穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

少年達「カラマーゾフ」第四部

2013-07-31 07:38:17 | 書評
カラマーゾフの兄弟の第四部冒頭に少年達という第十編がある。140ページほどにわたる。ここでコーリャとかいう父ちゃん坊やがいきなり出てくる(初出)。全体の此れまでの流れで訳が分からんわけだ。おまけにコースチャという少年も出てくる。まぎらわしい。

読むうちに前に出てきたいじめに会った少年イリュージャの学校の友達と分かる。このイリュージャが肺病で死にかけている。白痴のイッポリートと同じ設定。それにアレクセイ・カラマーゾフがからまってくる。

いま少年達をほぼ読み終えたところだが、そのあとにも続いていなかったようだ(大分前に読んだ記憶による)。これから再読して確認するが。

作者にはカラマーゾフの続編執筆(完結編)の考えがあったようだ。ドストも序文でふれている。それを前にドストは急逝したわけだ。続編はアレクセイが主人公になる予定だったらしい。

すると、完結編の主人公のまわりにむらがる群像ということで、そのイントロ部分がこの『少年達』なのかもしれない。
完結編では俗世に戻って経験を積んだアレクセイは青少年の教唆者になる筈だったようだ。アレクセイは一種の「革命家」になるつもりだったらしい。多くのドスト研究者の空想によると。

するてえと、とっちゃん坊やや付和雷同型の跳ね上がりを今のうちに手なずけて行く、善導する、つまりあやまった社会主義に毒された青少年を正道に引き戻すのがアレクセイの使命だったのかもしれない。

どうです、ドストエフスキー先生、正解でしょうか。

このコーリャは社民党の福島もと党首にあわれにも洗脳された現代の青少年のようにもみえる。

アレクセイ曰く、ぼくがただ悲しいのは、きみみたいな、まだ生活にまみれていない、すばらしい天性が、そんな荒っぽい馬鹿げた話でゆがめられていることなんです。

ときにコーリャ13歳と10ヶ月なり。

白痴のイッポリート(たしか19歳)のぶつ演説、メモも不自然に早熟だと違和感を憶えたが、コーリャにいたっては想像を隔絶する不自然さだ。




ドストエフスキーの記述トリック2

2013-07-29 21:02:41 | 書評
要するに
A: 3000 + 3000 か、

B: 1500 + 1500 なのかということである。

記述はAのごとく思わせるようにすすむ。しかし、読み返してみるとBであると言い逃れが出来るように細工がしてある。

ここでは読者が一度は「カラマーゾフの兄弟」を読んだという前提で書いている。この部分だけでも第三部の大部分を占めているわけで、とても要約出来るものではない。

モークロエでのばか騒ぎに第一回目に3000ルーブル、第二回目に3000ルーブル使ったと本人ミーチャも多くの人にいい、そう信じられていた。そうして第二回目の豪遊の前に6ルーブルや10ルーブルの金策をしているから、第二回目の金は親父を殺して奪ったと見られた。

ところが、どっこい、びっくり、ミーチャは第一回には、カテリーナから送金を依頼された3000ルーブルを横領しそのうち、1500ルーブルを使い、残りの1500ルーブルは其の時に自分で香袋を縫って其の中にしまって首に掛けていた、と供述する。

しかし、検察はミーチャの主張を認めず、彼を逮捕する。以上亀山訳第三巻まで。最終的に検察が勝つか、ミーチャの供述が認められるかは第四巻に委ねられる。

一応ミーチャの1500+1500も認められないことも無い、という記述になっている。そうすると、第二回目の豪遊の資金の出所として父親を殺害して強奪したものとする嫌疑は成り立たないことになるわけだ。

実際に使われた金は領収書が整っていれば簡単に検証出来るが、それが出来ないようになっていたという記述になっているのだ。

はたして、第四巻ではどうなりますか、お後がよろしいようで。





ドストエフスキーの記述トリック

2013-07-29 07:09:54 | 書評
兵隊はどこの国でも裁縫が出来る。将校でも裁縫が出来るようになる。男だけの集団だから全部主婦のやることは心得ていなければならない。

将校のためには従卒が繕い物をするわけだが、平時と異なり戦場ではどういう事態になるかわからない。将校も一応自分で裁縫が出来るようになる。日本の場合もそうだし、ロシアでも同じだ。

で、これから何を書こうとしているか分かるかな。謎掛けをしておいて、すぐ解答だ。

絡まん棒の兄弟、おっとカラマーゾフの兄弟だ。第三編後半はモークロエでのミーチャの第二回目の豪遊散財である。親父の家に忍び込み、逃げ出すところを下男のグリーゴリーに捕まり、彼の頭をかち割った後でグルーシェンカの後を追って乗り込み、散財する。

この場面はカラマーゾフの兄弟にいくつかあるカーニバル場面で最大のものだ。彼女が5年前の初恋のポーランド将校の迎えでモークロエに行った後を追い、ポーランンド将校に彼女を譲り其の後で自殺するつもりで乗り込んだが、豈図らんや、このポーリャがどんでもない小物でいかさまトランプをして、ばれる。彼女はミーチャに乗り換える。

それから村の娘やユダヤ人の楽隊を総揚げして、どんちゃん騒ぎだ。カーニバルの王の戴冠である。ところが明け方、警察、検察が彼を逮捕に来る。父親殺しの容疑である。カーニバルの王の奪冠である。実に様式に従っておる。

そして予審判事立ちによる尋問、証拠調べが行われる。ここでドストエフスキーの現代チンピラ(=代表的、平均的)・ミステリー作家の顔色を失わせる記述トリックを披露する。どこだか、次回までに考えておいてくれ給え。





ドスト・キャラとイデーの並立

2013-07-24 08:04:38 | 書評
イデーの並立はポリフォニーに通じるといってもよかろう。むしろ、こういう順序で理解するとポリフォニーは分かりやすいかもしれない。

ドストの著しい特色は男性主要キャラの場合、イデーの単一性である。唯一の例外は、それもくっきりと描写はされていないが、「カラマーゾフ」のドミートリーのみである。

もっとも、ドストの実質的処女作(つまり貧しき人たちに先立って執筆された。発表では第二作目)の『二重人格』(あるいは「分身」)の『生き写し(ダブル)』をイデーの並立と取るかどうかであるが。

単一性とは同一時期(時間軸)で単一のイデーという意味である。時間の経過とともに、あるいは人生の試練をくぐり抜けて当然に性格、人格が変化していく場合はイデーの並立とはいわない。念のため。

之に反して、女性の主要キャラクターは同一時期に同一人物のなかでイデーが並立している。これがドストのドラマツルギーの基礎になっている。カラマーゾフでいえば、カテリーナであり、グルーシェニカである。

白痴のナスターシャしかり。白痴のアグラーヤしかり。

それに反して男性の場合はイデーの並立が無いばかりではなく、主要人物の中には肉体を持たない、つまり幽霊のようなイデーがある。極めて抽象的なイデーを表現する人物である。すなわち、悪霊のスタブローギンであり、カラマーゾフのイワンである。

カラマーゾフではゾシマ長老ですら肉体的に描かれているが、イワンに至っては脚もない(幽霊である)。

罪と罰のラスコリニコフはまだ肉体を完全に失ってはいない幽霊の前駆体である。悪霊のスタブロ銀次は完全に肉体をうしなっている。




笑うドストエフスキー

2013-07-22 08:39:50 | 書評
19世紀中葉のロシアの田舎町での、里帰りした大学を出たばかりの青年、田舎の僧院の長老など、当時のロシアの典型人物を登場させ、それぞれのイデーの万華鏡を描いてみせたドストエフスキーは、青二才のイワンの戯作を、大思想のようにしゃぶり尽くす日本の文芸評論家を見て失笑しているのかもしれません。





ドストエフスキーは自覚していた ?

2013-07-22 08:05:04 | 書評
もっとも、小説として、リアリストとしてのドストエフスキーは説教節の不完全なることを自覚していたと思われる。

大審問官では、これは24歳の青二才の脳髄に浮かんだ塵、芥、泡であることを示しているし、ゾシマ長老の説教のメモについては、断片的で不完全であり、文献的に検証不可能な部分が多いことを註釈している。

それはそうだ。あまりにも完全な説教節が小説の中に現れてはもっともらしくないし、妙だと思ったのだろう。


「カラマーゾフの兄弟」の腑分け

2013-07-22 07:30:10 | 書評
ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の Novel 部分と小説部分の腑分けである。小説部分とは小さな説、つまり説教節のことである。

さて、ドストにもこの説教節が多い。そして、なべて拙劣である。じゃによって腑分けが書評、文芸評論上必要となる。

さて、この間から読み返している。いま第二巻の終わりであるが、有名な大審問官と最後のアレクセイ(注)のまとめたゾシマ長老の臨終の説教である。

大審問官が拙劣であることは既に述べた。ゾシマ長老の説教も同断である。ただし、自叙伝的部分はなかなかよろしい。最後の「3 ゾシマ長老の談話と説教より」亀山訳第二巻434ページ以降。

注:アレクセイの方がここではいいのだろうな。アリョージャと愛称で呼ぶのより。よく分からんが。

他の訳者のと比べる必要も厳密にいえばあるだろう。ただ、亀山訳しか手元に無いので。訳文の影響も多分にありうるが。

大審問官もイワンの説教の後でのスメルジャコフとのこんにゃく問答はなかなかいい。

ドストは宗教についての論理的、あるいは哲学的な記述がおそろしく下手である。混乱、曖昧である。作家の日記などの評論部分にもそのことが云える。

ウィットゲンシュタインが云うように「語り得ぬことには沈黙するしかない」

あるいは、イエス・キリストのように「イエス、すべてこれらのことを、譬(たとえ)にて群衆に語りたまう。譬ならでは何事も語り給わず」マタイ伝福音書13-34

あるいは禅の不立文字もこの考えに相当する。

新約聖書の文句なしにすばらしいところは、絶妙なたとえのオンパレードにある。




イワンの馬鹿

2013-07-18 11:30:47 | 書評
ミハイル・バプチンが百年前にうまいことを言っている。

ドストエフスキーの研究者、批評家は主人公達と一緒になって哲学に耽るとね。21世紀の書店を覗いてみても実態は同じなのに驚く訳だ。

カラマーゾフの兄弟の第五編プロとコントラにイワン君が大演説をぶつところがある。彼が作った「大審問官」をアレクセイに披露する。これが哲学ぶった日本のドスト研究者には神聖にして大好物なんだな。

バフチンによればドストの登場人物は様々なイデーである。イワン君は23才の「青二才」の動揺する脳髄に発生した芥でありあぶくである。それがイワンのイデーである。

ドストのリアリズムの筆致に狂いはない。かれは23歳の青二才にふさわしい演説をしている。そのことをイワンの口から最後に云わして読者に駄目をおしている。

引用始まり『ここに来て突然愚にもつかぬことをしゃべりまくったからな』
じつのところ、それは青年らしい未熟さと、青年らしい虚栄心からくる青年らしい憤りだったかもしれないし、自分の考えをうまく話せなかったという腹立ちだったのかもしれない。引用終わり

青年らしい、と三回も繰り返しているね。

ドストがこれだけ誤解が無いように明瞭に念をおしているのに、評論家諸君は神聖にして深遠な哲学を扱うように「大審問官」を弄くり回すのである。





退屈なところの無い歌舞伎もオペラもないが

2013-07-18 11:09:00 | 書評
忠臣蔵を通しで見るのは無粋ものだろう。一幕さわりだけ見て帰る人もいる。退屈なところは食堂にメシを食いにいったり、バーで一杯やるとか、廊下をぶらつくとかするものだ。

だから新参者の小説に退屈なところがあってもいいか。作者がここから百ページは読まなくてもいいよとか親切に書いてくれるといいんだがな。

トルストイのアンナ・カレーニナの最後の百ページなんて無用である。リョービンと云う人物の描写なんだが、リョービンはトルストイ自身だというから、どうしても書きたかったのだろう。途中でも随分ある。大河小説と言ってしまえばそれまでだが。




小説に何故説教が多いのか

2013-07-18 07:18:43 | 書評
小説とは坪内逍遥がnovelの訳としたという(広辞苑)。なぜそう訳したか、書いていない。広辞苑さん、いささか片手落ちだ。

明治の人だからシナの古典に関する教養知識はある程度あっただらろうから、ひょっとすると、漢書芸文志にある言葉を援用したのかも知れない。

すなわち云う「小説家者流・・ 道聴塗説者之所造也」。

小説に、特に退屈な長編小説に、作者の、あるいは登場人物の口を借りて珍説、愚説、妄説、月並み説を延々と述べるを常套手段とする者あるも、けだしむべなるかな。

私は坪内逍遥の文章を読んだことがないから、上記のことはすでに広く知られていることかも知れない。

日本ではこの手の無くてもいいようなお説教を長々と垂れるのは司馬遼太郎である。勘弁してくれよ。

外国ではこのブログでよく取り上げるドストエフスキーも、この「弊害」がある。

もっとも、バフチンがいうように、イデーのキャリアーとして登場人物が縷説していることになるのかもしれない。




おや、亀山郁夫さん

2013-07-16 07:25:43 | 書評
二、三ヶ月前になるかな。書店で単行本でドスト新訳と銘打った「地下室の記録」亀山郁夫訳というのを見つけた。

おや、と思ったね。亀山氏と言えば、光文社古典文庫から出した「絡まん棒の兄弟」が大当たりして、矢継ぎ早に同文庫から悪霊、罪と罰だったかな、の訳書を出した人だが、単行本は集英社からだ。

別のところから出すのに驚くことも無いのだろうが、絡まん棒が誤訳が多いと業界でケチがつき、その後の訳書では訳文が日本語として奇異に感じた。この印象に付いてはこのブログで大学院生あたりに下訳させているのではないかと疑問を呈したこともある。

だからおなじドストものが違う出版社から出ているので、光文社で断られて集英社に持ち込んだのかな、と第一感したわけ。訳者と出版社の義理ということもあるのか、ないのか。

で、買った。

私は特定の作者の作品、評論を集める癖がある。といっても4、5人だが。ドスト物は集めていたのでとにかく購入した。地下室は『地下室の住人」とか『地下室の手記』と訳されていたようだが、亀山氏は「・・記録」と新機軸だ。

もっとも、コレクションでも半数以上は書棚に並べてあるだけで読んだことはないのだ。ドスト物の評論は小林秀雄にはじまって、とくに上質な物が少ないのでね。

地下室の住人(記録)は何回も読んでいるので、とりあえず著者後書きを読んだ。後書きで大体翻訳のクオリテイが分かるからである。これは駄目だと思ったね。今は書棚に並べてあるだけで、本文は読んでいない。

その時にもアップしようと思ったが、売り出したばかりで営業妨害になるかなと控えたわけである。もう大分売れただろうからすこし書いてみようかと。

後書きは大学生の卒論みたいだ。有名な作家がこういったとかいう援用をしている。そのなかに、ジイドがこの作品をドスト後半期への転換点だとかいったという記述がある。これは他の評論でもよく見るが、出典を示したものがない。

亀山氏の文章もおなじだ。本当にジイドが言ったのかな。言ったとしたらどこで、どういう意味合いで言ったのか書くべきだろう。まさか亀山氏が孫引きをしていることもないだろうから。これが雑文家なら許されるだろうが、亀山氏は東京外国語大学の学長でしょう。

この後書きは全般的に文章がこなれていなくてわかりにくい。大学生の卒論みたいと評する所以である。もうすこし、達意の文章が求められるところだ。

ジイドで思い出したことをもう一つ。今までの話と関係ないが、ジイドの権威を援用するスタイルが同じなので。

アメリカのハードボイルド作家ダシール・ハメットの文章か小説をジイドが褒めたか感心したとかいう。孫引きスタイルの記述を時々みる。ハメットの日本語訳者などが箔付けに使う。ほんとかね。出典を明示すべきだろう。

それにしても、今の若者にジイド援用が権威付けになるのかな。四昔前の読者ならともかく、今の若者はジイドなんてしらないだろう。そういう意味でも適切ではない。もっとほかのよりナウイ権威を探すべきだろう(いればだが)。







ロシア文学翻訳者諸君に与う

2013-07-14 08:48:19 | 書評
大きく出たね(ケッ)、前にも書いたが19世紀のトルストイやドストエフスキーのほとんどの登場人物は「貴族」なんだが、これがどういうものだか得体が知れない。

いま、カラマーゾフの兄弟を亀山郁夫訳で読み返していることは書いた。現在第二巻小学生のイリュージャがいじめにあっているあたりだ。これの親父が退役二等大尉で自ら貴族のはしくれと名乗る。注

そのあばらやをアレクセイが訪ねていくところがあるが、その小屋の描写を見ると大昔、*TA町に住んでいた同級生を訪ねた時のショックを思い出した。幽霊のような病人がほおけた髪を振り乱して汚れたゴザの上に寝ている。破れたボロを纏った小さな子供が群れていた。この二等大尉の小屋もそんな感じだ。

貴族と言うと日本の華族を連想するが、とんでもない落差だ。華族という言葉は明治になって日本で作られた言葉だと思う。無学だから間違っているかも知れないが。

うまい造語だと思う。日本では華族と言うと江戸時代の旧藩主、公家、それに明治政府で功績のあった高官に与えられた。

ロシアの翻訳小説を読んでいると、貴族というのは下級役人(9等官とか14等官とか)まで含むらしい。またこれが世襲か一代限りかも分からない。

あるいは日本で言えば従七位くらいかな。たしか旧軍隊では少尉でも将校は一応従七位は貰えたんだろう。ポツダム中尉なんてことばもあるし。

古代ローマでいえば、ローマ市民てな感じかな。ローマ帝国は奴隷とローマ市民で成り立っていたんだろう。

それもこれもロシア文学の翻訳者が怠慢でロシアで貴族とはなにを意味するか説明しないからなのだ。19世紀の小説を読むと、ロシアには貴族、町人、農奴という区分けがあったらしい。昔からあったのか、19世紀の後半からか知らないが。

亀山のカラマーゾフは誤訳が多いと評判が悪いようだが、こと「貴族」に関してはすべての翻訳者に共通のようである。
みんな、読んでいて気にならないのかな、ならないんだろうな。

注: 「、、わたくしはもう貴族などとは申せた義理ではございません。云々」亀山訳、第二巻、125ページ







ロシアの貴族って何なのさ

2013-07-08 21:10:31 | 書評
ドストエフスキーやトルストイが描く19世紀ロシア社会の小説。

やたらと「貴族」が出てくる。食詰め者も貴族だし、農奴を数千人持っている貴族もいる。トルストイはともかくドストエフスキーも一応貴族身分らしい。

読んでいると江戸時代の士族、郷士あたりまでに相当するような感じがする。しかし、社会制度が全く違うだろうから上下関係や身分は同列には論じられまいが。

日本では封建制度で幕府があり、藩主の下に侍がいたわけだ。ロシアに封建制度があったのかな。日本みたいにきっちりした、どうもなさそうだ。

ことほど、左様に想像もつかないのに翻訳書には注も解説もつかない。本屋にも解説本はない。ロシア歴史の専門家はなんらかの資料を持っているかも知れないが。

ロシア皇帝とロシア貴族の関係はどうなのか。絶対君主でじかの関係なのか。行政制度も全然分からない。

それでもドストエフスキーの小説はそういう知識がなくてもあまり抵抗無く読めるが、トルストイは、そう言う知識がないとチンプンカンプンである。文庫本の出版社、訳者は注か解説ぐらいはつけろよ。もっとも彼ら自身まったく知識が無いのかも知れない。その可能性が高い。

トルストイのアンナ・カレーニナの後半である地方の貴族団長の選挙の話がある。ながながと続く。これが分からない。注をつけられなければ抄訳にしてしまえよ、新潮社さん。

思い出したが、ビクトル・ユゴーのレミゼラブルにも歴史的な政治情勢を長々と述べるところがある。話としてはつまらない(日本人にはまず興味がない)が、しかし読めば分かるように書いてある。それに比べるとトルストイは全然分からない。

作者に芸がないのか、訳者が怠慢なのか。







手持ちキャラで間に合わせる「カラマーゾフの兄弟」

2013-07-08 07:20:11 | 書評
文楽師の操れる人形は限られている、と言ったのは誰だったか。

つまり、作家は手持ちのキャラを使い回しているということだ。ましてドストエフスキーのようにショッキングな物語を作るには、そうそう手軽に毎回全く新しいキャラを考案出来るものではない。

「からまん棒の兄弟」を読み返している。亀山郁夫役だ。誤訳が多いという評判だが、手持ちがほかにないのでね。

親父のフョードルはステパンチコヴォ村のフォーマ・フォミッチの変形だな。肉襦袢をぞろりと着たフォーマというところだ。

長男のドーミトリーは白痴のナスターシャというところか。次男の薄気味の悪いイワンは罪と罰のラスコリニコフ、悪霊のスタブロ銀次といったところだ。

末っ子のアリョーシャはミニ・ムイシュキンだな。カテリーナもムイシュキン系列かも知れない。まだ最初のところを読んでいるのでこれは仮定だ。こういう仮定をその都度立てながら、あたるかな、と思って読むのが私のスタイルなのでね。

こうしてみると、からんまん棒の登場人物は暮れのNHK紅白歌合戦だな。スターのオンパレードだ。

おっと、忘れていた、GPS報告、亀山訳第一巻300ページあたり。

&: 忘れていた。ムイシュキンの元型もステパンチコヴォ村にある。ロスターネフ退役大佐である。読者からみると歯がゆいほど、どんな相手にもその人の善意しか見ない人物である。

ステパンチコヴォは丸谷才一が高く評価しているようだが、作品としてはそれほどのできではない。ただ、キャラ、登場人物の出し入れなど、ドストが後年の超長編の手法の模索をした痕跡が認められる。その意味では一読するのも一興かと。

ステンパンは新刊や文庫では手に入らない。大分前に出版された全集にあるようだ。古本屋か図書館を探せばあるだろう。英訳ではペンギンの叢書がある。これは比較的容易に手に入る。