穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドルジェル伯の舞踏会

2014-11-25 21:38:30 | ラディゲ

 ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」を新潮文庫で読んだ。「肉体の悪魔」とテーマは似ている。不倫ものだ。「肉体の悪魔」は出征兵士の若い妻と16歳のガキとの肉体関係だが、「ドルジェル」では肉体的関係はない。「大貴族」の婦人と「小貴族」の青年のプラトニックラブということかな。

「肉体の悪魔」は無産インテリというかプチブルというか市井の小市民家庭同士の話だが、「ドルジェル」は「貴族」階級の話である。年代は最後までよくわからない。馬車と自動車が共存していた時代であることは描写からわかる。また、電話もあるようだが、そう普及していなかったらしく、パリの「貴族」間では召使いに手紙を持たせて相手に届けるというスタイルも多い。 

最後の方でロシア革命で殺されたと噂されたナルモフ公爵というトリックスターが出て来ておよそ、1920年前後のことらしいと見当がつく。

1920年代、フランスはもちろん共和制である。しかるに厳然たる階級社会であるらしい。「貴族」、「ブルジョワ」、「無産階級インテリ」とこんなところが登場人物の背景である。ちなみに著者のラディゲは無産インテリの出ということらしい。父親が漫画家だったという。

この階級制度の実態がわからないと本当の味わいはわからないような気がする。しかるに、この問題を納得がいく様に解説したものは日本語文献は管見によれば皆無である。

一番わかりにくいのは勿論「貴族」と訳されるグループである。日本とは歴史的背景が違うからわかりにくいが、日本だと貴族と言うと華族、公家を考える。しかし、フランスや欧州各国ではもっと範囲が広く、日本の昔の旧士族あたりまで含まれているような印象である。さすがに郷士までは広げられないようだ。

 

ドルジェル伯爵夫人は伯爵夫人の称号があるが、相手のフランソワはなにもない。名前にdeが入っているだけである。こちらの方はさしずめ日本で言う旧士族クラスかな。

 

さて、200ページほどのうち、80ページまではイントロだが、記述流麗ならず、わかりにくく、無味乾燥である。本論?に入ると調子が出てくるが、意図的か気取っているのか省略調が多く注意して再読、三読して味が出てくるのかも知れない。ムンムン度は低い

訳者が後書きでいくつか作中の殺し文句を紹介しているが、流して読んでいておそらく気が付かないだろう。それだけ、上品だとも、技巧を凝らしたという言い方も有るのかも知れない。

ちなみに、著者は校正中にチフスで死んだという。

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若いうちは本を読んではいけない

2014-11-22 19:28:08 | 本と雑誌

「若いうちは仕事に精を出して小説等を読んではいけない」と言ったのは永井荷風だったか。GOOブログは親切で一年前に自分が書いた記事を思い出させてくれる。昨年の11月22日に私が書いたそうだ。読み返してみると、夏目漱石の明暗の書評をしたなかで書いていた、「若いうちは本を読んではいけない」と。 

私の場合は荷風とはちょっと違った意味で、若いうちに本を読まないと年をとって暇が出来た時に読む本が沢山残っていていい、というほどの意味であった。漱石の明暗も恥ずかしながらそのとき初読であったのでそう書いたのである。

わたしの印象では小説家の作品は若いうちのもののほうが質がいいことが多い。加齢とともに技術はたしかにあがるが、質が劣化する、言い換えれば「読書興なし」といったたぐいの作品が多い。勿論例外はある。そういう人は大作家というわけである。

したがって、孫のような年の作家が書いた恋愛小説を読むことが多い。これは「小っ恥ずかしい」ことかも知れない。だけど本当のはなしです。

よくインスピレーションなんていうが、なにかが乗り移って宗教でいう「お筆先」あるいはスピリチュアルの世界で言う「自動書記」のようなものではないか、と思うのだ。

ミューズはどうも若い男が好きらしい。小説家が年をとってくるとミューズがこなくなるらしい。もっとも面食いではないようだ。そういうわけで、いまさらながらラディゲの「肉体の悪魔」を読んでいる。勿論初読である。いばることもないが。16歳の作品らしい。まさにひ孫の作品だな。16歳のガキが書いたと思えばバカらしくて読めたものではないが、詩神がラディゲに乗り移った自動書記だと思えば、それなりの興が湧くものである。

もっとも詩神はラディゲがことの他のお気に入りだったらしく二十歳で天に引き上げられたということだ。

 

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正史と稗史

2014-11-20 22:38:48 | 本と雑誌

六代からおゆらさままで、八百年間の正史

 

 

自我を忘れたカナリアの唄。セキュリティ・ソフトが壊れた男の稗史三十年

 

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時間をシャッフルする

2014-11-19 21:48:19 | モディアノ

パトリック・モディアノの翻訳がにわかに増えて来た。人気が出だしたのだろうか。彼は息の続かない作家らしい。いずれも目に優しい活字組みで200ページくらいの中編だ。そして値段が、単価が高い。200ページの単行本と言うと普通はせいぜい千四百円くらいだろうが、モディアノの翻訳は大体二千円から二千五百円くらいのようである。それだけ出版社も大量には売れないとふんでいるのだろう。本の生産コストも廉そうだ。紐の栞の無いものが多い。私の様に一気読みをしない読者には不便だ。ま、こんなところが即物的な印象だ。内容を読んだ感想ではない(読んだのは書評を書いた二冊とこれから書こうとする三冊だけだ)。

さて、彼の作品で「八月の日曜日」というのがある。大分前に買ってちょっと読んで「これはどうも、」としばらく放っておいたのだが、時間が出来たので続きを読んだのだが、途中からテンポがよくなった。彼の小説について、よく推理小説風といわれるが、そんな感じになる。高価なダイヤモンドの首飾りを持った女性が連れ去られて行方不明になるというあたりからだ。

 しかし、ノーベル賞受賞作家の作品である。行方不明事件の解決なんてオチはない。純文学なのである。

さて訳者の堀江敏幸氏の後書きによると「語りの時間軸の複雑にして精妙なゆがみ」とあるが、私の表現でいえば、時間をシャッフルしているテクニックが独特の趣を出している。玄人ごのみの職人技というところだろう。したがって途中まではチンプンカンプンで投げ出したくなる。最後まで読まない腑に落ちない作品である。失踪事件あるは拉致事件(事件の性質も特定出来ない)の解決は無いが、作品は奇麗に円環を描いて結晶化する。

また、場所についても二つの軸がある。南仏ニースとセーヌ川に合流するマルヌ河畔である。知っている人は知っているのだろうが、小説に出てくるあたりのマルヌ河畔のことはあまり知られていないのではないか。うさんくさいというか曰くのある金持ちの別荘があるところと小説ではほのめかせている。女主人公の住んでいた場所で、「わたし」と彼女が出会った場所でもある。

一方ニースはシルヴィア(女主人公)とわたしが世間を逃れて隠れ住んでいる場所である。わたし(この場合の「わたし」は書評の筆者であるが)はニースに二、三回滞在したことがあるだけで表のニースしか知らなかった。当然ながら観光地の裏側に別のニースがある。その辺りが二人の生活しているエリアである。ニースの観光客向けの代表的なところにプロムナード・デ・ザングレ(イギリス人の遊歩道)と言われる海岸沿いの道がある。これが頻繁に小説に出てくる。その頻出度は異常とも言えるのだが、マルヌ河岸にもプロムナード・デ・ザングレという道路があるというのだな、堀江氏の解説によると)。

そうすると、小学生の作文の様にやたらとプロムナード・デ・ザングレが出てくるのは作者の意図的手法であったわけである。 

いままで読んだ三作のなかでは一番よくまとまっている作品だ。一般受けするかどうかは疑問だが。

 

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「暗いブティック通り」読了

2014-11-03 20:54:17 | モディアノ

現在進行形書評である。前回は100ページあたりまで読んだ感想であった。その後持ち直した。流れる様になった。 

推理小説風だというのは定説のようだ。事実そうなんだが。訳者あとがきによるると「すぐれた現代小説は推理小説的構造をとるという説がここでも立証されたわけだが」。へえ、そうですか。知らなかった。現代小説はあまり読まないものですから。

おなじくあとがきで「すぐれた現代小説はしばしば推理小説的構造をとるが、それは最後まで謎の解けない推理小説である」、「これは単なる推理小説ではない」。

ごもっともです。

前回書いたかな、これは推理小説的といっても、ハードボイルドなのだ、文章はハードボイルドじゃないけど。

ハードボイルド・ミステリーの私の定義は大分前に書いたが「犬も当たれば棒に当たる」である。ある日本の小説家だったか、評論家だったかは気取って「巡礼の旅」と言った。

要するに盲滅法に「探し探して証人から証人へと渡り歩く」のである。そのうちに当たりがくる。この小説も同様の進行である。最後が推理小説ではなく、謎の解明がうっちゃりを食わせられるが。もっともハードボイルドの大御所チャンドラーにも一作結末に新しいなぞを読者に提供する小説がある。Farewell My Lovely だったかな。いや The Little Sister だったかもしれない。ハリウッド女優が出てくる小説だった。さすがはチャンドラーだ。他のハードボイルド作家にはないはずだ。

もう一つ普通のハードボイルドと違うのは、ハードボイルドは大体一人称あるいは一視点である。この「暗い・・・」は「わたし」以外の視点で書かれている章が気が付いただけで三章ある。しかも皆主語が違う。ようするにそれが話の繋ぎになっていて、読者に欠落した情報を提供するわけだ。

なみのハードボイルドにもこういうのはあるが、いずれも「わたし(僕)」が手紙等で教えられた(要するに証人ということだ)か第三者からの伝聞を知人友人を通して聞くという形をとる。この小説の様にポンと情報を読者の前に放り出すというのはまず無い。

だからなんだって。つまりこれは「推理小説二十則」などという馬鹿馬鹿しい業界規則に縛られた低俗な推理小説ではないんだよ、ということである。

 

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モディアノの「暗いブティック通り」

2014-11-02 19:12:49 | モディアノ

100ページほど読んだ。

面白いか、と聞かれれば退屈だと応える。文学としてはと聞かれれば

門外漢だがと断った上で「質の高くない作品だ」と答える。

—しかしゴングール賞作品ですよ、と反論されれば、「ヘー」と驚く。

—推理小説仕立てだそうですね、と言われれば、明白にそのフレームを使っているね、と答える。

そうね、最初の1、2ページはハードボイルド風タッチを装っているが後が続かない。

この翻訳者の後書きにもあるが、引用「わずかのスペースのうちににも場面の雰囲気や人物の風貌を如実に浮かび上がらせる、一種独特の官能性をおびた文体である」引用終わり

他の関係者にも同様の説を述べるものがいるが、首をひねらざるを得ない。ほとんど同じ文言を使っているところをみるとゴングール賞を受賞したときの授賞者の評言をコピーしているのかも知れない。

前回紹介した「家族手帳」には興味を持った。それは作品として完成しているというわけではなく、将来の才能開花を予感させたということだが、この作品の延長線上にある「暗いブティック通り」では才能の開花は認められない。

 

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パトリック・モディアノを読む

2014-11-01 21:42:06 | モディアノ

 普段はノーベル賞を受賞したからといって読むということはないのだが、書店で見かけて買う気になった。「八月の日曜日」と「家族手帳」というのが並べられていたが、「家族手帳」を選んだ。解説によると15の掌編からなる自伝的作品である。

 日本的という漠然とした印象を受けた。日本的といっても日本の小説のようなという意味では決してない。昔の日本家屋の感じというのか、水墨画というのか、水彩画と言ったら良いのか。くっきりとした墨による線描というのか。特に前半の各章はそのような印象である。読後感はいい。

 各章の長さは大体10ページ位で長いので20ページたらずである。幼児のころの記憶とか、様々に空想した父母の若い頃のことだが、二編ほど作者(僕)の大人になってからの仕事の経験の話があるが、これが面白くない。退屈である。それが20ページくらいの話なのである。20ページにもならない章で早く終わらないかな、と退屈に感じるのだからあまり面白くないことが分かるだろう。

 これらの章は中編にするつもりだったが、うまく行かず本のページ数を増やすための埋め草にしたのではないかという印象を受ける。本全体のページは220ページくらいのものである。

 読み終わって他の作品も読んでみようという気になった。神保町の新刊本大型書店を三軒まわったが、目立たないところに冒頭で記した「八月の日曜日」と「家族手帳」しか置いていない。「家族手帳」のほうが売れるのか、売ろうとするのか、平積みの山が高い。

 インターネットで調べて「暗いブティック街」というのを買おうと思ったが置いていない。ようやく三軒目で見つけた。これから読むところだ。

 余談だが、この三冊は装丁の感じが似ている。単色で細めの女性的な感じのタイトルなど。ページの(なんというのか)型組というのか、わりと大きな活字で行間のスペースも余裕があって目に優しい作りである。まさか装丁者が同じということもないだろうが。モディアノの印象に合わしているような気がする。

 

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ヘーゲルの内縁の妻

2014-11-01 08:07:38 | 書評

イエーナで精神現象学を執筆していた頃、ヘーゲルには内縁関係の女性があった。彼の下宿のおかみである。彼女は妊娠していて精神現象学の出版直後ルードウィッヒという男の子を出産している。

 

この頃のことが【精神現象学の】のある章に反映しているというのが「ヘーゲル伝」の著者ジャック・ドントである。この章は色々に訳されている。長谷川宏訳では「快楽と必然性」、樫山金四郎訳では「快と必然性」である。

 

そう言われてみると、そうかなと思う節もないことはない。相当な知的努力が必要では有るが。そう言う観点からフォローするには樫山訳のほうが脈絡をつけやすそうだ。

 

この考えはドストエフスキーの「地下室の手記」の独白につながる内容がある。

 

## ルードウィッヒ後日譚

 

ヘーゲルは後に別の女性と正式に結婚しているが、子供は認知している。生母が死亡すると子供を引き取った。この子供はゲーテの家に連れて行かれたりして、幸せな幼年時代だったようだ。ゲーテは彼のために詩を書いている。

 

しかし、妻に子供が生まれると意地悪をされたのか、ルードウィッヒの人生は狂ってくる。最終的にはヘーゲル姓から生母の姓に戻される。人世の進路も本人の希望は認められず商人になるように命じられる。それにも反発し、ヘーゲルは彼のためにオランダ領バタヴィア(現在のインドネシア)駐留のオランダ軍の士官の職を買ってやる。かれはヘーゲルが死んだ年に24歳でバタヴィアにおいて病死した。

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