前回のアップでホラー描写も達者だと書いたが、その前に書こうと思ったことがあったのを忘れていた。言うまでもなく「意志と表象としての世界」は十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて欧州を席巻したショウペンハウアーの主著である。いまは知っている人も少ない。漫才哲学師を標榜する当ブログとしては是非一筆しなければならない。
かって旧制第一高等学校の哲学かぶれの学生が愛唱したデカンショ節なるものがあった。『デカンショ、デカンショで半年暮らす、後の半年ゃ寝て暮らす』だったかな。デカはデカルトである。カンはカントである。そうしてショはショウペンハウアーなのだ。今の学生ならデカンヘーとヘーゲルあたりを持ってくるところだろうが、日本でもショウペンハウアーはそのくらい人気があった。
簡単に要約すると誤解を招くが、ようするにペシミズムで人間は盲目的意志に操られている。自殺して煩悩を絶つのが利口だという、ある意味仏教に通じるところがある。しかし、抹香臭いところがなく、非常にロマンチックな名文で書かれていたもので、とくに若者はみんな参ってしまった。もっともショーペンハウアー自身は長命を保ち、毎朝イギリスのタイムズの商品取引欄を読み投資に巧みであったと言われる。おそらく退屈しのぎだったのだろうが。
かの分析哲学の祖であるウィットゲンシュタインも青年時代にショーペンハウアーを耽読したことを語っている。また、ニーチェの最初の師というか、影響を受けた哲学者としてみずから彼の名を挙げている。もっとも彼のその後の哲学にはまったく反映していないが若い時代にワグナーと同じくらい影響を与えた哲学者である。いささか、長くなったが、今はだれも知らないと思うので長くなった。もっとも、豊かな内容を要約しすぎた恨みは当然ある。
さて、宇宙の眼に戻る。陽子加速器の事故に遭った八人は別次元に何回も蘇生?するのだが、そのたびに一人が主役になる。つまり彼あるいは彼女の意志する表象(意識、つまり世界である)が全員の意識を支配する。だから彼、彼女の意志のままにされる。その三人とは最初は退役軍人、二番目はデブチンのおばさん、三人目が中性的なオールドミスである。そこまで読んだのだ。三人目のオールドミスのところで建物が彼女の意のままになって生き物となって皆をおそう。その先どういう展開があるのかは読んでから報告することにします。