穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「ダブル」トリロジーを読み終わる

2019-07-31 20:55:16 | ポール・オースター

 オースターのいわゆるニューヨーク三部作の最後「鍵のかかった部屋」を読んだ。三部作なのになぜダブルだって。ご疑問ごもっともなれど、ダブルはダブルなれど分身あるいは生き写しのダブルだ。前回のアップでも触れたが前の二作は分身小説だと言った。この「鍵のかかる部屋」も分身小説である。あるいは自我のコピー小説といってもいい。

  この作品ではファンショーは「僕」の分身である。182ページ(白水Uブックス)に次の文章がある。

>>この前に出た二冊の本についても同じことが言える。『ガラスの街』、『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語はみな同じ物語なのだ。<< ということ。

  したがってNewYork TrilogyはDouble Trilogyと言える、あるいは言ってもいい。

 


老人は携帯電話も買えない

2019-07-30 06:56:53 | 破片

 和服美人がケーキをを持ってきた。『ボランティア自警団に日当を払う』なんて出過ぎた失礼なことは出来ないが、せめてケーキでお礼をというのだろう。毎日午後三時ごろにケーキをご馳走してくれる。

「そういえばお年寄りには携帯電話も売らないんですってね」と夫人は言った。

「どういうことですか」と第九は聞いた。

「私の父が携帯電話を新しいのに買い替えようとしていったら、高齢者は子供の同意が必要だって言われたんですって」

第九は驚いて、そりゃひどいなと呟いた。「本当ですか」

「小学生や中学生が携帯を買うときに親の同意が必要らしいけど、それじゃ立派な大人が子供なみに扱われているわけですか」

「父はカンカンに怒っていました。子供がおもちゃを買うときに親の許可が必要というのと同じですからね。人権どころが人間の尊厳を踏みにじるものですよ」

「まさに差別の典型ですよ。人権侵害だな。根拠はなんなんです。そんな理不尽な要求をするのは」

「たぶん、警察庁あたりのバカ官僚の差し金だろうね」と禿頭老人が言った。「携帯が犯罪

グループに流れるとか、勝手な幼稚な理屈をつけているのだろうね」

それでお父上はどうしたんですか、と第九はたずねた。

「なにが根拠なんだ、と聞いたらしいんですね。会社の規則なら書いたものを見せろと要求したら、そんなものはないらしいんですね。当局の指導とかしどろもどろの答えだったそうです。それならその指導とか通達やらを見せろといったそうです」

「ふむふむ、それでどうしました」

「その係の若い女性は上役に聞きに行ったそうです」

「あきれたね、そんな重大なことの根拠も教育されていないのか」と下駄顔

「それが、その女性がなかなか戻ってこなくて、二十分ぐらい待たされて帰ってきたら通達はお見せ出来ませんと、木で鼻を括ったような返事だったというんだそうです」

「ひどいね、顧客対応の基本的なことなのに、根拠を示せないのか」と第九は呆れた。

ひとしきり話が終わって会話が途切れたとき、婦人はだれもケーキを食べていないことに気が付いて、「ケーキをどうぞ」と改めて勧めた。

  ケーキを一口切り取ると、禿頭老人が「さっきの銀行のサービス劣化の話だが、個人客

差別も甚だしくなったね」と呟いた。

 


ついて来るな!自我の犬

2019-07-28 19:11:30 | ポール・オースター

 近代ではどこに行っても自我という名の犬が付いてくる、とあきらめ気味に喝破したのはニーチェであった。困ったものである。

  さて、オースターの小説であるが、買い求めた作品でまだ読んでいない後期の作品が三つほどあるが、どうも覗いてみても読書の感興が湧かない。そこで初期の「ガラスの街」と「幽霊たち」を読み返した。歯ごたえがあるね。腹持ちがいい。

  この二作品は自我に関する寓話ではないか。好き嫌いでいうと「ガラスの街」のほうがおもしろい。自我という幽霊が自分から染み出して外界に浮遊する。固定観念になって反射してきて(折れかえって)自分に帰ってきて取り付く。

  作品としてはガラスの街のほうがよくできているが、テーマはまだあいまいなところがある。主人公のクインはミステリー作家のウィルソンと、その作品の主人公である探偵のワーク、そしてポール・オースターという間違い電話の探偵という三つの分身を持っている。

 そしてスティルマンという男を尾行しているうちにこの男とも一体化する。これは分身小説の範疇だね。ただ、「幽霊たち」に比べるとまだテーマは判然と浮かび上がってこない。

  最後の部分、尾行していたスティルマンを見失ってから人格が崩壊していく過程はまだ筆力が未完成である。それに比べると「幽霊たち」は叙述に統一性がある。ブルーとブラックは分身同士である。最後は一方の分身が他方の分身を我慢出来なくなって殺害して新天地を求めて行方知れずになるのである。つまり自己嫌悪である。

  これらの作品については書評を当たってみたがどうも腑に落ちるものが見つからなかった。インターネットでも探したが中途半端なものばかりだ。もっとも検索の仕方が悪かったのかもしれない。

 


差別

2019-07-22 08:24:05 | 破片

 少し早めに「しずか」に出勤した。妻から五時までに帰宅するように厳命されたのである。彼女が帰宅する時間は不定で早い時には七時過ぎに帰ってくるが深夜に帰ってくることも多い。なにしろキャリア・ウーマンだから忙しいのだ。昨日遅く帰宅したことを怒っている彼女は五時には電話してチェックするというのだ。

 第 九は近くのファミリー・レストランでスパゲッテイを掻き込んで昼前に自警団勤務についた。あれ以来ビルの防災センターの守衛が一時間おきに店を見周りに立ち寄る。お巡りさんも午前と午後に立ち寄る。あの騒ぎからそろそろ一週間になるが、ピカソ女もデコボコ組も現れない。

 「仕返しにも来ないですね。そろそろ自警団を解散してもいいんじゃないですか」と彼は下駄顔老人に言った。

「そうだねえ、まだ分からないな。しかし、あなたは専業主夫だから毎日出張るのも大変でしょう。家事もあるだろうし。私たちはどうせ毎日来るんだからしばらく続けますが、あなたはもう結構ですよ。ご苦労様でしたな」

 「しかし、女性差別なんて言いがかりだね。もっと酷い差別に我々は苦しんでいるんだからな」と禿頭老人が会話に加わった。

「女性差別なんて因縁をつける連中は自分たちが差別することには一向に自覚がありませんからな。老人差別の実態なんて酷いからね」

 「七十歳をすぎたら運転免許証を返納しろなんてな」

「しかし、現実に事故を起こしているからしょうがないんじゃないですか」

「ま、東京にいれば車を運転する必要もないからね。自動車事故は他人を巻き込むから何らかの対応は必要かもしれないな」

 

「ひどいのは、老人に金を自由に使えないようにすることですよ。社会主義の国じゃあるまいに」と禿頭老人が息巻いた。

「あれはひどいな。あんなことがまかり通るようじゃ世も末だな。いまどき自分の金なのに銀行に金を下ろしにいっても、十万円を超えると写真付きの免許証をみせろとか、すがれた婆あ行員に命令される。あんなことを許していいのか」の下駄顔が憤った。「自分の金だよ。預金通帳というのは万能のバウチャーだろうが。それを裏付けるために印鑑がある」

  禿頭が相槌を打った。「振込なんかの時にもそんなことを言われるね。写真付きの免許証なんて言っても、こっちは免許証も持っていないしな。そういうと写真付きの何か証明書がありますか、なんて言いやがる。大昔に会社に勤めていた時には社員証なんかには写真が貼ってあったがな。退職した今はそんなものは持っていない。大体約款にはそんなことを要求する文言があるのかな」

 「通帳の裏に印刷してある約款はわざと利用者に読めないように細字で印刷してあるからな」

「NHKもひどいね。振り込め詐欺防止のためなんていっているが、余計なお世話だよ。あれは幼児のような頭しか持っていない警察のキャリア官僚か、財務省の役人が銀行に指導するんだろうな。それを銀行が錦の御旗にして客を客とも思わない態度をとるんだ」

 「政府は経済の活性化なんて騒ぎ立てるが、自分の金を自由に運用できなくて経済が発展すると思っているのか。あきれた話だ」



最後の者たちの国で

2019-07-19 11:20:31 | ポール・オースター

 オースターの初期の作品である該書を読んだ。彼の作品は出来るだけ執筆年代順に読んでいるのであるが、何故今頃読んだかと言うと書店で見かけることがなかったからである。

  オースターの本はおおきな書店でもあまり品ぞろえがない。せいぜい新潮文庫で初期作品が3冊くらい、たまに5,6冊あるところがあるが単行本はまず見かけない。自転車にぶつけられないで一日一万歩を稼ぐには大型商業モールか大型書店の中を歩くのが一番安心である。そんなわけで大型書店も毎日覘くのであるが「最後の者たちの国で」は見たことがない。

 一度店員に調べてもらったら絶版で再版の予定もないとのことであった。図書館に行けばあるだろうが、図書館から本を借りることはしない。古本屋とかアマゾンで調べれば古本はあるだろうが、古本も買わないから今まで読む機会がなかった。それが先日某所某日に某書店の棚にあったので贖った。

  訳者は例によって柴田元幸氏であるが、あとがきに読者からこの本が一番好きだと言われたと書いてある。どうしてだろう。人気がないから書店に出ないのか、ほかに理由があるのか。この後書きによるとアメリカでもこの本は「埋もれてしまっている」そうである。

  ディストピア小説(ユートピア小説の反対)という世間の評価があるらしい。一読荒廃した国というか地域というか、小説の舞台を読んで北朝鮮を連想した。読後の印象だがほかの作品に比べて市場性がないということはないと思うのだが、どうして書店に表れないのだろう。念のために奥付を見ると、2005年7月20日第七刷発行とある。再版ではない。すると、何かの拍子に書店の倉庫の中から店員が見つけて並べたということかな。

  例によって失踪がキックオフになっている。ジャーナリストの兄が取材にいった国で音信不通になったので妹が探しにいくというわけ。この辺も北朝鮮みたい。

  もっとも、最近はオ-スターの単行本でも古い年月の奥付のものが書店に出てきた。需要が出てきたのだろうか。

 

 

 

 

 


よく出来たチャイニーズ・ボックス

2019-07-16 08:23:21 | ポール・オースター

  オースターの「インヴィンシブル」を読み終わった。オースターの作品の半分くらいは読んだであろうか。この作品はチャイニーズ・ボックス的な入れ子細工としてはこれまで私が読んだ作品の中で一番よい出来である。

  作家ギルトにとっかかりをつかむと作家は延命策として通俗小説に向かうのは日米で同じだろう。これは通俗小説なのだが、複雑なつくり(invinsible)なわりには、文章の滑らかさ、構成の一体感、分かりやすさでいわゆる「円熟」の境地に達している。日本だとこうなると「文豪」という呼称をたてまつるのだろうか。

  後書きで訳者はこの作品が初期の「ムーンパレス」と世間で比較されるというが、訳者も指摘しているように全然違うようだ。


コンドームはごみ箱に捨てちゃだめよ

2019-07-15 08:06:32 | 破片

 異界からかすかに妻の声がする。はやく起きなさいよ、と言っているらしい。半覚醒の第九の脳にはそのように聞こえた。おかしい。妻が自分より早く起きることは絶対に無い。洋美より一時間早く起きて朝食の支度をするのが結婚の契約なのだ。妻の声はダイニングキッチンのほうからする。目を開けようとしたが目やにで上瞼と下まぶたがにニカワで張り付けたようになっていて目が開けられない。

  また洋美の晴れ晴れとした爽やかな声が響いた。「トーストと目玉焼きとコーヒーの朝食が出来ているわよ。コーヒーが冷めないうちに起きなさいよ」と催促した。いったい、何事が起ったのだ。とにかく起きて顔を洗おうとベッドが降りた。バカに体がだるい。ふらふらする足で洗面所に向かおうとして本棚にぶつかった。何もないと思うところにぶつかったので勢いがある。驚いて本棚に手を伸ばした勢いで本棚は倒れる。彼女がきゃっと悲鳴を上げる。倒れた本棚は小さなキッチンテーブルの上に倒れかかりテーブルがひっくり返った。皿は吹っ飛んで割れる。コーヒーは床にぶちまけられた。たまごも床に落ちて張り付いた。

 目が見えないから床に落ちた卵を踏んづけてつるりと足を滑らしてまた倒れ掛かる。

どうしたのよ、と彼女の怒声が飛ぶ。目が開かないんだ。目やにでまぶたが接着されているらしい。洗面所に行って顔を洗おうとしたんだ、と彼は弁明した。

「しょうがないわね。どうしたのよ」と彼女は浴びせかけたものの、ふらふらする彼をバスルームにまで誘導した。

  蛇口の水が温まるのを待って彼は入念に顔を洗った。特に目の周りは丁寧に拭った。数分後どうやら目は外界とのコンタクトを回復した。部屋に戻ると彼女は床に落ちたものを集めて床を拭いている。「ごめんね、食事は作り直すから」というと彼はキッチンに行き、湯を改めてわかし、トースターに新しいパンをセットした。作り直した料理をトレイに乗せて運ぶ。彼女の顔を見るといつになく晴れ晴れとした表情をしている。壁に賭けた時計を見ると七時だった。そうすると彼女は六時過ぎに起きたんだな、と第九は考えた。いつもより一時間以上はやい。

「ずいぶん早く起きたんだね」

「すごくすっきりとした気分なのよ。今朝は」といって彼に微笑んだ。「昨夜は疲れたの」といたわるように彼に聞いた。

彼はああ、とかうう、とか文章にならない返事をした。昨夜はスタッグ・カフェ「しずか」の自警団として彼は夕方から「勤務」していたのである。彼はいつも夕食の支度をするために6時前には帰るのであるが、昨日はそういうわけで十時過ぎに帰宅した。ドアを開けた途端に洋美がものすごい顔で襲ってきたのである。

「それからね」と彼女は気が付いたように言った。「コンドームをごみ箱に捨てちゃだめよ。この間お手伝いさんが変な顔をしていたわよ」

 

 


Invisibleとは

2019-07-11 07:41:40 | ポール・オースター

前回の補足、Invisibleについて

 前回の最後で触れた日本語ガイドからの英文の引用であるが、考え直してみるとどうもしっくりとしない。そこで英文で読んだ。faber and faber版89ページにある。前後の文章をよんで腑に落ちた。この文章は作中登場の作家(オースターに擬されている)が青年時代に体験し後悔しているインシデントの回想記を書く段になって行き詰ったと昔の友人である作家に相談した個所である。

  友人の作家ジムは返事で自分のことを書くときは三人称のほうがいい、と勧告している。一人称で書くと、いろいろと心理的な規制が働くから問題を正確にとらえられない、つまり書けなかったと自分の体験を述べている。つまり「invisible」とは一人称で書くとテーマを判然と自分で表象できない、あるいは捉えられない、表現できないという意味なのである。これならわかる。

 それにしても、オースターは一作おきに分かりやすい作品を書くみたいだな。



勝手連が自警団を結成

2019-07-10 08:24:53 | 破片

  チンケな女が逃げ出すと店は虚脱したような静寂に包まれた。

ウェイトレスの女の子たちがお礼を述べに老人たちの席に来た。

「大変だったね。びっくりしたでしょう」と下駄顔が彼女たちを慰めた。

「あの女は前に来たことがあるの」

彼女たちは顔を見合わせていたが「初めてだわよね」と一番年長らしい三十歳くらいの女性が言うと、みんなが頷いた。

 「しかし何だな、余計なことをしたかもな。仕返しに来るかもしれない」

「そういえば、デコボコ組なんて言っていましたね。本当にあの女と関係があるんでしょうか」と第九が聞いた。

「さあな、はったりかもしれないが」

「しかし、コンドームが商売道具だとすると、そういう勢力の庇護があるかもな」と禿頭老人が口を挟んだ。「しかし、あれは商売道具かな。あのご面相で」と疑問を呈した。

 いやいや、お客もいろいろだからな。デブのばあさんじゃなければ勃起しないという客もいるしな。案外ああいうピカソの絵に出てくる女に欲情するマーケットもあるだろうよ、と老人は顎に生えた無精引けを撫でながら言った。

それに、と第九がフォローした。酔っぱらったらあんな女でも美人と区別がつかなくなる客もいるだろうしな、と付け加えた。

 ウェイトレスたちが慌ててばらばらとレジのほうに戻っていった。ちょうど和服を着た女性が店に入ってくるところだった。また、女性の客だ。まさか新手のクレイマーじゃないだろうな、と第九が見ていると、彼女たちは女性にペコペコしている。和服の女性は五十歳前後の上品な顔立ちをしている。彼女たちはレジの周りで話している。客じゃないらしい。

 そのうちに和服の女性は第九たちのテーブルに歩み寄り、「大変お世話になりましたそうで有難うございます」とびしっと着こなした和服を崩すことなく三十五度上半身を前傾させて頭を下げた。

 「いやいや出過ぎたことをしました。あいつが仲間を連れて店に仕返しにくるかもしれません。あなたは?」

「申し遅れて失礼いたしました。この店をやっております」

「オーナーのかたですか」

彼女は微笑むと軽く頭を下げて肯定した。

「彼女たちに聞いたんですが、今日みたいな嫌がらせはこれまでなかったそうですね」

 「ございませんでした。でもこのような経営をしていると、いつか主義者から反対運動があるんじゃないかと心配をしておりました」

「このような店にするというのは貴女のアイデアなんですか」

「いえ、亡くなった主人が始めたんです」

「ご主人は?」

「三年前に亡くなりまして、主人の方針で続けて参りましたがご時世ですから、店を閉めようかと思うときもありますが」というとレジに戻った女性たちのほうを見た。「人を雇っていると閉店するのもなかなか難しくて。かといって主人の方針を変更してありきたりの喫茶店とかファストフード店に切り変えるのも気が進みません」

 今日のことは警察に報告したほうがいいですね、と第九が言った。

「そうですね、早速交番に届けます」

「交番もいいが、警察署の生活安全課にも届けたほうがいいですよ」

「は、生活安全というと」

「多分そういう課があるはずです」

「わかりました。そういたします」

  下駄顔老人が言った。「どうだ、我々も自警団を作ろうじゃないか」

「おれも参加するよ」と禿頭老人が早速手を挙げた。

「どういう風にやるんです」

「なるだけ、店に来て異変があれば対処する。警察に通報するとかね。俺なんかほとんど毎日来ているから、来ている間だけでも注意するのさ」

「おれも毎日来よう」と禿頭老人も請け負った。

「私もなるたけ来ましょう」と第九。

「少なくともここ一週間ぐらいは注意したほうがいいかもしれないね」

和服の夫人は苦笑しながら断るように言った。「そんなご迷惑をおかけできません」

「どうせ毎日来ているわけだから変わりはありませんよ、店になるたけ長くいるようにするだけだ。もっとも込んできたら退散しますがね」

 

 

 


アクロバティックな視点移動

2019-07-09 08:51:33 | ポール・オースター

 オースターの貢献と言えば、見方によってはハチャメチャな視点の浮遊移動であろう。

もっとも、私はひろく現代小説を漁っているわけではないから、なにもオースターの専売特許ではないかもしれないが。前に短編小説のごった煮と書いたが、チャンドラーもこの手を使うが、彼はマーロウの一人称固定であり、ごった煮といってもせいぜい短編二つまでである。一方オースターは錯乱的なごった煮である。腕力でこれを通用させてしまったところがすごい。人称の固定を金科玉条のように唱える日本の文学賞選考委員など吹っ飛んでしまう。

 ま、小説もこういうふうにも書けるんだ、という勇気を後輩に与えた効果はあるだろう。

  そこで彼の小説を要約することは非常に難しい。いま「インヴィンシブル」を読んでいるので、例の「現代作家ガイド」のなかにある要約を読んでいる。なかなか苦労してまとめてある。もっとも冒頭319ページの最後数行の要約は小説の叙述が前後して紹介されているようであるが。

  よくわからないからだろうがこの要約の最後に引用している次の文章がが面白い。

By writing about myself in the first person, I had smothered myself and made myself invisible.

 これって前にも書いたが自分を徹底的に隠蔽して小説なり映画なりに自己表現欲を集中するというオースターの方法論をよく表している。すなわち鍵のかかる部屋の(たしか記述者の友人)や幻影の書の愛人の死体遺棄を手伝って姿をくらましたコメディアンがだれにも見せない映画製作に打ち込む姿に描かれている。

  現代作家ガイドのI氏の評言によれば

「自分を見えなくすることで、自分のことが書けるという逆説」。そういうことだろう。


オースターの三つの位相の関係

2019-07-08 07:52:58 | ポール・オースター

オースターの三つの位相の関係

まずオースターとあなた(現代作家ガイドの評者)の関係

日本の(専門家)の意見というのは内包も外延も欧米の評論家と同じだろう。

 オースターは積極的にインタビューに応じるタイプらしい。評論家もそれを材料にするだろうから、(あなた)とオースター自身の位相は疑似イコール(つまり50パーセント以上)の関係と想定する。

 そこで私の位相と(あなた)の位相の関係であるが、理論的に全体的に比較できるほどの読み込みはモチロンしていないから、雑駁な印象の羅列になることをお断りしておく。

  これはテーマなのか(使いやすい常用の道具)なのか分からないが、まず印象に残るのはオースターが執拗に繰り返し描写する「失踪」である。失踪は当然追跡あるいは尾行を誘発する(ペアになる)。

 いわゆるニューヨーク三部作が探偵小説的と言われるゆえんである。勿論読者の皆様がご案内のように探偵小説的な謎解きは一切していない。いわば物語のレールというか状況設定である。匿名の依頼者として自分自身の尾行記録を探偵に作成させる作品もある。これって外部的に自分はどう見えるかな、という興味を描いているのだろうか。ホフマンなどが描いた分身(ドッペルゲンガー)現象に通じるところもあるようだ。

 また失踪の裏返しとしての自己露出が付随する。もっともひねりがあって、作品(自分の書いた小説)のみによる露出、(鍵のかかる部屋の場合)や(誰にも見せない映画製作、なんだっけか、幻影の書だったかな)。

  失踪は長期の不在(視野のそと)というケースもある。ほとんどの作品で主要な筋としてではなくても挿話として失踪が組み込まれている。

 失踪が何かを著わす寓話的なものなのか、主要テーマなのかは判然としない。余談だが村上春樹の作品を貫くものは喪失感だとかいうのを読んだ記憶がある。正確かどうかおぼつかないが。失踪されたものには喪失感を味わうのか。いや、これは全くの余談です。言葉遊びでした。

 


あなたのオースター、私のオースター、そしてオースターのオースター

2019-07-07 19:53:49 | ポール・オースター

ポール・オースターについてはこのブログの様々なカテゴリーで書いてきました今後は「カテゴリー=オースター」でアップしますのでよろしくお願いします。

さて「あなたのオースター」というのはアメリカ文学の大学教師による作家論なんですが、前回読み直してみると書きましたが、なかなか時間が取れない。これも前に書きましたがニューヨーク三部作を除き記憶に残る印象がない。それで現代作家ガイド「ポール・オースター」という本を買いました。超マイナーな本のようで運がよくないと見つからないかもしえません。

それで、何時もの通り小当たりに中身を当たってみたのですが「ちがうな」という印象です。それで「あなたのオースター」というわけです。もっとも日本の大学の先生ですから、かの地の文芸評論をベースにしているのでしょうから「一般的」な評価なのでしょうが。

 

そこで、私の怪しげな記憶をたよりに「私のオースター」を書いてみようと思います。

 

 

 


LGBTのたかり

2019-07-06 10:37:42 | 破片

 一体何の騒ぎですか、と禿頭老人の横の席に座った第九は聞いた。

「あの客がね、入店から一時間すぎたから、さらに千円いただきますと女の子に言われてわめきだしたらしい。あの風体で女と認められたんだから喜んでもよさそうなんだがね」

 なんて言ってるんですか?

「女性に対する差別だと息巻いているのさ。あまり五月蠅く喚きたてるから新聞も読めやしない。見物しいているのさ」

「なあるほど、そういう手もありますね。格好の見世物だ」

「あの客はな、入ってきたときから騒々しかった。スマホをとりだして大声で電話をかけていたんだ」

一時間も続けてですか?

「そうなんだ。他の客が眉をひそめて牽制するように見ても一向に感じないらしいんだな」

すこし、頭がおかしいのかな。

「そこへウェイトレスが一時間経ちましたので追加料金を、とやったわけだ。そうしたら女性差別だと喚きだした」

「どのくらいやっているんですか」

「そうさな、もう三十分以上騒いでいるな」

そりゃ、いい迷惑だと言ったときに客が一人入ってきた。常連の下駄顔老人である。彼も入り口でびっくりしたように立ち止まっていたが、中に入ってきて第九のそばに腰をおろすと「何の騒ぎだね」と尋ねた。

  事情を聴くと下駄顔はLGBTのゆすりだな、と呟いた。彼は六尺豊かな相撲取りのような体を立ち上げるとゆっくりとした足取りで「おんな」のところへ近寄った。

「すこし静かにしてくれませんかね。お客はあんただけじゃないんだから」

突然現れた大男がのしかかるようにしながら変に押し殺したような声で言われて、最初は怖くなったらしいが、白目をむいて見上げると二十世紀初頭から迷い込んだらしい大変な年寄とみると元気を取り戻して「なんだ、このじじい。死に損ないは引っ込んでいろ」と返り討ちにした。

 「もう千円払うのが嫌なら店から出て行ってもらいてえな」と一オクターブ落とした声で老人は囁くようにおんなに通告した。

「なんだ、てめえは用心棒か」と女はお里丸出しの声でバカにしたように言った。

「べつに用心棒というわけじゃない。お客代表として迷惑だから出て行ってくれと言っているんだ」

用心棒ではないと聞いて元気が出てきた女は「関係ないだろ、黙って引っ込んでろ」

そうはいかない、と老人は返答した。

おんなは老人をにらみ返していたが「用心棒じゃなければ何なのよ。お客代表なんて通用しないわよ」

 下駄顔は「問われて名乗るも烏滸がましいが」と急に裏返った声で節をつけてしゃべりだした。

「なによ、なによ」

「問われて名乗るもおこがましいが、知らざあ言って聞かせやしょう。姓は西郷、名は吉之助、名乗りは隆盛とは俺のことだあ」と節をつけて言った。

 「バカにしやがって」と女は立ち上がるといきなりコップの水を老人に浴びせた。老人が飛沫を避けようとして上げた手が女に当たったようにも見えなかったが、女は二メートルも後に吹っ飛ばされた。

ハンドバッグが飛ばされて床に落ちて掛け金が外れて中からがらくたが床に散乱した。くしゃくしゃになった煙草のパッケージ、未成年の少女が持つような化粧道具がぶちまけられた。

 女は慌ててそれらを拾い集めると「覚えていろ、お前なんかデコボコ組に頼んでここいら辺を歩けないようにしてやる」と叫んだ。

老人は足元にまで転がってきたコンドームの箱を拾い上げると女に差し出した。「ほら、大事な商売道具を忘れちゃいけないよ」と女のあしもとに放り投げた。

 


半ウイークデイ

2019-07-01 08:35:40 | 破片

 第九の生活は月曜日から金曜日までが活動日である。土日は一切外出しない。群衆とくに家族ずれの発散する波、脳波なのだろうが著しく第九を狂わせる。それに土日はキャリア・ウーマンである妻が家にいるから専業主夫である彼の仕事がウイークデイより多くなる。一日中家事や妻の世話に切れ目なく働かなくてはならない。

  今日は水曜日である。春分の日である。第九はいつもの週日のように午後から街にさまよい出る。リズムになっているから街をうろつかないと体調を崩すのである。妻も容認している。新宿南口の地下道は群衆で溢れている。第九はたちまち激しい頭痛に見舞われた。おなじ群衆でも週日にはそんなに顕著に影響が出ることは無い。もっとも雑踏するラッシュアワーは避けているからでもある。何よりも休日は家族連れ、アベック(いまこんな言葉を使うのかな、若いカップル、恋人同士とでもいうのか)、まあ何でもいいや。

  それでも結婚前は土日も外出していたのである。もっぱら競馬場に通った。そのころは中央競馬でもそんなに観客はいなかった。それが年々人が競馬場に蝟集するようになり、彼は日曜日の午前中しか行かなくなった。午前中はのんびりと観戦できたからである。ところがやがて午前中から芋の子を洗うような状態になった。彼は土曜日にしか競馬場に行かなくなった。しかし土曜日もメーンレースがある午後には満員電車みたいになった。とうとう彼は土曜日の1レースから3レースぐらいにしか行かなくなった。現在では土曜日も早朝から込み合うからもう競馬場にはいかない。

 痛む頭をさすりながら彼は早々に新宿の雑踏から抜け出して、近くの学生街の一角のビルにあるスタッグ・カフェに向かった。エレベータを出るとどこかの店で喧嘩をしているような怒鳴り声が全フロアに鳴り響いている。なんと怒鳴り声は彼が時々いくカフェの中でしていた。

  怒鳴っているのは悪質なクレイマーだろう。いつも静かな店内であまりたちの良くない客はいないのだが、どうしたのだろうとレジ前まで来た。レジには誰もいない。いつもは新客にアテンドして席まで案内してくれる女の子もいない。みんな店の奥で客に怒鳴られている。そのクレイマーは服装からすると女性である。怒鳴り声からすると男のようでもある。店員の女の子たちは襲い掛かられるのを恐れるようにその客から三メートルほど離れて団子のように固まっている。

  相手が手を出せば集団で抵抗しようと身構えているようだ。女は、あるいは女装の男はまん丸い顔をして黒縁の眼鏡をかけている。髪は短いざんぎりで紫色に染めている。テレビによく出てくるフェミニストの論客に似ている。顎の鰓は左右に張り出している。

  第九はしばらく見物していたが、これでは頭痛が余計ひどくなりそうだと判断して帰りかけたが、店の奥に禿頭の老人がいるのを見つけて店に入り老人の横に座った。