穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

夏目漱石「坑夫」について

2009-09-06 22:30:33 | 書評

夏目漱石の小説「坑夫」の主人公には名がない。人からは「お前」「あなた」と呼ばれる19歳である。生まれは東京、江戸っ子である。漱石の「坊ちゃん」の主人公と瓜二つである。ただし、こちらはネガだ。

れっきとした良家の坊ちゃんである。頑固で一度決めたらどこまでもやせ我慢する。田舎者を極端に軽蔑する、「坊ちゃん」のぼっちゃんと瓜二つである。

複雑な女性関係から逃げ出そうと東京を「駆け落ち」する。そのころは別に駆け落ちは二人でしなければならないものでもなかったらしい。

もっとも、「複雑な女性関係」とは単純でせっかちな主人公がかってになやむもので実態は他愛のないものらしい。肉体関係なんてもちろんない。

無考えに家を飛び出し、夜通し歩きとおして千住あたりまで来たときに、ポン引きに誘われる。ポン引きといっても今で言う「人材派遣斡旋業者、個人営業」であって、べつに風俗に家出少女をあっせんするばかりではない。

このポン引き氏、こちらには長蔵という名前がついている。交通の要衝で張っていて、家出人、だましやすそうな小僧、ふらふらしている食い詰めものに目をつけて足尾銅山に坑夫として売り飛ばそうというのである。

死んでもいいやと暗い所を目指していた坊ちゃんはたちまち長蔵にくっついていく。長蔵はさらに田舎者一人、得体のしれない子供一人を途中でリクルートして銅山に連れて行く。

物語は実質二日の出来事を300ページ弱を費やして語る。あの、さまざまな事件が起きる「ぼっちゃん」よりも長い小説ではないか。

> 新潮文庫の解説氏は「虞美人草」へのアンチテーゼだというがよくわからない。主人公が悩んだ女性関係が「虞美人草」と同じパターンだということらしい。

この小説は一種のイニシエイション小説ともいえる。19歳の少年がさまざまな困難、経験したこともない社会の底辺、地の底に放り込まれて一つ一つ困難をやり過ごしていくという青年の通過儀礼ともとれる。昔で言う青年団の肝試しだ。

一種と洞窟冒険小説でもある。二日目は案内役に連れられて坑道を下へ下へと生命の危険にさらされながら下りていく。そして帰りには案内役においてけぼりにされたにもかかわらず自力で帰還する。

世の中に地底冒険小説、洞窟探検小説というのがある。日本にはめぼしいのはないが、英米などにある。それに比べてもこの漱石の小説の後半、坑道探検小説は迫力がある。何をやらしてもさすがは漱石の感がある。

地底探検小説として読んでも十分に読み応えがある。とにかく、ほかの漱石の小説に比べてかなり色合いが違う。もっとも主人公の性格は「ぼっちゃん」そのものであるが。

村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーワールド」にも地底冒険小説的な章があったっけ。量、迫力ともに漱石には劣るが。

つづく


村上春樹とハリー・ポッター

2009-09-05 19:45:06 | 村上春樹

村上春樹がどこかの座談会で総合小説が書きたい、と言っていた。さまざまな人間が出てきて総体としてその時代の社会が浮き彫りになるような小説(彼の言葉は失念、小生がそのように記憶しているというだけだが)、が総合小説なんだそうだが、彼は一つも総合小説を書いていない。

いろいろなジャンル、とくにエンターテインメント系のサブジャンルをごった煮として使うという点では、まさに総合小説だ、彼の小説は。

ただ、ホラーならホラー一筋というわけではないのだね。海辺のカフカなんかもナタカさんのパートにホラーっぽい話があるが、ほかにも読んでいてスティーヴン・キングを思い出すところが多い。

ほかの人はどうかなと、グーグルで「村上春樹、キング」とやるとやはりみんな感じるんだろうね、類似を、相当の数がある。

1Q84とハリー・ポッターの売上の比較がニュースになるが、内容も酷似している。ファンタジーという点では。別に各編終りがあるわけではなくて、カトリックの女房が毎年こどもをひりだすように延々と、あとから後から出てくるところも同じしかけだ。

SFっぽいパートもある。パーカーの初冬を思わせるところもある。

やはりグーグルで「村上春樹、ハリー・ポッター」で検索すると結構な数ヒットする。村上春樹はパッチワークの得意な仕立て屋さんというところかな。ヴォネガットとの比較も言われているしね。

純文学だっていっているけど、何なんだろうね。ま、並の作家より大分歯ごたえがあるのは事実だ。

>> 彼の小説は純文学でもいいが、本質はエンターテインメントだ。わたしなんかがユニークに感じるのは、二人のまったく交わることのない視点が東経10度と150度くらいに離れて並行して話が進行していて、きまって小説の真ん中あたりで二つが交差する。すべての経度が極点で交わるように。ま、スタイルというか、形式美というか。

もちろん、この手の手法は先人の例があるのであろうが、彼の場合は実験的に意欲的にトライして成功しているようだ。その努力は評価してもよい。ジャンル的にはごった煮的であり、その総合はエンターテインメント的なところである。

作中に頻繁に小道具として出てくる哲学的言辞やギリシャ悲劇の解釈は危なっかしいところが多い。オカルト、セックス・マジック、無意識(フロイト、ユング)に関する知識はいずれも新書で手に入る通俗入門書の域を出ていない。

ついでだが、「海浜のカフカ」に出てくる夏目漱石「坑夫」の解釈はおかしいね。もっとも作中人物大島さんの説ということなのだろうが。これが作者の解釈とすれば浅い。

ひと月前までは村上春樹なんて知らなかったのに、振り返ってみるとずんぶん書いたね。社会ニュースネタから入ったんだが。

おっと、間違えた、ロング・グッドバイは読んでましたよ。それでニュースになったときに読む気になったんだね。


村上春樹結論を出すのはまだ早い?

2009-09-04 21:06:06 | 村上春樹

海辺のカフカを100ページほど読んだところで、文章に1Q84よりよほど艶があると書いた。

さらに読み進んでほめすぎかなと思い始めた。一巻の終わり近くでオイデプス王が出てきてゲンナリだ。エディプス・コンプレックスさえ出せば恰好がつくと思うのは三流の作家だけかと思っていたのにね。いまさら芸のないはなしだ。

筆はたしかに「世界の終り、」ころに比べると年の功で軽くなっているが、中身がない。世界の終り、は苦労して書いたらしく生硬なところはあるが、とにかく一つのプロトタイプを出している。

ユング言葉で言えばアーキタイプの試みがあった。そこで評価だ。ドストエフスキーに星五つをつけたから、いくらなんでも、村上氏に星五つはむりだ。そこでこうなる。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 星四つ

海浜のカフカ 星三つ半(上の終りまで読んだところの評価)

1Q84 星三つ

念のために言うが、エディプス・コンプレックスすなわち人間はだれでも自分の母親とセクシャル・インターコースをしたいという潜在的願望を持っている、それがソフォクレスのオイデプス王のテーマだというのはジムクンドのフロちゃんの解釈だ。

そんなこととは夢知らず、運命のいたずらでそれとは知らずに予言どおりに結果的に父親を殺し、母親と結婚して子供まで作ってしまった、という宿命を悲劇として描いたのがソフォクレスであり、フロちゃんの解釈とはまったく関係ない。大体フロちゃん流のいやらしい妄想では悲劇でもなんでもなかろうが、喜劇だ。あるいは変態性欲者のポルノに貶められてしまう。

父親とは知らず街道で行きあったときのトラブルで相手を殺すわけ、そして母親とは知らずに結婚するのだから。よく読みなさいよ。まとも解釈できる人間がほとんどいないのは嘆かわしい。


村上春樹における匿名性と講釈過多

2009-09-03 19:02:12 | 村上春樹

相変わらず社会現象として取り上げているのだが、

村上春樹の大きな特徴は匿名性、あるいは記号性であらうか。主要人物になるほど匿名性が高くなる。どうでもいい端役にはしっかりと浮世の通り名をつけている。場所についても地名の匿名性に特徴がある。いつでも、どこでも、ということでもなかろうが、通約するとそう言えるだろう。

意図的なものだろうが、普通はそうすると非常に書きにくい。そこを腕力にものを言わせて押し通してしまう。筆力か。

匿名性という言葉は使っていないが、評論家連中も当然この特徴に注目していろいろ言っているようだ。なるほどなというのもあり、へえ、そうかい、というのもあるという具合。

作者の狙いをオイラが僭越ながら予測すると、意図的に読者夫々の解釈にゆだねるため、また物語に多義的な解釈を可能にするためだろう。あるいは重層的な意味をもたして、読者に投げかけるためかな。一度おいしい、二度おいしい、というわけだ。注

その代わりというか、代償行為なのか、モノに対する名前がくどすぎる。これが無駄のない「必然性」なのだろうか。衣装について描写するときにやたらにブランド名をつける。わたしはそういうことに関心がないから本当のブランド名なのか、いい加減につけているのかわからない。いい加減につけているならしゃれっ気があると前に書いた。

男子専科かドレスメーカー的知識をひけらかしているだけなら嫌味以外のなにものでもない。

カクテルやアルコールの名前もカタカタの羅列だ。どんなグラスを使ったかもしっかりといちいち書き加えている。格調高い酒の飲み方を教えているのだろう。これはバーか喫茶店のマスターという経験が生きているにちがいない。

間違えたりすると嫌味できざな客にどやしつけられるからね。真剣勝負だ。バーテンダー稼業もつらい。

それから音楽(レコード)を一つを聞いた、という場面でもやたらに細かく書く。あれは何かなレコードの商品番号というのかしら、レコードの商品名を特定するために、数字と記号の羅列が延々と続く。本で言えばISBNナンバーをかならず付記するようなものだ。不思議なのはこれをやるのはレコードだけなんだね。本の場合は付けなくても気にならないようだ。

これも音楽喫茶のマスターをしていたときに、客のリクエストを処理するときの経験をひけらかしているのかな。

本に対する描写もあるんだが、その時にはISBNナンバーは書いていないんだね。どういうことかな。

とにかく、本にしろ、レコードにしろ講釈が過多だ。もっともこれがいいんだろう。読者には。ベストセラーの一つの条件なんだろう。

それで思い出したが、私の嫌いな「国民的作家」に司馬遼太郎というのがいる。これが一ページ書くと二、三ページ講釈を垂れる。煩わしいだけだし、ホントかなというのが多いのだが、「国民的読者」にはこれがいいところなんだね、きっと。

1Q84のバカ売れも異常以上(超異常)だが、誰もかれもが司馬遼太郎を「いいわぁ」というのは異常ではないのかね。

ところでモノ好きにもカフカを百ページ弱よんだが、1Q84よりツヤがあってはるかにいい。村上春樹のアクメはこの辺で終わっているね。

注:(手法としての匿名性);最初からそのつもりだったかどうかはわからない。最初はおそらく作者個人の何らかの事情で匿名性の高い方法を始めたのだろう。そのうちにそれが意外に作品の効果上も、読者の受けもよかった。それに何回か書いてそのスタイルが手の内に入ってきた。というのが真相かもしれない。意図的に用いるようになったのは後からかもしれないが。