穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

四漱石つれづれ

2011-05-21 07:50:22 | 書評

漱石の漢詩:専門家によるとシナ語で朗読して大したものだと言う。CDもあるとか。これはあくまで独立の漢詩としての話だろう。

平仄だとか、正調、四声だとか西洋詩でいうと押韻ということなのだろうが、漢詩ではやかましい。シナの知識人でも、それ専門の辞書がなければ正しい使い方は出来ないらしい。しかも何千年も前の古典シナ語だからね。

それと、やたらに多いシナ古代史、故事来歴への言及、古典からの引用など出典への知識の該博さと正確さ、これらもろもろのことがないと漢詩は様にならない。

だから漱石の漢詩は大したものだ、といわれればなるほど、と恐れ入る次第である。しかし、このシリーズで論じているのは独立した漢詩ではない。日本語の小説中にその構成要素として挿入される「漢詩、賦、漢文」である。草枕の中とかね。

この点では私は漱石のセンスには違和感があると言わざるをえない。

小説と言う日本語文脈のなかでのパーツとしての漢詩のおさまりの良さ、あるいは意図的な「崩し」としてのおさまりの悪さ、という点では漱石はどうかな。

小説のスタイルと言うのは作家の個性で千差万別だから漢詩の取り込み方もまちまちだから、相互の比較と言うのも問題はあるが、私の好みから言えば永井荷風にとどめをさす。

「荷風の永代橋」だったかな、分厚い悪本がある。荷風の漢詩はなっていない、というのだね。主として平仄、声調のことでつついているようだ。荷風の父は漢詩人だったし、彼も外語のシナ語だったことを考えると意外だが、彼自身も自覚していたようで、自分の漢詩(独立の漢詩)を作った時にはかならず専門家に添削を頼んでいた。

しかし、小説で日本語文脈で用いたときには目的が全然違う。「知識の切り売り職人」のような制約には縛られていない、もともと。

「荷風の永代橋」はこれを大上段に振りかぶって切りつけている。滑稽な悪本である。五〇〇〇円ぐらいする。驚くのはこの本が出てからもう一〇年以上たつのではないか、と思うのに、いまだに新刊書店で見かけることだ。ある程度売れているということだろう。

ピント外れの珍説が用いられるというのは、日本の読書レベルの低いことを物語っている。


参漱石つれづれ

2011-05-20 23:01:13 | 書評

漱石の活動期間は十年ほどだが、最初の二年間を除き、その小説はすべて朝日新聞の連載小説である。いま、新聞の契約作家と言うのがあるのかどうか知らないが、漱石は朝日の社員になってその仕事が連載小説を書くことだったのかな。

漱石は律儀だったのだろう、朝日新聞に招聘されて一生懸命書いたのだ。お抱えと言っても勿論あれだけの仕事をその中で実現したのだから偉大だが、朝日のために(売り上げのために)という顧慮が常にあったことは間違いない。

当然文学作品としても最高のもの、創造性に富んだものという芸術的目標と朝日の売り上げ貢献と言う水と油のような二つの目的を両立させようと8年間も神経をすり減らしたわけだ。胃潰瘍が悪くならないほうがどうかしている。

それがために生来の神経衰弱が嵩じたという側面は否定できまい。それに書きためておいてから分割して新聞に連載するというならともかく、毎日の締め切りに追われながら書くと言うことは神経をすり減らす仕事だ。このこと、すべて新聞の連載小説を書き続けたということも胃潰瘍を悪化させた主要原因だろう。

書きなおしは利かないわけで、よほど神経を使って書くことになる。出たとこ勝負でヒョイヒョイと書き飛ばしていくような作家ならともかく、すべてこのような新聞連載という条件で芸術性の高い作品を書き続けるのは大変なことだ。漱石のほかにこのような新聞作家がいたのかな。一作や二作なら書いた小説家はいるだろうが。

これは「漱石学者」が調べることだが、単行本にするときに新聞連載を大々的に書き直したということがあるのだろうか、興味のあるところだ。漱石の読者に対する律儀な倫理観からするとないような気がするのだが。

漱石と言うと、病理学的な興味は精神医学的、心理学的なものが多いが、特殊な執筆環境という側面からアプローチすべきだろうね。


二漱石つれづれ

2011-05-19 09:49:21 | 書評

大逆事件と漱石;幸徳秋水の大逆事件があったのは1910年、その四年ほど前に書かれたのが漱石の異色の作品「野分」と「二百十日」である。

この二作品は政治的パンフレットと思われるもので、へえ、と思った。金持ち、権力者を憎悪して社会を覆さんとしている者たちが主人公だ。彼らが語る主張は月並み、紋切り型だ。漱石が何故こんなものを書いたんだろう。

時代の風潮かな。永井荷風も大逆事件には「ひそかに」ショックを受けているし、この漱石の二作品は荷風の「新任判事」にあたるものか。いずれにしても出来はよくない。

ところで、荷風の新任判事(注)だが、念のために荷風全集を見たらそんなのないね。タイトルの記憶が間違っていたのか。あるいは全集に収録されなかったのか。あとでインターネットで調べてみよう。

さて、漱石の二作品だが全部読んだわけではない。いずれも最初の二十頁、中の十頁、しまいの十頁位読んだだけだ。ま、ここに書いた印象は全部読んでも訂正する必要もないと思う。訂正する必要があれば後でアップする。

あとでも何回か触れるかもしれないが、二作品がでたついでに、漱石の文体について:

漱石の文体(と言うのは語り口ということだが)はいく種類かある。

言文一致体の漱石的こころみ、道草、門などはそうだろう。

寄席的1落語調、坊ちゃん、吾輩は猫である

寄席的2講談調、坊ちゃん(ミックス)、鉱夫、野分、二百十日(政治講談)

狂詩調、吾輩は猫である。(狂詩というのは漢文の狂歌にあたる)

スノビッシュ漢詩風、俳句風、草枕

洋風(これはいたるところにある)、吾輩は猫である

&注:タイトルは新任知事でしたね。それでも現岩波全集にはない。どこの書店か知らないが、かってはどこかの全集に収録されていたようです。若書きで重要な作品ではないが、叔父をモデルにした小説でトラブルがあったようですから、それらの意味で現全集からは除かれているのでしょう。


漱石つれづれ1

2011-05-18 21:40:37 | 書評

徒然(トゼン)に耐えかね最近夏目漱石を三冊ほど拾い読みした。恥ずかしながらいずれも初見である。中学生並みの読書経験だね。それで書評ブログを持つなんて大した度胸だとおほめいただいて恐縮。

それに触発されて思い出したことどもも兼ねてしばらくお目目を拝借。まず、門(新潮文庫)。いま73ページまで読んだんだが、これはなかなかのものだね。家に漱石全集があって、例の岩波文庫の表紙になっている布の装丁で総ルビの美本、一冊が一貫目はあった。あれはたしかに初版本だったろうな。

家にはそのほかに鴎外全集(書店はどこだったか)それに子規全集なんてのもあったような気がする。つまり成り上がりの田舎出の知識人の応接間を飾る定番が揃っていたわけだ。

それで、中学時代に読んだのが、吾輩は猫である、坊ちゃん、こころ、三四郎なんてところ。猫と坊ちゃんはたちまち好きになったが、こころと三四郎はだめだったな。いまでいえば、ハーレークイーンものというか、薄い人工甘味料のような読後感だった。その後猫と坊ちゃんは数度読み返したが、あとの二冊は再読していない。いま読めばもっと感心するところがあるのかもしれない。

で、勢い、そのほかの著作は読む気がなくなったのだ。念のために書棚を見る。大正の初版本は無くなっているが、今のおれの書棚にあるのはしょぼい新潮文庫版数冊、すなわち吾輩は猫である、鉱夫、道草、硝子戸の中。最近買ったという三冊は門、野分、二百十日だ。

しょぼいというのは本の値段のことだけで、新潮社の本作りは好きなんで誤解のないように。

つづく


豈郷里の小児に膝を屈せんや

2011-05-09 22:01:18 | インポート

ある日のブログ編集筆、

おい、どうしてヒツと言う字は正しく変換出来んのだ。

>なになに、これはシツと入力しないとだめですよ、室と変換したいんでしょう。

どうしてだ、ヒツだろうが。

>はやく江戸訛りを直さないといけませんよ。ところで相変わらず書いてますね。こんどはどこへ応募するんですか。なに、B学界か。すきですねえ。

こればかりはねえ。くそみたいに毎日ひりだすからな。その都度処理しないと溜まっちゃう。

>汚いな。いい加減新人賞へ応募するのはやめたほうがいいですよ。80歳でしょう。

だけど小説では新人だぜ。年齢制限があるのか。

>ないけどさ、想定外というか、暗黙の了解があるんじゃないの。第一審査員なんてあんたより4,50歳は若いんだよ。

そうか、豈、郷里の小児に膝を屈せんや、か

>そうですよ、下読み何かだと6,70歳違うじゃないの。孫かひ孫だよ

ハハハ、豈、郷里の幼児に膝を屈せんや、だな。しかし、しょうがないだろう。彼らが流通を押さえているんだからな。