穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

不埒な文学新人賞

2013-08-14 21:07:58 | 書評
このブログで何回か芥川賞の話題を取り上げた。候補になる作品は文芸誌の新人賞を取ったものが対象になるらしい。それでブログに記事を書くときの参考になるかと、この間書店の店頭で文芸誌を立ち読みしていたら、**新人賞だか、##文学賞だかの募集広告が出ていた。其のページを眺めたのだが驚いた。

徹底的に「おかみ」目線というか、「上から目線」なんだね。21世紀にもこんな不心得者がいる業界があるのかと驚いた。

応募原稿は一切返還しません、というのだ。よくこんな偉そうなことが云える。こういう規定を唯々諾々と疑問も抱かず受け入れてせっせと応募を繰りかえす連中がいるらしいが、およそ文学をやる資格はないし、彼らの作品にろくなものがないのも分かった。

応募過程の問い合わせには応じません、とある。これは何となくわかるんだね。大変だろうからね。しかし、原稿を返却しないというのはどういう了見だ。

「御応募有り難うございました。審査の結果(文言はどうでもいいが)、残念ながら採用出来ませんので原稿はおかえしします」と送り返すのが世間の常識だろうが。

之によって此れを見るに、文学賞業界は徹底的に非近代産業だ。無礼にもほどがある。

もっとも、太宰治の時代から恥も外聞も無く取りすがる例は多いから、募集する側もああいう態度を取るのだろう。





三角共同体

2013-08-13 20:52:04 | 書評

聞き慣れない言葉である。それはそうだ。私が今作った。産学共同体というのはあるが、三角共同体とはなんぞや。

小説家、出版社、書店による販売促進体制である。サブとして提灯持ち、いや書評家がいる。ケチな商売の縄張りを主張する。

小説家は一種のギルドを作る。排他的で新規参入障壁を恣意的に高く設ける。アメリカの通商代表部からすぐに指導が入る。

しかし、一旦彼らのギルドに潜り込むと、あとはお互いに舐めまくる。仲間の批判は一切御法度である。

そういう泥田に参入障壁の一種として咲いているのが文学賞というやつである。

春秋に富む新規参入希望者諸君、三角共同体をあてにしてはだめだよ。気概と創意をもって参入障壁を破壊せよ。



和製シャーリー・ジャクソン藤野加織「爪と目」

2013-08-12 11:36:55 | 書評
最後まで読みました。ラスト二、三十行はまとまっている。あそこに持って行くため、あの無機質な感じを出す妙なナレイションを工夫したなら、一応努力は認められる。

ちょっと、和製シャーリー・ジャクソン風だ。しかし、芥川賞の選者たちがいう二人称小説などの評価を前面に出すのは120パーセント的外れである。ピント外れなことばかり連ねて、あれだけ雁首をそろえている選者が一人もスターンやジャクソンへの連関に触れないのか、不思議な気がする。

一つ補足しておくと、あのラストのためにあれだけの生硬な仕掛けが必要か、ということがある。経済で云えば費用対効果効率ですな。もっとも、芥川賞は純文学だから過程がすべてというなら話は別ですが。其の場合は、これまでに述べた別の理由により認められない訳です。

和製シャーリー・ジャクソンなんて持ち上げたので、ちょっと気になりましたので補足させていただきます。




芥川賞評ならびに選評評:1(424ページまで)

2013-08-12 06:51:35 | 書評
ニュースな小説の書評は当ブログの守備範囲である。好き嫌いに関係なく。

でもって、文芸春秋を買いました。今回の芥川賞受賞作は藤野加織さんの「爪と目」。10ページほど読みました(最初の方から?)。其の時点でのポジション・リポートです。

前回の受賞作「abさんご」を激賞したとか云うもと東大総長(名前失念)の意見を読むと小説というのは後ろから読む手もあるかと思いましてね。

冗談はさておき(朝からたちの悪い冗談でもございますまい)、まず感じたのはローレンス・スターンのことです。それで同じ号に出ている本人の座談会、選者の評を眺めましたが、スターンに触れているところは皆無のようです。もっとも、流し読みでしたので見落としているのかもしれません。其の場合は次号以下で訂正いたします。

いまどき珍しい二人称小説であるとおっしゃる選考委員の方はいるようです。たしかにそうですね。あなた、というあたり。普通二人称小説というのは手紙の体裁をとるようですが、これは違うようです。

選評ではしきりにこれに触れているようですが、当ブログは「あなた」と呼びかけることに主眼をおくと一人称小説と云う方がいいかと。「あなた」つまり義母の視点が出てくるんですかね。10ページ以降で。

私がまず目がいくのは、「あなた」と呼びかける人物が三歳ということです。もう一つ、語りの時点がはっきりしない。そうとう後になってから自分の三歳のころを語っているように見えます。3歳と言うとあとで振り返るとまったく記憶がない年代です(普通は)。それが全能の人物(神)のごとく、自分のことはおろか、回りの人物の内面のことをこと細かに叙述する。

また、見たこともない(其の時点では)人物(たとえば「あなた」の母親や、見ることも出来ない自分の父親の単身赴任先での行動を神のごとき視点で見通していることです。こういう点からすると、昔からある三人称いわゆる神の視点であるようにも云えます。

これらの情報がすべて成人して、あるいは物心ついてからの他人からの伝聞情報とするなら、この記述は相当に乱暴なやり方と云わなければなりません。

以上おもに手法上風変わりと選考委員が感心する問題を論じましたが、作品全体としての迫力、あるいは印象は別の問題です。それらについては次号以下、読み進んだ段階で報告します。

なお、上で言及したローレンス・スターンの小説は「トリストラム・シャンデイ」です。このイギリスの怪僧が18世紀に著した小説は3歳どころではない。自分の受胎の瞬間から一人称で記述が統一されています。相当に腕力を必要とするもので、スターンの後この手のめぼしい作品は出ていないようです。




ドストエフスキーのイデー丸出し

2013-08-04 13:49:54 | 書評

いよいよ、カラマーゾフの兄弟第四部も終わりにきた。ミーチャ裁判の法廷場面だ。

検事の論告があって、弁護士の弁論が続く。明らかに弁護士の弁論の方がインパクトがあるというか、文章として優れている。これは作者が意図的に操作して効果を狙っているからである。

父親の育児放棄を追求している。母親が死んでしまったから育児は父親の責任という訳だが、テテオヤの育児放棄という問題はドスト長編すべての主要テーマである。とくに、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟でそうだ。

法廷での弁護士の主張はドスト年来のものである。つまり作者の声がもろに反映されている。バフチン氏には悪いが、弁論は作者の声そのものである。これ一つを取り上げてもバフチンの主張(イデーとポリフォニー)は成立しないことが分かる。

ドストのいわゆる五大長編のうち、最初の二つ、すなわち罪と罰、ならびに白痴には育児放棄の問題はない。そもそも父親はいない。罪と罰では母親しかいない。父親のことは詳しく書いていなかったと記憶するが、すでに死亡したという設定だったと思う。

白痴では父親も母親も幼児のうちに死んでいる。孤児である、つまりドストの長編は父親が物理的にいない(死んでる)か、実質的に存在しない。すなわち育児放棄をしていて青年になって初めて親子の対面がある。

五大長編すべてで同一の設定と云う一致は作品を考える上で絶対に考慮しなければいけないポイントである。

なぜこんなことを書くかというと、この点を指摘したり、掘り下げたドスト評論は皆無らしいからである。

**

加えて、第四部の終章が「誤審」となっている意味を考えなければいけない。弁論で無罪はほぼ確定的と傍聴者が思っていたのに、陪審員は有罪とした。これを誤審というのだろうが、もっと深い意味があるような気がする。

そしてそれはドストが続編で構想していた「なにか」と関係があるような気がするのである。




ドストエフスキーが行ったカラマーゾフの兄弟の続編予告

2013-08-03 14:32:24 | 書評
13年後のアリョーシャを主人公とした続編を予告していたことはよく知られている。カラマーゾフの序文で明確に述べられている。

一方、イワンについての続編を書きたいと述べていることに付いては意外に言及されることがない。カラマーゾフの兄弟の

第四部「兄イワン」で

引用はじめ> イワンの全生涯に影を落とすことになるこの新しい情熱について、今ここで話しはじめるわけにはいかない。これはすべて別の物語、別の長編小説の構想となりうべき話だが、今後何時の日か、その小説に取りかかることになるかどうかさえ分からない。 < 引用おわり 亀山訳第四巻283ページ。

両方とも作者の死亡で実現しなかったが、どちらもドストエフスキーにとっては難しい作業となっただろう。
なぜなら、まずアリョーシャについては彼の小説中、カラマーゾフで初めて登場するタイプであり、まだドストの手のうちに入っていない。彼を主人公とする物語はかなり難しい作業になっただろう。

一方、イワンの物語だが、これは実質的処女作ダブル(岩波文庫二重人格)のゴリャートキンにさかのぼる彼のもっとも執着のあるキャラである。しかし、世評は「貧しい人々」に比べて極めて低くその後も評価の出ることが無かった作品である。

彼は自分の気に入ったキャラを世間や評論家に受け入れられるように改善しようとして、晩年まで手を加えていたがついに完成しなかった。

之によって是を観るに、イワンの物語も評論家受けする作品にするのには苦労したに相違ない。カラマーゾフ第四巻「悪魔、イワンの悪夢」にその努力の片鱗が観られるが、ダブルのゴリャートキンにあった迫力はなく、世間に受け入れられようと努力したのか、説明的で無味乾燥したものになっている。






カラマーゾフにおける「じいさん」

2013-08-01 10:52:00 | 書評
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」第四部「少年達」で13歳の少年が年下の少年に「じいさん」と呼びかけるところがある(亀山訳)。

一体、原文ではどうなっているのだろう、と思ったがロシア語がわからない。ペンギン・クラッシックを本屋で立ち読みしたら old geezer と訳している。風変わりな老人と云ったニュアンスらしい。

old sport じゃなかったね(笑)、グレート・ギャツビーみたいに。