穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

荷風の断腸亭日乗

2023-09-28 08:13:19 | 書評

どうも昭和十二年ごろまでは興味が持てない。最初のころは歌舞伎界との交流が毎日に記述で、それもどこで飯を食ったとか、誰と会ったかという一日二、三行の記述で興味がわかない。それに、秋庭太郎の伝記では交友範囲の具体的人名が一切ない。これはのちの伝記を通していえる。これは致命的な欠陥である。

ぷらいばしーへの配慮があるのだろうが、荷風の記述が「誰それと飯を食った」という記述にとどまっているから、そういう配慮を必要としない。まれに配慮を必要とする人物が出てくるが、その個所はしかるべき書き方があるだろう、職業的売文家としては。

昭和初年になると歌舞伎界との付き合い記述が一変して変名?の人物との銀座界隈での会食の記録の連続連日であるが、これも無味乾燥である。もちろん女出入りも記録しているが興味をひくものではない。この変名が誰であるかがわかれば興味が持てるかもしれない。秋庭太郎の伝記でもその辺の記述は全くない。したがって興味が持てない。交友関係が一変しているらしいので。これらの人物が誰であるかが分からければ全く無意味な記述である。

昭和十年前後になると、一年以上にわたって浅草の小劇場で自作の上演の経緯が中心となる。これも正直言って興味が持てる書き方ではない。しかし、連日連夜夜明けま舞台台稽古に付き合ったり、けいこが終わった後女優や、踊り子たちを引き連れて飯を食ったり、吉原に上がったりの記述が延々とつづく。はっきり言ってモノトーンである。

昭和十年以降になると険悪な、政治情勢や軍部横暴に対する荷風の嫌悪、批判が多くなり、やや読めるようになる。ひっ迫する日常生活の具体的記述が多くなり、読める。

これは昔所読した時の記憶であるが、このころから戦争末期、終戦直後の混乱の「体験記」は「読める」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広さの比較単位

2023-09-23 08:52:41 | 無題

テレビなんかでよく後楽園球場、ビッグエッグとかいうんだろう。それみたいに広いというのが常套句になっているが、いまもテレビでやっていたが、あのドーム球場はちっとも広くない。

東京競馬場みたいに広いと表現すれば分かるけどね。ぱかの一つ覚えでやられるとしらけちゃうんだよね。

おそらくテレビのアナウンサーの田舎にはああいう人工の建造物はないから、広い広いと感心するのだろうが、噴き出してしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

公募小説の慣習

2023-09-21 08:02:10 | 社会・経済

日本では小説(アニメ原稿でも)募集要領に、公募原稿は返却しないと一方的に書いてある。

京アニの犯人の不安にも一理ある。自分の原稿が記憶の中にしかないならあんな風に考えやすい。

アメリカでは公募原稿は落選であっても必ず筆者に送り返す。それもコメントをつけて返すのが普通の礼儀である。日本の高飛車な業者特権をかさに着た公募要領のほうが異常である。

誤解に無いように言っておくがね、「不安」が理解できるというので「放火」が理解できるというのではない。日本ではこう分かり切った「ことわり」を入れないと何が起こるか分からない後進性があるのでね。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞の進歩

2023-09-21 07:47:35 | 社会・経済

読者の側から新聞界の変化を総括しよう。

まずハードウェアから:

指にインクが付かなくなった。進歩

紙の質がなよなよして腰がなくなった。昔は新聞紙はパリッとしていてめくりやすかった。それが期待感にもつながった。今は腰がなくておまけに神と紙がくっついて容易にめくれない。退歩

値段が理解できない。高すぎて、ちゃんとした理由があるのか。

三面記事がなくなった、つまらなくなった。いわゆる社会面というか、あまり高尚ではないが、新聞の特徴だった。現代ではテレビ、週刊誌に完全にさらわれてしまった。いま、社会部記者なんて種族がいるのかな。

広告;値段の上がる割には広告紙面がお粗末で汚らしくなった。朝日新聞の唯一の取り柄は広告のきれいなことだったが、最近はアサヒもひどい。スーパーのチラシと同じだ。

記事内容について、言わないほうがいいだろう。ハードウェアの低下以上である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和八年夏早くも防空演習

2023-09-08 12:44:10 | 書評

昭和八年というと満州事変の翌年であるが、夏に早くも銀座あたりで防空演習が行われている。

まだ日本の国際連盟脱退前だと思うが、軍部ではアメリカ軍の帝都空襲を予想していたらしい。

一応先の先まで読んだ布石だったのだろう。荷風の日記によると銀座はお祭り騒ぎの人出だったらしい。

断腸亭日乗昭和八年八月連日防空演習

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

荷風日記昭和七年十二月六日

2023-09-07 19:02:48 | 書評

断腸亭日乗・昭和七年十二月六日:

「陸軍士官軍服のままにてカフェまたは舞踏場に出入することさらに珍しからず」

大正末から昭和初年までは内外の軍縮ムードで職業軍人は軍服を着ては街中を歩けなかった。国民から「税金泥棒」とののしられたからである。ところが満州事変で連戦連勝すると、様子が一変したのである。「兵隊さん(将校のことである)ありがとう」というわけだ。軍服を着て女遊びがおおっぴらにできるようになった。

なんか、サッカーやバスケットで国際試合に勝つと気が触れたように熱狂する放送解説者や視聴者に似ているようで怖いね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪書秋庭太郎「永井荷風伝」

2023-09-03 06:59:10 | 書評

漢詩といっても広うござんす。文字通り古代漢の時代から唐代、モンゴル支配の清国のまで。

荷風が好んだのやや近代感覚の現れた清国の時代の詩らしい。荷風は外国語大学の清国科に学んだ。清国滅亡の寸前の時代だ。

秋庭太郎の永井荷風伝によると、荷風の漢詩はめちゃくちゃに批判されている。該書300ページあたり。しかし荷風は漢詩を売りにしていたわけではない。彼の発表した漢詩は多くはないが、文筆家として一家をなした後でも、必ず少年時代から師事した漢学者の校閲を得て発表している。第一荷風自身が昭和五年二月十四日の記に「余満腔の愁思をやるに詩をもってせむと欲するも詩を作ること能わず。わずかに古人の作を抄録して自ら慰む。」とある。

秋庭の文意は荷風が自覚なしに出鱈目な漢詩をもてあそんだ、という調子であるが、これをもってするにこの伝記は眉唾ものであろう。これは何とかいう文学賞を取った作らしい。憐れむべし、笑うべし。

さて、該当の断腸亭日録は昭和に入ってから文章に潤いが出てきたようだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする