穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「善の研究」第二編実在はアンチョコになる

2014-05-30 08:59:20 | 書評
西田幾多郎は序で第二編から読めと書いている。評者の多くも第一編は分かりにくいと書いている。

第一編は純粋経験と題されている。タイトルからしてW・ジェイムズの純粋経験を想起させる。この本が厄介な本でひねくれていて分かりにくいのは定評がある。

で第二編から拾い読みをした。パラリーディングという。パラリンピックではない、パラパラ・リーディングである。この章(編)は主としてドイツ観念論各派の思想を簡単に要約して批評しているところが多い。おおむね、適切でなにより簡潔にまとめているのがいい。

あれはどういうことだったかな、なんて思った時に記憶を確かめるアンチョコとしていい。

で、今は第三編「善」の最初を読んでいる。倫理学のパートなんだろうが、どうも心理学的(その正当性は不明)な記述が多くて首をかしげるところが多い。あきらかにプレゼンテーションが間違っているのではないかな。もっとも最初の数ページしか読んでいないが。

哲学書の記述は論理的(にみえる)記述か、説得力のある記述が望ましいが、どうも乱暴な牽強付会が多いようだ。






見つけはしたぜ、E・ハルトマン

2014-05-29 07:33:37 | 書評
ドイツ観念論ゲームのアルゴリズムを書いているという話をした記憶があるのですが、E・ハルトマンというピースが埋まらないので停滞していました。

大抵の哲学史に名前と1、2行の紹介があるが、「無意識の哲学」の著者としてしかのっていない。ヘーゲルの弁証法とシェリングの積極哲学の影響があるとしか書いていない。紹介するのがよほど難しいのでしょう。

インターネットで調べると森鴎外との関連でいくつかヒットする。鴎外が坪内逍遥にふっかけた「没理論論争」で鴎外が「ハルトマンを読め」とぶっきらぼうに吐き捨てたと書いてある。もっとも、鴎外自身もハルトマン本人の著作をつぶさに読んでおらず、もっぱら当時の注釈書に頼っていたと書いている記事が多い。

見つけましたぜ。「善の研究」岩波文庫107ページ。すこし長くなりますが引用します。
「次に無意識と意識の区別に付いて一言せん。主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となる者が意識内容として現れるのである。思惟について見ても、また意志について見ても、真の統一作用そのものはいつも無意識である。
中略
ハルトマン(E)も無意識が活動であると言っている様に我々が主観の位置に立ち活動の状態にあるときはいつも無意識である。」

全文がハルトマン紹介ではないが、この西田幾多郎の理解が正しいとすると、ハルトマンの思想のおおよそを類推することが出来る。

これでアルゴリズムを完成させていいでしょうか。

&: 鴎外の言葉として19世紀は鉄道とハルトマンの哲学を齎した、というのがあるとか。出典不明、インターネットで読むと、談話かなにかの子引き、孫引きであるようだ。鉄道と人気哲学者の組み合わせが面白い。それだけ、入れこんでいた鴎外であるが、どの程度の理解があったのかどうか。




何を今更「善の研究」

2014-05-28 09:18:59 | 書評
OCNブログ人が無くなるそうですね。驚いたな。さてどうするか。11月だそうでそれまでに考えましょう。

驚かせるといえば西田幾多郎「善の研究」が初読です。岩波文庫版でパラパラやっています。大正年間、東大哲学科*の数人が京都大学の西田幾多郎の講義を聴きたくて連袖して京都大学へ転学した事件がありました。私の大叔父がその学生の一人だったわけで、もっと早く読まなければいけなかった訳ですが、どうもタイトルが良くなかった。

「善の研究」なんて若者には苦手ですからな。悪の研究ならきっと読んでいたでしょう。悪の実践なら即飛びついていたことでしょう。

それに科学哲学なんていう「当時の」ゲテモノに飛びついていた私は、ラッセルやウィトゲンシュタインが「たわごとが詰まっている」と悪罵する形而上学などに近づこうという気がしなかった訳です。

* 聞いた話ではっきりと記憶していなかったが一高から京大だったかもしれない。いずれにせよ、当時の進学コースでは異例であったそうです。


アカデミズムという苦界に身を沈めなかった理由

2014-05-16 09:29:50 | 書評
最初の頃のアップで大学を卒業するとアキンドの丁稚になったという話をしました。どうして科学哲学という道を進まなかったということで、俗世間を捨てて終世清貧に甘んじて(表現も実態もout-modedだと思うが)研究というか勉強を続けなかったかということで、要はそれほど強烈な志向がなかったということに尽きるわけですが、、

たしかに、物珍しいというか、奇麗な表現をすれば最先端の分野と言う魅力はあった。なにしろ翻訳は全然ないし、原書は北沢にも丸善にも全然ない。注文して数週間待たなければならない。数ヶ月かかったかも知れない。もう記憶がうすれているが。船便しかなかったし、アマゾンもなかったからな。

科学の所詮ははしためではないかと漏らしましたが、今興行中の大相撲の世界にたとえてみました。

親方ではない。力士でもない。主役は科学者で彼らが主役の相撲取りです。行司か、ちょっと似ているかな、いやそうではない。科学者の評価というのは権威ある科学者がおこなう。ノーベル賞の推薦委員に科学哲学者はいないでしょう。

わたしは「呼び出し」だと思うんです。呼び出しはキをうったり、力士の名前を呼び出す他に、土俵整備の仕事がある。なんとなく、あれを連想します。とくに各取り組みのあとで(あるいは次の取り組みの前に)土俵の砂をほうきで丁寧に掃くでしょう。昔はアナウンサーが蛇の目に掃くなんて言ってた記憶があるが、違ったかな。「蛇の目を付ける」だったか。アップが終わったら早速インターネットで調べてみよう。メモメモ。

土俵の回りを掃くのは絶対必要です。力士の脚が土俵を割ったかどうかの決め手になります。ビデオ判定が無かった時には特に決定的に重要だった。

それに比べると、科学哲学による土俵の整備は、絶対的とはいえない。なんといっても後追いだし、どれだけ科学研究に貢献しているのか。科学研究の初心者の教養には役立つのかな。




哲学用語の翻訳

2014-05-12 09:12:14 | 書評
センチメンタル・ジャーニーが飛び火して「天敵 形而上学」というよりかは観念論などを拾い読みしています。

哲学用語というのは日本語で妙なものが多い。これは第一には明治時代に翻訳されたものが難しすぎるんでしょうな。

当時の教養人は古典漢籍の素養が深かったから哲学用語の翻訳はほとんど漢籍に出典を求めることが出来るでしょうが、現代の無教養者には一読して昔の読書人のようにはピンとくるところがない。意味が分からない。

原文では日常用語であることが多い。当たり前でしょう。すべての概念は日常用語に最終的に還元されなければ意味を共有することが出来ない。自然科学でも最終的には日常生活のセンスデータに還元できなければチンプンカンプン(この語源は珍文漢文だと思うんですがね)である。

で、西洋哲学では珍妙な訳に出会ったら原文を確かめる必要が有る。すくなくとも他の欧米語に訳されたものを見るべきである。

一例として表象という言葉がある。これがやたらに出てくるがピンとこない(わたしには、ですよ)。これは英語でいうとpresentationとある。一読了解である。

もっとも、プレゼンテーションといっても、行商人がサンプルをプロジェクターに写して口上をのべるあのプレゼンテーションではありませんよ。小保方さんがメード喫茶みたいなコスチュームで行う発表会とも違いますがね。

もう一例。ヘーゲルの『法の哲学』に頻繁に出てくる訳文に「自己のなかへ折れ返る」というのがある。中央クラシックです。訳者は1910、20年代生まれ(共訳)だから「日常用語」を心がけたんでしょうか、それにしても珍妙だ。緒論(イントロダクション)だが、これはかなりの部分がいってみれば「思弁的心理学」談義である。意志だとか
衝動だとか。その当時19世紀初頭には心理学なんて無かったんでしょうね。すくなくとも実験的心理学は。

昭和平成にはいると漢籍の素養は訳者にはないから、日常用語で訳そうと工夫をするらしいが、これがおよそセンスがないものが多い。現象学だとか、ポストモダンだとかいうものの翻訳には噴飯ものが多い。

さて、「自己の中へ折れ返る」ですが、心理学的な記述を連想させるから一種の自閉症的現象のことかな、なんてね。それで19世紀終わりにイギリス人が訳したのをみると、かならずしも統一していないようで、場合に応じて訳しているようだ。若干例をあげると;

secluded I

abstracted from everything

つまり自閉症的なニュアンスなんだな。自分の中に閉じこもる、すべてから身を引くといったように訳しているようだ。どう考えても、日本語として「自己の中へ折れ返る」というのはおかしい。それこそ、ラッセルやウィトゲンシュタインがいうように「たわごと」になってしまう。












唯名論的科学哲学 ?

2014-05-09 22:44:02 | 書評
前回書いた知の形而上学と言う妙な言葉が気になり、とうとうインターネットで見た本を読みました。物好きなものだ。

正式の書名は『科学哲学入門 知の形而上学』中山康雄著です。目次で形而上学に関係ありそうなのは

第二章 1 ウィトゲンシュタイン『論考』の形而上学

第七章 1 形而上学的実在論の検討

で、その辺を読んだ感想です。

考えてみれば三階建てなわけです。

一階が科学

二階が科学哲学

三階が科学の形而上学

このようにとらえれば、メタ、メタとあがって行って最上階がもっとも理論的というか理念的な部分ということになると捉えればいい訳である。科学の形而上学があっていいわけだ。そしてもっとも基本的(三階は一階とひっくり返してもいい)なところに突き詰めて行けばどうしても唯物論ではいかなくなる。

それで、気が付いたが、科学哲学が形而上学を目の敵にしたというのはウィトゲンシュタインも言っているし、いろいろな物の本に書いてありますが正確には観念論のことでしょう。たしかラッセルも同じようなことをいっていたと記憶しています。実際は当時西欧で猛威を振るっていたヘーゲルを筆頭とするドイツ観念論を敵対視したということでしょう。

で、科学哲学の形而上学としてウィトゲンシュタインの実在論、パトナム、サールの実在論が紹介されています。それぞれ内容にバリエイションがあることを解説してくれます。科学活動が実在論的前提なしで行われることは考えられないので、すべて実在論のバリエイションであるのは当然です。

著者の中山氏はそれぞれの説の欠点を批判してこれぞ私が考えた一番正しい形而上学だというのを出してくる。いわく、唯名論的世界概念、これも形而上学の一種なんでしょうが、名前からは形而上学の文字が消えている。意図的なのかどうかわかりません。

いっていることは分かるんですが、他の人と決定的な違いが本当にあるのかどうか、という疑問を感じた。それと唯名論的というネーミングが妙だ。唯名論というのは中世の普遍論争で実念論(実在論とも言う)の反対概念でしょう。近現代では観念論と同じようなニュアンスで捉えられる。

中山氏の説は実在論の一種ではないだろうか。









科学哲学は知の形而上学 ??

2014-05-08 10:17:36 | 書評
前回のアップを確認する意味でインターネットを漁っていたら妙な記事が多い。記事がおかしいのか、私がおかしいのか。

昔は形而上学と科学哲学は天敵だった。てっきり今でもそうだと思ったが。すくなくとも野家先生の「科学の解釈学」を拾い読みする限りこのセンチメントは変わっていないと思ったから、その前提で最近何回かの記事を書いたのだが。

科学哲学者の書いた「知の形而上学」という本まであるらしい。インターネットでも科学の形而上学が科学哲学だというのが非常に多いので驚いている次第。ちょっと理解に苦しんだので前回の補足という意味で書きました。

私の前提は「科学哲学者」と「形而上学者」は天敵という理解になっております。

なお、じゃあ彼らはどういう考えなのかと記事をいくつか開いてみましたが内容のある記事はありませんでしたので、どういうことなのか確認出来ませんでした、残念。


最先端科学は根本において形而上学となる

2014-05-08 09:15:10 | 書評
素粒子理論や天文学などの最先端自然科学研究の根本は必然的に形而上学的あるいは第一哲学的になる。

この問題は下記のような分野で問題をおこす。

*観察者の問題、観察者の観測が対象データに変化をもたらし、そのデータの変化を固定する。データの振る舞いから伝統的な意味での因果関係を引き出すことができない。統計的なアプローチしかできない。(量子力学)
ここから相補性という形而上学的概念が創案された。

*観察機器の問題、この問題に触れている例はあまり見ないが、いずれにしても超微細、超巨大(天文学)対象の観測は日常的なセンスデータに頼ることは出来ず、超高度な科学技術で作られた観測機器を経由する。データへの干渉要因は考えるべきだろう。(ある意味できわめて人為的に「つくられた」データ)。これらのデータはいずれにしても日常のセンスデータに還元しなければ我々には利用出来ないが、その過程でなにがおこっているのかの検証。

*仮説あるいは理論の空隙を埋めるための形而上学的概念

量子力学における相補性の概念などがこれにあたる。また、天文学でビック・バンとかブラック・ホールなどという考えは考えてみれば荒唐無稽な形而上学的概念と言える。ビック・バンはカントが指摘した形而上学でしか応えを提供出来ないはずの「世界の終わりと始まり」に関するアポリアである。

ブラック・ホールなど自己を否定する論理的矛盾でしかなく、まさに形而上学的奇形である。ウィトゲンシュタインだったらなんと言うか興味が有る。最近ではこれを正当化(証明)するために、ブラック・マター(暗黒物質)が発見された(高精密度の観測機器で)という報道があるがどうだか。

といって、最先端科学が形而上学に依存する訳ではなく、研究者がアポリア、パラドックス脱出のために自発的に考えた概念が形而上学的になるということである。






天敵「形而上学」

2014-05-07 20:50:04 | 書評
科学哲学に取って形而上学は天敵でした。今でもそうだと思いますが。それなのに、形而上学に学べ、なんてとんでもないことをいっちゃって、ただじゃ済みそうもありません。

ウィトゲンシュタインの口吻などを聞いていると、まるで世の中の形而上学すべてを殲滅しなければいけないという剣幕でした。当時の論理実証主義者や分析哲学者の目標も間違いなくそこにあったでしょう。

一方、形而上学者のほうはどうだったでしょうか。無視でした。軽侮のまなざしを投げかけてね。で半世紀後はどうなったでしょうか。形而上学の一掃は無理でした。しかし、科学哲学の認知度は非常に高くなりました。哲学業界での縄張りも飛躍的に広がりました。

大型書店に行くとよく分かります。アカデミズムの世界では教員の数とか、学生の数とか、論文の数などがおそらく当時に比べて飛躍的に増大しているでしょうが、私はアカデミズムをはなれているので、書店の売り場面積で計るより他に無いのです。

大型書店の哲学関係の売り場で分析哲学、今は論理実証主義はないので、の売り場は30パーセントかもっとありますかね。ヤクザの世界で言えば、形而上学の大親分に殴り込みをかけた新入りが一定のシマを手に入れて押しも押されもしない大一家になったというところでしょう。

少し寄り道をしてしまいました。本論は次号以下で。



「形而上学」薬のさじ加減

2014-05-07 09:45:09 | 書評
私の叔父は医者だった。彼が子供の頃祖父から聞いたという。祖父は漢方医であった。

薬の処方は多すぎても少なすぎてもいけない。また、時期が非常に重要である。その時々によって与える薬が違うし量も違う、と。注:

叔父は勿論西洋医学を学んだが、祖父の家訓を守って、工夫したので「名医」と言われていた。こんなことを自慢することはないが、当面の話題と関係があるので。

田舎の小さな村医者だったので、患者の薬は祖母が作っていたそうだが、祖父が「それじゃ量が多すぎる」と小言をいうと、侍の家から嫁いできた祖母は祖父が吝嗇だと思ったそうだ。

先付けでさわりのところだけ言うと、

1・近代科学の誕生は形而上学(含む、錬金術、アストロロジー)なくしてあり得なかった。

2・現代の科学は科学哲学の助けがなくても、「それでも」動く、じゃない、進歩する。

しかし『形而上学』薬の処方は難しいが現代でも十分に役に立つだろう。

私に言わせれば、パラダイム変換などは、むしろ形而上学処方のチェンジというべきである。

注:最近高血圧の定義が見直された。これで血圧降下剤の処方が大幅にかわる。私は統計学に無知な厚生省や大学医学部の行う疫学調査など信用出来ないと思っていたが、ひとつ実証された訳である。




落とし処をさぐる

2014-05-07 08:12:08 | 書評
前回はどうも大変なことを口走ったようですね。「形而上学に学べ」なんて。

頭を抱えております。これにどう落とし前、元へ、落とし処を見つけるか。新作落語の創作になるかもしれませんが、次号でなんとかしましょう。訂正や撤回はしませんよ。




読んで面白いのは形而上学

2014-05-06 17:39:33 | 書評
当時は分析哲学とか論理実証主義なんて言っていたと思いますが、ちょっとかじっただけで、商人の丁稚になったものですからその種の本とはご無沙汰していましたが、時々は暇つぶしに思い出したように読んだものです。

不思議なもので、分析哲学の類いには手を出しませんでしたね。第一面白くない。やっぱりほらを思い切って吹く形而上学の方が面白い。最初はショーペンハウアーでした。文章が分かりやすいし、名だたる名文家ですからね。しかし形而上学でも再読、三読に耐える本は少ない。

そのうちに腹応えがいいというか腹持ちのするヘーゲルなんかを読みました。よくもまあ、ひねくれた文章を書くなと感心するし、マッコウクジラ並みのほらを吹くので退屈しない。おおぼらのテントを張ると言えば、まずヘーゲルと思うんですが、こういうのが典型的な体系的な哲学というんでしょうが、「科学の解釈学」で野家さんが紹介しているローティの分類でヘーゲルは体系的哲学者に入っていない。あんなほら吹きは哲学者ではないということなのでしょうか。

ヘーゲルの面白さは、どんでん、どんでんとどんでん返しでいくところです。正、反、合というやつですな。それと、彼のいわゆる論理学をなんにでも適用しちゃう、その腕力ですね。これも感心する。

さて、科学の生産性に貢献するというか、推進エンジンには分析哲学はなりません。その証拠にここ一世紀近くの歴史で科学哲学が科学研究に影響を与えた事例がありますか。

あるいは最前線の自然科学研究者がもろもろの科学哲学に示唆を求めたことがありますか。

哲学と科学の関係で生産的な影響を与えるのは形而上学しかないとおもいます。次回はそのあたりを述べましょう。

仮に現場の自然科学の研究者が科学哲学の話を聞いても、「なるほど、ごもっともですな」で終わりではありませんか。




小保方晴子問題をどう考えるか

2014-05-06 08:24:10 | 書評
『科学の解釈学』という考え方は自由奔放な歯止めの利かない危うさがあると危惧する。

STAP細胞研究をめぐる騒動をどう見るのか興味がある。意外に平凡な(伝統的な)考え方を示されるのではないかな。野家氏のファンであるらしい、東北大学教員の生物化学?専攻の女性(名前失念)がテレビのインタビューで小保方氏を激しく非難していたのを思い出して、上記のようなことを考えた。

要するに具体的な例、場合を示さないと読んでいる方では不得要領ということです。一例として小保方現象についての見解に興味を持ったわけです。

データはないが出来たのを観た(ありまーす)、見ないの水掛問答はまさに、科学の解釈学で言う観察者と観察対象の間のゆれ、不確定性問題と関連するかも知れない。勿論彼女の見間違い、思い込み、意図的な主張という解釈もあるでしょうが。それをどう判別するのか。

とにかく、非常に生硬な議論のような気がする。野家氏が30年以上暖めてきた思想らしいが。

さらりとセンチメンタル・ジャーニーをするつもりが以外に長引いている。七つ下りの雨はやまず、か。意味不明?
解釈してください。




「解釈」と「テクスト」、二つのウィーク・ポイント

2014-05-06 06:50:15 | 書評
『科学の解釈学』、いままで読んだところでは『解釈』と『テクスト』というのが二つの概念が弱点であろう。著者の立場から未熟な読者である私を批判すればそれらが「つまずきの石」ということになるのであろうが。

そして、この二つの言葉が本書の「売り」であるようだから、ことは微妙であるといわざるをえない。

ウィキペディアで「解釈」の項を読んだが、なかなか要領よくまとめている。やはり思ったように時代をへだて、異文化に属する聖典、法文などの理解の手段としての歴史があるようだ。科学哲学、科学研究に応用されたとは(まだ?)書いていない。哲学文献解釈には応用されるようなことは書いてあったな。「自然という神の書いたテクスト」解釈に使われたとは書いてなかった。

とすると、これは野家氏の独創的な理論なのだろう。

ウィキペディアによると、ドイツ語ではHermeneutikでギリシャ語のヘルメネウティケーが語源だそうだ。神の意志(神託)を民に分かりやすく伝えるということらしい。

とすると、解釈する人(野家氏によれば1960年代以降の科学哲学者)は神託を噛み砕いて分かりやすく人々に告げる巫女ということになる。イエス・キリストも「解釈学者」ということになる。勿論イエスは「神の子」ではあるが。

新約聖書マタイ伝に、イエス喩えならでは何事も語り給わず、という趣旨の言葉がある。まさに「たとえ」は解釈伝達の強力な手段である。あわせて、思い出したが、新カント主義者ファイヒンガーの(as if、アルツ・オプ)の思想も神託解釈の極めて有効な手段だろう。

「神の書いた自然というテクスト」を解釈する手段としては。

まだ、『科学の解釈学』の90ページまでしか読んでいない。嗚呼。



自然というテクスト??

2014-05-05 22:49:55 | 書評
引き続き、「科学の解釈学」について。小説の書評でもそうですが、私の書評は現在進行形ですので、読みさしの途中でどんどん感想を述べます。全部読んで、熟考して、要約して、問題点を整理して、必要な箇所は再読をして確認したうえでまとめて書くというような入念な作業では有りません。

さて、この本、どこまでが諸家の説で、どこが著者の意見か腑分けが難しい。どうも、全部が他人の説の紹介ではないようですし。

いま、たまたま「テクストとしての自然」という章を読んでいます。ガリレオやニュートンが「自然という書物を読む」と言ったといいます。よく分かります。続いて野家氏は「自然という書物」から「自然というテクスト」を読むというのが新しい流れだと言うのですが、ここが分からない。

書物というのは権威のあるもので、神が書いた自然の書物を謹んで押し頂いて読む、というのではなく、各読者とテクストとの有機的反応と言うか、相互に影響し合う作業だと言うことでしょうか。ウンウン唸りながらこじつけたんですが、あたりですか。

テクストと書物の違いの説明は前の章を読み返してみましたがないようです。いきなり出てきてびっくりしました。もっとも、見落としている可能性もあります。こういう場合に事項索引があると助かります。

小説などの文芸評論でテクスト論という説があるように、間接的に目にしたり、耳にしたりすることがありますが、自然科学や科学哲学の分野でもテクスト論というのはあるのですか。この本を読む時には当然そんなことは理解している前提だ、と言われると恐れ入る訳ですが。

そういうことが不案内だからこの本を買ったわけですが、、これはアポリアの一種ですね。