穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

S.King「メルセデス」は加藤・秋葉原事件の剽窃か

2017-05-27 08:17:51 | 書評

キング「メルセデス」は秋葉原事件の後塵を拝したか

 トラックを使う市中での大量殺人は加藤・秋葉原事件を嚆矢とするというのが私の理解である(もし違えばご教示を乞う)。

 実際の事件としてはニース、ロンドンなどでコピーした事件が起こっている。ドイツでもあったような記憶あり。さて、キングの「メルセデス」は小説の上でアイデアを借用している。もっともキングは秋葉原事件なんて知らないのかも知れない。大体人間の考えること、想像することは似たようなものだ(それを言っちゃおしまいか)。

 メルセデスはトラックではないが、2トンの自重があるそうだ。一人のサイコがそれで職を求めて行列していた失業者の群れに突っ込み数人を殺し、多数に重傷を負わせたというのが小説の発端である。ひとまず知的所有権の問題は脇に置いておこう。

 該書は上下二巻で現在上巻の終わり数十ページを残して読み終わった。下巻は買っていない。ただ、買う前に下巻の最後にある解説だか訳者後書きだかを立ち読みした。どうでも良いが、こう言うものは上巻の最後にも掲載してももらいたい。その時の記憶だがこの小説はミステリーとしてエドガー賞を受賞したとあった。

 この小説はミステリーなのかね。たしか解説にはキング唯一のミステリーとあった。しかし、最初から犯人が登場している。それを元刑事が追うというわけで、スリラーというか西部劇風のマンハント小説である。そういう仕立てでは「ファイアースターター」に類似するところもある。

 キングの小説は沢山読んだ訳ではないが、後に記憶が残るものとさっぱり残らないものがある。初期の小説には記憶に何となく残っている者が多い。キャリー、シャイニング、呪われた街、ファイアースターターなど。後期のやたらと長い小説は記憶に残らない。それほど面白くもないし、やっと読み終わりましたという安堵感で記憶が飛んでしまうんだろうね。内容も退屈なのが多い。

 このメルセデスは記憶に残りそうだ。まだ上巻を読んでいる最中だから読んだところは記憶があるのは当然だが、読み終わってもしばらくは覚えていそうだという予感がするということである。

 キングの小説の主人公は家族グループが多いのが特徴である。私の浅い読書経験に基づくから修正するのにやぶさかではないが。記憶に残っているものとしては上記した小説は親子がセットになって話が進んでいる。

 メルセデスはこの点でも家族の核が目立たない。勿論家族は出てくるがそれは各キャラを浮き上がらせる補助的なものである。それに伴ってキングの小説ではポルノ場面がほとんどない。ところがこの小説では短いものだがセックス描写が上巻の終わりの方にある。結構達者な筆である。これで思い出したが、チャンドラーもセックス描写のない作家であったが最終作で(正確にいうと最終作の一つまえのロンググッドバイのラストから)簡単に二人がベッドに寝転がるようになった。

 年をとるとそれが専門ではない作家もアンチエイジング対策として、バイアグラの代用としてセックス描写を書きたくなるのかもしれない。

 谷崎潤一郎の最晩年の作「鍵」も露骨な描写がある。それまでの谷崎の性描写とはまったく異なってくる。いってみれば文学的な雰囲気がなくなり、女性同士に特有の露骨な猥談風になっているのである。これもバイアグラ希求なんだろうな。

 

 


Q(3)章 長州征伐の時に家出をした

2017-05-26 08:42:29 | 反復と忘却

しばらく前から百輛編成の貨物列車が近づいてくるような音が上空から轟いていたが、いきなりすべてを焼尽すようなマグネシウムの閃光が走り店内は真っ白になった。ガシャン、バリッ、ドカンと大音響が降ってくると同時に震度八以上の揺れがスターバックスの店を揺さぶった。明かりは全部消えた。

 午後三時とはいえ外はカワタレ時(彼は誰時)のような暗さで店内には十燭光ほどの光しか届かない。道路を疾駆する車は昼間からランプを点灯している。そのヘッドライトの光線が時々店内をぱっと一瞬照らす。

 店内にいた女性客はキャーとかギャーとか文字に転換不可能な彼女達特有の動物的絶叫をあげた。「おいでなすったな」と老人の声がテーブルの向うでした。その目は紫色に光っていた。しばらくすると上空の貨物列車の轟音はだんだんと遠ざかって行った。

 「西南戦争の時の田原坂での官軍の砲撃を思い出しますな」と老人は呟いた。我に返った平敷は「いったいお年はおいくつで」と聞いた。「当年取って十一歳でさあ」と老人は答えた。「えっ!」

 「文政十年と言うと190歳ということになりますね」と落雷にすっかり性根が飛んでしまった三四郎が機械的に独り言の様に口に出した。

「昔はね。還暦を過ぎると新しく数え直す。私なんか三回還暦を迎えてますな。最後の還暦から十年、当年とって十一歳でさ」

 「そうするとあなたは島津藩のお侍さんだったんですか」

老人はとんでもない、という様に体の前で手をひらひらさせた。「広島の山の中の水呑百姓のせがれでさあ。幕末からご一新の始め頃に一旗あげようとあちこちの戦争に飛び込んだ。うだつの上がらない百姓から這い上がれるかと思ってね」

「備中美作の宮本武蔵みたいですね。関ヶ原で一旗揚げようと飛び出して来た」

「そうさね、そんなところだな。とにかく生まれた所がひどい所でね。農閑期には出稼ぎに諸国を行商して歩かなければならない。毎年の様に河の水が溢れる。十歳の時には家族全員が洪水で死んだ。分家の分家でね。それで本家に引き取られたんだがまるで奴隷の様に働かされた。それでぐれてね、博打に手を出したりした。そのときに長州征伐があったのさ。幕府の大本営が広島に置かれたのでうまい汁を吸おうと家出をしてしまった」

 平敷が聞いた。「それでお侍になれましたか」

馬鹿を言っちゃ行けないというように老人は言った。「まず雑役夫に潜り込めればいいほうだ。その内にお侍に取り入ってうまく行けば足軽みたいなものになれるかもしれない」

 

 


「みみずくは黄昏に飛びたつ」村上春樹に川上未映子がインタビュー

2017-05-21 11:53:08 | 村上春樹

村上春樹の新作「騎士団長のなんとやら」出版記念という体裁のインタビュー集である。全部で四章あって最初の一章(70ページ)が二年前に出版された村上作品「職業としての小説家」を巡って川上さんが村上氏にインタビューしている。

この本の出版後このブログで十何回かにわたって書いたので店頭で見かけて購入したのである。二章から四章までが最近発表された「騎士団長云々」についての質疑応答である。とりあえず第一章だけ読んだところで書評。

 私は川上未映子さんという女性を知らない。個人的に、という意味を強調しているわけでは有りません。勿論個人的にも全然知らない訳ですがね。どういう職業のかたでどういう実績があるか、という意味です。一読してどこかのデパートでよく開かれている文化、教養講座であこがれのえらい先生に若い女性が感激してうやうやしく質問している印象を受けました。

 ウィキペディアで検索すると川上さんは女優で作家です。芥川賞の受賞者ということらしい。年令は40歳という。この第一章のインタビューをした時には38歳くらいということになります。すべてにおいて本のなか(インタビュー)の印象とことなるので驚きました。

そういうわけで彼女の作品は読んだことが無いのですが、同じ作家同士としてはもう少し堂々と質問をしたらどうかというのが感想です。村上氏の受け答えの方は無難で常識的でした。彼はこの手の人にはなれているのでしょう。川上女史は私の言うピンキーちゃんです。女優だからセクシーだという意味ではありません。かなり幼稚な左がかった人という意味です。

 失笑あるいは噴飯ものなのは、60ページからの数ページですかね。『右寄りの作家で、この人、正気かなって思うようなことを言ってますよね』(『』内は川上氏の発言要旨)とか。

『スローガン的な言葉がどんどんうわすべって(スローガン的なのは左翼、戦後民主主義者のほうだと思っていたが)、浅はかな言葉が蔓延する状況に対する危機感みたいなもので、しかるべき物語を書いて対峙して行くということを、村上さんはやっていた(寡読なわたしは読んだことはないが)』。

これに対して村上氏は老獪に「そうね、、、、、(と一応彼女に同調して)考えていることはあるんだけど、もう少し時間がかかるかも知れない」とかるくいなしている。

 彼女は感激して『今日は村上さんのその言葉を聞いただけでも』。このやりとりに失笑しない人がいるでしょうか。

 村上氏はこうも言っている「じゃあ何をするんだと言われても困るんだけど、、、、なかなか難しいですね」とかさねて曖昧化している。

 又村上氏は「社会的にこうするのがコレクトだからこうする、みたいなのは、発想としてちょっと違うんじゃないかと思うんです」とも逃げている。

 正気とも思われない発言をしている作家とは誰のことなのかな。どういう作家のことを指しているのかな。そして村上氏にももっと積極的な左翼的な発言を「していただきたい」みたいなお願いをしている。彼女は左翼的なんて言葉をつかっていませんが、要するにそう言う人たちだけが正しいという単純な考えなのでしょう。

 それに対する村上氏の反応は用心しながら常識的というか曖昧な表現をしている。たとえば「あなたの言う通りなんだが、自分は作家だから大衆運動的なことは適切じゃない、作家として自分としてなにが出来るか考えている(考えているですよ、実施するとか計画すると言質を取られない様にしている)。それには時間がかかるかもしれないけどね」といったようにね。

村上氏も基本的には「戦後民主主義」に洗脳された口なんだが、マーケットのことを考えると右だ左だと旗幟を鮮明にしないほうが得策だ、と思っているのでしょう。

 


Q(2)章 文政ひのと・ゐ

2017-05-18 08:46:30 | 反復と忘却

運ばれて来たコーヒーはファストフード店の多くがそうである様にぬるく薄く不味かった。ウサギの糞のように細いシュガースティックを破り砂糖を3グラムコーヒーに入れると付いて来た耳かきでかき回して二人はコーヒーを飲んだ。

 老人は胸ポケットから葉巻を取り出し吸い口を噛み切ろうとしたが、ふと気が付いた様に「禁煙でしたな」というと火のついていない太い葉巻を指の間で回した。

「この雨はすぐに止むでしょうか」と三四郎は老人に聞いた。先ほどの話から老人は龍神をコントロールしていると思ったのである。

老人は驚いた様に彼を見た。「さあ、どうだか分かりませんね」というと長い顎を撫でた。「アタシが操っているわけではないんでね。勝手についてきて振り切れんのです」

 「まるで俺の自我みたいだ」と平敷が言った。

「ジガというと」と老人が反問した。こう書きます、と彼はテーブルの上に濡れた指で書いた。

「ふーん、どういう意味ですか。昔は無かった言葉だ」

平敷は四苦八苦して意味を説明したが老人にはチンプンカンプンであった。

「最近よく聞くストーカーみたいなものですか」

「そうかもしれません。振り切ろうとしても乞食犬の様にどこまでも付いてくるんです。振り切れないんです」と平敷は答えた。

 あなたもそうですか、と老人は三四郎に聞いた。

「わたしには自我なんて有りません」と三四郎は答えた。私には自分の影もないんですから、と付け加えた。

「おかしな言葉が出来たものだ」と老人は憮然として呟いた。

「失礼ですが昔と言うと何時頃ですか。終戦直後ぐらいかな」

私は文政のひのと・ゐの生まれでさあ、と老人は教えた。今度はふたりがぽかんとする番であった。老人はさっき平敷がしたように指を濡らしてテーブルに丁亥と書いた。

 三四郎はバッグの中から歴史手帳を取り出して付属の年号表を調べた。

「文政十年ですね。1827年生まれですか」と呆然として老人の顔を見つめた。

 


Q(1)章 驟雨を連れ歩く老人

2017-05-17 08:28:42 | 反復と忘却

Q(1)章 驟雨

 突然のことだった。五月によくあることであるが気温は摂氏三十度を軽く超え空は真っ青に透き通るようなかんかん照りであった。前触れも無くあたりが真っ暗になると叩き付けるような雨が落ちて来た。

 三四郎と平敷は駆け出すと雨宿りが出来そうなところを探してスターバックスに飛び込んだ。ほんの二、三分のことだったが、雨は肌着にまで染み通りズボンは水を吸って下肢に張り付いていた。

 店内は満員で彼らの様に突然の驟雨に襲われて雨具を持っていない雨宿りの避難客で一杯であった。他の店を探しに外に出れば雨水はたちまちパンツの中にたまってくる。軽い海綿体がパンツのなかで泳ぎ出しかねない。

 もう一度店内を見回すと一人の老人が座っているテーブルに空いている椅子が二脚あった。平敷が恐る恐る老人に「相席をお願い出来ますか」と聞くと老人は鷹揚に笑って快諾してくれた。

 老人は彼らを見ながら「大変に濡れましたな」と同情し眉をしかめた。「ほんの二、三分の間だったんですけどね。バケツをひっくり返したなんてものではありませんよ。北のミサイルが落ちて来たってこんなに慌てませんよ」

「ひょっとすると、私が連れて来たのかも知れないな」と老人は呟いた。

「えっ、何をですか」

「いや、この雨をさ」と老人は平然と言った。「ときどき私の後を雨が付いてくることがあるんでさ。台風が付いてくることもある」

驚いて老人の顔を見るとその目はうつろで三光年くらい先のブラックホールの様な空虚を湛えていた。

二人の座った椅子はたちまちびしょぬれになった。衣類に蓄えている水はひっきりなしに床に滴り落ちだ。袖口から出てくる雨水はテーブルを水浸しにした。配膳カウンターまで歩いて行って注文するのも忘れて茫然自失といった形で座っているとウェイトレスが気をきかして注文を取りに来た。彼女はあたりがびしょ濡れの惨状を見て嫌な顔をしたが何も言わなかった。店内そこら中で同じような光景が繰り広げられていたのである。二人はホットコーヒーのラージサイズを注文した。出来れば舌の焼けそうな熱いコーヒーをどんぶりに入れて持ってきてもらいたかった。ブランディーもたっぷりと加えて。それほど彼らの体は冷えきっていて、すでにがたがた震え出していた。

 

 


ベントリー「トレント最後の事件」

2017-05-06 20:26:49 | 犯罪小説

この小説は江戸川乱歩がミステリーのベストテンに入れていたので読もうと思ったことがある。ところが絶版になっていたので原書で読んだ。最近創元社で再版されていたのを見て読んでみた。奥付には

1972年初版、2001年21版、2017年2月初版とある。初版というのはどういうことだろうか。訳者は大久保康雄氏である。すでに亡くなったかただが、この人の訳なら大体大丈夫だろうと思って買ってみた。

 大久保氏はミステリーのみならず英米の小説を多数訳していて水準以上の演奏家だと評価している。私の考えでは翻訳者は演奏家だと思っている。原作者は作曲家である。また、敢えて言えば一般読者も鑑賞者であると同時に演奏者でもある。小説を読んでそれを受け止め印象を自分の中で再現するということは音楽の場合の演奏者と同じである。音譜だけを読んで音楽鑑賞をする愛好家もいる。読者のなかで、読者なりに受け止め再現するのは他人の曲を演奏するのと同じことである

 ま、そういうわけで、昔探して訳書がなかったものが復活したのと、訳者が大久保氏なのを見て読んでみようというわけであった。読んで行くとどうも引っかかる所がある。最初に述べた原書がまだ手元にあったのでそう言う箇所を英文で確かめてみたのだが、訳文の方がどうもおかしい箇所が複数ある。

 ウィキペディアで調べると、大久保康雄氏は下訳者を複数抱えていていわば翻訳工房のようなものを持っていたらしい。田中正二郎氏も大久保氏の下訳者として修行したらしい。どうもこの「トレント最後の事件」は下訳陣の原稿をあまりチェック或は推敲していないまま出版した形跡がある。忙しいとこう言うこともあるであろう。私のこれまでに読んだ他の大久保氏の訳書でこう言うことはあまり感じたことは無いのであるが。

 それはさておき、全体の構成と言うか原著、訳書に関係なく小説としての本書はちぐはぐな印象を受ける。良い所と悪い所が混交しているという印象が強い。彼はジャーナリストであり、humoristだったという。humoristというのは訳しにくいが、辞書なんかにはユーモア作家とあるが確かに文章はうまい。問題は構成だがどんでん返しが二回あるという仕掛けで、自然ではない。人為的というか人工的というか、白けるというか、とって付けたというか。

 また、恋愛要素を相当部分取り入れたというのでミステリーとしては珍しいというのだが、一言で言えば浮いている。

 すなおに抵抗なく読めるのは素人探偵トレントが自分の推理の結論をまとめて、被害者の妻が共犯者ではないかとカマをかけるところ(200ページあたり)まで。その後は作者がもがいているところがもろに伝わってくるようで気の毒になる。ほかに書き方があったんじゃないかな。


恩田陸「蜜蜂と遠雷」、韓国市場をあてこむ著者と編集者

2017-05-03 07:01:57 | 直木賞と本屋大賞

 本屋をまわると、村上春樹氏の新著と恩田陸女子の新著がてんこ盛りである。最近は「蜜蜂と遠雷」のほうが優勢である。そこで久しぶりに新著をとりあげる。当ブログの方針である「社会的にニュースになった本」を対象とする。

 例によって最初にポジション・リポート: 400ページまで読んだところ。ただし後で書くが三次予選の描写あたりからぐっと質が落ちたようなので、その辺はほとんど読んでいない(つまり一ページ1,2行読んでだめだとおもうと次のページをめくる)。

 1:布石がいい。ただし叙述が明晰でないところがあるので、100ページ当たりまでは二度読んでから先に進むとよい。とくに高島明石が女性かと思ったり、明人というのが彼の息子であるというのがはっきりしない。

 2:テーマは音楽コンクールの予選から決勝までをおうものだが、音楽の演奏を自然描写とか絵画とかドラマ展開に変換していくので、これが新機軸かどうかは寡聞いや寡読にして知らないが、なかなかうまい。わかった気にさせる。音楽に疎い小筆が読んでも文章としては読ませるという意味である。このスタイルは演奏者、鑑賞者(聴衆と他の共演者の演奏を聴く参加者)の心情描写に使われる。

 読んでいて、疑問に思ったのは(音楽業界にうといので)、音楽評論家も同じ手法を使うんだろうかということ。つまり演奏のうまい、下手をそんな風に評価するのかということ。読んでいくと著者は審査員の記述ではこういう書き方はしていないようだ。つまり演奏の受け止め方が鑑賞者と審査員では違うものとしてかき分けている。おそらく意識的にしているのだろうし、合理的で読んでいて納得できる。

 もっとも、審査員が彼らの弟子を指導するときには自然描写とかドラマ性を曲の演奏指導のtipにすることはありそうだ。

 3:大会は第四次の決勝まであるのだが、第一次、第二次までは読ませる。第三次からは描写の質が落ちるようだ。文章のイキも短く箇条書き的になってきた。意図的に著者が別の観点か手法を用い始めたのかもしれないが、単に質が落ちてきたように思われる。そこ今後は第三次、決勝の箇所はすっ飛ばして最後の2,30ページだけ確認しようかと思っている。

 4:異様に感じたのか、意外に韓国、中国の参加者(コンテスタント)が沢山登場して、皆主演級の扱いを受けていることである。現在の世界の音楽マーケットの状況を知らない小生としては、それが実態なのかどうかは判断できない。第一小説だから実態を反映する必要もないのだが。この辺は著者かあるいは編集者の意識が韓国マーケット、大陸マーケットにあることを示している(のだろう)。村上春樹作品にも全作品に中国マーケットを意識した箇所があるが。恩田氏の作品は40冊以上韓国で翻訳されているという。