穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ポジションリポート、失われた時を求めて

2023-06-12 07:23:02 | 読まずに書評しよう

どうも第一巻に乗って行けないので第十四巻(岩浪文庫)の最後の百ページほど流し読み。

非常に抵抗なく読める。調べてみたら、原著で六巻以降はプルーストの遺稿に基づいて弟や出版社が手を入れたらしい。どうりで読みやすい、常識にかかっている。

しかし、これを読むとフランスの私小説だね。登場人物がべらぼうにおおいのが日本の私小説との決定的な違いだ。没落貴族、成り上がりのブルジョワの社交生活がほとんどだからおびただしい登場人物が出てくる。

もう一つの違いはわざとさえない貧乏な私が前面に出てくるのは日本の私小説だが、「失なわれた」のほうはワタシは最後まで名乗らない。表に出てこない。おそらく、これは決定的な違いだろう。

それだから、あるいはそれなりに、歯ごたえがある。ゆっくり読んでみよう。

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デカルトの情念論 (7)

2021-10-10 17:16:10 | 読まずに書評しよう

 デカルトの哲学は物心二元論であると言われる。物は物体である、物質である。これは比較的イメージしいやすい。世の中の実体は物質である、というのは唯物論である。きわめて素人分かりがいい。その他に実体として精神があるというのが二元論である。これもなんとなく常識的だ。これを物心二元論というのは誰が訳したのか、物体精神の二元論のほうがより適切だと思のだが、ゴロが悪いのか、座りが悪いのか物心二元論が通り言葉になっている。

 ここに心と言うことばを使うのが気にくわない。第一デカルトは物体の始元的属性は延長であると言っている。そうして「精神」の始元的属性は思惟であるという。あったかい心なんて世間ではいうが思惟に暖かいも冷たいもないだろう。心はより動物的な機能である。もっともデカルトの書いたものを読むと精神も心も魂も霊魂も同列に扱っている。情念論ではこころを思惟として扱っているのか。はなはだ粗雑といわなければならない。

 そうすると千年以上にわたって支配をしてきた「神様」はどうなるのか。二種の実体の上の神棚に鎮座しているのか。どうもそうらしい。「事なかれ主義」が処世術のデカルトは所々で厄除けをするようにキリストにお灯明をあげている。読んでいるほうは面食らう。

 さてうら若いエリザベート王女の詰問にあって物と心の間をつなぐ消火栓じゃない、松果腺なるものを当時の解剖学の知識で脳底に認定した。そこでだ、肉体が死んだら心はどうなるか。大問題である。デカルトはトマス・アキナスがひねり出したのとほぼ同じ解答を出す。肉体が死んでもこころは死なない。世間では死ぬと死体には精神活動が無くなるから心も同時になくなるという。冗談じゃない。魂は肉体を離れるのよ、という。だから無傷でピンピンしている。トマス・アキナスの形而上学序論を参照のこと。日本では神道がほぼ同じ考えである。平田篤胤の「霊の真柱」を参照のこと。

 じゃあ、魂はどこに行くの。いろいろあらあな、ということ。未開社会の多くでは、人類学者のリサーチによると遺族の部屋の天井あたりに張り付いている。デカルトはそこまでサービスしていない。第一死体から離れた精神というかこころは寿命がないのかね。思惟だから死なないのかな。そうすると大変だ、空気中には魂が南氷洋のプランクトンのように密集しているに違いない。いや、天に上ってお星さまになるのかな。それなら何兆光年の三乗いや時間軸を考えれば四乗のゆとりがある。当分満員になる心配はない。

 

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デカルトの情念論 (5)

2021-10-05 07:50:57 | 読まずに書評しよう

 このシリーズの最初で中公文庫の訳を覗いたと書いた。おこがましくも訳文の肌ざわりに疑念を呈した。先日岩波文庫の「情念論」を斜めに覗いた。岩波のほうは非常に丁寧な本づくりだと感じた。本づくりとは製本だとか、装丁だとか主として出版社の編集部の作業のことではない。この場合は訳者の知的作業のことである。

 まず索引の出来がいい。各掲載後に原語を併記しているのは、多くの訳本でおろそかにしていることである。また訳注も行き届いているようだ。大抵の訳注は無意味で訳者の知識をひけらかすような物が多いが、そのような臭みもないようだ。それに、「内容一覧」というフレーズの索引と言うべきものまで作成している。日本語の訳文も中央文庫よりも癖がない。

 索引で、フランス語から逆引きすると、passionという言葉があるが、訳語は受動、情念の二つの訳語がある。訳者が訳し分けているのは理由があるのであろう。索引のページを辿っていけばデカルトの考え方が分かるかもしれない。訳者がどういう考えで訳し分けたかも「推測」できるだろう。いずれにせよ、良心的索引があれば、更に先へと理解が進められる。

 ここで疑問、ameを精神と訳しているが、ameの英語での最大公約数的訳語はまえにも書いたように、soulである。日本語では、たましい、こころ、霊魂である。つまり精神、理性、知性の下位概念である(普通は)。別の言い方をすれば、より動物的な機能である。ここのところはチョットひっかかる。「精神」と訳するのは、ちょっと気にかかる。

 索引をながめただけで、色々考えが進むのは索引が優れているということである。索引だからと馬鹿にしたり、軽く見たりしてはいけない。

 

 

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デカルトの情念論(4)

2021-10-02 07:58:21 | 読まずに書評しよう

# デカルトをめぐる二人の女(レディー)

 強引なストーカーであったクリスティナ女王のほかにデカルトをめぐる女として名を残しているのは、欧州の没落した小国の王女エリザベートである。彼女との往復書簡と言うのが残されており、日本語にも訳されている。

もっとも、ファンと言うべき女性はほかの哲学者にもいたようだ。ライプニッツの書簡集の中にもそういう女性がいた様な「記憶」がある。

 一つ補足訂正がある。「情念論」はデカルトがスウェーデン滞在中に出版されたが、執筆のきっかけはエリザベートの質問に答えるものであったらしい。すなわち心身二元論でいくと、両者の関係はどうなるのかと、彼女の「鋭い」質問に答えようとしたのだという。

 ところで日本語では誰も「情念:論」と訳しているようだ。この情念と言う言葉には昔から違和感がある。情念と言うのは「激しい感情」というニュアンスがあるが、本の内容にそぐわない。情念=感情論と理解する向きもあるようだが、これも的を外している。

 私の訳は『たましいの受動』である。英訳では「Passions of Soul」が普通のようだ。原題は「Les Passions de L’ame」である。Ameとはこころ、たましい、霊魂と辞書にある。英語のSoulも大体同じものだ(つまり精神や理性や知性ではない)。外界や自分の身体(延長と言う実体)からの能動(働きかけ、刺激)をたましい(心)が受動(passion)して反応する仕方を腑分けしている(つもり)なのがこの論文のテーマである。

 

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デカルトの情念論 (3)

2021-09-29 13:36:50 | 読まずに書評しよう

 昔から精神の三分野として知情意と言われる。大体この言葉がシナ古典にあるのか、西洋にも同様の分類があるのか浅学菲才にして知らないが、今回改めて考えてみると、例えば西洋哲学史でも「情の哲学」というのはあまり出てこないようだ。

 勿論感情についての断片的な言及は大抵の哲学者がしている。しかし、ややまとまった思想としてはストア派の考えぐらいしか思いつかない。勿論デカルトとかマールブランシュとかにはまとまった作品はあるようだが、十七世紀の一時期に限定され哲学史の中では例外的である。

 哲学と言えば愛知(フィロソフィー)ということばがあるように知識あるいは知識の根拠を探求することと見られる。意(意思)も近世になってからは幅を利かしてきた。自我の覚醒とか、近代の倫理学で一大テーマとなった自由意志の問題はそれだけで知を凌駕する分野になっている。カント(実践理性批判)、ヘーゲル左派のシュテルナー、キエルケゴール、ニーチェなど、すべてメインテーマは意思である。ハイデガーも意志の哲学と言える。大体実存主義というのは煎じ詰めると意志の哲学である。「盲目的な意思」のショウペンハウアーも陰画的な意志の哲学の代表者である。

 そもそもデカルトは自分の情念論を哲学と思っていたのだろうか。彼が哲学と思っていた(認めていた)のは思弁的な形而上学だけだと私は考える。彼の情念論は自然科学と考えると分かり易い。勿論十七世紀の最新の自然科学である。

 デカルトは数学のほかに、光の研究だとか、現代でいえば、自然科学分野の研究がある。そうすると、情念論の手法は生理学、心理学、解剖学の研究である。もちろん当時のそれら分野の知見をより合わせたものだ。当時のそれらの学問の最新の研究を寄せ集めている。彼独自の部分はあるのか、ないのか。

 医学では西暦二世紀の人ガレノスの思想から動物精気なるものを流用している。現代病理学でいえば神経やホルモンとでもいうのだろう。それに当時の心理学的な常識。そうかと思とデカルトと同時代人ハーヴィーの最新の発見である血液循環論を採用している。要するにごった煮である。

 近世初期のモンテーニュとかパスカルの作品のことを考えると、そして当時の生理学、心理学のレベルの限界を考えると、このような主題を扱うにはエッセイが適していたのではないか。

 

 

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デカルトの情念論(2) 九月二十七日

2021-09-27 07:42:44 | 読まずに書評しよう

 デカルトは強いタニマチに逆らえない、逆らわないのを処世術としていた。

前回は訳文の問題を取り上げたが、どうも本文の程度、質にも問題があるようだ。この本の執筆過程からして、特徴的な問題があるようだ。よく知られているように(解説者が必ず説明しているように)、この本(論文)はデカルトのタニマチであったスウェーデンの女王クリスティナの求めに応じ、彼女のために書いている。

 政治家や有力者が有名な文化人、学者のタニマチになって彼らを見せびらかすように侍らすことは現代の日本でもよく見られるように何時の時代も、どこの国でも共通である。このクリスティナ女王は強引さはストーカーに近かったらしい。再三デカルトにスウェーデンに来るように誘い、挙句の果ては迎えに軍艦を派遣している。ほとんど脅迫に近い。そしてデカルトはスウェーデン滞在中にこの論文を出版した。

 用心深いデカルトは自分の研究を続けるためには、世間に目立たないような生活をすることを処世術にしている。これは方法叙説のなかで書いている。だから権威に楯突いたりしない。女王の強い要求に最後は従ったのであろう。

 デカルトはスウェーデンの厳しい気候と女王との応対の気疲れから、かの地で肺炎で死亡した。要するに無理やりに書かされた、あるいは出版を急がされた急ぎ仕事でその内容はほかの著作よりかは質が落ちたのはやむをえないのかもしれない。

 

 

 

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デカルトの情念論 (1)

2021-09-26 13:38:34 | 読まずに書評しよう

 最近隙間時間を利用して頭書を手に取った。大分前に読もうとして、何を言っているのか分からないので途中で投げ出したのだが。最初になにで読んだかを書くのが礼儀だろう。中公文庫にある方法叙説と一緒に収められている。

 今回も前回と同じくたちまち意味不明の雲の中に迷い込んだ。方法叙説のほうはいい。短いし、今になってみれば常識的なことを言っているだけだから、どうと言うこともない。

 わけの分からない理由はいろいろ考えられる。デカルトの高邁な思想は到底理解できないというのかもしれない。それなら、わが読解力の無さを嘆くしかない。

 負け惜しみではないが、どうも訳文が適切ではないのではないか、という疑念を払しょくできない。間違っているとは言わない。私はフランス語が出来ないから間違っているとは言えない。しかし、日本語として適切に対応しているのか。

 岩波文庫に別の人の訳文があるようだ。暇が出来たらそちらも覗いてみたい。それと、私はピンと来ないときは原文か、私の分かる欧文訳で確認することが多い。有名な本なら英訳もあるだろうから、そちらも覗いてみたい。

 原文を直訳すると、とくに哲学的、人文分野の本は意味が取りにくくなる。関係代名詞など、日本の文法にない文章は注意しないとあちこちと訳文が跳ね回る。

つづく

 

 

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私の安物読書遍歴

2021-06-23 07:24:53 | 読まずに書評しよう

久しぶりに会った大学時代の友人がびっくりした。

「お前は昔は本なんか読まなかっただろう」と机の上に乱雑に置かれている本の山を見た。そうだな、商学部だったから本なんか読まなかった。教科書ぐらいのものだ、部屋にあった本は。

彼は机の上の本を何冊か取り上げると「小説なんか読むようになったのか」

「何でも読むぜ、哲学書も読むよ」とへーゲル『精神現象学』の翻訳を彼に見せた。彼は「何だいそれは」と気持ち悪そうに眉をひそめて聞いた。さらに一冊取り上げると、「『室内整理のこつ』、、、『おいしいオムレツの作り方』か。まるで読書傾向に統一がないな」

そうなのだ、とにかく毎日大型書店を何軒か回るのが日課なのだ。別に本を探しに行くのではない。一日一万歩を自転車にぶつけられずに達成するには大型書店が一番いい。大型商業施設の中を歩き回るという手もあるが、どうもしょうにあわない。商業施設では漫然と歩いていると人にぶつかる。乳母車(ベビーカー)にぶつけられる。最近は戦車みたいな乳母車が多いから衝突するとケガをする。乗っている幼児は無傷できょとんとして不注意なおいらを不思議そうに見上げる。まったく腹がたつぜ。こっちは親指を骨折しそうになった。

それで書店めぐりが日課になる。時々店内で立ち止まって立ち読みする。出版業界、書店業界の宣伝は不法スレスレなのが多いから、その分アイキャッチ度が高い。ついつい騙されて買ってしまう。一日に一冊以上買うときもある。そんなにしてあがなった本が読みもせずに部屋に(机の上に、床に)放り出してあるのだ。それで友人に言われて、すこし読み始めた。次号でそれらの感想を書いてみよう。

 

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劣化したスコラ学者、マルクス・ガブリエル

2020-09-28 07:13:36 | 読まずに書評しよう

 精神に食わせるものが無くなった。エンジンが空焚きを始めた。しょうがないからガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を取り上げる。

 おびただしい数の定義、前提、命題を随意にポケットから次から次へと取り出して、第二命題、第三命題を繰り出す。かってのスコラ学者が劣化したかのような論文を読む心地がする。翻訳で読む。

 とにかく21世紀の『新実在論者』たちはマスコミ受け、一般受けのするキャッチコピーをつけるのがうまい。というよりかは、意図的につけるようだ。いわく、前祖先的、ハイパーカオス、なぜ世界は存在しないか、など。

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#3、 ハイパーカオスに到達

2020-09-27 07:22:14 | 読まずに書評しよう

 お話しなければいけないことは二つある。メイヤスーが結論にどういうふうにして到達したか。ついでそれはどういう結論であるか。普通はこの順序で記述するものだが、ここでは逆にした。というのはどうして頂上に到達したか、という登山法は、別の言葉でいえば論証法は、こなれが悪い食べ物のようなのだ。もっと率直にいえば「屁理屈」としか思えない。

 それにたいして、山の頂上からの眺めはちとオツな、オッと言わせるものがある。ジャーナリスト出身の小筆としては頂上の眺めを紹介してから下山法を述べたい。うまくいくかどうかはわからない。

 物自体というか、即自というか、相関主義的円環の外にあるものと言おうか、それは驚いてはいけません、ハイパーカオスなのである。必然的なのは偶然性なのである。分かりやすくいえば、すべて偶然である。それはいわば気ままな神である。

 ここの所を論証(思弁)していたかどうかは読み逃したが、「大いなる外部」は相関主義的円環の内部にも影響を及ぼすらしい。近代、現代科学は多くの自然法則を発見したが、これは即自の「大いなる外部」の気が変われば、自然法則など破壊してしまう。そのあとには全然ことなる自然法則が出来る。とにかく、ニュートンの引力法則もアインシュタインの相対性理論も現代の原子核物理学の法則もなくなっていしまう。物理学、自然科学には無数の定数がある。光の速度とか。こんなものは目が覚めれば変わってしまうかもしれないのだ。

 しかし、自然科学の法則は数えきれないほどの回数の実証実験で確認されているではないか。どうして、どうして、そうした自然現象の法則性が証明されたと考えるのは浅はかである。それは一時的に安定しているにすぎない。物自体がものぐさから手をつけずに放置しているだけで令和二年九月28日午前零時に破壊してしまうかもしれないのだ。

 一時的安定期間は150億年かもしれない。物自体(神様)の御心次第なのである。

比喩的に説明すると、メイヤスーの神はキリスト教の神ではない。ギリシャ神話の気まま横暴なゼウスのようなものだ。ユダヤ教の神、旧約の神の性格もメイヤスーにちかい。日本ではこういう神を「荒ぶる神」という。仏教でも、ヒンズー教の神を習合したものにこの種の神がある。

 

 

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#承前、メイヤスーの「相関主義」スペクトラム 

2020-09-25 09:27:47 | 読まずに書評しよう

 「相関主義」というラベリングの著作権はメイヤスーにあるらしい。そういう考え方の実態は少なくともバークリーにまでさかのぼるわけでメイヤスーの発明ではない。ラベリングの商標特許件はどうもメイヤスーが持っているらしい。哲学の歴史に詳しくない小生には自信がないが。

 相関主義というのは、認識は主体と客体ペアである、という考えである。対象は人間の知覚を通してしか理解、認識できないという至極常識的な考えである。認識を写真とするとカメラの性能を通してしか対象の写真は撮れないというごく自然な考え方であるが、哲学者と言うひねくれ集団の手にかかるとこれがとんでもない暴れ方をする。

 グレアム・ハーマンがまとめたメイヤスー紹介によると、彼は認識にかんする考え方を四つに分類している。そのスペクトラムは

1:素朴実在論、認識外部の世界を信じる。常識的。それを認識できるか、たぶんいつかは出来るという楽観主義。

2:弱い相関主義、カントの理論、外部の実在はあるが、認識できない。考えることは出来る。

3:強い相関主義、物自体には絶対アクセス出来ない。

4:思弁的観念論、物自体というものはない。バークリーか

である。

 思弁的観念論は今のところピンとこないが、下の三つは実在論ではない、あるいは条件付き実在論らしい。弱い相関主義はカントのそれで、認識は人間の知覚を通した情報を人間固有の処理機構で料理したもので外部の物自体は人間には認識できない。しかし、この「しかし」が大切なのだが、物自体について思考することは出来る。小生の言葉でいえば物自体を思考して認識しようとするのは人間のゴウ(業)である。これは赤ん坊の執拗な「なぜ、なぜ」の無限連鎖と同じである。

 強い相関主義は人間の認識の外部に物自体というか実在はあるが人間には絶対認識できないという考え方である。

 思弁的観念論と言うのは、物自体はないという考えらしい。そうするとバークリーのような考え方か。

 さて、メイヤスーの主張であるが、これがはっきりとしない。これがお断りしたように、読みながら書評であるから、そのうちに出てくるのかもしれない。ハーマンによると、最初は弱い相関主義者だったが、その後、身を翻して強い相関論になった。しかし、強い相関論は認識外部の、つまり主体、客体の相関主義的循環のそとには人間は出られないというのだが、その頑丈な相関主義の網の目を、サーカスの檻からの脱出のようにすり抜けたという。どうすり抜けたのだろうか。

続く

 

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カンタン・メイヤスー

2020-09-24 07:32:40 | 読まずに書評しよう

 彼の名前とことなり、彼の考えの目安(メヤス)を簡単(カンタン)に紹介することは出来ない。フランス人の哲学教師と言うが。

 俎板の上にあるのは彼の著書「有限性の後で」とグレアム・ハーマンの「思弁的実在論入門」のなかのメイヤスー論である。最初にお断りしておくが、これから一連の実演を行う *読みながら書評の対象、思弁的、あるいは新しい実在論* の材料はすべて翻訳である。

 したがって書評の対象は原著者の楽譜を日本の翻訳者の解釈によって演奏した邦訳書である。翻訳を読んでいておかしいな、とか引っかかるところがあると、原則として原著を調べることにしているが、まだ生まれたての赤ん坊のような *思弁的実在論* ではわざわざ原著を取り寄せて調べる気がしない。したがって以下のシリーズで対象となるのはすべて邦訳書である。

 それと、メイヤスーの著書だけではなく、これらすべての本には索引がない。哲学関係の書籍には索引が必須である。おそらく索引を作るのは手間がかかるのであろう。時間がかかるのであろう。一般に丁寧な行き届いた索引を作成している書籍は少ない。欧文から欧文への翻訳、例えば、ドイツ語から英語への翻訳にはまず、索引が付いていないのはまれである。しかも索引にはオリジナルな言語での表記もつけてあるのが多い。ま、今回は書き下ろし、流し読み、読みながら書評であるから、その辺はパスしよう。

 索引と言うのは用語の索引(事項索引)である。人名索引ではない。人名索引のついているのはある。作成するのが簡単だからだろう。大して役には立たないが。

 付け加えると、欧米の哲学書で使用する言語は最初からラテン語由来のような抽象的(学術的雰囲気の漂う)用語があり、これは大体邦訳してもそう突拍子のないものはない。しかし、日常言語を使用する場合もかなりある。この場合は原語の雰囲気を適切に訳さないと珍妙な日本語になる。まして、最近の若い翻訳者は日本語にも難があるから(失礼)ますます珍妙になることがある。

 そういう言語、つまり日常語、は語釈が多様であり、同じ言葉でも全然関係ない、場合によっては正反対のニュアンスがあるものが多い。どの言語でも日常語というものはそういうものである。索引で、あるいは本文で原語を示してもらわないと解釈に苦しむことがある。

 さて、メイヤスーであるが、冒頭にあげた出典の少々を読んだだけだが、彼の主張はどこにあるのか分からない。大部分が他者の哲学の批評、評論である。いつになったら彼の考えが出てくるかな、と思っているのが出てこない。したがって彼の文章は、きれいな言葉でいえば哲学史の趣がある。さすがに大学の哲学教師である。

 しかし、彼の料理のしかた、つまり哲学史の腑分けの仕方は大学の哲学教師らしい緻密さがある。それは「相関主義」という刺身包丁である。デカルトに始まり、バークリー、ロック、カントを経てウィトゲンシュタインからフッサール、ハイデガーに至る。

 ちょっと驚いたというか、意表を突かれたのはウィトゲンシュタインに対する尊敬にも近い態度である。ウィトゲンシュタインに対する高い評価は他の「思弁的実在論者」にも共通しているようだ。それもWのいわゆる後期著作ではなく、最初の、そして唯一の生前に出版された著書(だったかな)である論理哲学論考に対してなのだ。それも6・・以下のたかだか50行の断章部分なのだ。彼の理論的部分ではなく、呟きのような部分にしきりに言及する。奇異な感じを抱かざるを得なかった。二十世紀の哲学界の鬼才、天一坊に威光にあやかろうとしたのだろうか。

 

 

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読まなくても書評ができる

2016-12-31 07:36:56 | 読まずに書評しよう

てな本を市中徘徊中見つけた。この趣旨はこのブログで年来主張して来たことと一致するので、同心の言嬉しやと立ち読みをしたところ、偶然めくったページに本というのは読まなくても内容を知らなくても書籍の立ち位置(他の類似書籍との関係)が分かればそれだけで書評が出来るという趣旨のことが書いてある。ちくまの文庫本だし手軽に流し読みが出来ようとあがなった次第であった。

ところがこれが退屈なしろもの、読むに耐えない。電車の中で読んでいて寝込んでしまった。帰宅してから思い出してどれ、もうすこし読んでみるかと思ったのだが本が見つからない。電車の中で鞄の中に入れたつもりが、寝ている間に手から滑り落ちて電車の床に落としてしまったらしい。

それでその時の印象、記憶で書くわけだが、書名もハッキリと覚えていないのでインターネットに書く以上書名ぐらいは読者の皆様に正確に伝えようと電網界を検索した。まずそれからお伝えする。

書名:読んでいない本について堂々と語る方法

著者:ピエール・バイヤール ちくま文庫

文章というか著述法が拙劣である。文章のうまさは比喩の適切なこと、引用が適切なことをみればある程度分かる。この本は引用がだらだらと長く何を補強しようとしているのか分からない。引用は著者が言わんとする所をよりアピールする様に行う物で、なんで長々と退屈な引用をしているのだ、と読者に不審を抱かせてはいけない。 

もっとも引用が下手なのは大学教師の通弊であるからしょうがないとも言える。引用を沢山したり参照文献のリストを出来るだけ長くするのが大学教師のアリバイになるのだな。この著者は意味のない引用を長々とすることにより、書名と正反対のことをしているわけである。引用は本を逐行的にコピーするように機械的に読まないと出来ないからね。

シリアル読みの他に後ろから読んだり、気の向くままにあちこちつまみ読みをするのも良いと書いてある。この辺は当ブログでも言っていることで、この辺はいいだろう。

私も電車の中に忘れて来たので全体の十分の一も読んでいないのであるが。

 

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