穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドロン「太陽がいっぱい」

2012-11-24 19:45:43 | 書評
この間アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」のDVDを見つけた。いつも三枚三千円のを買うのだが、これは3600円くらいだったかな。えらい高いな。それだけ人気が根強いのだろう。

ハイスミスの原作と比べてみようと思った訳。『見知らぬ乗客』の場合と同じで小説の映像化というより、似て非なるものだ。大分作り替えているのだが、動機が納得出来るような作りになっている。原作では二作ともその辺が説得力がないのだが、映像ではストリーも変えてあることもあるが、より自然になっている。

キャラクターが全く変えてある。被害者になる青年だが、原作ではやや不器用な印象のまじめな青年という印象だったが、映画ではリプリーをしのぐ遊び人でちゃらんぽらんな性格。それで金のない相手を色々いじめる。有るときにふと殺意を抱かれても不自然な感じがしない。

小説では、そもそも動機というようなものは描きにくいのだろう。腕の善し悪しはあるにしても基本的には。映画は比較的簡単だ。

特に前に書いたように犯行を真ん中の第二部に持ってくるような構成だと至難に違いない。それを考えるとドストの「罪と罰」はさすがだね。動機の説明は弱いが話の持って行き方がうまい。

一般論になるがミステリーで最後に謎解きがあって、説明がくる伝統的なスタイルの小説で結末が読ませる内容であるものが絶無である理由も動機の説明がみな、取って付けたようなものになるからだろう。

それでも満足という読者もいるし、よいしょする評論家亀吉、亀子氏もいるわけだが。





ヒッチコック「見知らぬ乗客」

2012-11-15 22:27:23 | ミステリー書評
この間買ってきたBD「見知らぬ乗客」を見た。監督ヒッチコック、原作パトリシア・ハイスミス、脚本レイモンド・チャンドラー、チェンツイ・オルモンドとある。まだモノクロである。

交換殺人というアイデアだけ原作からもってきたような作品だ。登場人物の名前が同じくらいで、筋も設定もエピソードも99パーセント違う。これで原作云々ということになるのかな。

出来映えだがB級娯楽映画というところだ。殺されるミリアムのキャラ作りが非常にいいね。見ていて絞め殺されても納得しちゃうようになっている。分厚いレンズの眼鏡をかけた嫌みな女になっている。これは原作より納得ものである。




太陽満載

2012-11-14 07:11:56 | 書評
太陽が満載だ。太陽の季節、太陽の党、そして太陽がいっぱい評。

さて、ハイスミスの太陽がいっぱいだが、あと30ページほど読み残している。このブログの書評は日記、時々メモみたいなものだから、読み終わってから書評を書けなどと言わないでほしい。

オイラが言うところの第三部はイタリア警察とのやりとり、そして例によってアメリカの探偵が出てくるが、第一部、第二部に比べて最低である。

ひどい。読むに耐えないと言ってもいいだろう。もっとも映画は全くと言っていいほど筋を変えているらしい。確かにこれでは映画に向かないというだけでなく、話にもなるまい。「見知らぬ乗客」の第三部はフォト(シネ)ジェニックではないし、切れもない妙なものだったが、一応それも一考というものであった。がこの「太陽がいっぱい」の第三部は違う。

叙述が混乱している。会話がだれが言っているのか分からない。分からないというより、その人物とすると前からの話とつながらない。これは意図的なのかな。トムが錯乱しているということにして。これは『第一部」にもいくつかあるのだが、 最後の100ページはひどい。

彼女はアガサ・クリステイなんて読んだことがないと言うが、まだ、クリステイのほうがましだ。しかも、この部分がクリステイの模倣みたいだから救いがない。

これは翻訳に問題があるのか、あるいは翻訳本の編集の過程に不備があるのかな。これだけひどいとそうではないような気がする。翻訳者に恵まれない場合、原文を読まないとよさが分からない作者がいるからね。他ではダシール・ハメット、ロス・マクドナルドなどが日本での翻訳者に恵まれない例である。

ところで、これまでにパトリシア・ハイスミスの「11の物語」、「見知らぬ乗客」と「太陽がいっぱい」を読んだが、グレアム・グリーンの評(11の物語序)に疑問だ。

第一に、そんなレベルの作家かな、ということ。

第二に、「ハメットやチャンドラーと同じジャンルの作家」というグリーンの分類には首肯できない。作家のレベルということを別にしても同じジャンルじゃないよ。






才能豊かな橋下徹くん

2012-11-12 23:05:55 | 書評
パトリシア・ハイスミス日記も五回目です。

短編集「11の物語」、他には大して興味あるものはありませんな。もっとも、まだ全部読んだ訳ではないが。一つ言えるのは彼女の短編はみんなこれは長編に膨らませられそうだな、というのが多い。こういう人は珍しいのではないか。モームとかモーパッサンとかはそんな気が起きない。もっとも、これも読む側の腕、技によるのでしょうが。

「太陽がいっぱい」を半分ほど読みました。物好きだなあ、と言われそうだが、適当な本がないときにとにかく続けて読ませるのはやはり彼女の「腕」でしょう。これも映画化された作品で映画の題も日本訳と同じで「太陽がいっぱい」。ところが小説の方の原題はThe Talented Mr.Ripley です。才能に恵まれたリプリー氏とでも訳しますか。あまり詩的な原題ではありません。

調子が良くて、相手を乗せることがうまい軽薄な青年です。波に乗って大化けする。なんとなく、橋下徹氏を思い出させます。

これも『見知らぬ乗客」と同じ三部構成。第一部犯行に至るシチュエイションが書き込んである。ただ、見知らぬ乗客と違い犯行は突発的だから第一部は犯行計画という訳ではない。

第二部は犯行、うまく主人公が機転を利かせて糊塗していくが、次から次へとばれそうな事態が出来(シュッタイ)する。それを乗り切ろうとして第二の成り行き殺人を犯す。この辺は読んでいてはらはらどきどき、主人公に肩入れしてうまく行けばいいな、なんて気にさせます。

第三部は読んでいないが、イタリアの警察との鬼ごっこということになるのでしょう。

ところで今日この映画のDVDが無いかとレコード店にいったら「見知らぬ乗客」のBDがあった。買ってきたのでこれから見てみます。チャンドラーが脚本化に梃子摺ってヒッチコックと喧嘩したというところにも興味がある。しかし、太陽がいっぱいのDVDは品切れでした。







ヒロイン

2012-11-11 09:24:25 | 書評
今回もハイスミス「11の物語」。ヒロインという短編はハイスミスの原点と誰でも認めているらしい。

ヘルプの話だ。今は女中と書くと怖い男が出てくるらしいからね。お手伝いというのかな。

新入りのヘルプは子供にも好かれ、両親の評判もいい。彼女はもっと褒められたくて雇い主に給料が多すぎると賃金カット申し出るが雇い主は応じない。それならと家に放火する。猛火の中から献身的に子供たちを救出すれば両親はもっと褒めてくれるだろうと思ったわけだ。

この短絡ぶりは田中眞紀子を思わせるね。どっちもサイコと思わなければ理解不能な言動だ。






スッポン

2012-11-11 09:13:51 | 書評
ハヤカワ文庫のハイスミス「11の物語」、前にも書いたようにまだ全部読んでいないが、もう一つ書いちゃえ。日曜日だし、競馬に行くには金がなし。まとめ書きだ。

今まで読んだうちではスッポンとヒロインが面白かった。

スッポンは母子家庭で母親がかわいがっているつもりなのが少年には虐待としか受け取れない家庭。生きたスッポンを料理のために熱湯に放り込む母を見て切れる。包丁で母を刺し殺すという話。

東欧からの移民の家族らしい。向こうでは家で生きたスッポンを魚屋?から買ってきて家庭で料理するらしい。それが珍しかったね。スッポンに噛みつかれないのかな。すごくおとなしい動物らしい。少年はペットにしたかったらしい。また近所の子供に見せびらかしたかった。

それを母親が冷蔵庫に入れたり、あげくには沸騰する湯のなかに放り込んだりする。日本でも何処かの地方ではこういう家庭料理があるのかな。




「罪と罰」と「見知らぬ乗客」

2012-11-11 08:43:14 | ミステリー書評
ドストエフスキーの「罪と罰」は三部で構成される。別に文庫本で上中下に分かれているからという訳ではない。内容的にである。すなわち、犯行計画、犯行を正当化するまでの心理的葛藤が第一部、第二部が高利貸しの婆さんの殺害、第三部がラスコリニコフの心理的葛藤、錯乱、そして検察との駆け引き。最後は罪を認めてサバサバする(この表現はもっとうまい言い方がありそうだが)。

ハイスミスの見知らぬ乗客も構成上はまったく同じ、ドストの愛読者だったハイスミスは当然踏襲した者と思われる。第一部は交換殺人のアイデアをサイコがたまたま汽車で乗り合わせた常識的、受動的な相手に持ちかける。勿論談合がまとまる訳が無い。一方的に暗示をかけたわけだ。

第二部はサイコ(ブルーノー、あいてのガイに同性愛的執着を持つ)が一方的に離婚協議中の相手の妻を殺害する。そしてガイに自分の父親を殺害するようにストーカー的につきまとい、相手を追い込む。受動的なガイはついにブルーノーの計画を指示通り実行する。

第三部は殺されたブルーノーの父親の会社の探偵が活動を始め二人にたどり着く。

第四部あるいは第三部終末はガイが切羽詰まって殺された妻のボーイフレンドに告白に行く(いささか説得力に弱い展開)、そして相手に信用してもらえないが、こっそりつけたきた探偵に告白をきかれてしまう、という結末である。

さて各部の出来映えはというに、第一部は並、第二部はやや良し、第三部は退屈というところか。

叙述は三人称複数視点だが、ガイのモノローグ的なところが多い。これはブルーノーのモノローグを多用した方が効果的ではなかったか。常識的なガイの内的対話を書いてもあまり面白いものにはならない。

このプロットではサイコのブルーノーをどれだけ活写できるかが出来映えの鍵である。その点ではガイに比重を置きすぎた叙述が作品を退屈なものにしているのではないか。

余談であるが、冒頭の見知らぬ乗客の出会いなどドストの白痴冒頭を連想させる。確かに彼女の愛読書はドストであったと思わせるところが色々ある。

クライム・ノヴェル(サスペンスもミステリーもハードボイルドも含めてこれらの上位概念は犯罪小説ということになろうが)としては三部構成というのはどうなんだろう。少ないのではないか(素人考えである)。


大体犯行からはじまり、犯人を推理して行くのが一つのパターン:推理小説、みすてりー、ハードボイルド、警察小説

計画から始まり犯行に至るのが、なんだろう、:サスペンス、ノワールの大部分、アクション、ホラー

こんなところかな、三部構成の『罪と罰」タイプはこういう分野の小説ではマイノリテイじゃないのかな。






ハイスミス「見知らぬ乗客」

2012-11-11 07:24:29 | ミステリー書評
角川文庫で表題作を読んだ。彼女の作品はこの間買った『11の物語』とこれをとりあえず読んだ。短編集の方は二、三読んだだけなので後で書きたい。なにしろよく知らない作家なので自分の備忘を兼ねて彼女についてメモをまとめた。

見知らぬ乗客は彼女の出版された最初の長編と言う(1950年)。29歳の時の作品。テーマは(アイデアはというべきかミステリーあるいはサスペンスなら)交換殺人。以下多くは本書の解説からの抜き書きである。文庫本の解説は下らない幼稚な文章が多いが、この解説は(新保博久氏)は簡潔で内容がある。

交換殺人というアイデアがこの本の前にあったかどうか分からないという。専門家の解説者が分からないというから下拙にも勿論分からない。しかし、交換殺人を有名にしたのはこの作品である。

すぐにヒッチコックが作品を購入して翌年映画化している。彼の初期の作品としては有名である。脚本は当時映画界でアルバイトをしていたレイモンド・チャンドラーが書いたが、ヒッチコックと意見が合わずチェツイ・オルモンドが完成させた。チャンドラーは「かわいい女」を書いた後、「長いお別れ」を出版する前の時機にあたる。

これが原因らしいがチャンドラーのヒッチコック嫌いは有名、「あの豚野郎」といっていた。また原作について「馬鹿馬鹿しいストーリー」と評していた。

次回書評を書くが彼女の作品を少し読んで男みたいな女性じゃないかと感じたのだが、インターネットで彼女の写真を見て納得。これぞ女丈夫という風貌であった(失礼)。


これも新保氏の解説だが、彼女は「アガサ・クリステイもコナン・ドイルも読んだことは無い。自分ではミステリーもサスペンス小説を書いているつもりはない」と言っているそうだ。その意気や壮というべきである。首肯できる。

wikipediaだったかの評ではドストエフスキーやポーを愛読していたとあったが、見知らぬ乗客はその構成は明らかに罪と罰を踏襲している。すなわち犯行計画が第一部、そして犯行と検察(探偵)との対決が続く。類似は構成だけであるが、以下次号。




読書端境期の選書

2012-11-07 09:21:13 | 書評
何となく気になる。結構有名、だけど読んでないという本がある。読書端境期にはそういう本が書店で眼につく。

パトリシア・ハイスミスもそういう名前だ。彼女の短編集があった。短編なら読み捨て、ランダム読書に負担にもならないかな、と早川11の物語を立ち読み。グレアム・グリーンが序を書いている。そこに目がいった。

『彼女と同じジャンルの作家であるハメットやチャンドラー云々』とある。へえ、そうなの、と思った。他にも本屋の惹句では女性のハードボイルド作家というのはいるが、まともなのは独りもいない。しかし、グリーンが言うなら間違いなかろう。

しかし『ハメットやチャンドラー』のような勧善懲悪的な英雄的私立探偵はいないというから、ますますええじゃないの、である。






下書きを読むという下衆な楽しみ

2012-11-03 09:17:11 | 書評
カミユの「幸福な死」を75ページほど読んだ。

異邦人に先立つ草稿らしい。生前未発表という。読んでみて完成品とは言えない。

75ページ(新潮文庫で全部で200ページ)まで読んだ感想では、解説にもあるとおり、異邦人の前駆をなすパートが多い。特に叙景である。人物もほぼ異邦人とパレレルで容易に推察出来る。

どうしてこんな本を読んでいるかというのか。読書には端境期というべき時機がある。ちょうど読みたい本もない、書棚を見ても再読しようかなというものがないという時があるもの。そういうときにふとした気迷いから書店で出来心で買ってしまう本がある。これもそういう本だ。

驚いたのはこれが49刷を数えていることだ。結構人気があるらしい。それも一つの理由。

構成、テーマは違うようだ。なんとかいったな、メルソー(マルソー前駆)はドストエフスキー罪と罰のラスコリニコフ風だ。というより、彼が自殺介助をする金持ちの不具者がそそのかす考えがラスコリ風というのかな。

異邦人のマルソーは世間からみると『ニヒリスト』的だが、彼自身は十分すぎるほどの感受性を持っている。持てあました感受性が所かまわず飛び回っている。しかし、世間がこういうときには(母親が死んだときには)こうすべきだという反応をしない、無感動だという。殺人の理由も説明出来ない>(太陽のせいだ)というところが虚無者と採られる訳だ。

幸福な死のメルソーはそんなことはなさそうだ。

とにかく、あれやこれや考えて、取捨して異邦人になったのだろう。たしかに大幅に改善されている。

追加:叙景あるいは日常生活を克明に描写するのがカミユだが、時間の推移のパンクチュエイションにアパートのそばを通る電車の轟音がある。いったいどういうところに棲んでいるのだ。線路のすぐ横にあるらしい。これは異邦人も幸福な死も同じ。

いま思いついたが、サルトルの嘔吐のロカンタンも線路の横に棲んでいたんだね。どっちがどっちを真似たんだろう。サルトルのほうだろうな。

念のために調べたら:サルトルの方が年上なんだな。それで嘔吐が1938年、異邦人が1942年。従って直上の推測は撤回。妙な一致という印象はかわらない。

パロデイ:カミユによると、不条理とは世界にあるらしい。それと理性的に対峙するのが作法だ、とこういうことらしい。それはそれでいいが、不条理とは外界にあるだけではない。たとえば哲学、不条理を内包しない哲学は一つもない。

理性的哲学というものほど、内包する不条理がどうしようもないほど、癌的である。そこを誠実に見つめる、認めることが大切だろう。理性的と青少年のように声高に唱える思想ほど、処置なしに不条理化している。

不条理というのは思想を浄化しようとつとめるほど不純物として結晶として鍋の底に頑固に溜まる。