穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

劣化したスコラ学者、マルクス・ガブリエル

2020-09-28 07:13:36 | 読まずに書評しよう

 精神に食わせるものが無くなった。エンジンが空焚きを始めた。しょうがないからガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」を取り上げる。

 おびただしい数の定義、前提、命題を随意にポケットから次から次へと取り出して、第二命題、第三命題を繰り出す。かってのスコラ学者が劣化したかのような論文を読む心地がする。翻訳で読む。

 とにかく21世紀の『新実在論者』たちはマスコミ受け、一般受けのするキャッチコピーをつけるのがうまい。というよりかは、意図的につけるようだ。いわく、前祖先的、ハイパーカオス、なぜ世界は存在しないか、など。

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#3、 ハイパーカオスに到達

2020-09-27 07:22:14 | 読まずに書評しよう

 お話しなければいけないことは二つある。メイヤスーが結論にどういうふうにして到達したか。ついでそれはどういう結論であるか。普通はこの順序で記述するものだが、ここでは逆にした。というのはどうして頂上に到達したか、という登山法は、別の言葉でいえば論証法は、こなれが悪い食べ物のようなのだ。もっと率直にいえば「屁理屈」としか思えない。

 それにたいして、山の頂上からの眺めはちとオツな、オッと言わせるものがある。ジャーナリスト出身の小筆としては頂上の眺めを紹介してから下山法を述べたい。うまくいくかどうかはわからない。

 物自体というか、即自というか、相関主義的円環の外にあるものと言おうか、それは驚いてはいけません、ハイパーカオスなのである。必然的なのは偶然性なのである。分かりやすくいえば、すべて偶然である。それはいわば気ままな神である。

 ここの所を論証(思弁)していたかどうかは読み逃したが、「大いなる外部」は相関主義的円環の内部にも影響を及ぼすらしい。近代、現代科学は多くの自然法則を発見したが、これは即自の「大いなる外部」の気が変われば、自然法則など破壊してしまう。そのあとには全然ことなる自然法則が出来る。とにかく、ニュートンの引力法則もアインシュタインの相対性理論も現代の原子核物理学の法則もなくなっていしまう。物理学、自然科学には無数の定数がある。光の速度とか。こんなものは目が覚めれば変わってしまうかもしれないのだ。

 しかし、自然科学の法則は数えきれないほどの回数の実証実験で確認されているではないか。どうして、どうして、そうした自然現象の法則性が証明されたと考えるのは浅はかである。それは一時的に安定しているにすぎない。物自体がものぐさから手をつけずに放置しているだけで令和二年九月28日午前零時に破壊してしまうかもしれないのだ。

 一時的安定期間は150億年かもしれない。物自体(神様)の御心次第なのである。

比喩的に説明すると、メイヤスーの神はキリスト教の神ではない。ギリシャ神話の気まま横暴なゼウスのようなものだ。ユダヤ教の神、旧約の神の性格もメイヤスーにちかい。日本ではこういう神を「荒ぶる神」という。仏教でも、ヒンズー教の神を習合したものにこの種の神がある。

 

 

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#承前、メイヤスーの「相関主義」スペクトラム 

2020-09-25 09:27:47 | 読まずに書評しよう

 「相関主義」というラベリングの著作権はメイヤスーにあるらしい。そういう考え方の実態は少なくともバークリーにまでさかのぼるわけでメイヤスーの発明ではない。ラベリングの商標特許件はどうもメイヤスーが持っているらしい。哲学の歴史に詳しくない小生には自信がないが。

 相関主義というのは、認識は主体と客体ペアである、という考えである。対象は人間の知覚を通してしか理解、認識できないという至極常識的な考えである。認識を写真とするとカメラの性能を通してしか対象の写真は撮れないというごく自然な考え方であるが、哲学者と言うひねくれ集団の手にかかるとこれがとんでもない暴れ方をする。

 グレアム・ハーマンがまとめたメイヤスー紹介によると、彼は認識にかんする考え方を四つに分類している。そのスペクトラムは

1:素朴実在論、認識外部の世界を信じる。常識的。それを認識できるか、たぶんいつかは出来るという楽観主義。

2:弱い相関主義、カントの理論、外部の実在はあるが、認識できない。考えることは出来る。

3:強い相関主義、物自体には絶対アクセス出来ない。

4:思弁的観念論、物自体というものはない。バークリーか

である。

 思弁的観念論は今のところピンとこないが、下の三つは実在論ではない、あるいは条件付き実在論らしい。弱い相関主義はカントのそれで、認識は人間の知覚を通した情報を人間固有の処理機構で料理したもので外部の物自体は人間には認識できない。しかし、この「しかし」が大切なのだが、物自体について思考することは出来る。小生の言葉でいえば物自体を思考して認識しようとするのは人間のゴウ(業)である。これは赤ん坊の執拗な「なぜ、なぜ」の無限連鎖と同じである。

 強い相関主義は人間の認識の外部に物自体というか実在はあるが人間には絶対認識できないという考え方である。

 思弁的観念論と言うのは、物自体はないという考えらしい。そうするとバークリーのような考え方か。

 さて、メイヤスーの主張であるが、これがはっきりとしない。これがお断りしたように、読みながら書評であるから、そのうちに出てくるのかもしれない。ハーマンによると、最初は弱い相関主義者だったが、その後、身を翻して強い相関論になった。しかし、強い相関論は認識外部の、つまり主体、客体の相関主義的循環のそとには人間は出られないというのだが、その頑丈な相関主義の網の目を、サーカスの檻からの脱出のようにすり抜けたという。どうすり抜けたのだろうか。

続く

 

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カンタン・メイヤスー

2020-09-24 07:32:40 | 読まずに書評しよう

 彼の名前とことなり、彼の考えの目安(メヤス)を簡単(カンタン)に紹介することは出来ない。フランス人の哲学教師と言うが。

 俎板の上にあるのは彼の著書「有限性の後で」とグレアム・ハーマンの「思弁的実在論入門」のなかのメイヤスー論である。最初にお断りしておくが、これから一連の実演を行う *読みながら書評の対象、思弁的、あるいは新しい実在論* の材料はすべて翻訳である。

 したがって書評の対象は原著者の楽譜を日本の翻訳者の解釈によって演奏した邦訳書である。翻訳を読んでいておかしいな、とか引っかかるところがあると、原則として原著を調べることにしているが、まだ生まれたての赤ん坊のような *思弁的実在論* ではわざわざ原著を取り寄せて調べる気がしない。したがって以下のシリーズで対象となるのはすべて邦訳書である。

 それと、メイヤスーの著書だけではなく、これらすべての本には索引がない。哲学関係の書籍には索引が必須である。おそらく索引を作るのは手間がかかるのであろう。時間がかかるのであろう。一般に丁寧な行き届いた索引を作成している書籍は少ない。欧文から欧文への翻訳、例えば、ドイツ語から英語への翻訳にはまず、索引が付いていないのはまれである。しかも索引にはオリジナルな言語での表記もつけてあるのが多い。ま、今回は書き下ろし、流し読み、読みながら書評であるから、その辺はパスしよう。

 索引と言うのは用語の索引(事項索引)である。人名索引ではない。人名索引のついているのはある。作成するのが簡単だからだろう。大して役には立たないが。

 付け加えると、欧米の哲学書で使用する言語は最初からラテン語由来のような抽象的(学術的雰囲気の漂う)用語があり、これは大体邦訳してもそう突拍子のないものはない。しかし、日常言語を使用する場合もかなりある。この場合は原語の雰囲気を適切に訳さないと珍妙な日本語になる。まして、最近の若い翻訳者は日本語にも難があるから(失礼)ますます珍妙になることがある。

 そういう言語、つまり日常語、は語釈が多様であり、同じ言葉でも全然関係ない、場合によっては正反対のニュアンスがあるものが多い。どの言語でも日常語というものはそういうものである。索引で、あるいは本文で原語を示してもらわないと解釈に苦しむことがある。

 さて、メイヤスーであるが、冒頭にあげた出典の少々を読んだだけだが、彼の主張はどこにあるのか分からない。大部分が他者の哲学の批評、評論である。いつになったら彼の考えが出てくるかな、と思っているのが出てこない。したがって彼の文章は、きれいな言葉でいえば哲学史の趣がある。さすがに大学の哲学教師である。

 しかし、彼の料理のしかた、つまり哲学史の腑分けの仕方は大学の哲学教師らしい緻密さがある。それは「相関主義」という刺身包丁である。デカルトに始まり、バークリー、ロック、カントを経てウィトゲンシュタインからフッサール、ハイデガーに至る。

 ちょっと驚いたというか、意表を突かれたのはウィトゲンシュタインに対する尊敬にも近い態度である。ウィトゲンシュタインに対する高い評価は他の「思弁的実在論者」にも共通しているようだ。それもWのいわゆる後期著作ではなく、最初の、そして唯一の生前に出版された著書(だったかな)である論理哲学論考に対してなのだ。それも6・・以下のたかだか50行の断章部分なのだ。彼の理論的部分ではなく、呟きのような部分にしきりに言及する。奇異な感じを抱かざるを得なかった。二十世紀の哲学界の鬼才、天一坊に威光にあやかろうとしたのだろうか。

 

 

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哲学読みながら書評

2020-09-23 06:32:25 | 破片

 はじめに:前に「読みながら、読む前書評」というのをいくつかやったが、主として小説の類であった。今度は哲学についても「読みながら」書評を試みる。

 さて、二十世紀後半のポスト・モダンの流行蔓延に対する批判として「思弁的実在論」とか「新しい実在論」とか「実在論を立て直す」だとかが二十一世紀の流行らしい。ポストモダンがインフルエンザとすると、どうやらそれに対する集団免疫ができたと思ったらコロナ的な実在論ウイールスが哲学業界を席巻しだしたらしい。これにはまだ免疫がない。しばらくは流行が収束しそうもない。

 それで流行には敏感な小筆は何冊か翻訳本を買い込んだ次第であった。これが存外厄介なしろもので、見てくれのいい言葉すなわち「読みくれのいい言葉」でいえば難解、別の言い方をすれば納豆みたいに歯ごたえがない。どうして素直に読めるものではない。そこでとりあえず、読みながら書評をすることにした。「その都度」(これも二十世紀の哲学書でよく出くわす言葉であるが)、メモのつもりで感じたことを書く。メモにしておけば後で見て、ははあ、と役に立つこともあるだろう。

 メモでインターネットに上げておけば、メモ帳を持ち歩かなくても外出先、旅行先でスマホでチェックできる。当然こういう反論があるであろう。そういう無責任な私的なメモを公共的空間であるインターネットにあげるというのはどういうことだ、と。お叱りごもっともなれど、このブログはアクセスも少なく、ほとんど私的空間といえるからお許しいただけけるかと愚考いたした次第である。

 いや、前置きが長くなった。次回からメモを上げさしていただく。

 

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139:コピペの二義 

2020-09-18 09:53:14 | 破片

「そんなに、コピペが悪いならなぜ多用するんですか」とCCが不思議そうな表情を見せた。

「ふむ」というと「コピペに二つの場合があってね。いつか世間やテレビでコピペだ、コピペだとまるで詐欺のように相手を袋叩きにして騒いだことがあるでしょう」

「ありましたね」

「あの場合のコピー・アンンド・ペーストは他人の文章を自分の文章かのように、装うことでね。これは小説家なんかの一部からは非常に卑劣なこととして非難される」

「どうしてですか」

「自分のオマンマの食い上げになるからでしょう。すくなくとも、やられたほうはそう思う。今話しているのはそうではない。他人の文章を引用句に入れて出典を明らかにすることです」

「そうすると、オリジナルの作者から文句が出ない」

「それもあるし、哲学などの人文科学系では、こういう偉い人もこう書いていますよ、あるいはこういっているけど私は認めない、という文脈で使われる。ま、出典を明らかにしているから正直だということでしょう」

「さっき、学生のようだと言ったのは」

「まだ一家をなしていない学生なんかは、自分はこういう哲学者の所説もちゃんと読んで勉強していますよ、とアピールしている。論文を読む指導教授などに対してね」

「だから自分の説のように白っトボケるよりは正直で可愛らしいということですか」

「そうだね、しかし一家をなしているようなつもりでいる哲学者がこういうコピペ満載、コピペに終始した文章を書くのは品格にかけるようだ。読みにくいことは勿論だがね」

 

 

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138: 比喩の下手なのは知能の低さを表す

2020-09-18 07:50:01 | 破片

「どういう所が面白くなかったんですか」と第九は下駄顔に質した。

老人は顔をぴしゃぴしゃと叩いた。まるで力士が立ち合い前に気合を入れるように、というより、神経に刺激を与えるように。

「この作者は馬鹿ですな」と彼は切り捨てた。

「なるほど」とガブリエルの本を読んでいない全員は賛意を示した。老人のいうことには敬意を示さなければならないというように。

「アタマの良し悪しはたとえ話の作り方で分かる。だから馬鹿でも自覚している人間はなるだけ比喩を使わないように用心するものだ。ところろがこのガブリエルという男はたとえ話が好きなんだな。そのたとえ話が地の文章とどうつながるのか分からない」

「常にですか」とみんなはあきれたように聞いた。

「まあ、ほとんどだな」

「アタマのいいひとは比喩を効果的に使うためには滅多に比喩を挿入しない。ここぞというときを見計らって挿入する。それもキレのいいやつをね。それは哲学でも小説でも全く同じだよ」

 エッグヘッドが頷いた。「ここで引き合いに出すのはどうかと思うが、聖書の中の比喩は超一級品だね。短くて実に印象的ですぐに記憶できる。キリスト教が古代の終わりにほかの有力な宗教に勝ったのは絶妙な比喩が聖書にちりばめられていたからかも知れない」

「ところがさ、このガブちゃんは二、三行地の文を書いたと思うと一ページも二ページもたどたどしいたとえ話を続ける。それも続けてこれでもか、これでもかと二つも三つも続ける。その意味が不明だから直前に読んだ本文の趣旨なんかアタマから吹っ飛んでしまうのさ」

「そうなの、それから文章にやたらと引用文が多いのも読みにくいわね」

みんな彼女を見た。「これだけどさ」と彼女はテーブルの上にある「思弁的実在論入門」を指ではじいた。「もっとも、これはゴールドスミス校で旗揚げ講演をした四人の発表をハーマンがまとめたから、ほかの三人に怒られないようにやたらとコピペしたのかもしれない。それにしてもコピペしなくてもある程度は正確に自分の文章で紹介できるでしょう。コピペをやたらにすることは学生が指導教官に褒めてもらうために使う手でしょう。とにかく読みにくくってしょうがなかったわね。

他人の主張を正確かつ客観的に把握しているという自信があれば、学生の論文みたいに文章の大半をコピペで埋めるべきではないわね、どうなの」と彼女は哲学での立花先輩の顔を見て言った。

「そのとおりだよ、やたらとコピペをするのが無難だと思っているのは小心ものだな」

 

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137:トンチ本見つけた

2020-09-16 08:18:45 | 破片

 突然、下駄顔が言を発した。「そういえばこの間、変な本を読みましたぜ」

三日ひげの伸びた顔面を下顎から上のほうに撫で上げながらつぶやいた。

「何という本ですか」

「えーと、世界はない、とか言いましたね」

「どんな本でした」

「だから世界はないというきちがいじみた内容さ。いや、なぜ思い出したかと言うとこの本は宣伝文句によると、新しい実在論だというのだな。今皆さんが思弁的実在論だとか話していたでしょう。それで『新しい実在論』もその親戚かと思ってね」

作者の名前は、と立花が聞いた。

「えーと、マックス・ガブリエルとかいったな」

それはマルクス・ガブリエルでしょう、と立花が確認するように訂正した。

「そうだったかも知れない」と下駄顔は譲歩した。

「『なぜ世界は存在しないか』でしょう。そういう題の邦訳がありましたよ」

「あなたは読んだんですか」

「いや、読んでいないが」

「どんな内容ですか。よく哲学の本は読んでいるのですか」と第九は土方の監督のような下駄顔を不審げに眺めた。

「そういうわけじゃない。タイトルがあまりに突飛でしょう。彼女じゃないが、題名に釣られて買ってしまった」と恥じ入ったように苦笑したのである。

 

「論証の粗雑な本でしたな。最初のほうしか読んでいないが。あなたはもちろん読んでいるのでしょう」と立花に聞いた。

「いや、読んでいません」

「そうですか、題名の突飛なことと、選書で二千円弱と人文書に多い値段の高い本ではないからでしょうね。発売してから二年足らずのあいだに17刷も出ている。そんなに売れていればきっと面白い本だろうと思ったね」

 

「面白かったですか」と彼は間の抜けた質問をした。

「いや、読んでいてバカバカしくなったな」

 

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136:カントのブラックボックス

2020-09-09 07:42:32 | 破片

 どうもねえ、と立花は思いついたように話しかけた。「カントは物自体を真剣には考えていなかったと思うな。厄介な問題を捨てるゴミ箱のようなつもりで物自体なんて言葉を作ったような気がする」

「そりゃ、またどうして」とびっくりしたようにエッグヘッドが言った。「物自体といえば神様みたいに思われているじゃありませんか。彼岸というか到達できない人間の知恵では理解できない世界と受け取られているんでしょう」

「そうらしいね」と立花は他人事のように答えた。「しかしね、カントは物自体をテンポラリーファイルと考えていたんじゃないかな。彼を『独断のまどろみから醒まして」くれたヒュームにも物自体という考え方があった。ヒュームの場合には分からない問題はしばらくテンポラリーファイルに入れておく、という程度の意味合いだったんだね。物自体というのは。そのうちにうまい解決策が見つかると思っていた節がある。結局解決しなかったんだけどね」

 長広舌で喉がまた乾いたらしく彼は大声をあげてお冷を要求した。お冷で喉に新たに湿りをくれた彼は続けた。

「カントはヒュームを踏襲したと」

「うん、これは便利だと思ったんだね、きっと。到達できない、解決できない問題をゴミ箱に放り込むわけさ。これが彼のアルゴリズムになったんだ。カントの実践理性批判と判断力批判にもこのゴミ箱は登場する」

「へええ」とみんな驚いたような、あきれたような嘆声を発した。

「どういう?」

「実践理性批判ではマジックボックス、ゴミ箱というのはちょっと人聞きが悪いからマジックボックスと以後言うがね、実践理性批判では『存在者自体』とか『叡智者自体』とか『人間自体』という言葉が出てくる。どうもこれが『物自体』の兄貴分らしいな。というのも、実践理性批判を書き始めたのは純粋理性批判よりも早いんだね。書き悩んで出版は純粋理性批判のほうが先になったけどね。とにかく分からないこと、しかも最も大事な基本的なことをここに閉じ込めると残りの部分はすっきりとまとまる」

「ブラックボックスみたいなものですね」と第九が言った。

「そうだね、マジックボックスよりブラックボックスのほうがいいね」と立花は第九を見た。

「なーるほど、うまく纏めましたな」と下駄顔が感心した。「カントには『判断力批判』というのがあるでしょう。あれはどうなんです」

待ってましたというように立花は答えた。判断力批判では『超感性的基体』というのを捻りだした」

「自由自在だね」とエッグヘッドが感嘆した。

するてえと、とCCが総括した。『何とか自体』というのはカントの思考手法ということか。

「そうね、ヘーゲルがなんでも三枚におろすのが癖になっているように、あるいはプラトンのdichotomyのようにね、彼らのアルゴリズムなんだろうね」

Dichotomyってなんです?

「二分法と言いますね」

 

 

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135:物自体

2020-09-07 08:41:27 | 破片

  つまなさそうな顔をしてタバコの煙を鼻から出していた憂い顔の美女が発声した。

「物自体ってなんなのさ」

立花は不意を突かれて大きな耳をピクピク動かした。

「とくに分からないのは物という言葉ね。者じゃないから人間じゃないんでしょうけどね」

そういわれて哲学の先輩である立花は言葉を探しているようだったが、ドイツ語でDing an sichね。英語でいうとThing itselfだよ」と彼はひとまず彼女の鋭い指摘をかわして時間をかせいた。

「そんなことは分かっているわよ」と彼女はかがんでいた姿勢を起こして鼻の穴から太い鼠色の煙を彼の顔に吹き付けた。

狡猾な彼は「明治時代以来カントに関する著書は百万はあるだろう」

「まさか」

「著作のほかに論文や大学の紀要を加えたら百万ぐらいはあるんじゃないの」

「日本でですか」

「日本だけなら一万ぐらいはあるだろう。そのなかで物自体は何か、と探求したものがあるかということさ。私はその種の論文は不案内だが、どうもほとんどないんじゃないかな」

「どうして、そんな推測ができるんですか」

「物なんて説明しなくても分かった気になるだろう、だれでも」

「はい」

「しかし、彼女の鋭い指摘で改めて考えてみると確かに物とはなにか、カントが考えていたモノは何か、というのは曖昧だな」

「ごく普通に考えれば」と言いながら彼女の顔を見た。こんな説明じゃとても彼女を満足させられないな、思いながら。「人間以外の物体じゃないかな」

「じゃあ、動物も物なの」

「そうだねえ」と彼は思案顔で用心深く答えた。

 その時にエッグヘッドがコメントした。「ドイツ語でDingと単数形でいうと、『もの、物品』という意味だね。複数系にすると、『事、事柄、事態、出来事』とまったく違った意味になる。物自体は単数形のDingだから物品だろうね、これも自然物か机のような人工物まで含むかの問題はあるがね」

 なにかに気が付いたように立花は「待てよ」と言いながらテーブルの本を取り上げると「彼の文章にオランダ東インド会社についての文章があるそうだが、この会社は植民地時代の歴史的事柄だから、複数系の意味も含めているんだね」

「誰の著作ですか」

「ハーマンのだ」

「するてえと、彼の解釈では歴史的な事象も社会的な事象もモノなんだ。とにかく、そういう基本的なことは誠実に定義しておいてもらわないと困るね。すこし粗雑すぎる気味があるようだ」

 

 

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134:カメラを信用しない馬鹿

2020-09-06 13:55:20 | 破片

 ようするに、彼らはカメラを信用しない馬鹿なんですかね、と第九が思いついたように発言した。

「なんだって」

「だって、認識というか思考なんて写真を写すようなものでしょう。それを昔のフィルム時代ならその時代の技術で加工する。今のデジカメの時代なら加工の範囲はぐっと広くなっている。それが思考であり、概念であり、思想であり、哲学なんじゃありませんか」

「なるほど・・・」

「それを対象の裏側か、向こうに何かあるなんて考えても始まらない。というかそんなことを考えること自体が精神病的だと思うんだがな」

「そうだねえ」とCCが言った。

 立花はショルダーバッグから洗顔シートを取り出すと、また噴き出した顔の汗を丁寧に拭いた。「中世はね、向こう岸に神様がいると思っていたんですよ。それで神様はどういう方だとか、本当に居るだろうかという事柄を議論していたわけですね、千年以上」

「そうだねえ、ボンサンなんか他にすることもないやね」

「実在論は問題ない。正しいも正しくないもない。実在論を確信しない人間は統合失調症といってもいい。当たり前なことだ。しかし、じゃあ実在は赤いおべべを着ているか、とかあんみつが好きかなんて議論は気がふれている」

 誰がが言った。「そうすると、哲学は自分のすることが無くなったから中世の習慣に戻ったということか」

「うむ」というと立花はひざを叩いた。「思弁的実在主義者の議論の仕方はスコラ哲学そのものだね、どうも妙だと読んでいて違和感があったのだが、それだったんだ」

「そういうことなんだ」と確認するように立花はひとりで頷いた。そういう議論は中世、あるいは近世をとおして脈々綿々として続いてきたから、お手本はいくらでも哲学史のなかにいる。そうか、どうもこの四人組は二つのグループに分かれると思っていたが、そうなんだ。彼らの文章にはやたらと古い哲学者の引用が多いんですよ。単なる引用というよりも彼らに依拠している。たとえばハーマンはフッサールとハイデガーに拝跪している。グラントはシェリングに」

「あとの二人は」

「ああ、彼らは哲学以外のものに全幅の信頼を置く。たとえば、ブラシエは自然科学信者だし、メイヤスーは数学が実在を記述する言語として一番いいなんて言っているのだ。その様子は中世のスコラ学者が神学のハシタ女と言われたのに似ている。特にブラシエは完全に自然科学の端た女だね」

 

 

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133:呼び込みに引っかかっちゃたのよ

2020-09-05 08:52:42 | 破片

 立花は美しく均衡を保った美女のうりざね型の顔を嘆賞しながら聞いた。

「どうしてこんな本を買ったんだい」

「呼び込みに連れ込まれたのよ」

「えっ何だい。ホストクラブに行ったのかい」

「そりゃあ無いでしょう。脂ぎったおばさんでもなのに。それに男性の相手ならいくらでもありそうな美人にそんなことを聞いちゃいけませんよ」と第九はあきれてたしなめた。

「そうでもないぜ。最近では未成年の女子大生でも一人でホストクラブに行きますよ」と風俗通のCCが口をはさんだ。

彼女は苦笑して「ホストクラブにはいかないけどさ」と言いながらテーブルの上にある本を手に取ったが、「あら無い」と声を荒げた。「どうしたのサ、帯があったでしょう」と立花を睨みつけて詰問した。

「えっオビ? そうだシオリの代わりに使ったから本に挟んでないかな」

彼女はパラパラとめくっていたが、帯を見つけて「これこれ、ちょっと聞いてよ」とその上にある惹句を読み上げた。

* 2007年4月27日、ロンドンで「思弁的実在論」は誕生した。最初のメンバーは四人。ブラシエ、グラント、ハーマン、メイヤスー。思考と存在の相関を超えた実在への志向を共有した彼らの哲学は、瞬く間に世界を席巻し思想界の一大潮流となる、云々 *」

「それに引っかかったのか」と下駄顔が笑った。

「そうなのよ、我ながらたわいがないわね」

「その、思考と存在の相関というのはなんのことですか」

「カントの哲学で:人間は感覚を通して入ってくるものを人間に備わった処理装置、超越論的認識論というんだがね、でまとめたものしか認識できない:という思想だね」

「しごくまっとうな考えに思えるがそれに四人組は反対しているんですか」とエッグヘッドは質問した。 

「カントが余計な一言を付け加えたんですな。 :感覚の向こうにある『物自体』は人間には認識できない :と余計なことをいった」

「言わずもがなのことだな」

「物自体という立言も間違いというか無意味でしょうな」と下駄顔が決めつけた。

「それが常識ですが、なかなか常識が通用しない世界がある」

「ふむ」

「それでよくわからんのだが、物自体というのが絶対なんですか」

「なにか彼岸のような天国のような、世界の内奥にある真理というか神秘と思いなすんでしょうな」

「そうすると実在論者は彼岸はこういうものだ、と自分は解明できるというわけですな。しかし、理論物理学でも実験物理学でもそんなことは証明というか実証できないから思弁を駆使して暴こうというわけだ」

「ま、そんなところでしょう」

 

 

 

 

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132:鳥羽伏見の挙兵のつもりらしいが 

2020-09-02 09:52:09 | 破片

 四人の哲学漫才チームがコンビを立ち上げたんですわ、と立花が話し始めた。

「2007年に四人の若造がロンドン大学のゴールドスミス校で「思弁的実在論」と題されたワークショップをぶち上げたんですな」

「何です、どういう意味ですか、思弁的実在論というのは」と門外漢のCCが聞いた。

「さあね、それが問題ですよ。満足な定義はだれも与えていないようですね。実在論というのはかなり流通している用語だから分かるだろう」と憂い顔の美女に大学教授が学生を試すような視線を向けた。彼女は若き哲学徒なのである。

「うん」と彼女はあいまいに自信がなさそうに答えた。「実在論と言っても何種類かあるんじゃない」

「そのとおり、ま、彼らの場合は観念論の対立概念というわけだ」

「それでさ、まるきり分からないのは思弁的という意味ね」

「そうさ、あんまり通用していない言葉だし、正面切って名乗りを上げるような言葉でもない。そうだな、軽蔑的に使われる用語だな」

「どういうこと?」

「自分の理論が思弁的という人がいる。彼らは当然思弁的ではない(と彼らがみなす相手を見下して)軽蔑的に使う。また、思弁的というラベルを軽蔑的に使う人は、相手が思弁的だというときは相手が根拠のない空論を弄しているという意味で軽蔑的に使うのさ」

「どういう意味でですか」

「思弁的というのは、いい加減な、とか根拠がない空論という意味でさ」

「じゃあ自分が思弁的だと威張っている人は」

「相手が幼稚な小学生的な合理主義で、あるいは女性的な合理主義だというわけさ。へーゲルなんかは悟性的というね、その上に思弁的な思考があるわけだ。カントなんかはヘーゲルに言わせれば悟性的なんだな」

「じゃヘーゲルはカントを軽蔑していたの」

「そんなことは全くない。ただ悟性的な思考では限界があるというわけだ」

「するってえと、その四人組がどうして自分たちを思弁的実在論なんて言っているのだ」

立花は前に置いた本をぱらぱらとめくって探していたが、「そうそう一か所だけ誰かが思弁的という言葉を定義していたところがあった、というよりも直接言及していたところがあったんだがな」と探していたが、「そうそうこれだ」というとその個所を読んだ。

 * 絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考を思弁的と

   呼ぶことにしよう *

 

「絶対的なものというのはカントのいう物自体ということかしら」と長南さんが頸をかしげて独り言ちた。

「この作者はそのつもりだろうな」と大学教授が生徒の採点をするように言った。

「そうすると彼ら四人の主張はカントを目の敵にしているわけだわね」

「そこまで言うのは言い過ぎだが、物自体が認識できないというカントの主張が気にくわないのは間違いないね」

「彼らにとっての脅迫観念ということだな」と下駄顔が頷いた。

 

 

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