穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「かもめのジョナサン」は宮本武蔵の五輪書である

2015-01-31 08:13:43 | かもめのジョナサン

先日書店の店頭で五木寛之「創訳」「かもめのジョナサン」完全版とかいうのを見かけた。装丁がなかなかいい。つまり買い気をそそった。手に取るとまず広告(帯)と後書きを見る、例のごとく。 

書店でめくったところで訳者あとがきの法然とか親鸞という言葉が目に入った(読んではいない)。短いし、大きな活字で100ページか200ページだろう。しかも大量にカモメのイラストページがある。正味は一合もないだろう(??)。

ちょいと腹がすいていた(つまり読書の端境期で読む物が無い時機)であったので買おうかなとおもったが「創訳」というのがひっかかって買わなかった。

その後別の書店の洋書売り場で

JONATHAN LIVINGSTON SEAGULL, The Complete Edition

というのを見かけて買った訳である。

全127ページで80ページまで読んだ。現在進行形の感想だが、要するに、熟練した飛行家の神秘体験と素人思想家の様々な読書の寄せ集めが渾然一体となったアマルガメーション(合金)だな。

何処かの解説か惹句に禅の影響をうけたとあるが、それをいうなら仏教というべきようだ。そう言う意味では五木氏のあとがきに法然、親鸞が出てくるのかも知れぬ。

しかし、そんなに一途で深いものではない。あきらかに新約聖書に出てくるキリストの行った奇蹟のような場面が度々出てくる。また本人が勉強したかどうかは分からないが、アリストテレスの幸福論に似たようなところもある。ようするにごった煮である。

特殊な技芸に蘊奥を極めた人間が修行の体験から会得したものをもとにしているという点では宮本武蔵が剣術の修行を経て得た悟りを描いた「五輪書」と同系のものである。

作者リチャード・バックの場合は飛行家としての経験に基礎を置く。だからカモメが寓意に使われている。

進行形書評ですのでまだ続きます。何回続くか分からない。

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「冷血」と名古屋女子大生

2015-01-28 09:43:42 | カポーティー

ちょっと読めるなと思う小説にぶつかると、次々とその作家の作品を読む癖がある。カポーティの「ティファニーで朝食を」を読んだあと、彼の冷血を読んだ。 

ティファニーと違い無慮600ページ(新潮文庫)の長編で犯罪小説(ノンフィクション・ノベル)であるが、概ね退屈であった。時々乗ってるところはあるが。

他に彼の小説を読んでいないが、カポーティは「ティファニー」で終わったんじゃないかな。村上春樹は「冷血」で終わったというが、巷間絶賛されているような作品ではない。

訳者あとがきによると、この作品は「ニュージャーナリズム」あるいは「ノンフィクション・ノベル」の嚆矢だそうだが、この種の何々の嚆矢というのは登場当時は衝撃的でもその後追随者が雲霞のごとく表れて現代では面白くもおかしくもない。ダシール・ハメットがハードボイルド文体の創設者と言っても今はそういう文体が多いから、ハメットを読み返してもどうということはない。

ミッキー・スピレーンが衝撃的だったというが、今の基準からすると穏やかなものだ。

さて、今日のニュースで名古屋女子大生が「人を殺してみたかった」といって殺してしまったという。『冷血』に出てくるペリーと言う殺人者を思い出した。テレビでは「理由な殺人」なんて言っているが、要するに「動機なき殺人」ね。

ペリーという犯人がいるのだが、これがひねくれた環境で育ったが、関係した人間の一部では思いやりのある、倫理観のある人間と見られている。窃盗に入ったが殺害する理由もないのに、四人も残忍な手口で皆殺しにする。

カポーティーは法廷場面を使って精神鑑定をする医師の証言等からこの動機なき殺人衝動の解明を試みる。どうもこの辺がカポーティのきもというか目標の一つらしい。因にこの法廷場面の出来は良くない。退屈である。

名古屋大学の女子大生もこの手が使えるかな。このごろこういうのが多いね。なんというか壊れた機械というか。佐世保でも似たような事件があった。それも犯人が若い女というのも世相かな。なにか理由があるのだろう。犯行動機じゃないよ。こういう人間が発生するという生物精神医学的な理由があるのだろう。

 

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マッハとニーチェ

2015-01-16 08:52:01 | 哲学書評

 木田元さんは最近亡くなった哲学者だが、最近表題の本をあがなった。エルンスト・マッハは物理学者、心理学者、科学哲学者のハシリみたいな人で読んだことは無いが、気にはなっていた 

なにしろ、論理実証主義やウィトゲンシュタインへとつながった人で、いままで読まなかったのは不勉強のそしりを免れない。もっとも、ウィーン学派ともウィトゲンシュタインともすんなり繋がる学説ではない。例えてみればマッハという鶏の卵から蛇が出て来たようなものである、その後の分析哲学や科学哲学は。

木田さんはハイデッガーの研究者らしい。だからマッハはまったく畑違いだが、それだけに瑞々しい感性でアタックしている。読者としても面白く読んだ。 

同時代人のニーチェやレーニンなどのマルクス主義の主張や小説家、詩人との比較はあまり面白くない。ニーチェは木田さんの守備範囲の人だろうから間違ってはいないのだろうが、全然新しいところは感じなかった。ニーチェと共通点があったとしても、その重複部分の面積は小さい。「遠近法的展望」というニーチェの、ま、認識論というかそういうものと重なる所があるだけである。

そこで木田さんも引用参照しているマッハの「感覚の分析」をかったが、おそらく翻訳が酷いのだろう。読むに耐えない。訳者は共訳、須藤吾之助というひと、この人がどういう人かインターネットで検索したが出てこない。もう一人の訳者が広松渉というひとで、この人はマルクス主義の学者、実践家で東大教授だったという。木田さんはよく我慢して読んだね。

おそらく直訳の弊害だろうか、それ以外に文章にやたらと漢語が多い。それも非常にいかがわしい感じのする物だ。要するに衒ったものである。明治時代の中頃までは教養人には漢文の素養があり、やたらに漢語が出て来ても自然だし、品格がある。いかにも名文という感じに成る。共訳者の分担はわからないが、とにかくこの文章は酷い。マルクス主義者ならそれらしい現代文でかけばいいのにね。理解する前にまず眉をひそめてしまう。

これは原文か英訳で読むしかないのではないか。

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「吉田松陰」本

2015-01-04 08:03:41 | 吉田松陰

幕末には多くの言論家が出たが、彼らは既に一家をなして名を知られた学者であるか、幕府あるいは藩の有力者であった。それに比して吉田松陰は名も知られぬ長州の寒村の塾の教師であった。生徒もそこらへんに転がっていた「あんちゃん」たちである。松蔭の薫陶を受けて彼らが明治維新のダイナマイトに成ったのである。

なぜ松蔭はかくも長州藩の多くの革命家を育て、神の様に尊崇されるのか、よく分からなかった。で、昔松蔭の著作の一端を求めて読んだことがなる。なるほど、文章の節々にパンチのある文言があった。だが幕府を警戒させるほどのものとは思えなかった。それで、おそらく村塾の若者に対する直接的な言説が魔法のような魅力があったのだろうと、読んだ時には理解したのである。つまり松蔭は

verbal communication の魔法使いであったのである。 

最近ふと思い立ってもう一度読んでみようと書店に行って驚いた。普通は松蔭の本等よほど注意して書棚を見ないと見つからないのだが、やたらと松蔭本が溢れている。文庫、新書も含めて。予想に違っていささか面食らった訳である。

原因が分かった。今年のNHKの大河ドラマは松蔭ものらしい。それで大衆に売れるだろうと出版社が我も我もと、儲けを当て込んで大量に刷りだしたらしい。

なお、書店の風景をみて本能的な警戒心がおこったのであろう、松蔭本は一冊も買わなかった。

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モディアノ「パリの尋ね人」

2015-01-03 16:39:38 | モディアノ

1941年の暮れに新聞の尋ね人欄に家出人として載ったユダヤ人少女が翌年春にナチスの強制収容所送りになるまでの軌跡を追跡しようとした記録である。作者はノンフィクションと言っているらしい。

これは一少女の史伝である。鴎外の史伝は江戸時代の記録も隠滅しかけていた医師、儒者の生涯を掘り起こしたものだ。鴎外の対象は有名な人物ではないが、医師、学者として一定の業績を残した人物の記録であり、「パリの尋ね人」は市井の未成年の少女のわずか数ヶ月の軌跡を辿ろうとした物で、対象には大きな隔絶があるが、方法というか性格には類似した点がおおい。真っ先に鴎外の史伝を思い出した理由である。

モディアノの作品には質のばらつきが大きい。いずれも中編だが、一年、二年おきに出版していれば均質な品質は無理だろう。あるいは翻訳者の腕前に差があるのかもしれない。普通ある作家については特定の訳者があるものである。少なくとも同じ時代には。時代を隔てて新しい訳者による新訳が出ることはあるが。

ところが、モディアノについては翻訳者が数多くいる。例外を除き一作品一訳者と言っていい。それには事情があるのであろうが、訳者の力量に大きな差があるようだ。その意味では「パリの尋ね人」は質が高い。

史伝はテーマの面白さで競うものではなく、あくまでも文章の品格で勝負するものであり、本書は推奨出来る。

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いやったらしいアカに心が染まるとき

2015-01-03 15:51:04 | ティファニーで朝食を

原文で「ティファニーで朝食を」を見たらredsとある。色を複数形にするとどういう意味になるのかな。英文法を知らないので分からないが。

ホリーが言っている意味は前々回紹介した通りだが、これを村上春樹のように「アカ」と訳すのはどうみても不適切である。ブルーはカタカナで書いてもほかに日本語に該当するものがないが、アカは垢、赤、紅、閼伽などポピュラーなものでも沢山の単語がある。

また、共産主義者をアカというのも一般的に使われた。今ではあまり見かけないが。何しろこの本が出た1958年というのはアメリカでもマッカーシー議員の「アカ狩り」が猖獗を極めた頃ではなかったか。 

ブルーが日本語として通用するように、現代日本人にはレッドというカタカナも伝わる。せめてアカとせずに、レッドな不安な気分、あるいは嫌ったらしい気分とでも訳すまでが許容された限度だろう。 

こういう不適切な訳に一カ所でもぶつかると、翻訳全体がかなりいい加減にやっつけているのではないか、という疑念もわく。

流していてつい訳し間違えるということは有るが、この箇所は訳していてどうしても引っかかるところだろうから、ちょっと翻訳全体の信憑性に疑問符がつく。

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ティファニーでの朝食の食べ方

2015-01-01 23:55:51 | ティファニーで朝食を

インターネットで見たら「ティファニー」は映画の話ばかり。でその一つのサイトで映画の冒頭とラストの場面をユーチューブで再生した。

冒頭の場面でオードリーがタクシーで開店前のティファニーの店の前にやって来て紙包みから菓子パンとコーヒーカップを出して店の中を覗き込みながら立ち食いしている。なるほど、ティファニーで朝飯を食うにはこうすればいいわけだ。 

ラストの場面も見た。彼女がブラジルに出発する途中で猫を路上に捨てていく場面だった。これは小説にもあるが、思い直してタクシーを降りて猫を探しに行く。ここからは小説とは違う。そうして雨の中で猫を見つける場面でハッピーエンド的に終わっているようだ。

あれじゃブラジルに逃げることはないんだろうな。いや「僕」に猫の世話を頼んでやはりブラジルに逃げるのかしら。

 

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オードリー・ヘップバーンの印象とは大分違う

2015-01-01 23:07:46 | モディアノ

「ティファニーで朝食を」は映画で有名でした。主演がオードリーで、この映画は見ていないが、「ローマの休日」の彼女の印象と小説の印象は全く違う。村上春樹もあとがきで書いていますが、カポーティもこのキャスティングには不快感を表明したといいます。

ホリー・ゴライトリーという20歳(未満?)の女性が主役ですが、将来有望な映画俳優の卵ということになっている。しかし、芸能界やニューヨークの社交界では結構知られた顔になっている。ボロアパートに住んでいるが、ひっきりなしに金持ちや映画界の大物を招いては乱痴気パーティを開いている。一種のセレブと言うか成功者だ。虚栄の市に住んでいる根無し草という設定はギャツビーと同じ。カポーティは彼女は「ゲイシャ」だといっている。読み方によっては「高級コールガール」あるいは高級遊女という感じがある。

「僕」がナレイターでグレート・ギャツビーのニックにあたる。同じアパートに住んでいる。

彼女の素性が分からないというのもギャツビーと同じ。最後にテキサスのチューリップというとんでもない田舎から出て来たということが分かる。ほんとにチューリップなんでいう場所はあるのかな。カポーティのギャグだったりして。

ギャツビーは暗黒街のボスという隠れた顔があったが、彼女には刑務所に入っているマフィアとの連絡役という側面があり、逮捕されるが保釈されてブラジルに逃亡して杳として行方が知れなくなるというもの。殺されたギャツビーほど悲劇的ではないがキング(クイーン)の座から転落しておわるところは同じ。

これだけなら芸の無い話だが、この19歳くらいの「高級娼婦風」が「僕」を相手に気のきいたセリフを連発する。ときに高踏的警句、ときに深遠な哲学的言辞を吐く。もちろん単に支離滅裂なこともしゃべる。およそ、こんな破天荒な若い女性が現実にいるとは思えないが、いる様に思わせるところがカポーティの芸である。一読の価値があります。

あるとき、彼女が「アカな気分になる」という。最初は読飛ばしていたが後で又出てくる。なんじゃい、と思った。共産主義者的とか過激派的とかなんかと思って読み進むがどうもつながらない。しょうがないから、最初から読んでみるとどうも「ブルーな気分」(憂鬱なという意味ですかな)と対比していうホリーの造語らしい。「僕」はアングスト(不安感)と解釈している。実存の危機感とでいいますか、気取って言うと。 

ギャツビーでは「オールドスポート」について長々と考証をした村上氏は全然あとがきでも言及がないからわからない。カタカナで「アカな」と書いてある。此れじゃ分からない。原文はどう書いてあったのかな。Red,scarlet or crimson ?

ブルーと対比しているから色には違いないだろうが、うっかり読むと垢と勘違いする、それでも意味が通りそうな気がする、なにしろ型破りの発言をするホリーのことだから。 

タイトルの「ティファニーで朝食を」だが、このアカと関係してくるから重要なところでここは村上春樹氏に是非翻訳を工夫して欲しいところだ。

ホリーが「僕」に説明したところによると、アカな気分に取り憑かれたときはアスピリンを飲んだりヤクをやったりしてもだめで「ティファニーに言って朝食を食べる」と治るとすっとぼけたホリー用語で言っている。

高級宝飾店として、おつに取り澄ました雰囲気の店に行くとアカな気分がおさまるという人を食った言葉なのである。ところでニューヨークのティファニーはレストランを併設しているの。これもギャグくさいがね。

最後に「グレート・ギャツビー」は1924年発行、「ティファニーで朝食を」は1958年発行です。

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ティファニーでおせちを

2015-01-01 18:07:43 | モディアノ

あけましておめでとうございます。皆様はアカな気分になっていませんね。ましてブルーな気分にはなっていないと思います。おとそで邪気をはらえばそんな気分にはなりません。

わたしはどうも読書傾向を探るという癖がありまして、このところノーベル賞作家のモディアノ氏の作品をあらかた読みました(翻訳で)。彼の場合でも、どんな本を読んでいるのか気になりまして、解説等でもそういうところに目がいきます。

最近ラディゲの作品を読んで書評したのも彼の「8月の日曜日」に頻出する「プロムナード・デ・ザングレ」がラディゲの影響だというので読んだ訳です。パリ市内セーヌ河岸にあるニースが本家の「プロムナード」のまがい物に触発されただけのことらしいと分かりましたが。 

また、あるところで彼の読書履歴でカポーティの「ティファニー」を上げているので未読だったのを幸いに読んだわけです。結論から言うと、これらの作品とモディアノの作品との関係、影響は感じられません。

もっとも感銘を受けた作品が直に自作に影響する方が珍しいのかも知れない。影響を受けているとすればもっと深いところで感銘を受けているということでしょう。あるいは営業上の理由で本当に影響を受けた作品は隠すというのが作家かも知れない。

ところで「ティファニー」は新潮文庫で村上春樹訳でした。読後の印象は構造的にフィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」に酷似しているということでした。後者は村上氏の訳の評判が高い。これも村上訳というのでちょっとびっくりしました。

ところが、村上氏の訳者あとがきではグレート・ギャツビーとの比較には全く触れていない。それなら、ここで書く意味があるかなと。 

続く、、

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