並んでいたのは新潮文庫で出版しているものとパラレルだった。実は「反抗的人間」を探していたがペーパーバックの英訳はやはり無いようだ。翻訳では相当昔に出版された全集には収録されているようだが、古本や図書館は利用しない方針なので英訳でもないかな、と探してみたのだが。

その時に「異邦人」(エトランゼ)はOutsiderになっていた。この英訳の題名が多いらしい。私は前回Alienを提案したのだがね。>>


カミユのNarrativeなど(続き)

2017-04-16 10:21:01 | カミユ

カミユは形而上という言葉がすきのようだ。ペストは連帯を形而上的に描こうとしたのだろうが、重い。疾走感が文章にない。転落は連帯ごっこから落ちこぼれた人間がアムステルダムの場末のバーで見知らぬ客を捕まえて世間を洒落のめそうという趣向であるが、軽快なところがない。洒落のめそうというなら切れと洒脱感がなければいけないが、泥臭い。皮肉に洒落のめそうという意図が逆効果になっている。

サルトル等が目ざす連帯(して革命を目ざそう)というのは早く言えば徒党を組むということで、これもおよそ田舎染みている。そうして必然的に徒党を組む弊害(犯罪的行為、スターリンなどの)に行き着く。それを鋭く糾弾したまではカミユが正しかったのだが。

ところで、カミユの自動車事故死はソ連当局の仕組んだ暗殺という説を唱える人が多いという。

世間の不条理(私も定義不明のままこの言葉を暫時使わせてもらうが)には革命ではなくて個人の反抗で立ち向かうというカミユの態度は立派なものだと同感する。連帯・革命は成就すれば自由を奪う(なによりも人間の内面の)。当たり前である。自由よりもドグマつまり教条を最高位、つまり新しい神とするのだから。そして権力を握った連中がすなわちドグマの体現者となり、無謬不可侵の神となる。非人道的な独裁国家となる。現代の世界にもまだ例が残っている。

 

 


カミユの得意なNarrative

2017-04-16 09:18:40 | カミユ

それは『異邦人』の第一部のそれである。ペスト、転落、それに追放と王国に出ている短編のnarrativeは、英語で言えばdullである。あたら不得意な叙述法を使うのは惜しいことだ。

こういう捉え方が有る。異邦人は孤独が主題である、ペストは連帯がテーマである。そして転落は連帯に幻滅して没落した中年男の愚痴である、とね。

確かに分かりやすい。しかし、異邦人の主人公ムルソーは孤独ではない。セックス友達はいる。手紙の代筆をしてやる女衒の友達もいる。犬と暮らしている老人の話し相手になってやる。会社でも適当にうまくやっている。孤独ではないし、引きこもりでもない。

かれがユニークなのは、世間一般と反応が違うこと(正確に言えば世間からそう見られたということ)である。母親の葬式で涙を流さなかった、葬式の翌日女とセックスをした、喜劇映画を見にいった。というのが世間一般には不謹慎と見られた。そして裁判で一回も改悛の情をみせなかった。処刑の前に教誨師を拒否した、など。

これは孤独ではない。ライフスタイルが世間のおばちゃん達と違うだけである。

つまりムルソーは社会で「異邦人」であった。フランス語の原題ではエトランゼだとおもうが、これを外国人とか見知らぬ人と訳さなかったセンスは認められる。

昭和二十九年には映画「エイリアン」は公開されていなかったが、今では「異邦人」よりも「エイリアン」が適訳ではないか。映画しか知らないあまり教養のない読者には。つまり「異星人」あるいは「火星ちゃん」(ちょっと古いかな)というわけね。

もっとも、映画公開以前にはエイリアンというのは外国人という意味が一般的でニュアンスはより法律用語的であった。羽田空港(成田は開港前)に出入国管理にalienという看板があった。外国人専用の窓口である。今成田でどう表記しているか知らない。なにしろ半世紀以上外国に行ったことがないから。

 


カミユ「転落」のモデルはサルトル

2017-04-15 08:45:12 | カミユ

主人公であり語り手であるクラマンスはカミユである、といわれているそうだ。つまりカミユの自伝的小説であると。わたしはクラマンスのモデルはサルトルであると見る。彼が転落の前に弁護士として寡婦と孤児の輝かしい守り手としての半生を語るのはまさにサルトルの左翼革命陣営の旗手としての世間的評価であり、サルトル自身が僭称するところである。

断っておくが、これは37ページまで読んだところでの感想である。解説者の言う所とは大きく解離することを申し上げておく。

文章の片言隻句にサルトルの文章への当てこすりがある。対象となるのは、「革命か反抗か」のサルトルの文章である。また予言的では有るが、8年後サルトルがノーベル文学賞を拒否したときの弁明に酷似したクラマンスの言辞がある。カミユはサルトルならこう言うだろうということを8年前に推測していたことになる。

「あの晩」を境としてクラマンスことサルトルはカミユと同じ地底に転落する、あるいはカミユの高みにまで登ってくる、というのが筋書きらしい。これはカミユの希望だったのか。呪詛だったのかもしれない。実際にはサルトルは終生自らを高しとする態度に終始したらしいが。つまりこの小説は自分とサルトルの人生、哲学を対比的に描いたものであろう。

出版は1956年の5月という。この年の10月にカミユはノーベル文学賞を受賞している。ノーベル委員会はカミユに軍配をあげた形になっている。

 


サルトルがノーベル賞を拒否した本当の理由

2017-04-14 14:38:21 | ノーベル文学賞

物好きにもほどがあると言われるかもしれませんが、

サルトルがノーベル文学賞の受賞を拒否したことは有名です。そのとき色々と理屈をつけていますが、あれは上辺の体裁ですね。

 前回取り上げた「革命か反抗か」でのサルトルの文章があまりにも品がない、嫉妬丸出しの低級なものなのでちょっと引っかかったのです。彼の子分の文芸評論家の文章はもっと幼稚でしたが。

 カミユのノーベル文学賞受賞は1956年

 サルトルの受賞拒否は1964年、年齢はサルトルのほうがたしか八歳ほど年長。

 これ以上書くこともないでしょう。

 


出版に値しない「革命か反抗か」サルトル・カミユ論争

2017-04-13 19:00:30 | カミユ

新潮文庫の該書はサルトル(および彼の子分)とカミユの喧嘩文である。おそろしく内容が低級でこんなものを出版した新潮社の見識を疑う。

本書は四つの文章からなっている。

ア: フランシス・ジャンソンがカミユの大ベストセラー「反抗的人間」を揶揄攻撃したもの、これが『論争』の口火を切った。 

イ:カミユのそれに対する反論

ウ:サルトルが子分(私の寄稿家)の一大事にジャンソンを援護するために書いたものでカミユに対する絶交宣言

エ:再びジャンセン登場

それぞれの論文をABCDEの五段階で評価すれば、

ジャンソン E

カミユ BないしC

サルトル D

ようするにこれはローカルな罵り合いであり、作家という仲間うちギルド内での口汚い罵り合いである。これを平気で公衆(一般読者)の目にさらす執筆者、出版社の神経が理解出来ない。カミユは公の出版物で低級な揶揄に晒されたから反論はやむを得ないかもしれないが。

すくなくとも、喧嘩の発端となったカミユの「反抗的人間」に新潮社の読者はアクセス出来なければならないが、新潮文庫には入っていない。「反抗的人間」の解説の一つとしてこれをくっつけるなら多少興味をそそられるかも知れない。

「反抗的人間」の内容の是非は読んでいないから評価のしようがないが、この本は出版後大変な反響を巻き起こしたらしい。だからジャンソンがやっかみで噛みついたのだろう。

 


カミユの「ペスト」どこが不条理なのか

2017-04-11 21:06:38 | カミユ

 この不条理というレッテルはだれが貼ったのか。カミユ自身が自作に付加価値を付けるために利用したのか。あるいは文芸評論家あたりがつけたのか。何時頃から言われる様になったのか。そういうことをきちんと解説には書いて欲しいね。

まさか日本の評論家が勝手に付けたのではあるまいね。ウィキペディアによるとフランス語でabsurdeであると書いてあるから彼の地で言われ始めたのだろう。英語ではabsurdである。これから分かる様にラテン語から来ている。

古代ローマのアウグスティヌスか誰かが「不条理の故に我信ず」と言ったとか。

辞書を見ると、常識に反した、理性に反する、不条理な(理屈に合わない)、馬鹿げた、おかしな、こっけいな、などの語釈が出ている。私なんか、absurdというと、まず馬鹿げたと理解するのだが。カミユの場合はどれなんだ。どうも不条理(理屈に合わない、あるいは、根拠がない)という意味らしいんだが、「ペスト」の何処が不条理なのか私には分からない。ペストが不条理なの、ペストに攻撃され封鎖された都市が不条理なのか。そんな馬鹿なことがあるか。

ペストという疾病はペスト菌というはっきりした原因がある。そしてある条件が整うと人間社会にも蔓延する自然現象である。どこが不条理なんだ。話は『異邦人』に飛ぶが、こちらの方は無理にこじつければ不条理がテーマと言えるか。ムルソーが何故アラビア人を殺したかと聞かれ、太陽のせいだ、と答えている。これは常識にかからない。精神的に健常者なら不条理だが、精神病患者にとってはそうではないかもしれない。

カフカの審判や変身が不条理文学だと言う説があるが、こちらの方はわかるんだけどね。

それにしてもこの新潮文庫の日本語訳はひどすぎる。宮崎嶺雄という人が訳者なんだが、日本語として意味をなさない箇所が毎ページ1、2カ所あるといっても過言ではない。翻訳が不条理であるというなら、諸手をあげて賛成する。それで思い出したことがあるのだが、この人はもう故人だが戦後創元社の社長をしたそうだ。昔フランス人の書いた「黄色い部屋の謎」(たしか創元社文庫)というミステリーを読んでひどい日本語だと思ったのを経歴を見て思い出した。

原文が小説としてどの程度のものかと判断するのは難しいが、テーマの違いはあるにせよ、異邦人より劣るようだ。文章にツヤはなく、叙述は平板である。多少盛り上がるところはあるが。どうもカミユは劣化型の作家のようである。大分前に一度ペストより後に書いた「転落と追放」だか「追放と転落」を読んだがこれも異邦人に及ばない。念のためにもう一度読んでみるつもりだ。

異邦人も良いのは第一部でね、第二部はどうもグレードが落ちる。

ところで冒頭にも疑問を呈した、彼の何処が不条理作家なのかという疑問を調べようと大型書店でカミユについての評論を探した。作品論は異邦人についてばかりだった。それ以外は友人や関係のあった人の回顧録とか伝記の類いだった。 

ペストは発表後大ベストセラーになり彼の欧州での作家の地位を確立したというし、ペストの発表後ノーベル文学賞を受賞している。前にも触れたが日本でも大分読まれている。こう言う作品に感心出来ないのは私の鑑賞力が低いのでしょうか。なにその通りだって。いや恐れ入りました。

 


カミユの「異邦人」と「シーシュポスの神話」

2017-04-05 08:39:07 | カミユ

両方ともカミユの若いとき(たしか20代??)の作品である。同じ若書きであっても異邦人は読むに堪える。*神話は読むに耐えない。幼稚な衒気にあふれた文章である。

久しぶりに異邦人を読み返した。前に読んだときに読まなかった白井浩司氏の解説を今回は覘いた。そのなかでサルトルが言った(書いた)という言葉が紹介されている。

 >神話は異邦人の「正確な注釈であり、哲学的翻訳である<そうだ。そこで神話をのぞいてみたのだ。いずれも新潮文庫である。

 二、三ページ「見た」だけであるが、本当にサルトルがこんなことを言ったのかね。まったく首肯しかねる。もうすこし我慢して読めば情状酌量の余地があるのかもしれないが。

 驚いたのは神話の版数が68で異邦人と同じように「一般読者」に読まれていることである。値550円、大分批評権はあるようだが、今回は10円分ほどの批評権を行使する。

 一般的に同じ作者でも小説は若書きでも優れたものがあるが、哲学的な作品では20代、30代で読むに耐える作品はほとんどない。神話に限って言えば、やたらに有名な作品や哲学者への言及、引用が多い。いちじるしく文章の緊迫感を損なっている。それに適切でもないようだ。ようするに衒っているのである。カミユの学士論文はアウグスティヌスであった。つまりキリスト教形而上学の確立と新プラトン主義の関係をテーマにしたらしい。だから学部学生としては多少知識があったのであろう。

 引用参照が多い文章は非常に見苦しいのみならず作者の主張がどこにあるのかわかりにくい。

 


Z(10)章 明滅する留守番電話

2017-04-05 06:34:09 | 反復と忘却

日が落ちて市中徘徊から帰ると薄暗い室内で留守番電話が点滅していた。三四郎は嫌な気分になった。留守番電話にはろくなメッセージしか残っていないことが多い。それにたいていの人間は言語明瞭、意味明晰な伝言を残すことがない。慣れていないこともあるだろうし、どう吹き込んだら聞き取りやすい伝言が残せるか配慮して話すような人はまずいない。なかには無音で電話線の向こうで息をひそめているような不気味な正体不明の電話もある。

 平島からだった。高校時代の同窓会の幹事になったので連絡をくれないかというのである。かれとはもう十年以上会っていない。コールバックすると女性が出た。名前を言うと平島に代わった。奥さんなのだろう。「どうも、久しぶりだね。同窓会の幹事になったっていうけどご苦労様。ここのところ、同窓会の通知も来ていないけど、また同窓会でも開きたくなる年齢になったのかな」

電話の向こうで一瞬戸惑ったような沈黙があった。平島が怪訝な声を出した。「いや毎年続けているよ。もっともここ数年は君の居所が分からなくて通知が受取人不明で戻ってきていたらしい」

 「たしかにオヤジが死んでから実家は引き払ってしまったから連絡は付かなかったんだろうな。しかし、その前から連絡がなかったような気がするな。もっとも俺は同窓会には出たことがないから気にもしていなかったが、君にそういわれると変な気がするな」

「それは変だね」

「もっとも、大分前からオヤジの家は出ていたんだけどね。だけど実家に届いた郵便物は転送してもらうことにしていたからな」

「フーン」

「まあ、いいや。どうせ出るつもりはないんだから。せっかく幹事になった君には悪いけどな」

「どうしてさ」

「君も先刻ご案内のように俺の高校時代は暗黒時代だからな。高校三年間で話をしたのは君だけだったから。同級生の名前なんて一人も思い出せないよ。そんなところへ出て行ってもしょうがない」

「なるほどね」

「ところでこの電話番号がよくわかったね。どうやって調べたの」

「卒業名簿にある電話番号にはつながらないので君の会社に電話したんだ。そうしたらそういう人はいませんていうじゃないか。途中退社したらしいな」

 「そうなんだ」

「どうして」

「ま、色々あってね。電話じゃ簡単にいえない」

「それで今は何をしているの。脱サラで起業したのか」

「まさか、毎日市中を徘徊しているのさ」

「なんだって」

電話の向こうでは子供の騒ぐ声がしている。

「永井荷風の日和下駄って読んだことあるか」

「あるよ。そうか市中徘徊、市中探索か。優雅でいいな。毎日が日曜日というわけだ」

 「君はどうしているんだい。ずうっと大学にいるのかい」

「そうなんだ」

「大学の先生か。すごいな。孜々として研究に打ち込んでいるわけだ。たしか心理学から哲学に専攻を変えたよな。そのままなのか」

「そのまま」

「その後は浮気もせずにか」

「そう、愚直にやっている。同窓会はともかく、一度会いたいな」

「そうだな、そのうちに会いたいね」

平島は思い出したように言った。「それでさ、どうして君の電話番号が分かったかという話だけどね」

「そうそう、どうやって調べたんだ」

「会社に電話したらそんな人間はいないというだろう。もしかしたら、と思った。君のことだから会社を辞めたんじゃないかなって。君が普通の会社に就職したと聞いた時にもえーっと思ったから、君なら嫌になって辞めたんじゃないかと思ったのさ」

「なかなか論理的だな。正解だよ」

 「それで俺の大学の後輩で君の会社に入社したのがいるんだ。そいつに聞いたらいろいろ調べて、やはり退社したということが分かった。退社時に登録していた電話番号を聞いて電話したらこれも繋がらない」

「何回もひっこしたからな」

「それでもう一度後輩に電話したら、君が会社の従業員持株会に入っていたのが分かった。そのほうの記録を担当の証券会社に問い合わせたら君の連絡先記録が残っていたというわけさ」

 「わかった。しかしもう少しするとまた引っ越しをする予定だから、そのあとだったらわからなくなっていただろうな」

「よく引っ越すね」