穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」トリビア

2022-01-31 08:27:35 | 書評

 みなさん、クチビルと書くときにどう書きますか。くちびる?、唇?、(このワープロでは変換で出てこないが)唇の下が月の字、つまり辰の下に月?
普通は仮名か唇ですよね。ところが大江健三郎は漢字の下が月の字を使う。間違いじゃないがあまり見かけない。しかもめちゃくちゃに沢山出てくる。なぜかというと登場人物の感情、心理、意図、身体状況たとえばアドレナリンの噴出状況、などをえがくのにすべて、ほとんどクチビル辰の下に月を使う。
 私は大江作品は「芽むしり、」しか読んだことが無いからほかの作品でもそうなのかは知らない。この作品がデジタル化しているならクチビル(辰のしたに月)で検索するとこの中編でおそらく百回以上ヒットするだろう。
 普通感情を身体的に表現するときには目を使うのが一番多いと思うがそれでも頻出度は大江のクチビル(漢字変換できないのでカタカタでごめん)の頻出度にはおよばない。次は声かな。
 この字は小さい活字だと何の字か分からない。目をページに近づけるとクチビルだと分かる。大江健三郎はいまだ口唇性愛期を脱していなかったのかと思ってしまう。
 一応例示したほうがいいと思うが何しろ無数にあるので若干例を示しておこう。
*寒さに変色しているクチビル、まこれは普通のほうだが
*泣き出しそうにクチビルを歪めて
*僕は閉ざしたクチビルのなかでどなって歩いた
*少女の肉の薄いクチビル
*クチビルを引きつらせて歯ぐきをむき出しにした少女
  彼にはクチビルにつれて歯ぐきや唾の記述も多い
*しかし笑いを小さい気泡のように濡れたクチビルから吹き出して僕らのなかへ入った
*僕はクチビルをひくひくさせて黙っている李にいった
 ほんの数例である。

 

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大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」(2)

2022-01-30 09:58:06 | 書評

 読み始めてすぐに感じたのは状況設定が素晴らしいということだ。つまり材料がいい。だからこれをどう料理するのかなと期待した。ところがこれが期待外れというか材料腐れと感じた。いつも例に引く釜炊きご飯に例えると「はじめチョロチョロなかもチョロチョロ」だったが終盤にきてパッパと見事に炊きあがった。小川榮太郎氏は「作家の値打ち」では他の誉め方をしているが90点をつけたのは分かる。
 これは作者が書いているうちに技量が進歩してきたということであろう。作者がまだ大学生のころの成長期の作品である。さてこれから述べる作品の構造というか意味合い、そして前回このブログで批評したポイントを作者が自覚していたかどうかは不明である。しかし、潜在的にあるいは体感的に彼がおい育った四国の山村での体験から本質を把握していたものと受け取りたい。
 さて、山奥の部落に少年感化院の生徒が収容された直後、部落に疫病が発生した、あるいは疫病が発生したと農民が恐れる事態が起こった。そこで彼らはどうしたかと言うと、感化院の少年に知らせず、放置したまま深夜ひそかに全員が避難した。この部落は、設定では他の世界とは深い谷にかかるトロッコでした繋がれていない。翌朝気が付いた少年たちがトロッコで後を追おうとしてもトロッコの向こう岸には島民がバリケードを築いている。そして猟銃で武装した村民がトコッロを見張っている。つまり少年たちは疫病が蔓延する土地に閉じ込められたのである。
 島民が避難した後で少年たちは民家に押し入り食料を奪いそこで寝泊りをした。やがて何日かして島民が戻ってくる。家を荒らされたことで少年たちをリンチにしようとするが、そこで気が付く。政府から少年たちの疎開を頼まれたのに疫病から避難する際に彼らを置き去りにした。。これはお上のおとがめを受けると恐れた。
 また、農民たちは山に隠れていた脱走兵を捕まえて本来なら憲兵に引き渡すべきなのに勝手に虐殺してしまった。
 脱走兵のリンチや少年たちの置き去り避難は警察や行政の処罰の対象になる。そこで村長は狡猾に少年たちに交換条件を持ち出す。
 つまり、避難中、勝手に村民の家に侵入し食料を奪い家財を壊したことには目をつぶってやろう。そのかわり、兵隊のリンチや村民が疫病地帯に彼らを置き去りにしたことを官憲にはいうな、というのである。結局少年たちは順番に同意させられる。
 しかし「僕」は最後まで同意しない。村長は彼をトロッコで村外に追放する。そうしてトロッコを向こう岸で降りたところで付いてきた鍛冶屋が彼を殴り殺そうとするが、かれは(僕は)間一髪森の中に逃げ込む。でおわり。

 

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大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」

2022-01-29 08:10:23 | 書評

 風変わりなタイトルの意味は終盤に村長の言葉として解題される。それは古来からの農耕牧畜村落の伝習的な知恵である。悪い米、野菜などの農作物は芽のうちに刈り取れということだ。また、虚弱な欠点のある家畜は生まれてすぐに殺してしまえ、ということである。聖書にもあったね、悪い麦はすぐに抜き取らないと全体をダメにしてしまうとかいうくだりがあったような記憶がある。ユダヤ人は放浪牧畜民族だった。
 この小説でいえば、戦時中、農村に政府から押し付けられた少年感化院の生徒のことである。特にその中で最後まで矯正できなかった「僕」のことである。
アメリカ英語の「ハウス・ブロークン」の表現を思い出させる。しつけ出来ない、されない悪い子である。英語ではもっと上品に「ハウス・トレインド」という。現代のいじめもこの線上にある。いじめられる子供は学級集団になじまない子である。だからいじめっ子は教師と相性がいい。そして教師はモトいじめっ子であることが現代では多い。だからいじめの問題が起こると学校や教育委員会は隠ぺいに奔走する。
 日本でも農村ではこの伝統は強い。近代日本では戦争前でも政府でもこういう考え方は建前としては取っていない。だから彼らを感化院に収容する。そうして戦時下米軍の空襲が地方にも及び始めると山岳地帯の部落に疎開させて保護しようとしたのである。
 この部落レベルの習俗は現代でもいたるところにある。それは近代的な社会制度、すなわち国とか行政のレベルではなくて、社会末端のアフィニテイ・グループに根強く残っている。すなわち、部落以外では教室、労働組合、管理組合、町内会などである。

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重力ピエロ 書誌?

2022-01-22 08:10:39 | 書評

短評 はじめチョロチョロなかパッパ、仕舞いはOK。
書誌? 一月三日読み始め 読了一月二十一日 
読みにくくはないが二週間以上読むのにかかった。470ページ
 途中で読み直し、読み戻しは一度もしていない。長期間中断していても前回読んだところからすぐに入って行ける。こういう小説は珍しい。評価の一基準にはなる。
時間がかかったのは最初の部分で乗って行けなかったからだろう。中盤あたりから滑りがよくなった。これはミステリーなのかな。「兄」のパートからはミステリーでもあり、また犯人の独白(ドスト罪と罰風)でもある。ミステリーとすれば最初のパートで犯人を出しているから探偵小説二十則にはのっとっている。
 読む前に読んでもかまわないが、犯人は「おとうと」、別途(つまり共犯ではない)未遂犯は「あに」という仕掛けだ。工夫だね。寡読のわたしは他に同様の例があるかどうか分からないが。記述に破綻はないようだ。
 最後の「おとうと」が「DNA上の父親」をバットで殴り殺す場面で、どうして「おとうと」が「ちち」を深夜の小学校の校庭に呼び出したかの記述がないのでオヤと思ったが、これも記述者「あに」の視点からはOKなのだろう。「あに」が夏子に導かれてこっそりと「おとうと」をつける下りは記述があるからね。
 最後まで警察のお世話にならないところがいい。ちょっとチャンドラー風だね。
小川榮太郎氏の評価は84点。

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権力への意思

2022-01-17 07:40:07 | 小説みたいなもの

「すると通り魔はその陰画ということですね」
明智博士はじっと立花記者を観察していたが、「そうだね」と答えたのであった。
「梵我一如ということは自分が全能であるということだ。つまり最高権力者であるとも表現できる」。博士は注意深く葉巻を一吸した。
「ところで最高の権力とはなにかね」と問いかけた。
「さあ、総理大臣ですかね」
「ハハハ、いやまったく。即物的に言えばそれも一つの回答だがね。哲学的にというかよりソフィスティケイテッドな言い方をすると生殺与奪の権利だね。人間はだれでも人倫の制約や社会的な制裁を恐れなければ生殺与奪の権力を振るいたいんじゃないかね」
「権力への意思ですな、ニーチェ流に言えば」
「お釈迦様は人間に対して深い愛情を持っていたから、それが全人類を残らず救いたいという願望になった。通り魔は憎しみを大切に温めていたから無差別殺人になる。もし彼が核ミサイルの発射ボタンを押せたら躊躇なく押すだろうね」
「どうも解せないな」と立花は首をひねっていたが、ふと思いついて「集団自殺といえば、昔は一家心中なんてのが多かったが最近はあまりニュースにありませんね。今の話と関係があるかどうかは分からないけど」
どう説明したら頭の悪いジャーナリストにも分かるように説明できるかな、と明智博士はしばらく考えていたが、
「殺人には三種類ある。一つは利欲に原因があるものだ。物取り、押し込み強盗殺人、保険金殺人みたいなね、こういうのはマスコミの知能でもすぐ分かるから記事も書きやすいんじゃないかね」と目の前の立花を茶化すように笑った。立花も苦笑せざるを得ない。
「もう一つは非常に狭いアフィニティーグループ、典型的なのは家族だが、自分や家族が行き詰まると一家心中になる。最近これが少ないのは『家族』と言う紐帯というかアフィニティーが弱くなっているから、一家心中なんてのが古代化しているのだろう。せいぜい安マンションで暮らす若い夫婦が赤ん坊に『権力の意思』を行使する『いじめ、ドメスティックバイオレンス』が目立つくらいだ。
現代日本では個人と社会全体という二極しかない。だから梵我一如の考えは当然社会全体にむかう」
「なるほど、一応説明にはなりますね。しかし、社会全体を滅ぼすなんてことは出来ないから、出来る範囲でなるたけ派手にやろうということですかね」
博士は無言で葉巻を吸っていた。そろそろ燃えカスが落下しそうなのが心配のようであった。

立花は気が付いて「殺人にはいわゆる痴情殺人といわれるものがあるでしょう。あれはどの範疇に入りますかね」と恐る恐る聞いた。

博士は自説の欠陥を突かれたのか、不機嫌そうに葉巻の煙を立花の顔面に浴びせた。

 

 

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天上天下唯我独尊

2022-01-13 08:11:52 | 小説みたいなもの

 テンジョウテンゲ・ユイガドクソンですよ、と明智博士は煙の隙間から声を押し出した。長尺ものの葉巻は一時間ほどで半分ほどになっていた。
「あのお釈迦様が生まれた時に発したという、、」と立花記者は確認したのである。
「そう」と博士は頷いた。
エログロ実話雑誌記者の立花は彼の雑誌の有力な寄稿者である「とんでも博士」の異名を持つ明智理学博士を取材していた。
 今年に入ってから世上通り魔事件としてひとくくりにされる事件が毎日のようにマスコミをにぎわしている。とにかく世間全体が発狂したようにおかしくなっている。人々は外を歩くときには金属バットをぶら下げている。いつ襲われても対処できるように用心しているのである。
 足の速い実話雑誌では早速特集を組むことにした。こういう時に出てくる頼りにしている常連が「とんでも博士」なのである。
「通り魔がお釈迦様だということですか」
「そう、お釈迦様がポポジなら通り魔はネガだな。構造的には全く変わらない」
「そこのところをもう少し分かり易く噛み砕いて実話雑誌向きに解説してもらえませんかね」
 膝の上にポトリと落ちた葉巻の吸滓を右手の甲で払い落すと、博士は分かり易く説明するにはどうしたらいいかな、と瞑目して沈思するていであった。
「どちらも独我論なんですよ、唯我論といってもいいが」
「・・・・・」
 お釈迦様は自分だけが尊いというわけだ。これはお釈迦様の生まれる何千年も前から古代インドにあるウパニシャット哲学の『梵我一如』の思想からきている。梵というのは宇宙の原理だ。宇宙の原理と自分は一体だというわけだね。つまりブラフマン(宇宙の原理)とアートマン(自分)は同じだというわけだ、と博士は説いた。
「それで、通り魔と同じだというのは?」
 分からないのかな、とじれったそうに博士は首を振った。
「宇宙と自分はひとつなら、人類と自分も一つでしょうが」
「博愛主義ですな」
「ようするにそれがポジなんだよ」

 

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霊波のとどろき

2022-01-12 10:34:30 | 小説みたいなもの

 書評などのアップが間に挟まりバラバラになりましたが、「小説のようなもの」のカテゴリーで昨年12月8日以降アップした下記のものはひとくくりの続き物になります。


*宇宙の拾い物、三本
*定例閣議、一本
*本屋襲撃、一本

 読みにくくなって恐縮です。次回あげるものから題名を統一します。「霊波のとどろき」とでもしようかと考えています。以上ご報告まで。一月十二日 作者 恐惶謹白

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書評家の上前をはねる(9)

2022-01-10 07:49:54 | 小説みたいなもの

 毎度お騒がせの古井由吉「辻」の感想ですが、巻末に大江健三郎と古井由吉の対談が載っている。題して「詩を読む、時を眺める」。

 対談はもっぱら大江がリードしている。タイトルの通り詩を読む話である。東大の独文科と仏文科の卒業生らしく、英独仏の詩の日本語への翻訳ともどかしさと言うか難しさの話に終始している。まったく同感であるが、肝心の「辻」への言及がまったくない。

 ま、話題が詩の翻訳の話でもいいが、辻あるいは彼の小説への話題を大江は全く持ち出していない。ちょっと、妙だというか、はぐらかされたというか、そんな感想を持った。

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書評家の上前をはねる(8)

2022-01-09 09:15:22 | 書評

 前回古井由吉氏の短編集のうち巻頭の「辻」の感想をアップしました。今日は第二編の「風」です。正直言ってこれは作家が合間に原稿料稼ぎに書く「中間小説」ですね。ま、こういう風にも書けるということでしょう。性描写の露骨直接的なのには辟易します。「辻」のもったいぶった、持ってわまった書き方とは全然違う。こういうものも書けますよ、と言うことでしょうか。第三篇以降はまだ見ていないが、高踏的な作品(小川栄太郎氏の評のように)集に入れるのはどういう神経なのでしょうか。

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書評家の上前をはねる(7) 

2022-01-08 21:11:59 | 書評

 小川榮太郎氏の「作家の値打ち」純文学部門でトップ評価は96点で二作品が並んでいます。
 村上龍「愛と幻想のファシズム」
 古井由吉「辻」
さてどれにしようかな、と迷いました。「愛と幻想の、、」は書店で見ると活字が小さすぎる。そのうえ超長編であるからパス。それで辻を買いました。これは短編集でとりあえず表題になっている「辻」を読みました。これが96点?というのが結論というか疑問です。
 最初の3ページほどは散文詩かな、という感想。三ページ目に唐突に朝原という名前らしきものが出てきて、これが主人公らしいと分かる。相変わらず散文詩調と言うか、ぼかし、飛び、省略、比喩(変換)という詩的手法で進む。それでもテーマは何となくわかってくる。父と子の確執という定番です。その確執とか家庭内の紛糾という内容には目新しい問題意識も問題提起もない。
一読しての印象は私小説的です。古井氏の作家論は少ないようですが、伝記的なものがあれば純然たる創作か私小説かは分かるんですけどね。志賀直哉が父と子の確執をテーマに何作か私小説的な作品を書いていたと記憶していますが、それを連想しました。志賀直哉の作品は散文なのに対してこの作品は散文詩、とくにそのうち詩の味が強い。
こうなると、好みの問題になるんじゃないでしょうか。あるいはそのスタイルを高く評価するかしないか、ということでしょう。スタイルだけでは小説は評価できないというのが私の意見です。大胆に申し上げるとそう高い評点はつけられない。

 

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本屋襲撃(1) 

2022-01-07 09:19:04 | 小説みたいなもの

 大型書店が何軒かあるこの地区は深夜にはまったく死んだように静まり返る。山形輝彦はそのうちのある三興堂という大型書店の夜間勤務の守衛である。彼はモニターの並んだ壁面の前の回転椅子に座って寝穢なく(イギタナク)座睡を貪っていた。深夜までやっている神田駅近くの志那蕎麦屋から出前で取り寄せた天津麺を食い散らかしたドンブリがテーブルの上にある。そのそばには缶ビールの空き缶が三本立っていた。大盛の天津麺の咀嚼に全血液、全筋肉、全消化液がフル活動に動員されていて、頭は停止状態だった。
突然の大音響で彼は意識を取り戻した。警報が鳴ったと思い反射的に慌てて立ち上がり、膝頭を嫌と言うほどテーブルの端にぶつけた。発報のランプはついていない。大音響は外の道路の自動車のエンジンの始動音であると気が付いた。爆音は自動車が発車したのであろう、だんだんと遠く小さくなっていって、やがて聞こえなくなった。「妙だな」と彼は時計を見上げた。寝過ごしたのかな、とびくびくして時計を見上げたが、時針は午前二時である。この町が始動するのは早くても八時過ぎである。こんな時間に営業車が走りまわることはない。近くには個人の住宅もマンションもない。彼はぼんやりと食い散らかした汚れたどんぶりを眺めた。
もう一度壁面のモニターテレビにようやく覚醒しはじめた視線を送った。左から右に画面を見ていくとなんだか変だ。がらんとしている棚がいくつかある。彼は確認するために守衛室を出ると店内に向かった。一階には異常がなかった。二階も無事だ。三階では政治、経済、時事、歴史の棚に本がない。書店では時々陳列を入れ替えることがある。そのために昨夜店員が整理を始めたのかな、と思った。四階は変化がなかった。五階はほとんどの棚に本がない。天文、物理、地理、生物の棚には一冊も本がない。六階の語学関係の陳列棚もごっそりなくなっている。
「こりゃあ、棚卸や陳列の入れ替えではないな」と彼は思案した。どうして俺の宿直の時に変なことが起こるんだ、と彼は呪詛の言葉をまき散らした。気が重い。警備会社に連絡しなければならない。おそらく警察もくるだろう。それから会社にも報告しなければならない。天津麺を処理中の胃腸がびっくりしたのだろう。腹の中で変な音がすると、にわかに抑えがたい腹痛に襲われた。

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書評家の上前をはねる(6)

2022-01-06 09:47:08 | 小説みたいなもの

 今回は又吉直樹氏の「劇場」を取り上げます。小川榮太郎氏の採点は86点。
私が最初に又吉氏の名前を知ったのは2015年に彼の「火花」が芥川賞を受賞した時です。文芸春秋の誌上で読んだがほとんど印象は残っていない。其のころは芥川賞の選考委員の評を同時に取り上げていたので、単行本ではなくて雑誌で読んだ。これが二段組みで細い活字でしかも活字が小さい。インクが薄い。私は案外そういう媒体の状況に読後感が左右される。そのせいか、無理やり飛ばして読んだために印象が薄いのかもしれない。小川榮太郎氏の評価は84点で極めて高い。いずれ機会を見て読み直してみましょう。
 又吉という人は別人で1995年に受賞者がいる。又吉栄喜氏の「豚の報い」です。極めて珍しい姓ですが、沖縄県浦添氏のあたりに多い苗字らしい。勿論二人は親戚でもないようですが。
 努力賞というのがあれば、努力賞をあげたい。大相撲でいえば敢闘賞です。勿論作者の努力が大変だったろうな、と察しられるからです。しかし、読者がこの200ページ余りの中編を読み終えるのにも大変な努力を求める作品です。ここで志賀直哉を引用するのはどうかと思いますが、かれも遅筆で彫琢に大変な労力を注いだとして知られますが、読むのに難渋はしない。ま、努力家にもいろいろなタイプがあるということです。
 文章の問題もありますが、一つの理由は、この小説に様々なスタイルが混在していることでしょう。たとえば冒頭の長いモノローグ。モノローグは何回か不連続で出現しますが、ほとんどの場合街を長時間さまよいながら、となっています。この小説のキモはサキという東北から出てきた洋裁学校の生徒との交渉ですが、前半部分ではとくに、漫才のボケと突っ込みを思わせるかみ合わない会話の投げ合いがあります。この辺は作者の経験が生きているのでは。かと思うと部外者にはほとんど意味をもたない演劇志向の若者の思弁的にはしる演劇論が延々と続く。
 女との同棲生活ではセックス描写は一切ないのもいい。同棲しながら、男女の関係を一切持たないケースを排除しない。読んでみると流れのなかでそんな「コンビニ人間」風の状況ではないと思われる。小川榮太郎氏の評によれば
『現代の作家が無反省に濫用する性描写を極力用いない。、、、』と評価している。
作者のあとがきで断っているように「自分の体験ではない」のだろうが、「僕」が語る二人の生活は「四畳半の貸し間」が舞台の昭和の私小説の臭い(かおり)がする。
落ちはハッピーエンドに安易に結びつくのではなくて、かといって破局で終わるのでもなくおさまりがいい。

 

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メタバーバスとは

2022-01-06 06:38:22 | 小説みたいなもの

 NHKテレビのニュースでメタバース、メタバースってわきで喚いている。何だろうと思ってみると、どうも仮想空間とかバーチャルリアリテイと言うことらしい。なんか電子デバイスを身に着けると違う感覚が得られるとか。私の理解が正しいかどうかは自信がない。
 私はメタバースと言うからマルチバースつまり多元宇宙のことかと思っていたよ。宇宙のことをユニ(一つの)バースというから、宇宙の外の、あるいは上の宇宙のことかと思うのは自然だよね。ところがそうじゃないらしい。無学と言うのは悲しいね。ひとつ勉強しました。

 

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書評家の上前をはねる(5) 

2022-01-05 08:10:54 | 書評

 目をエンタメに向けてみましょう。小川榮太郎氏はエンタメと純文学両方から作品をピックアップしています。エンタメで90点以上つまり「世界文学の水準に達している作品」を見ると冲方丁氏の「光圀伝」が94点、伊集院静氏の「いとまの雪、、、」92点についで石田衣良氏の「池袋ウェストゲートパーク」が91点とある。時代小説は後回しにして「池袋ウェストゲートパーク」を読みました。
 巻末に池上冬樹氏の解説がある。これが妙なもので褒めるならもっと素直に褒めればよいものを妙な書き方をしている。池上氏のこの種の巻末解説はいくつか読んだことがありますが、まっとうな書評をする人だという信頼感がありました。しかし、こんどはねえ。
 彼は*日本の作家、筆者補足*を評価するときには外国の作家の豊かさを血と肉としているかを見るという。つまりうまく模倣しているかどうか、ということでしょう。そしてこの石田氏の作品についてここは誰(カタカナ)、あそこはダレに似ているといったたぐいの評価をしている。これって褒めているんですかね。前からしっかりしていると思っていた池上氏の文章なので余計に引っかかりました。
 なんだか、嫌いな人の息子の結婚式でスピーチを頼まれてイヤイヤやっているみたいに感じましたがね。勿論そうではないのでしょうが、それなら書き方がある。
 さて、池上流にこの作品を批評すると、最初はシャーロック・ホームズや江戸川乱歩の少年探偵団みたいだ、なかのころはアメリカのノワール小説風だ。落ちは整理されていない、積み残しが多いということでしょうか。
 次回は又吉直樹の「劇場」を予定しています。

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書評家の上前をはねる(4)

2022-01-03 09:08:32 | 書評

 中学校の期末試験じゃあるまいし、小説に点数をつけるというのはセンスがありませんね。うざったいというんですかね。小川榮太郎氏の分類を引用しますと、

90点以上  世界文学の水準に達している作品
80点以上  近代文学史に銘記されるべき作品
70点以上  現代の文学として優れた作品
60点以上  読んで損はない作品
50点以上  小説として成立している作品
49点以下  通読が困難な作品
39点以下  人に読ませる水準に達していない作品
29点以下  公刊すべきでない水準の作品

 どうですか、おどろおどろしいですね。大体点数をつけるというセンスが理解できない。もっともこの企画は、何年か前に先例があるらしい。福田某氏の作品らしいが、それを踏襲しているのかもしれません。 
 ちなみに80点以上の作品は89ある。現代日本には世界レベルの作家が90人近くいるということになります。ギョギョギョ、このクラスの作品は別の穏やかなクラスター名をつけたほうがいい。
 彼が80点以上をつけた作品で私が読んだ作品と私の評価は以下の通りです。

カズオ・イシグロ 私を離さないで、遠い山並み ノーベル賞に敬意を表して上
宮本輝 優駿、中の上、蛍川・泥の河 上
村上春樹 ノルウェイの森 中の中
東野圭吾 容疑者Xの献身 中の上

なお、上記の小川氏の分類で49点以下はまとめて”駄作”とすべきでしょう。

 

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