穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「宇宙消失」(4) 

2021-11-14 08:28:50 | 書評

 メタフィジックスという言葉がある。一般的には思弁的哲学と理解されているようだ。日本語では形而上学と訳される。形而上と言うことばは、いずれシナの古典にある言葉だろう。幕末か明治に漢文の素養のある日本人が訳したようだ。この訳語はあまり適切ではない。メタ・と言う接頭辞は何々の後ろにあるいは奥にという意味である。底にといってもいい。逆に上にと言ってもいい。形而上はこちらのほうをとっている。つまりメタフィジックスは基礎物理学ということである。
 
 いずれにしても「奥」にあって見えない。つまりオカルトの世界である。オカルトと言うのは隠れたという意味だ。物理学は、とくに理論物理学は表に現れた現象を観察して数式化したものだが、かならず表現されない奥、言い換えれば基底に支えられている。もっと適切に表現すれば支配されている。 この奥まで疑うというのがメタ・フィジックスである。オクへの認識が改まるのをトーマス・クーンはパラダイム・チェンジといった。科学革命と言う。
 
 アインシュタインの相対性理論が革命的なのは、このオクまで思弁のメスを入れたからである。そのきっかけが彼の「思考実験」である。これに比べてシュレディンガーのオニャンコは思考実験ではない。
 量子力学も最初はこの奥に向かったが、どうもその後は不徹底だったようだ。
 
 メタ・フィジックスのさらにメタ(奥)に、つまり禁断の江戸城大奥に踏み込むのがメタ・メタ・フィジックスである。かっては自然哲学といった。もっとも現在自然哲学と言うのは死語である。

 



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