穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カミュと哲学

2020-03-14 07:29:26 | カミユ

 カミュの哲学的能力はサルトルに揶揄されたようなレベルであるが、一応アルジェ大学の哲学士である。大学生の学部レベルであるから大したことは無いが、卒論は「キリスト教形而上学と新プラトン主義」であるそうだ。アウグスティヌスとプロティヌスとを通してキリスト教とヘレニズムの関係を考察したものであるという(新潮文庫 異邦人解説)。

 学部レベルだからたいしたことはないが、それでも新潮文庫「転落」解説によると卒業論文執筆のために『新旧聖書は言うに及ばず膨大な資料を読破している』という。本当かどうか分からないので解説をそのまま引用した。

 そのせいか、彼の小説のタイトルにヘレニズムというかグノーシス関係で特徴的に多用されるイメージ言語が見られるものがある。たとえば『異邦人』、『転落』や『追放』など。勿論これらの言葉は専門用語というよりも日常言語であるから当時の思想思潮とは関係なく使っているのかもしれない。

 ま、そんなこともあって両書をあらためて拾い読みしてみた。『転落』はどうもピンと来なかった。『異邦人』のほうはどこかでつながっているところがあるようだ。勿論作者が換骨奪胎しているのであるから直接はつながらないようであるが。

 主人公の行動や心理は別世界の機制で動いているところなど、グノーシスの完全な二元論を考えると理解しやすい。また、象徴的な意味でつかわれている『光』はグノーシス各派に通底する代表的なイメージである。「アラブの少年を射殺したのは太陽がまぶしかったから」というわけである。これは「不条理」と気取るより、ゾロアスター教やマニ教の思想に近い。

さて、この機会にカミュの再読性について:

異邦人: 三読可ただし第一部

ペスト: 再読可

最初の人間: 再読可と思われる。再読していないが。これは自伝的記述のルポルタージュ風というか、比較的抵抗なく再読できそうだ。

その他翻訳のあるものの中には再読したいと思うものはないようである。

 


カミュの転落とは

2019-09-25 07:30:46 | カミユ

 無聊に耐えかね最近プロティノスの『エネアデス』をぱらぱらとめくった。かなりアクロバティックな論法に面食らう部分も多いのだが、重要なキーワードの一つにに『転落』というのがある。イデアあるいは思考の思考からの転落過程で時間や意識が生まれるというのだが、かなりアクロバティックに頭を働かせないと付いていけない。

 プラトン、アリストテレスの後継者をもって自ら任じ、新プラトン主義の創始者であり、エネアデスは古代、中世の西欧の思想界を支配した書物である。ふと思い出したのがカミュの中期の作品の『転落』である。そこで記憶がなにかに引っかかった。新潮文庫を引っ張り出して「あとがき」を読んだ。ない。そこで『異邦人』をみた。私は大抵の本は読むと捨ててしまうのだがカミュの本は書棚に残っているのである。

  ここだよ、と呟いた。異邦人の白井浩司氏の「解説」の一節である。これが記憶にひっかかっていたのである。アルジェ大学で哲学を専攻したカミュは学士論文でプロティノスとアウグスティヌスを取り上げている。タイトルは『キリスト教形而上学とネオプラトニズム』だという。

  これだよ、引っかかったのは。ひょっとして、プロティノス的転落ではないのか。転落(以下括弧をつけないが)の主人公クラスマンは二十年後のムルソーではないのか。ムルソーは「太陽がまぶしかったから」アラブの少年を射殺した。これはムルソーの陳述である。彼は一貫してこの主張を変えず、裁判で反省も悔悟も示さない。そしてギロチンの下に身を横たえたのである。これはプロティノス的転落の初期段階である。

  世間は「太陽がまぶしかったから少年を殺した」を理由なき、理由にならない、動機無き殺人とした。世間というのは評論家、読者である。これをもってサルトルや世間はカミュを「不条理の作家」に仕立て上げた。カミュ自身もあえてそれに異を唱えなかった。

  思うにムルソーは転落の初期段階だった。自分の行為を自己批判するような意識は、だから、なかったのである。

  転落のグラスマンは四十台(二十年後のムルソー)である。場末のバーで見ず知らずの客に絡んでいくが殺しはしない。彼はいまや自分のことを「裁き手にして改悛者」だと言っている。自意識は十分に発達しているのである。もうかなり「転落」しているのである。

 

 


カミュ「最初の人間」であるはずの父はアルジェリアへの入植者

2017-04-25 10:16:10 | カミユ

アルジェリアにフランスが勢力を伸ばし始めたのは19世紀前半らしい。しかし植民地としての地位を確立したのは1905年であるという。なにか法律でも出来たのであろう(電子辞書版百科事典による)。

 ジャックの父は1913、4年(つまり第一次大戦直前)フランスから入植地の管理人として赴任したがすぐに戦争に招集され、あっという間に欧州戦線で戦死する。父親すなわち最初の人間である父を知ろうとジャックは巡礼の旅にでるのであるが(故郷に母や親族を尋ねるのであるが)誰の記憶にも残っていない。

 だからジャック自身が最初の人間なのである(というのが題名の意味だろう)。フランスからのアルジェリアへの入植者はいってみれば日本で1931年から1945年までに実施された満蒙開拓団と同じである。現代ではイスラエルがパレスチナ人の居住地に入植を強行しているのと同じである。

 入植者というのは本国で生計が立ち行かなくなった農民が主体である。中には本国で失業した肉体労働者そして一部の事務労働者(サラリーマン)もいたであろう。ジャックの父は管理人という立場で赴任したのだからフランスではどうにか文字の読める階級であったらしい。

当然現地のベルベル人、アラブ人との紛争がおこる。現地人による残虐行為がある。フランスの軍隊、官憲も報復する。入植地ではどこでもあることである。

 父は現地アルジェリアで先住の欧州人家族から妻を調達したらしい。夫が戦死したから妻(母)一族はアルジェに出て来た。ジャックはそこで育つ。

 ところで前回カミュの幼少年時代に電灯があったのかあまり記述に記憶に残る所が無かったと書いたが、「最初の人間」の第二部にいたり、石油ランプの記述が頻出する。つまり貧困地区の家庭では電灯は敷かれていなかったのである。

 カミュは太陽の作家である。光線の作家である。意識の芽生えてくる少年期の恐怖は闇(すなわち夜)である。そこで夜の不安を語る様になって急に石油ランプへの言及が多くなった。

 アルジェリアは8年間にわたる独立戦争により1962年フランスから独立した。カミュが自動車事故で死んだ二年後であった。


 

 

 


カミュ「最初の人間」掃き溜めに(の)鶴

2017-04-24 07:04:37 | カミユ

掃き溜めに(の)鶴というと、イメージとしては場末や貧民街に突如現れた美少女とか美人というところだろう。つまり将来の芸者予備軍ということになる。カミュは男だから「鶏群の一鶴」と漢語風に表現するほうが適切かもしれない。

小説でジャックの父は第一次大戦勃発後すぐに戦死している。そしてジャックは父の戦死したときに零歳であったからカミュとは同年である。カミュは1913年生まれ、第一次世界大戦は1914年勃発。まあほぼパラレルと見てよかろう。

 彼の幼年、少年時代は1910年代から1920年代の初め頃となる。日本でいえば大正時代である。その頃のアルジェといえば、路面電車もあるし自動車も走っていた。彼のアパートが電灯だったかランプだったかははっきりしない(ぼんやり読んでいたから気が付かなかった、幸福な死、異邦人、最初の人間に描かれている所に基づくと)。電話は彼の勤めている会社にはあったようである〈1930年代あたりということになる)。

 一方で家族の方はどうかというと父親は戦死して母子家庭である。母親は家政婦に働きに出ている。祖母は家にいて孫達を牛の腱で作った鞭で四六時中ひっぱたいている。この祖母はスペイン系の血が混じっているらしい。家族で字が読める者は一人もいない。まして字が書ける者はいない。母親も目に文字がないが署名用に変にのたくった符丁のようなものを書くことだけを教えられている。

 小学校はあったらしい。そこでこの環境の中でカミュの才能を見抜いた小学校の先生は慧眼であった。リセに入るために奨学金を手配してやり、上級学校にやる。家族は子供が9歳になればもう小僧に奉公に出して金を稼がせたいのであるが、この小学校の先生はそういう祖母や母の説得にもあたった(これは小説でも実人生でもそうであったらしい。

 後年カミュがノーベル文学賞を受賞すると、かれは真っ先にその知らせを小学校の先生に伝える感謝の手紙を送っている。この手紙は「最初の人間」の最後に収録されている。まさに掃き溜めから鶴は飛び立ったのである。

こういう環境に育つと大抵は連帯と称して群れて左翼社会運動に参加するものであるが、カミュは最後まで孤高に「不条理に反抗」の姿勢を貫いた。


 


カミュ「最初の人間」は自伝ではない

2017-04-23 07:25:09 | カミユ

最初の人間は自伝的小説と言われている。ウィキペディアなどの簡単な評伝を読んで比較すると構造的には自伝的である。しかし、ノンフィクションでもルポルタージュでもない。しかしアルジェリアへのフランス人入植者の歴史等はカミユが大分資料をあたったようでルポルタージュ的ではある。

 アルジェでの幼年時代(リセ入学前)の沢山のエピソードが詳細かつ具体的そして生き生きと書き込まれているが、これは彼の記憶に基づいて書かれたものではない(と断定しても良い)。成人してからの近親者、友人、知人などからの伝聞をもとに創作したものであることは間違いない。

 リセ入学後の記述はそれに比べると彼の記憶によるところが増えているのだろう。近親者、親戚、友人等からの伝聞と書いたが、実際にはこぐわずかの記憶の切れ端や断片的な伝聞を膨らませて創作した部分が大きいと思われる。というのはアルジェの貧民街で余裕のない生活に追われていた彼らが老人となってカミユに後年彼の幼年時代を詳細に語っていたとは考えられないのである。

 この小説はひところ流行った言葉でいえば「ルーツ探しの旅」である。冒頭の書き出しは40歳になった主人公ジャックがフランス地方の第一次世界大戦の戦没者墓地に父の墓参りを始めてして父のことを調べる気になる。父は彼が零歳の時に戦死していている。母も父のことをなにも彼に語ったことがない。

 この冒頭には「何故」調べようと思ったかが書かれていない。意図的なものか、カミユの趣向があるのかは分からない。ただ父について何も知らないということを初めて意識したとあるだけである。それで十分なのかもしれないが。

 そういえば彼がどういう職業でどういう経歴で結婚して家庭も持っているのか、いないのか一切書かれていない。謎の人物である。いわばカメラアイである。

 

 


カミユ「最初の人間」は満蒙開拓団の物語である

2017-04-22 09:14:19 | カミユ

カミユには出版された中編以上の作品(小説)は三作しかない。異邦人(中編)、ペスト(まあ長編)、転落(中編)の三つしかないようだ。「最初の人間」は未完の小説で“まあ長編”(文庫本訳で400ページほど)である。作品の構成に幾何学的な彫琢を長期間入念に加えた作家らしく、昨今の作家のように目方(ページ数)で売り上げを伸ばそうという野卑な生き方をしなかった作家である。

「最初の人間」は死後未完の作品として残されたものを関係者(夫人、娘)などが整理したのだが、かなりまとまった作品として読める。「転落」に続く四作目の長編としてみると、四作目でようやく小説らしい作品を書いたと言える。大衆作家としてではなくて一般作家(文学者なんて言葉も有るが)として、世間一般の「小説」という概念に近い作品にしようとしていたようである。

文庫本の解説にあったが、誰だかフランスの評論家が若い読者にカミユの作品でまず読むことを進めるのが本書であるそうだが、適切なアドバイスだろう。実は私はこの作品は初読である。第二部のはじめあたりまでよんでいる。

このブログで何回かカミユを取り上げたので、この機会に手に入る作品(小説)を一通り読んでみようと新潮文庫で出ていて未読の作品を買って来た。この「最初の人間」とこれも完成した作品というよりか創作ノートあるいは「資料」とも言われている「幸福な死」である。取りあえず「最初の人間」を読んでいる。

そうそう、その時に洋書の棚も見たが並んでいたのは新潮文庫で出版しているものとパラレルだった。実は「反抗的人間」を探していたがペーパーバックの英訳はやはり無いようだ。翻訳では相当昔に出版された全集には収録されているようだが、古本や図書館は利用しない方針なので英訳でもないかな、と探してみたのだが。

その時に「異邦人」(エトランゼ)はOutsiderになっていた。この英訳の題名が多いらしい。私は前回Alienを提案したのだがね。>>


カミユのNarrativeなど(続き)

2017-04-16 10:21:01 | カミユ

カミユは形而上という言葉がすきのようだ。ペストは連帯を形而上的に描こうとしたのだろうが、重い。疾走感が文章にない。転落は連帯ごっこから落ちこぼれた人間がアムステルダムの場末のバーで見知らぬ客を捕まえて世間を洒落のめそうという趣向であるが、軽快なところがない。洒落のめそうというなら切れと洒脱感がなければいけないが、泥臭い。皮肉に洒落のめそうという意図が逆効果になっている。

サルトル等が目ざす連帯(して革命を目ざそう)というのは早く言えば徒党を組むということで、これもおよそ田舎染みている。そうして必然的に徒党を組む弊害(犯罪的行為、スターリンなどの)に行き着く。それを鋭く糾弾したまではカミユが正しかったのだが。

ところで、カミユの自動車事故死はソ連当局の仕組んだ暗殺という説を唱える人が多いという。

世間の不条理(私も定義不明のままこの言葉を暫時使わせてもらうが)には革命ではなくて個人の反抗で立ち向かうというカミユの態度は立派なものだと同感する。連帯・革命は成就すれば自由を奪う(なによりも人間の内面の)。当たり前である。自由よりもドグマつまり教条を最高位、つまり新しい神とするのだから。そして権力を握った連中がすなわちドグマの体現者となり、無謬不可侵の神となる。非人道的な独裁国家となる。現代の世界にもまだ例が残っている。

 

 


カミユの得意なNarrative

2017-04-16 09:18:40 | カミユ

それは『異邦人』の第一部のそれである。ペスト、転落、それに追放と王国に出ている短編のnarrativeは、英語で言えばdullである。あたら不得意な叙述法を使うのは惜しいことだ。

こういう捉え方が有る。異邦人は孤独が主題である、ペストは連帯がテーマである。そして転落は連帯に幻滅して没落した中年男の愚痴である、とね。

確かに分かりやすい。しかし、異邦人の主人公ムルソーは孤独ではない。セックス友達はいる。手紙の代筆をしてやる女衒の友達もいる。犬と暮らしている老人の話し相手になってやる。会社でも適当にうまくやっている。孤独ではないし、引きこもりでもない。

かれがユニークなのは、世間一般と反応が違うこと(正確に言えば世間からそう見られたということ)である。母親の葬式で涙を流さなかった、葬式の翌日女とセックスをした、喜劇映画を見にいった。というのが世間一般には不謹慎と見られた。そして裁判で一回も改悛の情をみせなかった。処刑の前に教誨師を拒否した、など。

これは孤独ではない。ライフスタイルが世間のおばちゃん達と違うだけである。

つまりムルソーは社会で「異邦人」であった。フランス語の原題ではエトランゼだとおもうが、これを外国人とか見知らぬ人と訳さなかったセンスは認められる。

昭和二十九年には映画「エイリアン」は公開されていなかったが、今では「異邦人」よりも「エイリアン」が適訳ではないか。映画しか知らないあまり教養のない読者には。つまり「異星人」あるいは「火星ちゃん」(ちょっと古いかな)というわけね。

もっとも、映画公開以前にはエイリアンというのは外国人という意味が一般的でニュアンスはより法律用語的であった。羽田空港(成田は開港前)に出入国管理にalienという看板があった。外国人専用の窓口である。今成田でどう表記しているか知らない。なにしろ半世紀以上外国に行ったことがないから。

 


カミユ「転落」のモデルはサルトル

2017-04-15 08:45:12 | カミユ

主人公であり語り手であるクラマンスはカミユである、といわれているそうだ。つまりカミユの自伝的小説であると。わたしはクラマンスのモデルはサルトルであると見る。彼が転落の前に弁護士として寡婦と孤児の輝かしい守り手としての半生を語るのはまさにサルトルの左翼革命陣営の旗手としての世間的評価であり、サルトル自身が僭称するところである。

断っておくが、これは37ページまで読んだところでの感想である。解説者の言う所とは大きく解離することを申し上げておく。

文章の片言隻句にサルトルの文章への当てこすりがある。対象となるのは、「革命か反抗か」のサルトルの文章である。また予言的では有るが、8年後サルトルがノーベル文学賞を拒否したときの弁明に酷似したクラマンスの言辞がある。カミユはサルトルならこう言うだろうということを8年前に推測していたことになる。

「あの晩」を境としてクラマンスことサルトルはカミユと同じ地底に転落する、あるいはカミユの高みにまで登ってくる、というのが筋書きらしい。これはカミユの希望だったのか。呪詛だったのかもしれない。実際にはサルトルは終生自らを高しとする態度に終始したらしいが。つまりこの小説は自分とサルトルの人生、哲学を対比的に描いたものであろう。

出版は1956年の5月という。この年の10月にカミユはノーベル文学賞を受賞している。ノーベル委員会はカミユに軍配をあげた形になっている。

 


出版に値しない「革命か反抗か」サルトル・カミユ論争

2017-04-13 19:00:30 | カミユ

新潮文庫の該書はサルトル(および彼の子分)とカミユの喧嘩文である。おそろしく内容が低級でこんなものを出版した新潮社の見識を疑う。

本書は四つの文章からなっている。

ア: フランシス・ジャンソンがカミユの大ベストセラー「反抗的人間」を揶揄攻撃したもの、これが『論争』の口火を切った。 

イ:カミユのそれに対する反論

ウ:サルトルが子分(私の寄稿家)の一大事にジャンソンを援護するために書いたものでカミユに対する絶交宣言

エ:再びジャンセン登場

それぞれの論文をABCDEの五段階で評価すれば、

ジャンソン E

カミユ BないしC

サルトル D

ようするにこれはローカルな罵り合いであり、作家という仲間うちギルド内での口汚い罵り合いである。これを平気で公衆(一般読者)の目にさらす執筆者、出版社の神経が理解出来ない。カミユは公の出版物で低級な揶揄に晒されたから反論はやむを得ないかもしれないが。

すくなくとも、喧嘩の発端となったカミユの「反抗的人間」に新潮社の読者はアクセス出来なければならないが、新潮文庫には入っていない。「反抗的人間」の解説の一つとしてこれをくっつけるなら多少興味をそそられるかも知れない。

「反抗的人間」の内容の是非は読んでいないから評価のしようがないが、この本は出版後大変な反響を巻き起こしたらしい。だからジャンソンがやっかみで噛みついたのだろう。

 


カミユの「ペスト」どこが不条理なのか

2017-04-11 21:06:38 | カミユ

 この不条理というレッテルはだれが貼ったのか。カミユ自身が自作に付加価値を付けるために利用したのか。あるいは文芸評論家あたりがつけたのか。何時頃から言われる様になったのか。そういうことをきちんと解説には書いて欲しいね。

まさか日本の評論家が勝手に付けたのではあるまいね。ウィキペディアによるとフランス語でabsurdeであると書いてあるから彼の地で言われ始めたのだろう。英語ではabsurdである。これから分かる様にラテン語から来ている。

古代ローマのアウグスティヌスか誰かが「不条理の故に我信ず」と言ったとか。

辞書を見ると、常識に反した、理性に反する、不条理な(理屈に合わない)、馬鹿げた、おかしな、こっけいな、などの語釈が出ている。私なんか、absurdというと、まず馬鹿げたと理解するのだが。カミユの場合はどれなんだ。どうも不条理(理屈に合わない、あるいは、根拠がない)という意味らしいんだが、「ペスト」の何処が不条理なのか私には分からない。ペストが不条理なの、ペストに攻撃され封鎖された都市が不条理なのか。そんな馬鹿なことがあるか。

ペストという疾病はペスト菌というはっきりした原因がある。そしてある条件が整うと人間社会にも蔓延する自然現象である。どこが不条理なんだ。話は『異邦人』に飛ぶが、こちらの方は無理にこじつければ不条理がテーマと言えるか。ムルソーが何故アラビア人を殺したかと聞かれ、太陽のせいだ、と答えている。これは常識にかからない。精神的に健常者なら不条理だが、精神病患者にとってはそうではないかもしれない。

カフカの審判や変身が不条理文学だと言う説があるが、こちらの方はわかるんだけどね。

それにしてもこの新潮文庫の日本語訳はひどすぎる。宮崎嶺雄という人が訳者なんだが、日本語として意味をなさない箇所が毎ページ1、2カ所あるといっても過言ではない。翻訳が不条理であるというなら、諸手をあげて賛成する。それで思い出したことがあるのだが、この人はもう故人だが戦後創元社の社長をしたそうだ。昔フランス人の書いた「黄色い部屋の謎」(たしか創元社文庫)というミステリーを読んでひどい日本語だと思ったのを経歴を見て思い出した。

原文が小説としてどの程度のものかと判断するのは難しいが、テーマの違いはあるにせよ、異邦人より劣るようだ。文章にツヤはなく、叙述は平板である。多少盛り上がるところはあるが。どうもカミユは劣化型の作家のようである。大分前に一度ペストより後に書いた「転落と追放」だか「追放と転落」を読んだがこれも異邦人に及ばない。念のためにもう一度読んでみるつもりだ。

異邦人も良いのは第一部でね、第二部はどうもグレードが落ちる。

ところで冒頭にも疑問を呈した、彼の何処が不条理作家なのかという疑問を調べようと大型書店でカミユについての評論を探した。作品論は異邦人についてばかりだった。それ以外は友人や関係のあった人の回顧録とか伝記の類いだった。 

ペストは発表後大ベストセラーになり彼の欧州での作家の地位を確立したというし、ペストの発表後ノーベル文学賞を受賞している。前にも触れたが日本でも大分読まれている。こう言う作品に感心出来ないのは私の鑑賞力が低いのでしょうか。なにその通りだって。いや恐れ入りました。

 


カミユの「異邦人」と「シーシュポスの神話」

2017-04-05 08:39:07 | カミユ

両方ともカミユの若いとき(たしか20代??)の作品である。同じ若書きであっても異邦人は読むに堪える。*神話は読むに耐えない。幼稚な衒気にあふれた文章である。

久しぶりに異邦人を読み返した。前に読んだときに読まなかった白井浩司氏の解説を今回は覘いた。そのなかでサルトルが言った(書いた)という言葉が紹介されている。

 >神話は異邦人の「正確な注釈であり、哲学的翻訳である<そうだ。そこで神話をのぞいてみたのだ。いずれも新潮文庫である。

 二、三ページ「見た」だけであるが、本当にサルトルがこんなことを言ったのかね。まったく首肯しかねる。もうすこし我慢して読めば情状酌量の余地があるのかもしれないが。

 驚いたのは神話の版数が68で異邦人と同じように「一般読者」に読まれていることである。値550円、大分批評権はあるようだが、今回は10円分ほどの批評権を行使する。

 一般的に同じ作者でも小説は若書きでも優れたものがあるが、哲学的な作品では20代、30代で読むに耐える作品はほとんどない。神話に限って言えば、やたらに有名な作品や哲学者への言及、引用が多い。いちじるしく文章の緊迫感を損なっている。それに適切でもないようだ。ようするに衒っているのである。カミユの学士論文はアウグスティヌスであった。つまりキリスト教形而上学の確立と新プラトン主義の関係をテーマにしたらしい。だから学部学生としては多少知識があったのであろう。

 引用参照が多い文章は非常に見苦しいのみならず作者の主張がどこにあるのかわかりにくい。