穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

22:枕の上に落ちた白髪

2019-08-31 08:18:47 | 破片

  彼は食器を流しに持って行った。二人分だから大した数の食器ではないが、専業主夫になってから食器を洗うたびに母親の苦労が偲ばれるのである。先妻の子供たちを含めて八人の子供と自分と夫の使って汚れた食器はおびただしい枚数になる。子供たち(娘たちと言うと苦情が出そうなので子供たちというが)は誰一人母親を手伝うものがいなかった。それを一日三回一年中休まずに行った苦労が今頃になって、彼が妻の分まで食器を洗うようになってから母親の苦労に思い至ったのである。母親はそれだけではない。もちろん三度三度の食事の支度をしなければならない。先妻の子供はわがままで、食事の味まで苦情を言って母を困らせた。そのほかにも複雑な家庭で母の苦労は絶えなかった。母の葬式の日、父はわずかにひとこと「彼女はよくやった」と短いねぎらいの言葉を言っただけであった。第九の場合は始めればあっという間に終わってしまうのだが、「さあ、食器を洗うか」という心理的な踏ん切りには大変な努力が必要なのである。かなりの心理的エネルギーを必要とするのである。

  洗った食器を拭いて食器棚にしまうと、彼はベッドメイキングをした。枕の上に彼女の長い髪が落ちている。彼女の髪はほどくと乳を覆うほどであった。しかし、キャリアウーマンの心得で職場に行くときは髪を上げて髷を結っている。決して売春婦風に長髪を挑発的に垂らして職場には行かない。髪をほどくのは夜だけなのだ。寝過ごしたりして時間が無くなった日で髷に結う時間が無くなった時でも髪は頭の後ろにポニーテイルにまとめていく。

 おや、と 彼は思った。枕の上に一本の長い白髪がある。よそじも視界に入りつつある彼女にも白髪ができたのか。三年前に一緒になったときは一本の白髪もなかった。彼女は自分で知っているのだろうか。窓の外はますます曇ってきてスカイツリーもおぼろに浮かんでいる。雨でも降りだしたのか。五十階だと雨が降っているかどうかは雨脚がうどんのように太くないと分からないのである。今日は傘を持って行ったほうがよさそうだ。

  突然第九以外誰もいない部屋にくしゃみの音が響いた。ベランダに通じた窓は閉めてある。開けてあれば隣室の窓も空いていれば空間を迂回して話し声が聞こえることがある。しかし、今のは壁を通して聞こえてくるのである。また二回連続して遠慮会釈もないくしゃみが轟く。このマンションの壁は安アパートでもめったにないほど壁が薄いようだ。妻はマンションを選ぶときに大手不動産会社に絞って選んでいた。そして施工会社も伝統のある巨大ゼネコンのものを購入したはずである。五十階になると耐震構造上あまり重くできないのか。それで壁を薄くして重量の負荷を減らしているのかもしれない。今度は隣からタンスかクローゼットを開け閉めする音が伝わる。隣家の住人はご出勤のご様子である。

  枕の上から長い白髪を摘まみ上げて捨てると前夜の体操で形の崩れた枕をポンポンと叩いて形状を復帰させる。さてジャズでも聞こうと思っていたが盤を選ぶのが面倒くさくなった彼はテレビをつけた。甘ったるい女の鼻にかかった甘え声が室内を満たす。鼻梁の太い女性のゲストがご意見を陳述中である。油でも塗りたくって艶を出したような長い髪を売春婦のように肩から前に垂らしている。少女ならまだ許せるが、この政治評論家とか言う女性の年齢は彼の四十路の妻とあまり変わらないようだ。

 

 

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21:半熟たまご

2019-08-28 07:51:14 | 破片

 このごろはオートミールと半熟卵二個、それに妻には紅茶を上品に薄く淹れる。第九はインスタント・コーヒー大匙三杯とグラニュー糖グラムである。半熟卵というのはなかなかうまくできない。いろいろ研究しているがいまだに出来にむらがある。出来が悪いと途端に彼女の機嫌が悪くなる。彼女は半熟の頭をひっぱたく技術は芸術的だと自負しているから厄介である。柔らかすぎてぐにゃりといって未熟な汁があふれ出すと大変である。また、固すぎるとこれまた癇癪をおこす。

 彼 女は斜め上方から卵めがけてスプーンを振り下ろす。頭頂部を打撃した瞬間にふっと力を抜いて飛行機のタッチアンドゴーのように匙を中空にあげるのである。うまくいくときれいに半熟の頭が割れる。これには技術もさることながらこちらの作り方も問題となる。第九は試行錯誤で記録をつけながら技量の向上を図っているが、まだ歩留まりは七割くらいである。まず、卵は前日の夜に冷蔵庫から出しておく。朝は卵の表面温度をはかる。温度によって茹でる時間を変える。大体卵の表面温度が二十度なら水に中に入れて鍋の中で卵が苦しそうにごろごろのたうちまわり始めると火を止める。そして熱湯の中に三分間入れておいてから皿に取り上げる。そして二十分間冷ましてから彼女の前に出すのである。

 そ れに比べるとオートミールは作るのは簡単である。しかし、ミルクを切らすと大変である。朝オートミールをを食べないと化粧のノリが悪くなるらしい。出勤するまで彼女はわめき続ける。かといって牛乳は大量に備蓄出来るものでもないし、重さだってバカにならない。第九はほとんど毎日食材を買って帰るからミルクだけ何本も買うわけにはいかない。たえず、冷蔵庫をチェックして在庫を確認しなければならないのである。

  今日は一発で半熟の頭をたたき割ったので彼女は機嫌がいい。窓の外を眺める余裕もできたらしい。 

「あら、今日は筑波山がくっきりと見えるわね」なんて感心している。彼も窓の外を見るとスカイツリーの右側にツインピークが黒々として鮮やかに北東の地平線に見える。この眺めは彼女のお気に入りである。筑波山もスカイツリーも六百メートルくらいの高さらしいが、東京から見ると筑波山は地面に這っているいるようだ。マンションの五十階からの眺めである。昔はまわりに建物もなかったし、空も綺麗だっただろうから江戸の街並みは地上からでも筑波は晴れていればよく見えたに違いない。いまは相当上に昇らないと見えない。しかもスモッグで地平線の視界がぼやけている。筑波山が今朝のようにくっきりと姿を現すのは年に何日もない。

  ワンルームマンションからの展望は悪くない。眼下に密集するビル、民家、マンションにはおそらく数十万人が暮らしているだろう。彼女はそれで「私の天守閣」と呼んで眼下の民の暮らしぶりを観察するのである。しかし、決して「私たちの天守閣」とは言わない。彼女がローンを組んで購入したのである。もっとも五十平米足らずの部屋は天守閣というよりも囚人二人用の部屋の様ではある。

  そういえば、彼らの専業主夫契約の更新期限は来月だ。一年契約の自動延長なのである。

彼女が出勤した後の室内は耳がじんじんするような静寂のなかに落ち込んだ。ジャズでも聞こうかと立ち上がった彼がふと外を眺めると、すでに筑波山は朝もやとスモッグの煙幕に遮られて見えなくなっている。

 

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「吾輩は猫である」は狂詩文である

2019-08-24 10:30:44 | 夏目漱石

 久しぶりに漱石の猫を読んだ。面白くない。これには驚いた。初めて読んだのは中学の二年か三年だった。おそらくまともな(文学)小説を読んだはじめだろう。ずいぶん難しい漢語で溢れているが全然つっかえなかった。もっとも総ルビだったから音だけでフォローしたのだろう。冷静に考えれば意味は分からないところだらけだったのだろうが、何の抵抗もなかった。こんな面白い本はないと思ったし、場面場面は鮮明に記憶に残った。

  今度読んで一番違うのはいちいち出典に当たらなければ(要するに末尾にある注を読む)、先に進む気がしなかったことである。漱石の博識なこと、特に漢文の能力が大変なものであることはいまさら言うまでもないが、明治以降の小説家で漢文との関係で特色のあるのは、森鴎外、夏目漱石と永井荷風であろう。

 

 森鴎外は正統派であり、江戸時代の漢文の正当的伝統を完全に受け継いでいる。したがってやや生硬である。荷風の場合、知識において多少問題があるとの意見もあるようだ。特に煩瑣な規則の多い漢詩については一部でそういう意見があるようだ。しかし、荷風は漢詩は売らなかったからあまり我々の目に触れない。しかし、漢文の特徴を現代文と絶妙に融和させたということでは鴎外以上だろう。特に随筆、随筆的小説で顕著である。荷風は東京外国語大学の清語科(中退?)である。当時シナは満州族の清王朝に植民地支配されていて中国語は清語と言われていた。

  新潮文庫末尾の伊藤整氏の解説によると、猫はスターンのトリストラム・シャンディとの関係が取り上げられているが、猫においては日本の漢文学の一つの伝統であった「狂詩文」との影響が深いように思う。例えば明治維新直後の花柳界を画いた成島柳北の柳橋新誌など。トリストラムとの関係は描写の流れの奔放なところが比較されたのだろう。

  成島柳北はまた永井荷風の敬慕した先人であったが。

 

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20:労災訴訟で一揉みするか

2019-08-23 08:48:13 | 破片

「それで結局会社を辞めたんですか」と不思議そうに女店主が第九に聞いた。

「ええ、ほかにも色々ありましてね。それから二年くらいあとだったかな。会社を辞めたんです」

「それで転業主夫に転職なさったんですか」とからかうように目じりに美しい皺をよせながら彼を横目で見た。

 そう器用に素軽くもいきません。直線的にはいきませんや、というと第九はもうほとんど最近では思い出すこともなくなった当時のことを振り返った。

 丸屋サチ子臨床心理士見習いがどのような内容かしらないが、レポートを会社に出したらしい。その結果だろう、営業から外されて資料室勤務を会社から命じられた。資料室には激しい組合活動をして左遷されてきた人間が沢山いた。

 彼らはもともとの圭角がそぎ落とされて、ますます鋭くとんがってくるか、挫折のショックから精神が不活性化していた。部長や管理職も派閥争いから脱落した根性のひねくれたので占められていた。営業ばかりやっていた第九は一日中窓のない倉庫のような部屋で新聞や雑誌の整理をさせられた。彼は一時間おきにトイレに行って息抜きをした。帰ってくると課長に呼ばれて嫌味を言われる。彼は今度は閉所恐怖症になってしまった。どうもエレベーターでの発作も閉所恐怖症だったのかもしれない。そうならこんなところに一日中閉じ込めておくのは症状を悪化させるばかりで逆効果だ。丸屋臨床心理士見習いはいったいどういう診断をしたのだ。半年ほどしたころ、彼は思い立って労災認定を申請した。会社は当然無視する。彼は以前仕事の関係で知った弁護士に相談して訴訟を起こした。

 まあ、いけるところまでやるさ、労災で一揉みしていれば弁護士との打ち合わせと称して外出もできる。裁判所に出廷するとして会社に行く必要もなくなる。退屈しのぎにはなるだろう。労災訴訟は一般的に言えば勤労者側が圧倒的に不利である。会社は専門の部署もあれば同様の案件を多数いつも抱えているから大手の弁護士事務所とも連携している。時々新聞で労働側が勝利すると新聞で大々的に取り上げるが、あんなのは率からいえばコンマ以下だろうと思った。ようするに会社側が対応を誤った結果だろう。レアケースである。

  訴訟はいつまでたっても平行線である。訴訟合戦にも飽きが来た第九はそろそろ頃合いかなと思った。

『わたくし儀近年体調著しく弱り、激務に耐えがたくなり申しソロ、よって退職いたしたく、この儀伏してお願い申し上げソロ』と辞表を提出した。会社は待っていたように辞表を受理した。

 「というわけです」

「へええドラマチックでしたね」とお世辞を言ったのは女店主である。

「とんでもない、しまらない話でした」

  コーヒーをもう一杯飲もうかな、咽喉が乾きました、と第九がお願いするとするりと空気のように軽やかに身を起こして女店主が注文を告げに立った。

 

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19:処女アレルギー

2019-08-16 09:25:54 | 破片

 そろそろ冷やし中華でも食おうかなという季節になった。この間第九は支那ソバ屋に入った。ウェイトレスに冷やし中華を注文すると、アレルギーがありませんか、と彼女が聞いた。注文を取りに来たコオンナを見ると大抵のことには驚きそうもない熟女である。

 「あります」と第九は答えた。「すこし処女アレルギーの気味がある」

 女はびっくりしたように大丈夫ですか、と言った。「今のところ大丈夫のようです」と第九は答えた。注文を取りに来たウェイトレスが若い子だったら、こんなことを言うとセクハラと言って店が騒ぎ出すから言わないのだが、相手が女盛りだったのでつい本当のことを言ったのである。

  おんなはぷいと何も言わずに向こうに行ってしまった。なかなか冷し中華が出てこない。彼女は怒って注文を無視したのかな、とぽつねんとしていると男性の店員が料理を運んできた。食い終わってレジに行くと、レジにいたさっきと別の女性店員が彼の顔を見てさっとレジを離れた。代わりに奥から中年の男がレジに入った。この店の女は老若すべて処女らしい。

  第九はさっき食べた冷やし中華は妙な味がしたな、と考えているとこの間のインシデントを思い出したのである。

  御法川、これが銀色のクルーケースを携行しているおとこの名前である、が彼に問いかけた。「パニックになったときの状況はどうだったのですか」

そうだ、あれは彼の後から老婆が二人乗り込んだ。顔に深い溝のしわが碁盤の目のように走っていた。それが猛烈なおしろいの臭いを発散していた。もともと第九は強い白粉やつけすぎた香水にさらされると息が詰まる傾向があった。デパートの入り口には化粧品売り場が広い面積を占領している。女性の化粧品の下品な臭いが充満している。そういうところを通るときには普段から息を詰めるようにしていた。

 「ひょっとすると臭気アレルギーかもしれませんよ。いちど見てもらえばいい。簡単な検査でわかります。このビルの診療所でも検査できます」と御法川は彼に教えた。

なるほど、臭害かもしれない。そう考えるほうが閉所恐怖症なんていうよりよほど真実らしい、と彼は考えた。ばかばかしい心理テストなど無意味なんだろうな、と思った。

  しかし、失神するほどの影響があの時に限って出たのはどうしてだろう。老婆と白粉の度を越した臭気の相乗効果だったのか。それとも刺激が限度を超えたからだろうか。それにあれから怖くてエレベータに乗れなくなったという状態はやはり心理的な機制があるのだろうか。彼は考えるのが面倒くさくなった。馬鹿らしくなった。

 最近は臭害問題が多いんですよ、と御法川が言った。

「その検査と言うのは何かサンプルを採っておたくの会社に持ち帰って調べるのですか」と第九は銀色のボックスケースを見ながら聞いた。

「いや、その場ですぐにわかります。いちど受けられたらどうですか」

 

 

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18:丸屋サチ

2019-08-14 08:02:29 | 破片

「そのカウンセラーというのが妙な女でね」と第九は思い出しながら言った。

彼女が正規の資格を持っていたか疑わしいな、と彼は最初から疑っていた。すくなくとも見習い看護婦じゃない、見習いか研修中という雰囲気だった。言うことにいかにも自信がなさそうだった。そのかわり、こちらが信用できないという態度を示すると、狂ったようにヒステリーをおこすのであった。年齢は256歳くらいのちっこい女性だった。着ているものはいつでも黒ずくめ、眼鏡まで太い黒縁だった。それが小さな丸顔を占領していた。髪は黒髪、当たり前か、日本人で染めていなければ。しかし靴のブラシのような剛毛なのである。その太い髪を肩まで伸ばしている。それがおさまりが悪いくせ毛がなのである。

  言ってみれば第九は新人研修用のていのいい実験材料にされているという被害者意識を拭えず非常に居心地の悪い落ち着かない気分にさせられた。彼女は意識して、バカにされた経験があるのであろう、偉そうな口をきく。そのくせ、脇に置いたアンチョコだかマニュアルをひっきりなしにひっくりかえす。

  第九はその背表紙に印刷してあるタイトルを記憶してさっそく本屋で求めたのである。とにかく彼女はやたらと質問をする。そのアンチョコにのっているアンケート・リストを片っ端から質問するのである。彼は最初のうちはなんでそんなことをするのか大いに戸惑った。だから次回以降は事前にそのマニュアルを読んで対策をたてたのである。どうするかって。それぞれの答えが全然矛盾するように答えるのである。彼女はくせ毛の剛毛の森のなかに指を突っ込んで身もだえした。きっと顔を上げると第九をにらみつけた。

「あなたはおかしいですね。本当におかしい。これは臨床心理の問題ではないかもしれませんね。精神科に言ったほうがいいかもしれない」

第九ははっとしたように不安そうな顔をしてみせた。「頭がおかしいんでしょうか」

「おかしいわよ」と彼女は断言した。そうかもしんないね、と彼は心の中で譲歩した。

 「これで数回になりますけど、どうしてそんなにいろんな質問をするんですか」

 彼女は蛇を思わせる邪眼をあげるときっと彼をにらみつけた。「全部関係あるんです。総合的に誤りのない診断をするためには必要なんです」

これには恐れ入った。ようするに俺を実験台にしてあらゆることを練習しようとしているのだ。経験のない外科医の新人があてがわれた患者を手術台の上で嬉々として切り刻んで経験、いや見識を積もうとするようなものである。

 勘弁してくれよ、とかれは思った。彼女が何かと言っては参照するアンチョコや彼がそのほかに最近本屋で買った心理本によれば、彼の症状からすれば、閉所恐怖症、高所恐怖症、女性恐怖症のどれかしかないのだ。心理的なものが原因とすればだが。もっとも、どうして彼がエレベーターで失神した症状が急に出たかという原因は調べなければならないかもしれない。

 

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17:銀色の冷凍ボックス

2019-08-11 08:24:23 | 破片

 三十台と思しき背広姿の男が店に入ってきた。冷凍ボックスのような大きなバッグを手に提げている。外側全体は冷凍ボックスのように銀紙で覆われている。時々現れてこの店で小憩していく男である。このビルの中にある診療所に立ち寄って尿とか血液の検査サンプルを回収していくのである。

  店の常連で毎日のように現れる。禿頭や下駄顔のような常連とは顔なじみである。彼は隣のテーブルの席に銀色に輝くクルーケースを置いて腰を下ろした。

「商売繁盛だな」と禿頭が声をかける。

「どこも検査検査ですからね。大儲けでしょう」

「それであんたのところも儲かるわけだろう」

「違いない」と彼は油で光る頭髪をそっと撫でた。「なにか話がはずんでいるようですね。奥さんまで参加して」

「うん、いまセンギョウシュフの話をしているところさ」

「え、なんですか、センギョウシュフって」

「専業主婦の男性版さ。彼にも聞かしてやっていいですか」

第九はにやにや笑って「聴衆が増えれば張り合いがありますからね」というと先ほどからの話を続けた。

  下駄顔が男の為に言った。「この人が会社に勤めていたころ、エレベーターのなかで卒倒したんだ。そこで現れたのが産業心理士だ。彼女のカウンセリングの話だよ」

「それは興味がありますね。おなじ医療産業の話だし、聞いておけば何か参考になるかもしれませんね」

禿頭は第九のほうを向くと、それでどうしました、と聞いた。

「十八階の事務所から階段で降りるときに足を踏み外して転落したんです。その時に脚の骨を折りましてね」

「首の骨でなくよかったね」

「そうです。まあ不幸中の幸いでした。それで三か月ほど入院しました。退院しても松葉杖がないと歩けない。松葉杖じゃあ十八階までは登れないから当分自宅でリハビリですよ」

 「ちょっと待ってください」と新入りの背広姿の男が割り込んだ。「どうして十八階から階段で降りるんですか」と怪訝そうに聞いた。

「いや、発端をお話ししていなかった。なんでもエレベーターのなかで突然失神してから、怖くてエレベーターが使えなくなったんですね」と和服の夫人が確認した。

「そうなんです。それで十八階の事務所まで階段を上り下りしていたんです」

「そりゃ途方もない話だ。それで心理カウンセラーの話が出てくるんですか」

「ええ、会社が社員の健康管理のために契約している大学病院がありましてね。そこの心療内科に通ったわけです」

「それは義務だったんですか、必要だったんですかね」

「さあ、どうでしょうかね。意味がなかったかな。だけど会社の命令だったから。会社はなにか見つけて私を休職かなにかにして、追い払いたかったんじゃないでしょうか」

「なんていう会社なんですか。お差支えなければ」と若い男が言った。

第九が会社の名前をいうと、有名な会社だな、最近新聞でブラック企業だなんて記事が出ていた。労働組合が五つもあるんですって」

「そう、その会社なんですよ」

若い男は頷いて「それで分かった。なんで心療内科が出てくるのかと不思議だったんですが」

 

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16:専業主夫のお仕事 

2019-08-07 08:39:47 | 破片

 専業主夫というと、どんなことをするんですか、と女あるじが夏目第九に聞いた。

「家事労働すべてとセックスサービスです」

「大変なお仕事なのね」と彼女あきれたようにつぶやいた。「私も夫と変わってほしいわ。そんなにして尽くすなら奥様はきっとすごい美人でしょうね」

「どうでしょうかね」と彼は首をかしげて口の中でもごもごと言った。

「どうでしょうかねって、どういうことだ」と下駄顔が不思議だというように詰問した。「彼女に借金のかたにとられたのか」

禿頭が「奥さんが素晴らしいボディをしているのか」と下卑た笑いを浮かべた。

第九はうふっと気持ちの悪い含み笑いをした。「まあそんなところでしょうかね」と第九はこともなげに言った。

 「退職一、二年前に会社のエレベータで粗相をしましてね」

「漏らしたのか」

「いやいや、まあそんなものかな。失神しましてね。醜態を演じました」というとコップの水を口に含んだ。

 

・・病院に搬送されたが翌日には退院できた。嘘のようにけろっと治ってしまったのである。退院後会社の契約している大学病院で精密検査を受けたが異常はなかった。しかし、エレベーターに乗れなくなってしまった。

  再び出社するようになってからも週に一度は会社の医務室に通ったがなにもわからなかった。その時に医務室でアルバイトをしていたのが丸屋サチだったのである。大学を卒業して産業心理士を目指していたが、週に一度会社の医務室に来ていたのである。

 彼の会社はブラック企業の部類だろう。それも仕事がきついというだけではなくて、社内の人事環境が複雑でストレスから体調を崩すものが後を絶たなかった。それも普通の会社のように役員や部長同士のいざこざの巻き添えをペイペイが食らうというのではなくて、労働組合が分裂していて五つもできていた。その組合同士の陰湿な日常的な騙しあい、権力闘争、陰謀の渦がすざましかったから、社員は新入社員の時から派閥抗争のストレスをまともに浴びる。商社だから負ければ辺鄙な外国に飛ばされて勤務地をたらいまわしにされて一生日本に帰ってこれない。だから精神に異常をきたす社員が後を絶たなかったのである。

  会社が契約していた大学の心療内科に通うものも多かったのである。そういうわけで、見習い中、駆け出しの産業心理士の卵である丸屋サチも週に一度会社の医務室に出張っていたのであった。

 彼女は私に格好のサンプルを見つけたらしい。私の心理的カウンセルをすると申し出たのである。

 

 

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15:女性が怖い

2019-08-04 08:18:01 | 破片

 ところで、とさっきから黙っている第九のほうを振り向くと彼女は「夏目さんはどんなお仕事をなさっているのですか」と訊いた。昼間に時々ぶらっと「しずか」に顕れて長時間滞留しているから不思議に思っていたのだろう。自由業か、外回りのセールスマンがさぼっているのだろうか、と不審に思っているようだ。

「何をしているように見えますか」と第九は反問した。どう答えようかと考えをまとめるための時間稼ぎである。

「さあ」としばらく婦人は彼を見つめていたが、自由業かしら、小説家?と聞いた。

「夏目漱石のひ孫です、というのは真っ赤なウソですがね。ちょっと説明しにくいんです」

「なにか秘密のお仕事」と彼女は首を左へ18.5度ほど傾げた。

おしゃべりな禿頭老人が我慢出来なくなって「彼は専業主夫なんですよ」と口を挟んだ。

「センギョウシュフ?」

「シュフのフは夫という字を書きます」と禿頭が注釈を加えた。

「・・・へぇお珍しい」

「なに、最近は増えてまさあね」と下駄顔

「そうなんですか。ずうっとなんですか」

「まさか、結婚してからですよ」

「失礼、それはそうだわよね」

訥々と第九は話し始めた。

「世間並みに最初は会社に勤めていたんですがね。女でしくじりまして会社を辞めました」

「おやまあ、それは・・・」と彼女はお悔やみを述べるように言ったが、それ以上聞くのは失礼と思ったらしく、テーブルからグラスを取り上げると水を飲んだ。第九は話し始めようと決心すると逆に止まらなくなった。

  あの症状が出たのは退職1,2年前だっただろうか。会社のエレベータの中で息が詰まり卒倒したのは。119番通報されてストレッチャーに乗せられて救急病院に搬送された。うわごとに「白粉が、白粉が」と言っていたらしい。それ以来彼は再発を恐れてエレベーターには乗れなくなった。これがデパート勤務のようにエスカレーターがあれば勤務が続けられたかもしれない。オフィスビルにエスカレーターなんか無いから、かれは18階の自分の職場まで毎日階段を登らなければならなくなった。上るのはまだ若くて体力があったから、なんとか凌げたが、降りるときに一度転倒して足を折ってしまった。数か月入院したのである。

 

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個人客差別

2019-08-01 09:55:03 | 破片

14: 八月一日

  銀行で個人客を差別しているんですか、と秀麗無臭な婦人が怪訝そうに質問した。

「私の行く銀行の支店では個人客用の係が一人しか配置されていないんでね。結構大きな支店なんですけどね」と下駄顔が答えた。「銀行に行くとロビーレディとかいうおせっかいなばあさんに半券を渡されるでしょう、順番待ちの番号が印刷してある」と続けた。

「二人待ちなんですぐに順番が来るだろうと思っているとなかなか呼ばれない。カウンターは十ぐらいあって顧客はどんどん呼ばれてはけていくのにおかしいな、と思っていたので呼ばれたときに係に疑問をただしたんですよ。そうしたら個人客用の係は一人だけだというんです。彼女が言うにはインターネット・バンキングが普及したからカウンターの窓口を減らしたというんですな」

 「理屈をつけて強引にインターネット・バンキングに誘導しているんですかね」と第九が口をはさんだ。

「振込なんかでも用紙に書き込んでカウンターに持っていくとATMでもできますってかならず言われますね」

「そうそう、あれも気分悪いね。苦心して用紙に記入してきたのに分からなければお教えしましょう、なんて言いやがる」

「どうしてですかね、時勢かしら」と華麗無臭な麗人が言う。。

「コスト削減ですよ、顧客の不便の代償で自分たちの高給を確保しようとするのです」

 「まったく、従業員たちの利益しか考えないんだからひどいものだ。振り込みでちょっと金額が大きくなると写真付き証明書なんて言いやがるし、少額だとむりやりATMにいかせようとするんだ」

 下駄顔も言った。「そういう時にはATMの入力をタイプライター式にしろと窓口の婆さんにいうんだ。いまさら指入力なんか出来るか、バカ野郎」

「それじゃースマホもダメですね」と佳麗無臭婦人が混ぜ返した。

「いや、Qwertyっていうタイプライター式の入力方法もあるんじゃないですか」と第九が口を挟んだ。

下駄顔はポカンとしたが、「そうかね、そういうATMもあるのかね」とみんなに聞いた。

みんな首をひねっている。

禿頭が断を下した。Qwertyもだめだね。ぼくもタイプライター派だけど、あれはソフトキーボードだろう」

「そうですね」

「じゃあ結局一本指の入力だろう。タイプライターなら五本、いや十本の指がキーの位置を記憶しているからローマ字入力も簡単だが。それに指入力だと、訂正の仕方がよく分からないから最初からやり直す。イライラしてまた間違えるっていうことになる」

「そうそう」と下駄顔が相槌を打った。

端麗無臭な佳人が不思議そうに老人二人に尋ねた。「お二人ともご高齢なのに結構ハイカラなのね。タイプライター式のほうが良いって」

「ははは」と二人の老人は笑った。「もちろん英文タイプライターですよ。昔は和文タイプライターというのもあってね。これは大変な代物で、和文タイピストというのがいてね、エリート女性でしたよ」

「何をする人たちなんですか」

「会社で社長名で出す書簡だとか文書は活字じゃなければいけないでしょう。あるいは役所に出す申請書とかね。活字で文書を作って、でかでかと社長印を押して作成するわけです。だから和文タイピストというのは威張っていてね、我々みたいなぺいぺいが原稿を持っていくと、けんもほろろの扱いでしたよ」

「そうそう、拝み倒して自分が持って行った原稿を割り込ませてもらいましたな」

「へえ、そういう職業もあったのね」

「それでさ」と禿頭が思い出したように言った。「後で部長の気が変わって、ここのテニオハはやはり直せ」なんていうだろう。それで和文タイピスト室に震えながら入って恐る恐る打ち直しをお願いすると、すごい剣幕で怒鳴られてさ、土下座してお願いすることになるわけだ」

「そうそう、そんな感じだったな」

「女性の職業ではエリートでしたね。社長秘書か和文タイピストかと言われたものです」

「それはキーボードの配列も普通の英文タイプライターとは違うんですね」

「全然違います」

 「しかし、あなた方は英文タイプライターは楽々と使いこなしていたわけですか」

「私は商社に入りましてね。英文レターは必須業務でしたから、入社してまずタイプライターを練習しました。職場には電話機の数と同じくらい英文タイプライターがあったしね」

「なるほど、それでお上手なわけね」

「指入力なんて猿みたいなマネは今更できません」


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