穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

久しぶりに陶淵明を読む

2022-09-26 08:40:35 | 哲学書評

 五柳先生伝に「意に会する」文章あり。
『書を読むを好むも、甚だしく解するを求めず。意に会するもの有るごとに、すなわち欣然として食を忘る』
 哲学書と言うものは曖昧なものである。それは詩をしのぐ場合が多い。しかし、なるほど、うまいことを言うな、と思わず膝を叩いてうれしくなることがある。そんな時に食事を忘れるほど有頂天にはならないが、ま、そんな感じだ。
 その意味を「甚だしく、事細かに、根掘り葉掘り解(釈)し詮索する」のは大学の哲学教師に任せておけばよろしい。彼らはそれで飯を食っているのだから。


ゼノンのパラドックスに対する対応のタイプ

2022-09-07 08:13:07 | 哲学書評

ゼノンのパラドックスに対する反応のタイプに三種あり

1:新旧の数学理論で解釈しようとするもの、例えば現代で言えばバートランド・ラッセル。彼は集合論で説明しようとしていたと記憶する。
数式と言うのは人間が作り出した一種の言語だからね。もっともゼノンの逆理は四つあって、ウサギと亀は第二番目の逆理だが、ラッセルは第三のパラドックスについてだったかもしれない。もっとも四つのパラドックスは通底する前提があるので。

2:論理の形而上学的前提を否定する。ベルグソンはこれにあたる。「ウサギと亀」論には時間と運動は空間と同様に分割できるという形而上学的前提がある。ベルグソンは時間は分割できないと振りかぶる。根拠はあまり説得力はないが、たしかにゼノンの論理は時間や運動の二分割、そして二分割の無限連続から成り立っているから、この前提を崩せれば逆理なんてないことになる。

 そしてベルグソンの特色はこの否定が論理のお遊びではなく彼の全哲学の基礎になっていることである。時間は分割できないから、記憶はすべて残る。記憶はすべて持続するという彼の哲学がこの形而上学的前提の上に乗っかっている。
 

3:これは私の考え方に近いが、この逆理は人間が作り出した言語(数学を含む)の限界である。あるいは致命的欠陥である。実利的にはこの逆理を大上段に振りかぶらなくても、実生活上あるいは工学上は全く問題は起こらない。

 サルが人間に進化したように人間が全く違うより高等な種に進化して、あたらしい言語を獲得しない限り、このパラドックスは解決しない。

 


ウサイン・ボルトは脚萎え老婆を追い越せない(1)

2022-09-05 07:14:45 | 哲学書評

 古代ギリシャの哲学者ゼノンのパラドックスとして知られたこの話にはいろんな呼び名がある。
 イソップ物語ではたしか、ウサギと亀の競争、古代ギリシャではもともと、アキレウスと亀だったらしい。というのはゼノンの言葉は残っていなくて伝聞や後の哲学者(アリストテレスのような)の引用文としてしか残っていないのだ。要するにウサギは亀を絶対に追い越せないというのである。
 筆者はウサインボルトとミミズとしたいが、ミミズは気持ちが悪いとオバさんが言いうのでウサイン・ボルトと足萎え老婆とした。第一現代の若造はミミズなんか見たことが無いだろう。
 世の中にはインチキ商法おっと間違えた、インチキ学説で自慢げにこれはパラドックスだという詐欺師的学者が多いが、ほとんどは箸にも棒にもかからないテイの物である。この「ウサギと亀」は真正のパラドックスである。
 その証拠に以来2500年にわたって名だたる哲学者が大真面目で汗をかきながら、いじくりまわしている。
 

 パラドックスとはなんぞや?
論理上は、あるいは言説上は、瑕疵がないが、現実にはあり得ない場合のことである。
 ウサギと亀の話は三才の幼児でも現実にはあり得ないことを瞬時に喝破する。


ベルクソンの生霊についての考え方

2022-09-03 07:27:28 | 哲学書評

 UFOというのがある。これについてのアカデミズムの態度は三つのタイプがある。
1:ばかげたことを言うな
2:何とも言えない、よくわからない、調べてみな
3:UFOはある
 さて、生霊、超常現象、テレパシー、透視、幻視などのオカルト現象についてもUFOの場合と同様の対応がある。
 ロンドン心霊研究学会の会長を一年間勤めたベルクソンの態度は上記2である。いや2.5かな。研究方法やご丁寧に仮説まで提案している。以上は1913年に同会長に就任した時のベルクソンの講演による。
 次回は見ぃーけた、ゼノンのパラドックス。


ユンクとベルクソン

2022-08-30 07:21:04 | 哲学書評

 前回似ている、もう少し上品に表現すると、共通するところがあるといえば、フロイトではなくユンクとベルグソンだろうと書いた。分野が違うから学説が似ているというのではない。ニュアンスというのかな、なんとなく、ユンクの神秘主義、オカルトへの傾斜とベルグソンのタマシイ志向がね。
 この二人には遺伝的に似ているところがある。近親者に霊能者が多い。
 ベルグソンの妹ミナは「猫使いの魔術師」として名をはせた有名な霊能者である。彼女は19・20世紀の交わりに有名なイギリスの魔術集団「黄金の夜明け」の指導者メイザースと結婚している。敵対者にたいして魔術攻撃を仕掛けたことで有名である。
 ユンクの母方プライスヴェルク家は有名な霊能者の家系である。ユンクの学位論文は従妹のヘレーネ・プライスヴェルクを霊媒として開かれた交霊会を扱っている。
以上ちょっと補足。

 そういえばイタコも家系的らしいネ。ベルクソンをイタコと比較してはいけませんが。


フロイトとベルクソン

2022-08-30 01:41:10 | 哲学書評

 2人は分野も違うし、理論にも似たところは全くない。方法論もまったく違う。にもかかわらずなんとなく一方から他方を連想させてしまうところがある。主要概念(テーマ)の言葉が似ているからだろう。フロイトは無意識と言う。ベルクソンは純粋記憶と言う。
 無意識と言うのは要するに「思い出せない記憶」と言うことだろう、フロイトの言うところでは。ベルクソンの記憶と言うのも思い出せない。しかし両者とも過去の記憶、あるいは無意識にアクセス出来る時がある。
 ベルグソンの場合は膨大な過去の記憶の堆積にゆるみ、あるいは亀裂が出来た時には、あるいは睡眠中のように知覚が停止しているときに、つまり現在に注意が集中していないときに、意識でとらえることが出来る。ま、これが思い出すということだろう。
 フロイトの場合は連想法とか夢分析と言う手を使ってむりりやり思い出させる。なぜそんなことをするのかと言うと、フロイトの考え方ではある種の記憶は思い出すと都合が悪い。あるいは本人にとって耐えられないほどつらい記憶だからだ。  
 しかも完全に忘却の彼方に押し込められないものがある。そういう記憶は直に思い出すとマズイので変形屈折して現在の患者の心身に悪い影響を与えている。それが説明のつかない精神病、統合失調症や心身症の原因だと主張するわけ。だから思い出させれば説明のつかない精神病、心身症は直ると強弁するわけだ。ずいぶん杜撰な考えだと思う。
 思い出さないように自己規制をかけるのはそれなりの理由があるからだろう。それを思い出させれば精神病が直るということもあるだろうが、そういう思い出は時限爆弾みたいなものだから発掘されて「意識と言う外気」に晒されたら爆発する危険がある。
 世間には時々家族殺人などで動機のわからない惨劇が起こるが、これなんか、何かの拍子に「禁じられた記憶」がよみがえったためではないかと思うときがある。つまり昔の記憶で記憶の底に押し込められているのは大体が幼児の記憶だろうから、家族に関係する記憶が多いだろう。
 私はフロイトの著書論文は一行も読んだことはないが、巷間伝えられているフロイトの説が、私が上記で要約した通りだとすると、非常にずさんで危険な理論だと思う。
 さらに言えば、記憶の定義の縁辺も明確にしておかないといけない。ベルクソンは過去の記憶は一つ残らず残っているという。どこに残っているかと言うことも定義の問題なのだが、ベルクソンは分かりやすくない。脳髄の中ではないというのだね。これはちょっと、トチ狂った考えだ、科学的には、あるいは常識的にも。それでは心の中か、いや違うというらしい。魂の中だというようだ。翻訳では。フランス語で心と魂とはどう違うのか。英語で言うMINDとSOULの違いみたいなものか。この辺もはっきりとしない。魂と言えば、日本でも頭ではなくて胸にあるとか腹にあるとかいうからね。
 ベルクソンは飛躍して宇宙魂みたいなことも言っていたのではないか。もっともプラトンにも宇宙魂という考えはあったようだが。とするとこれはユンクの集合的無意識だっけ、それにちかい。いずれにせよ、フロイトとベルクソンは無関係と言うほど距離がある。小林秀雄が分からないなりにウンウン言って関係をつけようとしたらしいが無理な話だ。
 また記憶の残り方についても、フロイトはどうか、つまり記憶は一つ残らず永久に(まあ死ぬまで)残っているということは言っていない、たぶん。一部は消失するとも言っていないようだ。要するに明確に突き詰めて考えていない、ベルクソンのように。ベルクソンの純粋記憶とフロイトの無意識は全くの別物である。

 以上順不同な記述でで失礼しました。なにしろテーマが無意識だから扱いが難しい。渡辺哲夫氏が著書「フロイトとベルクソン」で同時代に生きていた有名な二人の著作になぜ相互参照がないのか、と不思議がるのは意味がない。

 


プチ・ベルクソン ブーム 

2022-08-07 08:42:05 | 哲学書評

 この間ある大書店の哲学棚の前を通ったらベルクソン全集とか彼の著作がかなり並べられていた。日本でも大正時代を中心としてもてはやされた哲学者の一人だったが、以後忘れられた存在だった。どういうわけがミニブーム再来の兆しだ。
 哲学界も種切れで、やれポスト構造主義だ、新実在論だというのも陳腐になったので、ベルクソンで一山当てようというのだろう。哲学講釈で飯を食っている人たちが新しいタネを見つけてリバイバルを狙ったのだろう。なにか(よりどころ)がないと食っていけないからね。
 わたしも最近彼の翻訳を二、三贖ってみたのだが、これが厄介な代物だ。
私の考えでは哲学、形而上学は科学(実証科学と古い言葉では言うが)を拠り所としてはいけない。逆でなければいけない。彼の主著と言う「物質と記憶」(岩波文庫)を見ているが妙なことを書いている。この本の最後に『要約と結論』というのがある。此の冒頭がおどろおどろしい。
『私たちが事実から引き出し、推論を通じて確証した思想によれば云々』
最初の句から『推論』するに、これを敷衍して解釈すれば『実証科学に基づけば』ということだろう。これがおかしい。形而上学は実証科学に基づいてはいけない。形而上学は実証科学に仮説となる前提を提供する立場にある=ポパー参照
 もっとも本書は1896年発行であるから当時の実証科学(人体生理学などとと思われる)に基づいているらしい。(実証)科学は日進月歩である。100年以上前の解剖学、生理学を論証の証拠とするのはナンセンスである。しかも文章を読むと、本当に当時の科学に基づいているというにしては議論が粗雑である。

 


シナ哲学という言葉はないようだ

2022-05-12 09:44:24 | 哲学書評

 ちょっと調べたんだが、インド哲学という分野はあるがシナ哲学という言葉はないようだ。私が自分の無学が暴露されると一番心配したのは、西周が哲学と言うことばをひねり出したのは、シナ古典に典拠があるのではないか、ということだったが、ちょいと当たったところ、それはないようで、一安心。
 さて漢和辞典によると哲には異体字がほかに三つある。つまり全部で四つ。そのうちの全部に共通しているのは「口」という部分がある、一つ口があるのは二つ、二つあるのは一字で三つあるのも一字である。だから「口」が関係ある。つまりしゃべくり、あるいは弁論ということだ。
 つぎに「吉」というパートが二つあるのは一つ、三つあるのが一つである。つまり「いいこと」ということだ。ほかに竹というパートが一回あるのが二字ある。これはなにかな?竹のようにまっすぐな理論と言うことかもしれない。

 また斤と言う部分が一つあるのは一字、二つあるのは二字である。斤とは斧という意味である。断ち切る、すなわち分別する、判断するという意味だろう。
 哲は「あきらか」とも読む。また、名付けでは「あきら」、「さとる」、「さとし」などとも読む。哲学と言う造語にはこの意味も含まれているかもしれない。

 


哲学とはなにか

2022-05-11 20:08:43 | 哲学書評

 といってもこのブログで取り上げるからには、ちょっと別の切り口で行きたい。
暇になると、妙なことを考えるもので哲学のことを律義に西洋哲学と断る場合がある。例えば、大学などでは、全部かどうかしらないが、西洋哲学科(ああるいは部)と東洋哲学科が並立と言うか独立して設置されている大学がある。さらに東洋哲学科ではなくてさらに印度哲学科なんて断っているところもある。じゃあシナ哲学科があるのか。これは聞いたことが無いが、ある大学もあるかもしれない。
 書店でも、というか出版界でも単に「哲学史」というタイトルも中身はギリシャから始まるいわゆる西洋哲学である。哲学と言うことばは幕末か明治に作られた言葉で、確か西周がフィロソフィーの訳語としてあてた、あるいは創作した言葉であると聞いたが。
 だから東洋には哲学は無いのかもしれない。あれば西周がわざわざ新語を鋳造する必要も無かった。じゃあ、某大学の東洋哲学とは何を指すのか。東洋と言っても広うござんす。印度哲学なら比較的ロケイトしやすい。仏教以前のウパニシャッド哲学から始まり、バラモン教や仏教思想を整備する過程で行った教理体系がほぼこれに該当するのではないか。
 ただ、これは素人にはアクセスが難しい。一般に入手できる出版物はない。お寺さんの、それも教理問答などに特化した人たちの専有物と言っていい。仏教系大学と言うのが日本にも複数あるが、そういう所の知識の貯蔵庫にあるのだろう。
 仏教系の一般向けの書籍と言うのは多数、無数に書店にあるが、いきなり人生相談的なレベルに落ちてきているので参考にならない。
 シナ、いや中国はどうか。無理やりに言えば、道教とか易とか五行説なんてのがそれかもしれない。これも占い本とか風水レベルの大衆書はあふれているが、哲学的な根拠はないらしい。
 儒教も哲学と言えるかどうか、倫理学は西洋では哲学の一分野ではあるが。てなわけで、一般人がアクセスできるのは書店の精神世界コーナー、占いコーナー、精神修養コーナーにある、あまりぞっとしないものばかりである。
 なんだか分からなくなってきたね。


「分析哲学」とはアンブレラ・タームである

2022-02-25 12:17:18 | 哲学書評

 さて、相変わらず小川榮太郎先生ご推薦の有栖川アリス「双頭の悪魔」を通読中です。ようやく二百ページになって死体が転がるという超スロモー展開です。そうしたら癖がついたのかもう一つの死体がポロリと出てきました。現在650ページ分の400ページと言ったところです。これだけスローペースだと結末を読んでおしまいにするのですが、ゆっくりとシリアル・リーディング中です。それだけ我慢できるのは文章はしっかりとしているからでしょう。

 さて、話題は変わりますが、当ブログの看板は小説と哲学の二枚看板なのに、最近は哲学関係をすっかりご無沙汰していましたが哲学ネタで久しぶりにご機嫌を取り結びます。

 先日日課の一日百万歩、いや一万歩計画を消化するために大型書店をうろついておりましたところ、ちくま学芸文庫の新刊でエイヤーの「言語・真理・論理」が目に留まりました。いや懐かしかったですね。もっとも読んだことはないのですが、書名は昔から聞いていた(有名な、令名高い)本です。日本での分析哲学流行の走りのころは有名な著作で人口に膾炙していました。それなのに、読んだことがないのでどれどれと書名が懐かしく購入したわけです。

 見ると1955年に岩波書店から出たものをちくまで拾ってきたものらしい。つまり戦後まもなく昭和三十年以来ほかの翻訳は出ていないらしい。これが読んでみると訳文のせいか、非常にわかりにくい。翻訳が悪いのか、と思い原書を探しましたが注文になるので中止しました。書店の係がすぐに検索のためにPCをたたき出したので、かなり問い合わせがある本らしい。最近復刻版が出て、やはりどうもわからん、と原書をチェックした人が多いようです。

 訳文のせいもあるのでしょうが、主張を裏付ける例示引用がまったくない。例示がなくても腑に落ちる書物と言うのはあります。ウィトゲンシュタインのトラクタトスなどはそうでしょう。反対に補強する例示がないと何をいっているのか分からない本がある。この本はそちらのほうのようです。

 エイヤーによると、彼の学説はバークリーを淵源とし、ラッセルとウィトゲンシュタインのあとを継ぐものだという。ま、これで大体わかりますが、それではかれがそれらの先陣をどう咀嚼したかとなると、全くわからない。著者自身の言によると、この本は広く長い間教科書として使われてきたという。そうするとやはり訳文に問題があるのかな。

 もっともこれは二十歳代の若書きでその後大分考えの変遷があると、ものの本に書いてあるから、のちの著作は書き方も変わってきているのかもしれない。

 それと、これは一般論ですが分析哲学の歴史の中でどういう位置に彼がいるのかと言うのがとらえどころがない。ある人がうまいことを言った。分析哲学と言うのは「アンブレラ・ターム」だというのです。

 つまり「分析哲学」と言うのは分析哲学と言う傘の下にある哲学すべてで、てんでんばらばらの内容だというのですね。これは至言だと思います。統一的歴史的な流れの中で個々の哲学者を位置付けることは難しいのです。これがドイツ観念論と言えば、一塊のグループで誰と誰ではここがこう違うと明確に位置付けられるが、分析哲学者はそういうわけにはいかない。どう違うんだということが分からない。非常に煩瑣な議論が多いので大筋がつかみにくい。ある人は分析哲学と言うのは中世のスコラ哲学と同じだといったが、その通りでしょう。

 

 


アインシュタインの指導原理としての創世記 

2021-11-18 19:49:08 | 哲学書評

 アインシュタインはユダヤ人である。どれだけ敬虔なユダヤ教徒であったかは報告がないようだ。ユダヤの聖典(であると同時にキリスト教や回教の聖典でもある)創世記によると神はまず「光あれ」といった。そうして光があった(出来た?)。

 終生の論敵であった量子力学について「神はサイコロをふらない」と繰り返した。この神はユダヤの神なのか。単なる(単なるというのは軽んじた言い方ではなく)絶対者、超越者と言った意味なのか、あるいは宇宙の創作者という意味か。

 ところで彼の相対性理論などには多くの哲学的な前提があることが指摘されている。光速は同じ慣性系なら一定であるなど。これはいい。しごく常識的な前提であるし、彼の独創的な主張でもない。

 分からないのは宇宙には(こういう修飾句でいいと思うが)光より早いものはないという断定である。なにを根拠に言っているのか。たしかに光速より早いものは観測されていない。しかし、それは根拠にならない。仮定である。仮定でもいい。あらゆる自然法則(人間の発見した)は仮説である。あきらか反証が出て来るまでは、それは自然法則と呼ばれる。ホパーだったかが言っているとおりだ。

 もっとも、これは観測から実証されているらしい。木星と太陽の蝕の予測と観測が一致したとか。光速c(こちらはcの自乗)は物質とエネルギーの等価方程式にも表れる。これは実証されたのかね。原子爆弾は成功したがあれだけの規模では定量的な観測は不可能であろう。もっとも、放射性原子のごく少量が崩壊する過程で観測あるいは推測出来ているのかもしれない。

 そうでなければ高速cを持ってこないで「とてつもない莫大な量の」という定性的な言葉で十分である。素人なのですこしインターネットを調べてみたが、「光速が宇宙で一番早い」という根拠をしめした解説は皆無のようだ。物理学者と言うのはこれでよく落ち着いていられるものだと感心する。

 だいたい、天文学者や物理学者までもが真顔で夢中になって論じている多元宇宙論では光速などの物理定数はどの宇宙でも同じ値を示すのか。

 なお、ご愛読?をいただいたシュレディンガーの猫についてのアップは前の号で終わりました。

 


ライプニッツをまねるウィトゲンシュタイン

2018-05-09 07:17:48 | 哲学書評

  6.44「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

  言うまでもなくこれはラプニッツが提出した問いである、

“Why There Is Something Rather than Nothing”

と関連している。

  世界の外にある世界(存在)は命題で言表出来ないから神秘である、あるいは解けない謎である << がWの意見である(あろう)。

 とにかく、6.4以降はカビの生えた哲学上のissueを、どういうつもりか議論の展開もなしに拾い上げて陳列している。6.3で止めておけばよかったものを。理解できない。彼の筆記帖から拾い集めた問題を大して吟味もせずに羅列したのだろうか。


世界の外に「何かがある」とウィトゲンシュタインは言う

2018-05-08 22:32:04 | 哲学書評

  「6・41 それは世界の外になければならない」

言うまでもないがこれは近代以降の自然科学のパラダイムではない。世界の外になにかがあるというのは、オカルト信者である。また世界の外にある(超越的存在)は神であるとするのが一神教(キリスト教やユダヤ教)である。世界の外にあるからもちろん論理が通用する世界ではない。だがあるとWは「信じて」いるらしい。あるいは自分が信じていることに気が付いていない。

  論理哲学論考はジャーゴンの集積以外の何物でもないので論理的に整然と説明しにくいが、

「6・43 それゆえ(反問す、なにゆえ?)倫理学の命題も存在しえない」。これも舌足らずな表現だが、Wの言う「世界には存在しない」ということだろう。

  「命題は倫理というより高い次元を表現できない」。含意するところは「世界」の外(上)に倫理という第二の世界があるというわけで言葉では表現できないと言いたいのだろう。

であるがゆえに「倫理は超越論的である 6・42)

 「倫理と美は一つである。6・41」。意味不明だが命題で表現できる世界にないという共通点があるといいたいのだろう。倫理と美が一つであるわけがない。

  また、どこかでそういうことは表現できないから示せるだけだという。まあ、それはいい。

しかし、それは言語ではかたれない、示せないというなら間違いだ。

言語表現というのはWの言う論理的言語だけではない。そういうことをほのめかす、例えをとおして示唆するのも言語の役割である。Wは晩年日常言語だとかなんとか言い出したらしいがこんなことは、最初から気づいていなければいけない。

 「6.432 神は世界の内には姿を現さない」これは三位一体、キリストを否定しているのかな。とにかくこの辺の文章は雑ぱくでとりとめがない文章が続くが。

  付け足しのように唐突に見える6.43は若き日にショウペンハウアーに魅せられたWの反省の弁かもしれない。

  とにかく、Wがどうして6.4以降を書いたのかよく分からない印象です。わざわざ書かなくてもいいのに。

 


ウィトゲンシュタインのスピノザの真似は他にも

2018-05-08 18:45:05 | 哲学書評

 ウィトゲンシュタイン(以下W)の論理哲学論考のタイトル表記はスピノザの「神学政治論」の真似であると前回書いた。もう一つスピノザの真似をしているのに気が付いたのだが、叙述のスタイルはスピノザのエチカをまねている。箇条書きで公理から定理、結論へと展開していく。

  Wはユダヤ系だった。100パーセントじゃなかったと思うが、50パーセントか25パーセントかぐらいだったか。スピノザは100パーセント、ユダヤだったので、その辺の親近感もあるのかもしれない。

  元来公理から理論を展開して行くやり方は哲学にはなじまない。数学や幾何学と違うのだから。もしこのやり方を試みるなら公理の立て方から慎重な計画を立てるべきである。スピノザのエチカは読んだことはあるが、大分昔のことですっかり忘れているが、公理の立て方にはそれほど奇異な点はなかったようだ。あれば違和感が記憶として残っている筈である。

  このやり方をした本でかろうじて後世に余命を保っているのがエチカぐらいなのをみてもそのことが分かる。

  公理をたてるなら誰にでも反対できないように自明な公理、定義が必要である。さて、論理哲学論考のなかの一例をあげる。論考の -1-にはこうある。

 「世界は成立していることがら(case)の総体である。」

 この文章の中で「世界」という言葉ほど人によって、場合によって意味する内容が違う言葉はない。どの場合の世界なのか定義すべきである。また「ことがら」とはなんぞや。これだけでは大学センター入試でも通らないのではないか。翻訳が悪いのではない。原文ではcaseであるが、これも曖昧至極である。まさか「ことがら」から成り立っているのが世界だなどとアクロバットなことを言うのではあるまい。それでは「なにも言っていることに」ならない。

  論理哲学論考の解説書や講釈書には、それはこういう意味ですよと解釈しているものがあるが、本当かな、と首をかしげる。-1-を読んでなるほど、と思う人がいるのかな。

 


命題は人間が作るが

2018-05-07 08:56:09 | 哲学書評

  二十世紀哲学界の天一坊といえばウィトゲンシュタインにとどめをさすだろう。心理学界でのフロイトに相当する。ハイデガーについてもその気味はあるが。

  ウィトゲンシュタイン(以後W)には後期の哲学と言われるものがあるそうだ。私は一冊も読んでいない。だから「論理哲学論考」のみについての感想である。

  昔読んだ(聞いた)ところでは命題の真偽値の議論が喧伝されていた印象だった。それに基づいて従来のすべての哲学、形而上学の理論はタワゴト、ジャーゴンであると啖呵を切ったというあたりが受けたようだ。

  これがW自身の言葉かその追随者の言葉かは定かに知らない。命題というのは人間しか作れない。言葉を操れるのは人間だけだからね。Wの主要関心事は命題内の無矛盾だけであったようである。つまりトートロジー(同義反復)しか真なる命題はない。

  しかし、命題のほとんどは対象を描写するものだ。とくにWが関心を持っていた自然科学は。したがって命題論をするなら、対象との関係や認識主体(人間)への言及が不可欠だが、その辺にキレのある描写がなかったような記憶がある。

  総合的命題(いわゆる経験的命題)についてはほとんど触れていない。単にヒュームの徒であったようである。どこかで「今朝太陽が昇ったからといって、明日また昇るという保証はない」(因果律の否定)というようなことを言っている。ヒュームのことばを繰り返したのだろうが。

  したがって「6・54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う」。

 ここまで書いたWを捉えたのは徒労感であっただろうか ?

  以上説明したようにWの思想には彼を有力なメンバーとして熱心にスカウトしようとしたウィーン学団(論理実証主義者)との共通点はない。ウィーン学団もバートランド・ラッセルもWを誤解したのである。