穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

シュタイナーづく岩波書店

2017-03-10 08:10:55 | シュタイナー

二年ほど前に文庫だったか新書だったか忘れたが「シュタイナー哲学入門」という岩波の新刊書の書評を書いた。岩波も通俗スピリチャルもの、精神世界もの、オカルトものを手がけるのかという驚きで冷やかしに買った。中身は予想に反してオカルト味は薄かったが。

と思ったら昨年末に文庫でシュタイナーの「ニーチェ みずからの時代と闘う者」が出た。一体神智学とニーチェがどう関係するの、とまた野次馬根性であがなってしまった。

いま40ページほど読んだ所だ。彼の34歳の作で、巻末の年表によると神智学の活動を開始したのはそれから五年後のことらしい。そのせいか、いままで読んだ所ではオカルト臭は感じない。

しきりに本能という言葉が出てくる。これがキーワードらしい。本能尊重者ニーチェという捉え方だ。これでいいのかどうか、専門家ではないから判断出来ない。

哲学者の通弊でもっとも基本的な概念の定義はまったくしない。それも分からないことはない。どんな哲学者でも彼のもっとも重要な概念は定義なしですましている。当然と言えば当然だね、それが哲学なのだから。 

しかし、喩えぐらいはサービスしてもらいたい。読者の判断を助けることぐらいはしてもらいたい。最も重要な概念は比喩でしか伝達できないのだから。ところがこれもない。本能といっても読者が百人いれば百通りの捉え方があるのだから。

しかし、これは一種のチカラだろう。意志(盲目的な)、エネルギーに連なる考えだろう。卑見によるとこの種の概念は近現代特有のものらしい。アリストテレスもエネルゲイアというが、これは必ずしも現代のエネルギーという概念にはつながらない。

西洋哲学では質量と形相というのが根本的な区分で「エネルギー、意志」というのは正面概念にはない。嚆矢はショウペンハウアーの「盲目的な意志」だろう。ハルトマンの「無意識の哲学」もその系列だし、フロイト、ユングの無意識はこの哲学的概念を通俗科学化したものである。

シュタイナーはニーチェの根本概念は「本能」だと思ったのだろう。もっとも、ニーチェ自身が本能ということを強調したかどうかはあまり印象が無いのだが。

 


岩波もシュタイナーものを始めたか、という感慨

2015-06-20 20:01:01 | シュタイナー

過日、当日発売という「シュタイナー哲学入門」(岩波現代文庫)を書店で見た。

シュタイナーさんのことは知らないが「ああ、本屋の精神世界棚の定番ね」くらいに思っていた。それで岩波も精神世界物をてがけるのか、という下衆な興味がはたらいたわけ。 

目次を見るとフィヒテだとかシェリングそれにヘーゲルと比較しているらしい。これが何だろうと思った(無学のしからしむるところです)。で買ってみた。幽霊が出て来たり、難病がけろりとなおった等という話は出てこない、予想に反して。上記のドイツ観念論哲学者についてもなかなか哲学的な記述だ。それが正鵠を得ているかどうかは評価出来ない。なにしろユニークであっけにとられるところが多い。

ヘーゲルの絶対精神もフィヒテの自我も霊のことだと言うのだ。なるほどね、とまでは譲歩出来ないが、ここでもう一つの感慨を得た。親戚に新興宗教の教祖だった人物がいたが、彼の教えとほとんどそっくりなんだな。これに驚いた。大分年が離れていて、学生時代に散々話を聞かされたが、彼の話にはフィヒテもヘーゲルも出てこなかったが言っていることは瓜二つなんだな。もっとも、彼も哲学出身でジンメルの翻訳を出したりしていたのが、どこで道を迷ったのか教祖になってしまった。彼もどちらかというと、新カント学派というよりは観念論系、生の哲学系だったのだろう。

ヘーゲルを理解するには、それまでの西欧文明、キリスト教文明の顕教的、正統的(カトリック)知識だけではだめで異端あるいは秘教的な伝統(すなわちオカルト)を知らなければならないというのが私のかねての持論である(このブログでも書いたことがある)。

そんなことがあるのでこの書名に惹かれたのだが、ヘーゲル以前のことには実質的に全く触れていない。シュタイナーの主張によると彼はドイツ観念論の成果を出発点として、その上に未解決の問題を解決する目的で研究をしたということらしい、著者の高橋巌氏によると。この考え、特にヘーゲル等の解釈は講壇哲学者(特に日本の)には受け入れられているのだろうか。

まだ、全部読んでいない。終わりの方でブレンターノの話が出てくるあたりから面白くなってきた。