穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

文学の好む病気

2018-02-27 07:22:26 | ノーベル文学賞

 文学の「好む」病気というのは時代を反映する。ドラッグ中毒なんてのは現代風だ。もっとも麻薬がらみの小説は昔からあるが。うつ病とか引きこもりなんてのも現代風かな。比較的時代を問わないのには精神病(質)なんてのがある。

 二十世紀中葉まででいうなら間違いなくベストテンに入るのは肺結核だろう。別に根絶された病気ではないが、現代の日本や欧米では小説の主人公としてはそれほどポピュラーではない。治療薬もあるし、予防策も完備?している。しかし一昔前までなら肺結核文学は一大ジャンルであった。

 不治の病とされたが病状の進行は緩慢である(例外はある)。微熱があり、顔は赤みを帯び一見健康そうに見える。熱があるから瞳には潤いがある。意識は最終段階まで変わりがない。結核菌は性欲中枢を刺激するものらしい。これは小筆の見聞した場合でも例外がない。どうしてだろう。不思議である。異性の看病から恋愛は定番である。ということで結核文学は多かった。

 ところで、唐突だが歴代のノーベル文学賞受賞者の作品でももちろん結核が重要な骨組みとなっている小説がある。トーマス・マンの「魔の山」もそうである。たしか彼は1929年の受賞者でこの小説が書かれたのは二十世紀初頭だろう。長い小説で途中で読むのをあきらめたが。

 アンドレ・ジッド(ジイド)の「背徳者」もそうである。最近ようやくの思いで読み切ったので少し触れたい。彼は自伝的作品が多い。これも二十世紀初頭の作品である。彼は1947年にノーベル賞を受賞している。彼の作品の女性は主人公の男性が、その前に跪拝すれども触れずというタイプが多い。ジッド自身もそうであったらしい。肉体的欲望は同性愛と娼婦でまかなっていたらしい。作品においても実生活においても。

 さて主人公は幼馴染の女性と結婚してきわめてプラトニックな結婚生活を送る(やかましい読者のためにいうと一回だけ情交があって妻を懐妊させる。その胎児は流産する)。新婚旅行に北アフリカに行く。ここで彼は結核を発症し、喀血する。しかし、アラブ人(ムーア人?)の美少年たちに囲まれているうちに健康を回復する。今度は看病していた夫人が感染する。彼女の病状は彼と違い不可逆的に進行する。

 ジッド自身は結核にかからなかったのか、あるいは知識が全然なかったらしい。夫人の病状ならサナトリウムにいれて絶対安静にすべきところを二度目のアフリカ、イタリア旅行に連れまわす。各地に二、三日滞在すると暑いの寒いの、湿気があるなどと苦情を言って移動する。これほど結核患者に負担をかけるものはない。まるで殺しにかかっているようなものである。

 作品の出来栄えはどうか。取り立てて言うほどのものではなかった。ちなみにローマ法王庁は彼の作品を禁書にした。当然といえば当然である。

 


文学にもっとも裨益した病気は?

2018-02-26 20:35:22 | ノーベル文学賞

 今日銀座を通りかかったが相変わらず中国人の観光客が多い。ところが閉店している店が何軒かあった。26日、27日は閉店なんて張り紙のあるビルがある。なんなんだろう。年度末の棚卸でもあるまいに。銀座はあまり行かないが日曜以外は休むことが多いのかな。

  さて、歴史的に小説に裨益した病気にはどんなものがあるでしょうか。うつ病、恋の病いかな。言い換えれば病気の特徴が状況設定のキーになっているというか。消耗性、軽度の神経興奮、病状の不可逆的進行(悲劇の構成要素、全部ではない、統計的に)、若年者にも多い(つまり小説の主人公年齢に適当)。消耗性疾患のわりに性欲が亢進するなど。メタボじゃないな。私小説では淋病何てのが多いが、やや特殊な分野だしな。

 


カズオ・イシグロのクローン人間はホルモン異常

2018-02-13 20:37:49 | ノーベル文学賞

 カズオ・イシグロ氏の作成したクローン人間にはホルモン異常があるようである。アドレナリンとノルアドレナリンの分泌異常がある。だから人間に本来ある反抗攻撃本能と防御逃避本能がない。

 クローンも古臭い言葉でいえば人造人間である。人造人間の作り方による分類ではクローンはコピー型である。コピー型でほかに有名な小説はオルダス・ハクスリーの「素晴らしき新世界」がある。いろいろな型があるが、型のはなしはわきに置いておくとして、人造人間小説で必ずベストテンに入るであろう小説にフィリップ・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というのがある。

 この小説はだいぶ前に読んだことがあって、内容は忘れていたがタイトルにアンドロイドとあるから人造人間の話であることは間違いないと思い、改めて読み返した。人造人間の種類からいうとディックのアンドロイドはどの範疇に入るのが読了したがわからない。ようするにはっきりとは書いていない。ちらちらとそれらしき記述もあることはあるが。だいたい彼らが有機物でできているのか判然としない。精巧な機械であるような記述もあったりする。しかし、人間の男と女アンドロイドは性交もできるし、惚れたはれたもあるらしい。ようするによくわからん。

 そういえば、長い間に漫然と読み散らかした「人造人間」小説は結構ある。「モロー博士の島」もそうだし「フランケンシュタイン」もそうだ。「私を離さないで」を除いていずれの場合も人間が使役目的、あるいは利用目的、あるいは純然たる学問的興味から作り出した人造人間がやがて人間の脅威になる。本来人間固有の二つの情念(攻撃反抗と防御逃避)を作者は彼らにも当然のこととして与えている。だから彼らは二つの情念に駆られて人間と対抗し、人間の脅威となる。小説では、結局人間が人造人間を滅ぼしてその脅威を除くと、まあ、判で押したようなものだ。ところが「私を離さないで」はほかの小説と違い、人造人間が持つようになる「攻撃、反抗」と「逃亡逃避」という二大情念を示すところが全くない。

 もっともトミーは冒頭部分ではアドレナリンの過剰分泌がみられるような描写があるが成長するにつれてすっかりおとなしくなる。当初のトミー・パートを工夫発展したら小説はもっとメリハリが出たような気がする。終章部分でトミーの激発をちょこっと描こうとした部分もあるが尻切れトンボになっている。惜しむべし。

  小説というものはもともと不自然なものだが、それにしてもあまりに不自然ではないかと思う。これは個人的感想である。個人的と断るのはほかの読者はだれもそういう違和感を持たないようだからである。

 もっとも、イシグロ氏のインタビューによると、「逃亡は描きたくなかった」とあるからイシグロ氏の設計図では意図的に省かれていたのだろう。

 追記:オルダス・ハクスリーだったら、奉仕階級であるクローン人間は受精卵の段階か細胞分裂の初期段階でDNAに化学的処理がほどこされてアドレナリンとノルアドレナリン分泌機能が不機能化されるということになるのだろうが。

 

 


強制的臓器摘出手術に猶予期間はあるのか

2018-02-02 08:37:55 | ノーベル文学賞

 いよいよ「私を離さないで」の最終パートです。クローン人間飼育農場のクローンの間でひそかに語られている「うわさ」がある。臓器提供義務が三年間猶予される場合があるというのである。「うわさ」では男女のペアだけに与えられる。その条件はふたりが「まじめな人間で本当に愛し合っている」場合というのである。どうして愛し合っているペアだけなのか。理由はない(小説内では説明されない)。またまじめな人間の判定基準は彼らがヘールシャムの学校で書かされた絵である、というのである。いずれも荒唐無稽なはなしだが、イシグロ氏はそういうのである。説得力はない。

 ヘールシャムはその後世間の風潮があって、閉鎖されてしまった。キャシーとトミーはうわさを確かめて(その特典にあずかろうと)閉鎖された学校の保護官(先生)たちを探し当てて尋ねる。もちろんそんな噂は本当でないと教えられた。

 之によって此れを観るに、クローン牧場の連中は第三の道があるとかすかな希望をいだいていたのである。介護人か提供者になるほかに第三の道があるとすがるように思っていた。これは抵抗でもなく反抗でもなく逃亡でもない。いわば消極的だが合法的な逃げ道があるのではないか、と考えていた。イシグロ氏の前提にかすかな揺れがある。

 この小説にはオチがある。オチがあるのは大衆小説(探偵小説などの)であるが、シリアスな小説にオチがあるのはどうなのか。

 曰く、愛は死を克服する。愛はクローン人間の悲しみを救える。トミーは四回目の「提供」の予後が悪くて死ぬ。しかし、彼の記憶は恋人キャシーの記憶のなかに生きている。うまくまとまりましたでしょうか。

 


Don Ishiguro, donorという言葉を使ってはいけない

2018-02-01 07:08:01 | ノーベル文学賞

 「私を離さないで」第三部になります。

 さてコテージで二年ほど過ごすとクローン達はいよいよお役目を果たさなければならない。一般の社会でいえば就職するわけです。道は二つある。臓器提供者になるか、彼らの介護人になる。介護人はクローンがやるというところがイシグロ氏の趣向です。原文を見ると介護人はcarerとなっている。これは、まあ、よろしい。臓器提供者はdonorという言葉を使っているが、これはイシグロ氏らしくない。

 ドナーの語源はサンスクリット語のダーナである。恩恵的に与えるもの、金主(特に宗教寺院への寄進者)、スポンサーの意味である。与えるという意味のラテン語のdonもサンスクリット語からきていることは間違いない。

 この言葉は日本に渡来すると旦那という言葉になる。寺院への寄進者ということである。寺院を支える在家のスポンサーを檀家というのも同じ語源である。二号さんにお手当てを与えるものもダンナという、おなじ機能を果たしているからである。

 この与えるという機能は自発的に恩恵を与えるという場合に限られている。一般に臓器提供者をドナーというのは、彼ら本人が自発的に提供するか、家族が提供に同意する場合のみであるからドナーという言葉の使用法の限界を超えていない。しかし、本書の場合は自発的、恩恵的ではない。強制的、運命的である。正確に言えば「無償で強制的に臓器を提供させられる者」である。

 日本語でも訳者のように「提供者」と訳すのはドナーよりはましだが、正確に言えば「無償で本人の意思にかかわりなく強制的に臓器を摘出、提供させられるもの」である。英語でいうとどうなるのかな「free (of charge), obligatory supplier」かしら。つたない英訳で申し訳ない。昔の日本語で供出ということばが一番近いのかもしれない。この言葉を若干修飾するのがいいのかもしれない。現代日本でいえば、NHK視聴料の強制徴収を考えればわかりやすいかもしれない。

 贅言であるが、スペイン語のミスターにあたるドンもダンナという意味ではないか。「ドン イシグロ」といえば「イシグロの旦那」ということだろうか。

 次回は最後になると思います。(どうかな)