穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

48:第九の演説

2019-11-30 08:06:34 | 破片

 謹聴、謹聴。二千六百年ぶりにプラトンの『ソクラテスの弁明』に校正が入ります、と橘さんがはやし立てた。背筋に定規をあてがわれたように第九は背中をピンと伸ばして緊張気味に話し始めた。

 「さて、かのソクラテス裁判で彼が陳述したというデルポイの神託のくだりですが、プラトンとクセノポンの記述がまったく違うというところをご指摘させていただきましたが、どちらが正しいのかということを弁じたてます」

「弁じたてます、というのはおかしいぜ。活動写真の弁士みたいだ」といつの間にか来店していた卵あたまの老人が注意した。

下駄顔も「おれも大昔に活動写真を見たことがあるが、令和の御代に久しぶりに聞くとぎょっとするぜ。二十一世紀だろう。申し上げますとかお話ししますと言ったほうがいい」

老人たちのいれたチャチャに第九はいささかむっとした顔をしたが、「それでは、その経緯についてわたくしの推測を弁じ、いや申し上げます」

老人たちはパチパチと手を叩いた。橘と長南は興味深そうに耳を傾けている。

 「最初に結論を申し上げますが、史実としてはプラトンの記述は間違いであります」

第九はコップのお冷を一口飲むとモップで拭うように舌を出して上下の唇を嘗め回した。

 「まず記述者の違いを申し上げましょう。いうまでもなくプラトンは裁判当時ソクラテスの現役の弟子でした。ソクラテスは七十歳、プラトンは二十八歳でしたから、弟子の下っ端のほうでしたでしょう。勿論裁判には被告側の介添え団の一員として参加しておりましたが、おそらく忙しく立ち働いていてどっかりとソクラテスのそばに座って最初から最後まで一字一句弁明を聞いている余裕はなかったと思われます。また裁判所には多数の人間が蝟集していて、マイクもない時代ですからソクラテスの陳述をもれなく聞き取れたか疑問です。なにしろ裁判員だけでも五百人いたうえに傍聴人はそれ以上いたでしょう。それにソクラテスは法廷での陳述は慣れていなくて初めて法廷で大観衆の前で話すから、声もよく通らなかったと考えるのが妥当です。現代でもすこし学生の人数が多いと大学の授業でも先生はマイクを使います。アテネ中の人が集まる会場で隅々まで演説を響かせることなど職業的な法廷弁論人でもなかなか難しいでしょう」

第九は話を続けた。

「プラトンは師がデルポイの神託の話をしていたことは理解したのでしょうが、どういう風に話したかは聴取していなかったと思われる。しかし、ソクラテスは弟子にデルポイの神託の話はよくしていたと思われる。だからああ、あの話だなと思って平常話していることをそのまま対話篇に入れたと考えられる。

  しかし、ソクラテスはデルポイの話を違った風に作り替えた可能性がある。おそらくクセノポンの伝えるのが正しい。なぜ話を作り替えたか、それは明瞭ではないでしょうか。長南さんが鋭く指摘したように弟子たちにいつも話しているように語れば不敬罪の大罪に問われる口実を与えることになる。それで即興で話を作り替えた。なにしろソクラテスは神託で『彼以上に知恵のある人間はいない』と言われたのですから、そのくらいのことは察しがつきます」

「弁士中止!!」と大声で連呼したものがいる。橘である。みんながびっくりして彼を見ると「いや、冗談ですよ。いまみたいな話をプラトンの講釈で飯を食っている大学教師の前でしたら、弁士中止と制止されるだろうということです」と無邪気に笑った。

  第九はほっとしたようで「最後にクセノポン側の情報源を手短に申し上げましょう。裁判当時彼は海外遠征中で、あとでソクラテスと親しかったヘルモゲネスという人から裁判の様子を聞いて、書いている。おそらくこちらの証言のほうがバイアスがかかっていないでしょう」

 「なるほど、説得力がありますね。しかし、プラトンの作品は歴史書ではなくて創作でしょう。そうすると虚実織り交ぜるのはそんなに大罪になりますかね」

「読む人次第でしょう。読む人が創作と思って読めば問題はないんじゃないの」と長南さんが指摘した。

「法廷戦術としても神様が『彼以上に正しい人はいない』という人を死刑にしていいんですか、ということになるわね。クセノポンの引用が正しいとすると、なかなか考えたセリフと言えるわね」

  橘さんは改めて憂い顔の美人を感心したように眺めた。

 

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47:プラトンが信用できない理由

2019-11-29 10:56:15 | 破片

  店内に野太い老人の声が響いた。下駄顔が店に入ってきて橘たちを見つけて傍に座った。「今日は早いですな」と声をかけた。「今日は早々とノルマを達成したらしいですよ」と第九が教えた。

老人はエスプレッソのダブルを長南さんに頼んだ。

「今ね、この間話していたプラトンの話をしていたんですよ。彼女が読んでね、ソクラテスは有罪だという判断をしたんですよ」

「へえ、どの本ですか」

「ソクラテスの弁明です」

「ああ、この間、あなたが勧めた対話篇ですな。まだ読んでいないな」

長南さんがエスプレッソを運んできた。

「わたしにも話を聞かせてよ。今日は客も少なくて暇らしいからここに座ってさ。ママもまだ来ていないみたいだし」

 

  下駄顔に勧められて彼女は仏頂面でドスンと腰を下ろした。彼女はいきなり口を大きく開けると長いしなやかそうな指を口の奥深くに突っ込んだ。みんなが度肝を抜かれてみているが、彼女は一向にその視線が気にならないらしい。奥歯に何かが挟まっているのか、それをせせりだそうとするように無心に指を動かしている。

 やがて口から指を引っこ抜くと人差し指の先端をしげしげと確かめている。テーブルの上から紙ナフキンを取り上げると指先をぞんざいに拭いた。

 彼女はおんなじ話をするのは面倒だと思っているのだろう。第九はふと思いついて「そういえばね、私も気になることがあってこの間読んだんですよ」

「ソクラテスの弁明ですか」

「ええ、そうなんですがね、ただしクセノポンが書いた同名の本なんですがね」

「誰だって」と老人が驚いたように大きな声を出した。ポンが付いているから麻雀の本と思ったのかもしれない。

「クセノポン」と第九は繰り返した。

「有名な人なのかい」

「割と知られた名前じゃないかな。岩波文庫にもアナバシスという歴史書がある」

「歴史家なんですか」

「そうなんでしょうね。若いころはソクラテスの弟子でその後軍人になって海外遠征をしている。帰国してから何冊か本を書いているらしい。そのなかにソクラテスの弁明と言うプラトンと同名の本がある。私も知らなかったんですけどね。この間橘さんが話されたんで大昔に一度読んだプラトンのほうの『ソクラテスの弁明』を読もうと本棚を探したんですよ。本棚と言うほどの代物でもないけどね。しかしもうない。引っ越しの時に捨ててしまったんでしょうね。それで本屋で探したらある文庫で、岩波じゃないんだが見つけましてね。それで帰って中を見るとプラトンの弁明の後ろにクセノポンの弁明の翻訳もついていた。プラトンに比べる短いものですがね。橘さんはお読みになったでしょう」

 「さあ、どうだったかな。はっきりと憶えていないな。それでどうなんです。プラトンと較べて」

「例のデルポイの神託の話なんですけど、プラトンと全然違うんですよ」

「そうなの」と長南さんがやや興味を抱いたようであった。膝を両手で抱えてテーブルの上に身を乗り出した。

第九は二つの書物の違いを説明した。さっき彼女が言ったように『ソクラテスより知恵のある人間はいない』じゃなくて、ええとと言葉を詰まらせた。「馬鹿に長いんでね、正確には憶えていないが、」

「いいじゃないか、どうせ翻訳なんだから」と橘

それじゃ、と第九は始めた。「こんなかんじだったな、『人間の中でこの私(ソクラテス)より自由な人間もいなければ正しい人間もおらず、節度に満ちた人間もいない、と答えられたのです(神託を取り次いだ巫女が)』。たしかそんなことだった」

「全然違うわね。どうしてこんなことが起こるのかしら」

「さて、そこですよ。私はこんなに違う記録があるのに、プラトンの注釈者が2600年にわたって全然疑義をはさまなかったのが不思議でね」

「それは妙だわな」と下駄顔

「それで私は考えるのですが」と第九は続けた。

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46:不敬罪にあたる

2019-11-28 20:41:31 | 破片

  長南さんは再び第九たちの前にどっかと腰を下ろした。

「こないだの話を聞いて『ソクラテスの弁明』を読んだんですよ」と憂い顔で長南さんは話し始めた。

「どうです、読みやすかったでしょう」と橘さんが探りを入れた。

「そうですね、ずーっとソクラテスが法廷で訴えられた件は無罪です、と話すわけね。今でいえば被告人陳述とでもいうのかしら。当然法廷だから訴えたほうからの弁論もあるはずだけど、それは書いていないわね。ただ、訴追理由は書いてあって」と話し始めてから、二人を見て「あらそんなことは先刻ご存知よね」と言った。

 「いやいや話の順序としては必要ですよ。たしか訴追理由は二つありましたよね」

「そうですね、それじゃお二人とも先刻ご案内と思いますが、訴追理由の第一がポリス(アテネ)の神を信じないとか、異国の神とかダイモニオンとかいう怪しげなオカルトっぽい存在の指示を信じたとかいうんでしょう」と橘氏に確認した。

「二番目は怪しげな言説で青年たちを堕落させたというので訴えたわけです」

「それで貴女は二つとも有罪と思うんですか」  

「一番目は明らかにそうですね」

「これは手厳しい。どうしてですか」

「デルポイの神託の話が出てますよね。それが『ソクラテスより知恵のある人間はいない』というんですね」

「そうそう。それが不敬罪と関係があるんですか」

「そこまではないわけ。喜んでありがたくお告げをお受けしておけばいいものを、ソクラテスは本当かな、と疑ったわけ」と言うと水を一口飲んで喉を潤した。

「しかも、神様の言葉をためしてやれ、というので当時の有力な政治家や有名な詩人の所に押し掛けて言った頓智問答めいたことを仕掛けたんです。そうしたらやはり自分のほうが賢いことが証明されたと法廷で述べています」

「なるほど、たしかに『弁明』で本人が言ってますね」

「これって不敬虔の最たるものでしょう。神を信じないで試すなんて」

橘さんが感心したように膝を叩いた。「いやお見事、確かにその通りだ。キリスト教でもいう、神を試すなってね」

「仏教でも言いますよね、仏は思議すべからずってね」と第九。

「それで二番目の告発も有罪ですか」

「青年を堕落させたということですか。これは何とも言えませんね。実情がわからないんだから」

  第九が口を開いた。「それで第一の訴状に対する量刑についてはどう思いますか。いくら何でも死刑と言うのは重過ぎると思うが」

「ええ、告発はもっともだと思いますが、量刑はちょっとね、実際のところ、裁判で争うことかっていう違和感がありあすけどね」と長南さんは世故に長けたおばさんのようなことを言った。

 「しかし、なにしろ2600年前の時代だ。ヨーロッパでは中世でも神を信じないというので火あぶりにした宗教裁判もあったし、近代になってからもアメリカでは魔女狩りで沢山の人が刑死している。現代だって、宗教国家では同じことがあるらしいし、独裁国家では指導者の顔写真が載っている新聞をちり紙に使ったというので処刑される国があるそうだから、死刑と言うこともあり得たかもしれないな」と橘さんが述懐した。

 「それで気が付いたんだが、デルポイの神託のはなしですが、全然違う話もあるようですね」

橘さんがびっくりしたように聞いた。「どんな話です」

「クセノポンの書いた同じ題名の『ソクラテスの弁明』というのが残っているが,神託の内容がまるで違うし、ソクラテスが神託を疑ったという話でもない」

「それでは今度は夏目さんの話を聞きますかな」と橘さんに促された。

 

 

 

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45:長南さん、「ソクラテスの弁明」をけなす

2019-11-27 07:55:33 | 破片

 第九は小一時間ほど朝の行事をすますモニターで外の様子をチェックした。朝の行事というのは分かっているだろう、顔を洗ったり、髭を剃ったり、頭に櫛をいれたり、各種排出をすませたり、外出用に着替えたりすることである。もう奴らもいなくなっただろうとモニターを見ると無人だ。もっとも廊下の角あたりで待ち伏せしている可能性もある。

  ドアを開けるとするりと廊下に出た。なるだけ音がしないようにドアを閉めて鍵をかけた。

管理組合の連中にも合わずに外に出た。街路に出ると昨夜の風で落ちた茶色い枯れ葉が道路を覆っていた。メトロで盛り場に出ると当てもなく初冬の心地よい街をぶらついた。しばらくして歩数計をのぞくと三千歩を稼いでいた。定食屋で早ヒルをすますと大型書店を巡回する。歩数計をみると五千歩だ。

  ダウンタウンに行ってみると時間が早いせいか、店内は閑散としている。店内には橘さんしか、知り合いの常連はいなかった。彼の前には長南さんがデンと座っている。客が少なくて暇だから客の前に座って話をしているのだろう。彼らのそばの席に腰を下ろすと

「今日はお早いですね」と挨拶した。今日は景品の紙袋もない。今日は午前中で手ひどくやられたかな、と思った。それともと思って「今日は仕事はお休みですか」と聞いた。

「いや、もう一仕事しましてね」と彼はニコニコしている。

「新規開店の店に行ってね、いきなり大当たりの連鎖反応ですよ。二時間でノルマ達成でした」

「へえ、お見事ですね」

「あんまり欲をかかないことが大切でね」

 第九が不思議そうに彼の周りを見回しているので、「今日は全部現金に変えました。景品に変えると持ちきれないのでね。長南さんになぜチョコレートを持ってこなかったのか、と怒られていたところです」と苦笑した。

長南さんがあいまいな笑みを浮かべると席を立ちあがりながら「何にしますか」と第九の注文を取った。

「インスタントコーヒーをスプーン山盛り五杯とグラニュー糖二十グラムでお願いしましょうか」

  彼女が注文を通しに配膳カウンターのほうへ行くと橘氏は「彼女とプラトンの『ソクラテスの弁明』の話をしていたんですよ。彼女はソクラテスは有罪で当然だというんです。なかなかユニークな意見でしたよ。あなたは弁明を読んだことがありますか」

「学生時代にね。ソクラテスの弁明を否定してアテネ市民の有罪判決に賛成だというのですか。たしかにユニークな意見だ」

彼女がコーヒーを載せたトレイを運んできてテーブルにセットした。橘さんが言った。

「あなたのさっきの意見を夏目さんにも話してあげなさいよ」

 

 

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44:電話の相手は?

2019-11-23 08:39:15 | 破片

 午前7時カーテンを開けると帝都東京の東北の鬼門を護る筑波山は黒々と神々しいまでの姿を雲海に浮かべていた。昨夜吹き荒れた木枯らし一号に掃き清められて関東平野の上空はチリやスモッグひとつない。炊事掃除などの朝の行事を終えた第九は窓の前に据えた机の前に座るとテレビをつけた。別に見たい番組があるわけではない。習慣みたいなものである。民放のワイドショー番組を一巡りしたが興味を惹くような話題もない。その時、電話が鳴りだした。

  第九は電話が嫌いである。キャンキャンと騒ぎ立てる電話機をしばらく見ていた。出ようか、出るまいか。出ないわけにはいかない。アメリカから妻がチェックを入れてきたのかもしれない。いまどこにいるかしらないが、アメリカは夕方だろう。妻は出張先から電話してきて彼の在宅を確認するのである。特に日本時間の早朝が多い。彼が彼女のいない間に外泊していないかどうか確認するのである。

 とうとう彼は受話器を取り上げた。「もしもし」と男の声が伝わってきた。しまった、と

受話器を置くとすぐに又ベルがなりだした。十三回ベルが鳴ったところであきらめて受話器を取り上げた。「もしもし、谷崎さんでしょう」と押しつけがましい闘士風の男の声がした。

第九は一呼吸して態勢を整えると応答した。

「いま、留守なんですが」

相手は男の声にちょっと驚いたようだった。

「留守っているじゃないか」

「私は留守番をしているだけなんです」

「あんたは谷崎さんの何なの。名簿には同居者はいないがな」

偉そうな口を利く横柄な男だ。むかむかしてきた第九は「あなたは誰ですか」と反撃した。

「管理組合理事長の麻生です」と答えた。へえ、そうなのか、この間妻が臨時総会の委任状を出せとうるさく言ってくるとか言ってやりあっていたがこいつなのか。

「ご用件はなんでしょうか」

「日曜日の臨時総会の件ですがね。早く委任状を出してください。もう三回も催促しているんですがね」

第九は受話器を机の上に置くとテレビのリモコンをとりに行って、騒音をまき散らしているワイドショーの電源を切った。戻ってくると、電話が中断したのにイラついたのか「モシモシ」と大声を出して怒鳴っている。

 「そうですか。それでは伝えておきましょう。臨時総会はいつですか」

「さっき言ったでしょう。今週の日曜日ですよ」

その日はまだ出張中だ。だがそんなことを説明する必要もあるまい。

「委任状は配布しましたが、あるんでしょうね」

「さあ」

「それじゃ、これから届けに行きますから」

「私は部屋にはいないんですよ」

「なんだって、電話に出ているじゃないか。この電話は谷崎さんのだろう」

「そうなんです。私の携帯に転送するようになっているのです。へへへ、ですから来られてもむだですよ。何でしたらメールボックスにでも入れておいてください」

  電話を切ってから十分ほどしてからドアチャイムがなった。さっきの麻生が確かめに来たのかもしれない。応答しないでいるとドアの取っ手をガチャガチャ揺すった。インターフォンのモニターで覗くとドアの前に三人ほどいた。皆腕章を巻いている。四十くらいのがっちりとした田舎の青年団長風の男が麻生という男だろう。あとは三十歳くらいの弱々しい男が二人付き従っていた。

 

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43:プラトンにも色々あらあな

2019-11-21 09:49:20 | 破片

 どうしてだい、と下駄顔が不審顔で橘さんに尋ねた。

「プラトンの対話篇といっても種々ありましてね。あなたのいうように理不尽な尋問形式なのが多いのだが、」というと彼は充血した眼をごしごしとかいた。今日はパチンコで大損をしたらしい。目が血走っている。一時八万円ほどへこんだのをようやく五万円ほど回復したという。へとへとに疲れた様子である。

「だいぶ昔に読んだから記憶を呼び戻すのが大変でね」と大きくため息をついた。

「いや、いいんですよ。それじゃ『ソクラテスの弁明』でも買ってみますよ」

なにね、こういうことなんですよ。とかすかな記憶をだとりながら橘さんは話し出した。

「プラトンがお得意の二分法を借用するとね、対話編ではソクラテスが主人公のものと、聞き役というか脇役のものがある」

「尋問をしないのがあるのかい」

「そういうのがある。尋問しないやつをさらに二分すると、ソクラテスが聞き役というか話の引き出し役のものと、彼が一方的な話者か複数の話者の一人の場合だ」

「なんですい、複数の話者というのは」

「さっきあなたに勧めた『饗宴』がそれです。ある酒席で数人が集まり、それぞれエロスについて自説を述べ合う、順番にね」

「デカメロン形式ね」と女主人は納得した。

「そしてお互いに話したことに感想は述べるがしつこく尋問調で追求することはしない。だから叙述の形式としてはあまり抵抗がなく読みやすい」

「なーる。それで為になりますか」

 「あんまりならないね、みんな他愛のない話だ」というと彼はお冷をぐいとあおった。

「なかにこんな話をしたのがいたな。大昔は人間に手が四本、足が四本あったというのは知っていますか」

「しらねえな」

「ま、そういう話なのさ、それで人間がだんだん増長して生意気になった。それで神様が懲らしめるために人間全部を二つに裂いてしまったのさ。それで今の人間は手が二本で足が二本になった。性器も同じものが二つ付いていた」

「へええ」

「まだあるんだよ、人間が二つに咲かれる前にも人間には三種類があったというんだね」

「どういうことなんですか。男と女の二種類じゃないんですか」と長南さんは俄然興味をしめした。

「ちがうんだな。昔もオトコオンナというのがいたのさ。雌雄同体というやつだね」

「それでさ、男の四本脚は二つに体を裂かれても昔の半分を求める。つまりゲイだ。女の四本脚は裂かれた前の自分の半身を求める。これがレスビアンだ。雌雄同体の四つ足人間は男部分と女部分に裂かれたからそれぞれ男は女を求め、女は男を求めるわけだ」

「だれがそんな話をしたんです。その登場人物の名前はどうなっているんですか」と女主人がきいた。

「たしかアリストファネスでしたね」と橘氏は答えた。

「あの有名な喜劇作者のですか」

「そのようですね」

 「それで『ソクラテスの弁明』もそんななのかい」と下駄顔がきいた。

「いや、またすこし違う。裁判所での陳述という設定だから長いモノローグです。だから読みやすいでしょう」

 

 

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42:下っ腹が張ってきてね 

2019-11-19 08:26:55 | 破片

 それまで珍しく下を向いて考えていた若き女性哲学徒の長南さんが質問を発した。

「エロ小説って自分の体験を書くんですか」とハッタと下駄顔老人の顔を正面から直視した。

思わぬ奇襲攻撃を受けて彼はちょっと驚いたように彼女を見返した。

「それは貴女小説ですからね。虚実織り交ぜてごまかすんでさあ」と言いながら顎の無精ひげを撫で上げた。いかつい大きな手で年相応に節くれだっているが、爪はきれいに切りそろえてある。タイプライターを毎日打っているからつめの手入れには気を付けているのだろう。

  若き女性哲学徒は追及の手を緩めない。「書いているうちにやはり興奮してきますか」と聞いた。老人は感心したように彼女を見返した。「そりゃあ貴女多少は感情移入しなければ迫真の描写は出来ませんからな」

「興奮するとどうなるのですか」と彼女はあくまで追求した。

どうも弱ったなという風に老人は口ごもったが、「下っ腹が張ってきますな」と観念したように白状した。

「下っ腹が張ってくるとどうなるんですか」

第九は彼女が無邪気なのか、探求心に忠実なだけのかよくわからなかったが、「そんな殺風景な質問はこの辺までにしましょうよ。あなたにもそのうちに分かってきますから」

と仲裁に入ったのである。彼女は不満そうであった。別にカマトトを装っているわけでも無さそうだったが。世の中が進歩すると不思議な女が出てくるものだ。

  下駄顔はほっとしたように長い吐息をついた。

「それでプラトンは読んでみてどうでした」と第九は助け舟を出した。

「どうもこうも、不愉快になりましたね」

「それは分からないからですか」と橘さんが遠慮なく言った。

「何を買ったんですか」

「短いほうがいいと思ってね。『ハイドン』、『ラケス』、『メノン』だったかな」

「それは初めて読むにしては特殊だ」と橘氏が言った」

「どういうところが不愉快だったんですか」

「解説によるとプラトンの対話篇というのは問答法というらしいが、あれは問答じゃなくて尋問だね。それも非常に卑劣なやりかただ。ちょうど、警察の取調室で刑事や検事が取り調べるときのように、質問するのはソクラテスだけでしかも質問する理由も説明しない。刑事が被疑者に対して、『質問しているのは俺だ、お前は答えるだけでいい。なぜそんな質問をするのかなどお前に説明する必要がない』とどやしつけているのと同じじゃないですか」

 「ふむ、言えてるね」と橘さんが言った。

「プラトンの本はみんなあんな書き方なんですか」

「ほとんどはね。しかしそうではないものも若干ある。あなたは『ソクラテスの弁明』とか『饗宴』を最初は読んだほうがよかったかもしれない」

 

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41:知識は万人のためにある。

2019-11-18 08:46:51 | 破片

 「プラトンてどのプラトンですか」とクルーケースが間の抜けた疑問を述べた。あまり教養のなさそうな彼でも何人もプラトンという名前の人間を知っているらしい。

橘さんもびっくりしたように尊敬のまなざしで彼を見直した。

「俺の知っているのは、といっても恥ずかしながら九十七歳にになって初めて面晤の栄に浴したのは一人だけだけどね」

「どこの国の人ですか」

「ギリシャ人さ、神武天皇がお生まれになったころの人でな。橘さんはご専門だからよくご存じだ、ねえ」と同意を求めるようにパチプロの橘氏のほうを向いた。

「ええ、すこしだけね。古代ギリシャの哲学者ですよ」とクルーケースに説明すると、下駄顔のほうを向いて「前から興味をお持ちだったんですか」

「とんでもねえ、ひと月前でさあ、ボケ防止対策に七面倒くさい本でも読むのがいいのかな、と思いましてな。本は安いのがいい。懐具合の関係もありますからな。そして新しくてきれいなのがいい。古本はさっぱりダメでね。それでこの間本屋で文庫本の棚のあたりをうろついていたら目に入ったのがプラトンだ」

 「ボケ対策には読書がいいらしいわね。読書はご趣味なんですか」と女主人が言った。

 「とんでもねえ、年を取ると目が悪くなるから本はなるたけ読まないようにしていたんですよ。それでね、読むのに比べて書くほうはあまり目に負担をかけないからいろいろと書き散らかしていまさあ」

「まあ、小説かなんかを書いていらっしゃるのですか」

「エロ本をね、秘密出版でさあ」

「まあ」と彼女は絶句した。目には尊敬のまなざしが浮かんだ。

「老化防止には指の運動がいいともいいますね」とクルーケースが応じた。

「そうなのさ、指を十本全部使うからね」

老人の理解しがたい発言にみんなはしばらく沈黙した。

 「ものを書くのに指を十本も使うのかい」と禿頭老人が訊いた。

「タイプライターを使うからね」

「なるほど、商社マンだったあなたならタイプライターはおてのものだ。そうすると英文の小説ですか」

「そこまではいかない。ローマ字変換ですよ」

「なるほど、それはいい。それでどのくらいのスピードなんですか」と彼自身も昔船会社に居て毎日英文の書類やレターを書いていたハゲ老人がきいた。「一分間に二百字くらい?」

「昔はね、決まりきった商業文ならいくらでも早く打てたが、スピードは落ちているね。それに文章を考えながら打ちますからね。スピードで比較しても意味がない」

 それが文章を作るほうから読むほうに変えたんですか、と女主人がもっともな疑問を述べた。エロ小説の種が尽きたんでしょうか、と遠慮のない質問をした。

「いや、相変わらず書いていますがね。すこし目先を変えて七面倒くさい哲学の本でも読めば老化防止に相乗効果があるかと思ってね。それで岩波文庫のプラトンを二、三冊買いました。岩波の後ろに立派な宣言があるじゃないですか。『知識は万人のためにある』ってね。本屋で一般向けに売っているから私が読んでも誰からも文句は出ないでしょう」

「そうね、文言はすこし違っていたような気がするけどね」と誰がが呟いた。


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40:鬼のいない間に命の洗濯

2019-11-16 09:15:10 | 破片

 いつも四時ごろになるとソワソワしだして、帰る第九が悠々とダウンタウンのソファに

腰を落ち着けているのを不審そうに見て卵型禿頭老人が揶揄い気味にきいた。

「夕食を作らなくていいんですか」

「今夜は外食デートかしら」と女主人が首をかしげて聞いた。

「ワイフはアメリカに出張中でね。夕飯はどこかで食べるつもりです」

「ほう、それはいい。鬼のいない間に命の洗濯ですね」と下駄顔が言った。

「いつまでご出張なんですか」とクルーケースが尋ねた。

「あとひと月ほどです」

「まあ、随分長期なのね」と奥さんが呟いた。

「うらやましいな」

「それでは存分に羽が伸ばせますね。なにか計画でもおありですか」とクルーケースがうらやましそうに野卑な笑いを浮かべた。あるなら付き合おうという気配を見せた。

「あとで焼き鳥でも食いに行きましょうか」と下駄顔が誘った。

「いいですね。たまに暇が出来るとバカにいいことがあるような期待があるんですよね」

「ところが実際に暇が出来ると暇を持て余すようになる」と下駄顔が注釈を加えた。

「その通りですよ。だけどそれは我々が老人だからもしれないな。あなた方若い人はそんなことを考えないでしょうな」と卵型ハゲがクルーケースの男を見ながら付け加えた。

 「ご老人たちは暇をどうしてやり過ごすんですか。失礼だが勿論働いていらしゃるようにも見えないし」

「それが我々老人には大問題でしてね。これがばあさんたちならみんな同じことをするから問題はないんだが、我々多少教養がある老人には難しい」

「まあ」と多小非難の混じった間投詞を発したのは美人の女主人である。「それで『ばあさんたち』はどうして暇をすごすの。わたしもまもなくばあさんになるから参考までにうかがっておきたいわ」

「決まってまさあ、数人のばあさんが寄り集まって飯を食うんでさあ。そしてそれぞれの病院通いの話をさも深刻なことのように順々に話すんでさあ」

「ばあさん版饗宴だね」とハゲ老人。

「そういう光景を見ると一体旦那はどこにいるんだろうと不思議だね。後期高齢者のばあさんが群れをなして定食屋にたむろするんだからね」

「亭主たちはみんな先に死んじゃったんだろうね。だってその年齢でダンナたちが勤めに出ているとは考えられない。また、いくらなんでも亭主に留守番させて女房たちが外食に群れるとはいくらなんでも考えられない」

「それで年金で外食に群れるんだろうね。年金制度も悪用されているんじゃないの」

「まあ、それは言いすぎですよ」と女主人は非難がましく明眸を見開いて老人たちを優しくにらんだ。

 「それであなたはどうして暇を過ごすんですか」と逆襲に転じた。

「ヒマは退屈をもたらし、退屈は死に至る病なんですな。痴呆にいたる病でもある。絶望は鬱病に至る病かもしれないが死に至ることはまれだ。それで私は最近はプラトンを読んでいる」と下駄顔は橘さんを見た。

 

 

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『破片』 30-39 まとめ

2019-11-07 09:04:40 | 破片

30:つまみ食い  

「ところで」とクルーケースのキャリアが訊いた。「橘さんは何派なんですか」

「いやそういわれるとお恥ずかしい。昔からわたしは徒党を組むことが嫌いでね。無党派とでもいいますかね」

無党派?と一座は彼の素っ気ない返事を聞いて彼の顔を見つめた。

「いや、これはお愛想のない返事で申し訳ありません。強いて言えばつまみ食い派ですね。もうすこし上品な言葉で言えば多元主義とか折衷主義というんでしょうか」

「橘さんは少数派ということですか」

「まあね。しかし決め手のない業界だから結構『つまみ食い』を決め込む精神科医はいるんですよ」

 「ようするにウィンドウ・ショッピング派ですね」と第九は要約した。

橘氏はびっくりしたように第九を見返したが、「フム、うまいことをおっしゃる」と膝を叩いた。

「医者のほうにもウィンドウ・ショッピングがあるというのは初めて聞いた」と禿頭老人が感想を述べた。

「たまにはあるようですよ。私の親父は町医者でしたがね、ややこしい患者に手こずると、医学部の同級生とか、むかし大学の医局で一緒に働いていた友人や先輩に相談することがありましたね。僕は父がそういう相談を電話でしていることを家で聞きましたよ」と第九は思い出したように言った。

 「医者の側もそうだが、患者のほうでも医者が信用できないと思うとほかの医者に行ったりするよね」

「いわゆるセカンド・オピニオンですね」

「精神科なんかは病気の性質から医者を渡り歩く患者が多いような気がするが」

「そうなんですよ。二通りあります。一つは医者の言うことがしっくりしなくて医者を渡り歩くんですね。大体こういう患者は知能がたかい。そうかと思うと一方では、この先生でなければと一途に入れ込む患者がいる。女性の患者に多い。この種の女性にはストーカー的性向がある」

「橘さんも付きまとわれたことがあるんでしょう」

 「それは橘さんが男性だからでしょう」と下駄顔が割り込んだ。

「そう、先生が女性の場合は男性患者ということになります。しかし男性患者ではそういうことはあまり聞いたことがないな」

 「そうかもしれない」とクルーケースの運び人が言った。「新興宗教とかでも、教団を渡り歩くのは女性信者が多いらしいですよ」

「そうだね、本屋でも精神世界とかスピリチュアルとかの棚にいるのは女性ばかりだからね。やたらと色々な傾向の本を漁っているようだ」と第九は言った。


31:夏目さんの場合

 女主人が思いついたように口を開いた。

「夏目さん、いい機会だからあなたの経験も先生に診断していただいたら」

「そういえば、さっきあなたは心理療法士のカウンシルをお受けになったとか」と橘氏は第九のほうを見た。

「そう、エレベータのなかで原因不明の発作を起こしましてね、卒倒したんです」

「へえ、それで?}

「会社の命令で会社の契約している産業心理士のところへ行かされました」と言いながら第九は珍奇な黒ずくめの小さな「心理療法士」のことを思い出して眉をしかめた。

「どういう症状だったんですか」と橘さんは興味を持ったようだった。

「満員のエレベータのなかでいきなり卒倒したのです」

「それだけですか? なにか特記するような異常な状況はなかったのですか」

「そうですね、二人の老婆が後から無理矢理に押し込んできましてね。異様に熱いと感じた体を押し付けてきた。ものすごい白粉のにおいをさせてね。それだけが記憶に残っていますね」

 「エレベーターの中で気分が悪くなるようなことはそれまでにも何回もあったんですか」

「いや無いでした」

「それで心理士の見立ては」

「閉所恐怖症ではないか、というようでした」

クルーケースの男が口を挟んだ。「わたしは臭気アレルギーではないかと言ったんですよ。アレルギー検査を勧めたんですけどね。行きましたか」

「いや、すっかり忘れていましたよ」

橘さんはしばらく考えていたが、「白粉だけではなくて臭気には敏感なほうなんですか」

第九はちょっと考えてから「たしかにそういう傾向はありますね。嗅覚は非常にするどいほうですよ。ほかの人が感じないような臭いにいち早く気が付くことがある」

「幻臭ではなくて?」

「ゲンシュウとは」

「いやあまり使わない言葉ですが、幻覚とか幻聴とかいう、ない音が聞こえるとか」

「ああ、なるほど。幻聴なんて言うのは失調症の一症状らしいですね。いや私の場合は幻ではなかったですね。自分では犬並みだと思ったことがある。生理の女性なんか、人が分からなくても分かるときがある」

「証拠があったんですか」

「まあね」

「女性がきものを着ていても検知するんですか」

「ええ、血の匂いがね。一種独特の腐ったようなにおいがですね」

「あらいやだ」と長南さんが嫌悪を示した。

「気をつけなくちゃ」と女主人が言った。

橘さんは顎を撫でた。「ほかに特に不快に思うにおいがありますか」

第九は考え考え答えた。

「女性のつけすぎた香水ね。香水の付け方も知らない女が安香水をじゃぶじゃぶ振りかけているのも嫌ですね」

「いや、まったくそういう女性が増えましたな」と下駄顔が失笑した。

「香水の選択にも教養が現れますからな」と禿頭老人が補足した。

「大体、腋臭とか体臭のきつくない日本人が香水を使う必要はない。それもじゃぶじゃぶ振りかけるなんて悪趣味だ。香水のに匂いというのは彼氏にだけ分かればいいものだ。体温が0.5度上昇して香水がほのかに蒸発する。私準備OKよという合図を50センチ先にいる彼氏に送るのが香水の仕事ですよ」

「そういえば」と第九が気が付いたように言った。「男が臭い水をつけているのも反吐がでるね。オーデコロンだかなんだか、柑橘系だとかいって振りかけているのがいる」

「いやだね」

「電車の中でそういう男が隣に座ると席を移りたくなるね」

「そういえば、このあいだ、路上でジョギングしている半裸の男性とすれ違ったがこいつが臭水のにおいを発散させていた。ジョギングをするまえに振りかけたらしい。理解不能だな」

橘さんが思いついたように発言した。「たしかに臭気アレルギーということもありうるが、どうも女性恐怖症ではないかな」

「どうしてです」とびっくりしたようにクルーケースが反問した。

「白粉とか香水というのは女性を連想させる。それとも女性嫌悪症かもしれない」

「そんな病気があるんですか」と女主人が不信感をあらわにして疑わしそうに聞いた。

「あります。女性恐怖症はgynophobiaといいます。女性嫌悪症はmisogynyです」

 

32:最終診断

じゃ、それできまりだ。女性恐怖症だったんだ、と禿頭老人が断定した。

いや、むしろ女性嫌悪症でしょう、と下駄顔老人が訂正した。

「女性蔑視症よ」と口をゆがめて補足したのはアルバイトの長南さんであった。

若い女性のくせにかわいい顔をして露骨なことを言う女だと第九は腹の中で十二指腸のあたりをを少し顰めた。

いや、私は断定したわけではありませんよ。座談のなかで聞いた話で見当をつけてみただけですから、と橘氏は慎重に発言した。

そのとき隣のテーブルの上にある換気扇が異音を発した。このカフェは禁煙でもなければ分煙でもない。そのかわりそれぞれのテーブルの間は三メートル以上離れている。その上各テーブルの上の天井には換気扇がある。煙を感知すると静かな音をたてて換気扇が作動する設計になっている。普段は換気扇の音は気にならないほど、静謐性を保っているのだが、この時はガーガーと異常な作動音を発した。

みんなはそのテーブルのほうを見た。首のあたりに入れ墨だかボディペインティングをしたガタイの大きな三十くらいの男と水商売風の赤く染めた長い髪を肩のあたりから前に回して乳の上あたりまでたらした女である。ふたりとも茶色の紙で巻いたたばこを吸っている。

「おい、換気扇が壊れたのかな」と下駄顔が呟いた。たばこのにおいは換気扇の為にこちらまでは届かない。

「あれはマリファナじゃないのか」と銀色のクルーケースの男が言った。煙草を吸っていた二人ずれもびっくりしたように天井を見上げながら煙を吐き続けている。

「それで」と第九が橘氏に聞いた。「ほかの診断の可能性もあるのですかのですか」

「ウム」と呟いて彼は言った。「なんというのかな、もう少し傍証が必要でしょうな」

「たとえば?」

橘氏はパチンコ労働で荒れ気味の手のひらでピタピタと自分の顔を叩いた。

「あなたは異常に臭覚が発達していると言ったが、ほかの感覚はどうです。たとえば、聴覚とか視覚とか。非常に気になる音があるとか」

第九はしばらく考えた。「そうですね。音にはかなり神経質かな」

「たとえばどんなことですか」

「前にいたマンションですがね、上の部屋の住人がフローリングにしたんですが、それ以来いろいろな騒音が下の階にもろに響くようになった。それも子供が跳ね回るとか、掃除で家具を動かすとか想像がつく生活音ならうるさいな、と思うだけなんですが、電動機械を作動させているような音が頻繁にしたのです。町工場じゃあるまいし、何をしているんだろうと非常に気になりました。過激派が爆弾でも作っているのかと心配でした」

それで苦情をねじこんだんですか、と橘氏が質問した。

「いえ、我慢しました。マンションなんて言うのは壁一枚、天井一枚で隣人同士ですしね。エレベーターでも頻繁に顔を合わせるしね。苦情をいうと逆恨みされてエスカレートするなんて事件がしょっちゅうテレビで報道されるでしょう。それで我慢していたんですけどね。騒音というのは真下の部屋ばかりではなくて鉄筋コンクリートの建物では左右上下広い範囲に伝わるものらしいですね。とうとう管理組合が苦情をまとめてその部屋の住人に注意したらしい。マンションの掲示板にも警告をだしました」

「それで静かになりましったか」

「少しはね。タオルを巻いてから電動機械を使うのか、すこし音がこもったようにはなりました」

「なるほど、しかし今の話は特に音に神経質ということでもなかそうだ」

第九はしばらく橘氏の見解を頭の中で反芻していたが、「そういえば、」と口を開いた。

「参考になるかどうか、私は地下道などで下駄のような靴音を聞くと非常に不快になりますね」

「いまどき下駄をはいて歩いている人はあまりないでしょう」

「ええ、下駄じゃないんですけどね。女性でハイヒールで地下道を駆け回る若い女がいるでしょう。急いで遅刻しないように焦っているのかどうか。地下道のコンクリートの上を駆け回るとものすごく反響するんですね」

「そうそう」

「それと階段を駆け下りる女がすさまじい音をたてる」

クルーケースの男が言った。「ハイヒールだけじゃないですよ。サンダルみたいなのを履いているいるのがいるでしょう。あれもすごい騒音だね。階段なんかを降りるときには」

「それに足首がすりむけるのか、留め具をきっちり止めずにルーズにしているでしょう、大体。そうすると余計五月蠅いんだよね。僕なんかもそんなのが後から来ると振り返って睨みつけますよ」

 「まあそうだろうが、夏目さんも真っ先に女性の下駄音が頭に浮かぶというのは面白い。気に触るものが白粉、香水、ハイヒールの音とくると、やはり女性嫌悪症が疑わしいかな」と橘氏が診断した。

 

33:三千世界のカラスを殺し主(ヌシ)と朝寝がしてみたい(伝高杉晋作、作)

重労働から解放されて眠りに落ちたのが午前三時、寝れば極楽、極楽というわけにはいかなかった。妻に脇腹をつつかれて目を覚ました。窓の外はまだ真っ暗だ。

「アンタァー」と彼女は問いかけた。アンあたりまでは低音でタァーで鼻にかかった高音になる。妻の地方の方言らしい。長屋の飯炊き女が亭主に甘えているようで気色が悪いと苦情を言っているのだが、一向に改めない。

「アンタァー、あれどうなった」とまた脇腹をつついた。

「あれって?」

「マンション法と憲法の関係よ。忘れたの」

「、、、、、」

無理だ。レム睡眠状態では理解できない。

「やってないの」と彼女の声はとがってきた。

「ああ、あれね」ととりあえずはぐらかす。

そうか、なんかそんなことを頼まれたな、マンション管理法と上位法の関係だったかな。

「いま調べているところだよ」と急場しのぎに答えた。

 どこのマンションでも購入すると管理組合に知らない間に加入させられている。本人の意志も聞かない。そしてやたらと義務だ義務だといって総会に出席しろと部屋まで押しかけてくる。出席しないなら委任状を出せと言ってくる。不快に思って管理組合を脱退しようとすると出来ない。管理規約があっても脱退、退会の規定がない。欠陥規約である。憲法の結社の自由や民法の規定に違反するというのが妻の考えである。その辺を調べろというのが洋美のご下命である。判例があるかもしれないからそれも調べろというのである。第九はようやく思い出した。何にもしていないのである。すっかり忘れていた。

 一体良心的に管理組合への加入を正式に本人に求めてきて、本人が同意して署名捺印したなんてケースがあるのか。彼の場合は無かった。それで知人に経験を聞いてみようと思って何人かに声をかけた。一人だけ、事前に管理規約(案)を渡されて署名捺印を頼まれたのがいたが、とても断れるような雰囲気ではなかったという。やたらと長い規約で読んで理解するのには一週間以上かかりそうだったのでまあいいや、と押印した。

なにか不都合があれば退会すればいいやと気軽に考えたそうだ。ところが、あとで規約を読んで驚いた。どこにも退会の規約がない。おまけに解散の条項もなかったという。こんな欠陥法が許されるのかと怒っていた。

 上位法との関係は調べていない。しかし明らかに憲法違反だろう。結社の自由はたしかにある。しかし、それは結社を作る権利を禁じることが出来ないという趣旨だ。結社の活動に同意できなくなれば構成員には脱退の自由がある。それを禁止するがごときは基本的人権の侵害である。調べるまでもないようだ、と第九は思った。しかりキャリア・ウーマンである洋美は起承転結の整ったまとまったペーパーがないと納得しないのだろう。それもA4で10枚位の、やれやれ。

 退会規定がないなんてまるで新選組ではないか。やめたいと申し出ると切腹させたという。

 

34:妻のジム通いのこと 十月十日

  二度寝の味寝(ウマイ、失礼ながらルビをふらせていただく)にようやく落ち込んだ第九はまた脇腹を邪険に突かれた。洋美がすり寄ってきた。体が異常に熱い。これはまずいな、と思ったと思う間もなく彼女の太い二の腕が伸びてきた。週に二度はジムに通って鍛えている体である。ヒョイと持ち上げられて彼女の腹の上に放り上げられた。気が付いた時には彼女の腹の上に跨っていた。こうなれば抵抗するとかえってまずい。習慣的なギッタンバッコが始まった。

 週二度のジム通いで彼女の腹筋は鍛え上げられている。第九の体はしけの海の小船のようにはげしく動揺した。彼はジョイントが外れないように彼女の体にしがみついた。ジョイントが外れると彼女はそれが彼の責任であるかのように猛烈に怒り出す。彼はめまいがしてきた。失神するのはエレベーターの中だけではないらしい。

  とその時爆弾が破裂したような音がした。第九ははっとして意識を回復した。洋美の全身の筋肉も防御態勢を取るかのように収縮した。続けて二人の耳に二度目、三度目の爆発音が響いた。隣の部屋の男(女かもしれない)が慣例の早朝くしゃみを思いきり連発したらしい。なんだ、ヤツの例のくしゃみか、とおかしくなった。彼女も笑い出した。鍛え上げた全身の筋肉が弛緩した。たくましい腹筋を震わせて笑い出す。途端にジョイントが外れて彼はいったん上に放り出されてからうつぶせの姿勢のまま落下した。彼女のたくましい裸身の肩に鼻梁をぶつけた。

 しまったと思う間もなく、間髪を入れず、というよりおい一拍おいてから鼻孔からヌルヌルした液体が流れ出した。あわてて彼は鼻の穴を右手の甲で抑えながらよろけるようにベッドから降りティッシュを求めて真っ暗闇の寝室をメクラ滅法に動き回った。鼻血はベッドの上一面にまき散らされ、床のじゅうたんにこぼれた。「どうしたのよ」と洋美は暗闇の中で怒鳴ったが、手がベッドの上に落ちた血だまりの上に触ると慌てて手を引っ込めた。さっと立ち上がると狙い過たず一発で電灯のボタンを探り当ててスイッチを押した。

  彼女は寝室の惨状を目にして絶叫した。隣室のくしゃみよりも数倍大きな声であるから、隣室の住人にも聞こえたに相違ない。聞き耳をたてているのか隣室はシーンとしてしまった。驚いてくしゃみもとまってしまったらしい。

  四十路に達しようかという女性でもある。キャリアウーマンとして、会社では若い男たちをパワハラまがいに叱咤する彼女であるが、やはり女である。少女趣味のバカでかいキンキラキンの「豪華」ベッドが部屋のスペースの80パーセントを占領している。このベッドは二百万円以上したらしい。それが血潮で回復不能なまでけがされたのである。彼女の怒り方が尋常ではないのもよく理解できる。

 

35:雲量10パーセント

  江東区の天守閣から見渡す空は雲量10パーセント雲底3000メートルで視界は100キロメートルに達していた。北方には筑波山が黒々と見える。ケーブルカーがキラキラ光を反射してるのが見える(これはうそ)。相模湾から侵入して首都西部上空を通過して関東平野を北進し大被害をもたらした台風二十九号は東北岩手県沖合に去った。

 恐ろしい一夜であった。五十階のベランダの隔壁は今にも破れそうに一晩中歯ぎしりのような音をたてていた。幸い(と言っては被災した地方の人たちには失礼だが)城東地区の被害は二週間前の台風二十号ほどのことはなかった。二十号では強風が換気扇から逆流して室内の床の上に黒い綿のようなごみが一面に落下したが、今回それはなかった。恐ろしい音を一晩中たてていた隔壁やガラスの手摺りも朝起きてみるとひび割れが起きていない。雨よりもとにかく音がひどかった。洋美はさすがに女である。一晩中第九にしがみついて震えていた。そんなわけでベッドに粗相をして以来パワハラを受けていた妻からの攻撃もひとまず休止となっていた。

  ここ数日床の上に直に一人で寝かされて、地獄の底に落ち込んだように意気阻喪していた第九も晴れ渡った空を見上げてひさしぶりに「カフェ」に行くことにした。ところで気が付いてみると、このカフェはまだ名前がない。以後「ダウンタウン」と命名しよう。伸び放題の髭をあたり髪に櫛をいれて出来るだけやつれた姿を見せないように身支度をすると定食屋で昼飯を掻き込んでからダウンタウンに行った。

 「おや、ずいぶんご無沙汰でしたな。お元気でしたか」とやつれた第九の顔をしげしげと観察しながら禿頭老人が卵型の顔に笑顔をつくって迎えた。

「ええ、ちょっと風邪をひきましてね」

「夏風邪はひどくなるから気を付けないとな」と下駄顔が言った。

「そう、いまごろ風邪をひくとなかなか治らないからね。気を付けないと」

久しぶりに顔を見せた第九の姿をみて女主人があいさつに来た。

「しばらくお出でにならないので夏目さんはどうしたのかしら、って噂していたんですよ。どこかに旅行にいらしていたんですか」

「質の悪い風邪を引いたんだってさ」

「まあ、そうですか。もうよくなったのですか」

「ありがとう、おかげさまで」

女主人は目をすぼめてじっと彼を見ていたが「すこしお痩せになりましたね」

「そうですね。一週間ばかり夢うつつの状態でね。ようやっと目が覚めたという感じです」

「コーヒーはいつものとおりで?」

「いや、一週間ぶりに目が覚めるようにいつもより増量してください。砂糖もね」

「どのくらい?」

「そうですね、コーヒー大匙三倍、砂糖は二十グラムほど」

「それだけ濃くすればいっぺんにしゃきっとしますね」

  女ボーイが持ってきたコーヒーを一口飲むと、第九は満足そうに頷いた。

「ところで又妙な夢を見ましてね」と下駄顔老人に話しかけた。

「またというと」と老人はポカンとした顔をした。

「空襲警報のアナウンスを夢の中で聞いたんです」

「空襲警報の放送なんて聞いたことあるの」と老人は疑わしそうな表情をした。

「もちろんありません。戦争中は生まれていなかったんだから」

「じゃあテレビドラマかなんかの中で聞いたのかな」

「さあ、それははっきりとは思い出せないんですけどね。すくなくとも記憶にはないのです」

「どんな風に言ってました」

「空襲警報発令とかアナウンサーが言ってね。それから『敵機大編隊が相模湾上空から侵入、帝都に向かいつつあり。厳重な警戒を要す」みたいな。それからウーウーウーという警報が流されましたね」

  禿頭老人が口をはさんだ。「そういえば救急車のサイレンが今のようにピコピコ鳴り出したのはいつごろからだったかな」

「さあ、ずいぶん昔でしょう。昔はどんな音だったんですか」

「空襲警報と同じさ。ウーウーウーって鳴らすのさ」

「へえぇ」

下駄顔が話を戻した。「あんたの言うとおりだったと思うよ、大体は」

「まるで昨日の台風の進路と同じみたいね」と女主人がつぶやいた。

「そうなんですね、それでちょっと妙な気がしてね。しかも聞いたこともない空襲警報発令の放送まで夢で聞いてね」

「ははぁ」と下駄顔が膝を叩いた。「わたしも台風はまるでB29の襲来経路と同じだと昨夜は思った。アメリカさんは富士山を目印にして相模湾から本土に侵入して東京に向かったからね。その時に無意識下で、阿頼耶識の第七層あたりで空襲警報のことを思い出したかもしれない」

「アラヤシキって人の名前かなんかですか」と女主人が首をかしげた。

「いやいや、仏教でいう無意識ですよ。フロイトの無意識には階層なんてないが、仏教では無意識は何十層もあるんですよ。そういえば、あなたは何時か後楽園の高射砲のことを聞かれましたな。あの時も冗談にあんたは子供の時の記憶が剥離して飛んで行ったかもしれないなんていったが」と卵型禿頭老人を見た。

「ああ、そうでした」

「しかし、あなたも相当に感度がいいアンテナをお持ちのようですな」

「そうでしょうか、ご老人の記憶の飛翔力も大変強力のようですが」

「ははは、別の言葉で言えば脱魂と憑依ということですかな」

  

36:つばさよ、あれがタマシイだ

  記憶の細片が剥離して空中を飛行浮遊するというのはオカルトの世界ですが、魂が空中をうようよしているというのは結構一般的な話ですね、と第九は応じた。「それでそういう彷徨える魂が格好のカモを見つけて急降下して取り付くなんて言う説がある。そういうのを憑依というんですかね」

 「そうだね、日本では古くから言われていることだ。もっとも仏教系ではなくて神道系や修験道系で言われることがおおいようだが」

「ところで魂というのは総合体なんですか」

「総合体というと」

「例えば生きているときは人格があるというでしょう。人格というのはもろもろの心的機能の総合した塊じゃないですか。死ぬと魂が肉体から抜けていくというが、その場合の魂というのは生きていた時の人格的総合体と同じなんですか」

 「うーん」と禿頭は唸った。「いい質問だね」。いい質問だね、の謂いは答えられないときに発する時間稼ぎである。

  一座はシーンとしてしばらく静かになってしまった。とうとう下駄顔が言った。

「それにはいろんな説がある。一般的にはそれは生きていた時は塊と言うか連合体というか総合体だが、諸説あるようだ。戦前の国家神道のビッグネームでミソギを体系化した川面凡児(カワツラボンジ)という人がいるが、彼なんか魂は八百万の原子からできていると言っていた。そして死ぬとそれがバラバラになる。もちろん、ある程度のまとまりを残している場合もある」

「それで、八百万の原子魂はどこへ行くんですか。全部空中に浮遊しているんですか」と哲学専攻ながら若い女性らしくこの種のスピリチュアル系のおとぎ話には滅法弱い長南さんが訊いた。

 さあね、と長南さんの若い女性らしいしつこさに辟易したように下駄顔は前方に反りだした顎に生えた無精ひげをなでた。「一部は成層圏を突破して宇宙のかなたに行くんでしょうな。若い女性が好む表現を使えば『お星さまになった』んですよ。しかし、神道では大部分は低空で浮遊しているらしい。平田篤胤もそう言っている」

「平田篤胤って」と長南さんはあくまでもしつこく聞く。

「幕末の国学者ですよ」と見かねて橘さんが口を挟んだ。

「どうして空中に留まるんですか」と質問魔の長南さんがねばった。

「それはね」と下駄顔が幼児を諭すように話した。「地球の重力に逆らえないんですよ」

「なんでですか」

「なんでって、魂のかけらだって微小な重さがあるからですよ。地球の重力を突破できないのさ」

「なんだかライプニッツのモナドみたいね」とあきらめたように長南さんが呟いた。

「八百万個の原子タマシイが夫々自分の中にミクロコスモスを持っているならモナドだけどね、むしろレウキッポスのいうアトムじゃないのかな」と橘氏が補足した。

 「そういえば」と思い出したように第九が言った。「私のマンションに国内線のパイロットが住んでいるんですがね、釜石あたりの上空を飛ぶと魂が浮遊しているのか鬼火のようなものが燃えているのが見えるそうですよ。特に新月の夜などにね」

「つばさよ、あれがタマシイだ」だね、と禿頭が受けた。

 

37:たましいは死後変化するのか

 女主人が疑わしそうに聞いた。「神道では昔からその、粒子説なんですか」

「おくさん、その辺は詳しくないんですよ、そちらのほうは専門ではないので」と橘さんは頭髪を後ろから前に撫でた。短く刈っているし、短いのでそういう芸当が出来るのである。

 「どうなんですかね、菅原道真なんか怨霊になって京都に現れたというから、生きたていた時と同じカタマリだったんじゃないですか。八百万にも分割したら京都在官時代のいじめられた恨みなんて保持しているわけがないもの」と理路整然と長南さんが主張した。

 「キリスト教や仏教ではどうなんですか」と奥さんが別方面からさらに追及した。

「さあ、どんなものですかな」と橘さんはしばらく考えていたが、「やっぱり生前と同じ人格、人格というのはおかしいが、そういうカタマリを維持しているという前提でいろいろと言っているようです」

「仏教の地獄だとか閻魔様の取り調べなんて言うのは生前のカタマリじゃないと、分解していしまっていたら追求のしようがないですからね」と奥さんがうがったような意見を開陳した。みんなびっくりしたように奥さんを見た。

「それにキリスト教でいう最後の審判なんていうのも、生前の魂が全体として残っていないと意味をなさないね」と気が付いたように第九が言った。

 「ところで人格と言うか性格は生前でも変化するでしょう。成長につれて性格が変わらない人もいる。かと思うとどんどん悪くなる人もいるし、逆にだんだん真人間になる人もいまさあ。そうするとどうなんだろう、死後の魂も変化しないとおかしいね。水平飛行の魂もあるし、よくなる魂も悪くなる魂もなければおかしい。その辺の変化を勘定にいれているんですかね。仏教とかキリスト教は」

これには橘さんは即答した。「いれちゃいませんよ」

「宗教ってずいぶんいい加減なものなのね」と長南さんが切り捨てた。

 「そういえばさ、よく駅前で、暮れになると、陰気な声の録音を流しているのがいるだろう。『悔い改めなさい。そうすればすくわれる。まだ間に合う』なんてぞっとする声の録音を流しているのが」

「あの声を聞くと小腸から冷凍されてくるね、ぞっとするよ」

「いるいる、今年もそろそろ出てくるころだな」

「彼らに聞いたってわかっているわけはないが、死んでからもしタマシイが悔い改めたらどうなんだろうね。間に合うのかな。それとも死ぬ前に悔い改めないとだめなのかな」

「まだ間に合うなんて無責任なことを言っているが根拠があるのかな」

 「要するにだな、魂は死後腐るか、腐らないかということだろう」と下駄顔が決めつけた。

「肉体のように腐敗するのか、そうではないか。なるほどね。しかしその問題を取り上げた宗教も哲学も皆無のようですね」と橘さんが言った。「素朴に魂は死後も腐らず、あるいは変化せずというのかな。かなり迂闊な前提に立っているようだ」

 「生前は人間の魂が向上する人もいれば、堕落する人もいる。それが死んだあとは永久凍土に埋もれたマンモスのように千年も万年も変わらないというのもずいぶん素朴な考えですね」と第九が述べた。

 

38:タマシイは死後も統一体であるか、長南さんの下した結論

 若く美しい女性哲学学徒である長南さんは珍しく静かにしていた。なにか思いつめたような表情をしていたが、突然何かがひらめいたかのように叫んだ。

「タマシイ(魂)という字の偏を土にかえるとカタマリ(塊)という字になるわけだわ」

下駄顔がびっくりして彼女を見た。「本当だ、それで」と聞いた。

 「つまり死ぬと土くれのかたまりになるわけじゃないの!」

「なるほど、大発見だ」と禿頭老人は訳が分からないまますぐに何時もの通り美女の云うことに同意した。

「それで?」とクルーケースの男がきいた。

「つまり、死んでも魂は塊のままであることじゃないの」

「ふむ、面白い」と橘さんは思案顔に言った。「少なくとも漢字作者はそう思っていたという解釈は出来そうだ」

長南さんはびっくりして橘さんを見た。「漢字作者というと?」

「古代シナ人でしょうな」

 「漢字というのは分解してみると面白いね」と第九は割り込んだ。「たとえばタマシイ(魂)という字の旁はオニという字でカタマリ(塊)と同じだが偏は『云う』だ」

「これをどう解釈しますか、橘さん」

突然話題をふられた彼はすぐには返答しなかったが、たちまちこのトンチ問答に回答を見つけた。「オニとはなにか。民俗学者や哲学者、言語学者それぞれに解釈があるだろうが、これは『動物的精神』ということではないかな。そういう解釈もできそうだ」

「なるほど、それで偏の『云う』はどういう意味を付与しますか」と第九が聞いた。

 「そこですよ、『いう』ということは人間だけが出来る。動物的精神(あるいは動物的生気)に人間の知性が付与されたとかね」

下駄顔が感嘆したようにうなった。

「言うという人間の脳活動は古代ギリシャの哲学者風にいえばロゴスに通じる。つまり論理的活動とか知性という意味があるだろう。つまり動物的生気に人間的知性が上乗せされたものということになる」

「うまい!」と叫んだのは卵型禿頭老人であった。長南さんがこの説を反芻咀嚼するには時間がかかりそうであった。哲学徒であるだけに慎重に吟味しているようであった。

 

39:サイコロ鼻の女の思い出

  ようやくクリーニング店から戻ってきたマットレスの上に敷いたまっさらの敷布に第九は一人で体を伸ばして寝ていた。洋美は出張でアメリカに行っている。シーツは糊でゴワゴワしている。マットレスからは何を使って第九の鼻血を落としたのか、かすかに薬品のにおいがする。普通の人間には及第点の薬品なのだろうが、犬並みの臭覚の保持者である第九の感覚を逃れることは出来ない。

 そのせいか深夜二時半に彼は目が覚めてしまった。トイレに行って排出、そのあとでコップで水を一杯飲む。深夜に目が覚めるとすぐには寝付かれないので、パソコンを少しいじるか机の上に放り出してある本をちょこっと読んで眠くなるのを待つのであるが、今日は何もする気がしなくて再びベッドに戻った。

 やはり入眠できない。彼はめったにつけたことのないラジオの深夜放送を聞いた。小林アキラの特集をやっていた。それを聞いているうちに会社にいたころのことをいろいろと思い出してしまった。それが嫌な経験、嫌な奴ばかりが記憶に浮かんでくる。深田某、池村某、細川某、横山某、名前は失念したが監査室の某など。よくも覚えていたものだ。A4用紙がいっぱいに埋まるような長いリストが出来た。退社以来一度も思い出したことのない連中がほとんだ。妙なものだ。小林アキラの歌がなぜこんな長い記憶のリストを湧出させたのだろう。最後に女の顔が出てきた。

  彼女に別に嫌な思い出があるわけではないのだが、トリは彼女だった。不思議だ。実際彼女のことは一度も思い出したことがないのである。サイコロのような鼻をつけた女であった。六面体のサイコロを唇の上に張り付けて『二』の面が下向きにある。いわゆる鼻の孔である。彼女の名前も知らない。あるいは知っていたかもしれないが思い出せない。会社で時々見かける総務部にいた三十路に近かった女性である。

  その彼女に家の近くであったことがある。そのころ第九は『ホステス達のベッドタウン』と言われた私鉄沿線駅の近くに住んでいた。残業で遅くなり、駅を降りたのは十時を過ぎていた。駅の近くの盛り場の細い路地を通り抜ける。その先にはもう店を閉めたパチンコ屋があり、その先にはラブホテルの群れが建っている。その細い路地を歩いているときに向こうから彼女が来た。おや、と思って彼女を見た。サイコロ鼻は今夜は幾重にも油を塗り込んだように街灯の光を照り返している。狭い路地で彼が思わず立ち止まって彼女を見たから相手も気が付いたはずなのに全然知らん顔をしている。そのまま二人は行き過ぎたのである。妙な女だと思ったが翌日には忘れてしまった。

  それが今日の記憶のトリに現れた。そして突如悟ったのである。あれは彼氏との密会の帰りではなかったのかと。そういう引け目があれば会社の人間にあっても防御的に気が付かないふりをするかもしれない。不思議なのは何十年もそのことを思い出しもしなかったのに、突然その意味をさとったことである。

  人間の記憶というのは分からないものだ。そういえばダウンタウンで誰だったか、禿頭老人だったかが、記憶の先入れ後出しなんて言ったことがあった。まったく古い記憶なんていつ飛び出してくるか分からない。大体記憶に残っていたこと自体が不思議なのだが。さて、昨日の夕食はなにをくったかな、と第九は考えた。妻が出張中で一人なので食料の備蓄もいい加減になっている。昨夜は冷蔵庫を漁ってもなにもなかったので、板チョコを一枚も食べてしまった。そのせいかな、と彼は思った。

 

 

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39:サイコロ鼻の女の思い出

2019-11-04 08:26:10 | 破片

 ようやくクリーニング店から戻ってきたマットレスの上に敷いたまっさらの敷布に第九は一人で体を伸ばして寝ていた。洋美は出張でアメリカに行っている。シーツは糊でゴワゴワしている。マットレスからは何を使って第九の鼻血を落としたのか、かすかに薬品のにおいがする。普通の人間には及第点の薬品なのだろうが、犬並みの臭覚の保持者である第九の感覚を逃れることは出来ない。

  そのせいか深夜二時半に彼は目が覚めてしまった。トイレに行って排出、そのあとでコップで水を一杯飲む。深夜に目が覚めるとすぐには寝付かれないので、パソコンを少しいじるか机の上に放り出してある本をちょこっと読んで眠くなるのを待つのであるが、今日は何もする気がしなくて再びベッドに戻った。

  やはり入眠できない。彼はめったにつけたことのないラジオの深夜放送を聞いた。小林アキラの特集をやっていた。それを聞いているうちに会社にいたころのことをいろいろと思い出してしまった。それが嫌な経験、嫌な奴ばかりが記憶に浮かんでくる。深田某、池村某、細川某、横山某、名前は失念したが監査室の某など。よくも覚えていたものだ。A4用紙がいっぱいに埋まるような長いリストが出来た。退社以来一度も思い出したことのない連中がほとんだ。妙なものだ。小林アキラの歌がなぜこんな長い記憶のリストを湧出させたのだろう。最後に女の顔が出てきた。

 彼女に別に嫌な思い出があるわけではないのだが、トリは彼女だった。不思議だ。実際彼女のことは一度も思い出したことがないのである。サイコロのような鼻をつけた女であった。六面体のサイコロを唇の上に張り付けて『二』の面が下向きにある。いわゆる鼻の孔である。彼女の名前も知らない。あるいは知っていたかもしれないが思い出せない。会社で時々見かける総務部にいた三十路に近かった女性である。

  その彼女に家の近くであったことがある。そのころ第九は『ホステス達のベッドタウン』と言われた私鉄沿線の駅に住んでいた。残業で遅くなり、駅を降りたのは十時を過ぎていた。駅の近くの盛り場の細い路地を通り抜ける。その先にはもう店を閉めたパチンコ屋があり、その先にはラブホテルの群れが建っている。その細い路地を歩いているときに向こうから彼女が来た。おや、と思って彼女を見た。サイコロ鼻は今夜は油を塗り込んだように街灯の光を照り返している。狭い路地で彼が思わず立ち止まって彼女を見たから相手も気が付いたはずなのに全然知らん顔をしている。そのまま二人は行き過ぎたのである。妙な女だと思ったが翌日には忘れてしまった。

 それが今日の記憶のトリに現れた。そして突如悟ったのである。あれは彼氏との密会の帰りではなかったのかと。そういう引け目があれば会社の人間にあっても防御的に気が付かないふりをするかもしれない。不思議なのは何十年もそのことを思い出しもしなかったのに、突然その意味をさとったことである。

  人間の記憶というのは分からないものだ。そういえばダウンタウンで誰だったか、禿頭老人だったかが、記憶の先入れ後出しなんて言ったことがあった。まったく古い記憶なんていつ飛び出してくるか分からない。大体記憶していたこと自体が不思議なのだが。さて、昨日の夕食はなにをくったかな、と第九は考えた。妻が出張中で一人なので食料の備蓄もいい加減になっている。昨夜は冷蔵庫を漁ってもなにもなかったので、板チョコを一枚も食べてしまった。そのせいかな、と彼は思った。



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38:タマシイは死後も統一体であるか、長南さんの下した結論

2019-11-02 11:10:18 | 破片

  若く美しい女性哲学学徒である長南さんは珍しく静かにしていた。なにか思いつめたような表情をしていたが、突然何かがひらめいたかのように叫んだ。

「タマシイ(魂)という字の偏を土にかえるとカタマリ(塊)という字になるわけだわ」

下駄顔がびっくりして彼女を見た。「本当だ、それで」と聞いた。

 「つまり死ぬと土くれのかたまりになるわけじゃないの!」

「なるほど、大発見だ」と禿頭老人は訳が分からないまますぐに何時もの通り美女の云うことに同意した。

「それで?」とクルーケースの男がきいた。

「つまり、死んでも魂は塊のままであることじゃないの」

「ふむ、面白い」と橘さんは思案顔に言った。「少なくとも漢字作者はそう思っていたという解釈は出来そうだ」

長南さんはびっくりして橘さんを見た。「漢字作者というと?」

「古代シナ人でしょうな」

 「漢字というのは分解してみると面白いね」と第九は割り込んだ。「たとえば魂という字の旁はオニという字だ。これをどう解釈しますか、橘さん」

突然話題をふられた彼はすぐには返答しなかったが、たちまちこのトンチ問答に回答を見つけた。「オニとはなにか、民俗学者や哲学者、言語学者それぞれに解釈があるだろうが、これは『動物的精神』ということではないかな。そういう解釈もできそうだ」

「なるほど、それで偏の云うはどういう意味を付与しますか」と第九が畳みかけて聞いた。

 「そこですよ、『いう』ということは人間だけが出来る。動物的精神(あるいは生気)に人間の知性が付与されたとかね」

下駄顔が感嘆したようにうなった。

「言うという人間の脳活動は古代ギリシャの哲学者風にいえばロゴスに通じる。つまり論理的活動とか知性という意味があるだろう。つまり動物的生気に人間的知性が上乗せされたものということになる」

「うまい!」と叫んだのは卵型禿頭老人であった。長南さんがこの説を反芻咀嚼するには時間がかかりそうであった。哲学徒であるだけに慎重に吟味しているようであった。

 

 

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『破片』まとめ 21-29

2019-11-01 07:46:24 | 破片

21:半熟たまご

 このごろはオートミールと半熟卵二個、それに妻には紅茶を上品に薄く淹れる。第九はインスタント・コーヒー大匙三杯とグラニュー糖10グラムである。半熟卵というのはなかなかうまくできない。いろいろ研究しているがいまだに出来にむらがある。出来が悪いと途端に彼女の機嫌が悪くなる。彼女は半熟の頭をひっぱたく技術は芸術的だと自負しているから厄介である。柔らかすぎてぐにゃりといって未熟な汁があふれ出すと大変である。また、固すぎるとこれまた癇癪をおこす。

 彼女は斜め上方から卵めがけてスプーンを振り下ろす。頭頂部を打撃した瞬間にふっと力を抜いて飛行機のタッチアンドゴーのように匙を中空にあげるのである。うまくいくときれいに半熟の頭が割れる。これには技術もさることながらこちらの作り方も問題となる。第九は試行錯誤で記録をつけながら技量の向上を図っているが、まだ歩留まりは七割くらいである。まず、卵は前日の夜に冷蔵庫から出しておく。朝は卵の表面温度をはかる。温度によって茹でる時間を変える。大体卵の表面温度が二十度なら水に中に入れて鍋の中で卵が苦しそうにごろごろのたうちまわり始めると火を止める。そして熱湯の中に三分間入れておいてから皿に取り上げるのである。そして二十分間冷ましてから彼女の前に出すのである。

 それに比べるとオートミールは作るのは簡単である。しかし、ミルクを切らすと大変である。あさオートミールを食べないと化粧のノリが悪くなるらしい。出勤するまで彼女はわめき続ける。かといって牛乳は大量に備蓄出来るものでもないし、重さだってバカにならない。第九はほとんど毎日食材を買って帰るからミルクだけ何本も買うわけにはいかない。たえず、冷蔵庫をチェックして在庫を確認しなければならないのである。

 今日は一発で半熟の頭をたたき割ったので彼女は機嫌がいい。窓の外を眺める余裕もできたらしい。

「あら、今日は筑波山がくっきりと見えるわね」なんて感心している。彼も窓の外を見るとスカイツリーの右側にツインピークが黒々として鮮やかに北東の地平線に見える。この眺めは彼女のお気に入りである。筑波山もスカイツリーも六百メートルくらいの高さらしいが、東京から見ると筑波山は地面に這っているいるようだ。マンションの五十階からの眺めである。昔はまわりに建物もなかったし、空も綺麗だっただろうから江戸の街並みは地上からでも筑波は晴れていればよく見えたに違いない。いまは相当上に昇らないと見えない。しかもスモッグで地平線の視界がぼやけている。筑波山が今朝のようにくっきりと姿を現すのは年に何日もない。

 ワンルームマンションからの展望は悪くない。眼下に密集するビル、民家、マンションにはおそらく数十万人が暮らしているだろう。彼女はそれで「私の天守閣」と呼んで眼下の民の暮らしぶりを観察するのである。しかし、決して「私たちの天守閣」とは言わない。彼女がローンを組んで購入したのである。もっとも五十平米足らずの部屋は天守閣というよりも囚人二人用の部屋の様ではある。

 そういえば、彼らの専業主夫契約の更新期限は来月だ。一年契約の自動延長なのである。

彼女が出勤した後の室内は耳がじんじんするような静寂のなかに落ち込んだ。ジャズでも聞こうかと立ち上がった彼がふと外を眺めると、すでに筑波山は朝もやとスモッグの煙幕に遮られて見えなくなっている。

 22:枕の上に落ちた白髪 八月三十一日

 彼は食器を流しに持って行った。二人分だから大した数の食器ではないが、専業主夫になってから食器を洗うたびに母親の苦労が偲ばれるのである。先妻の子供たちを含めて八人の子供と自分と夫の使って汚れた食器はおびただしい枚数になる。子供たち(娘たちと言うと苦情が出そうなので子供たちというが)は誰一人母親を手伝うものがいなかった。それを一日三回一年中休まずに行った苦労が今頃になって、彼が妻の分まで食器を洗うようになってから母親の苦労に思い至ったのである。母親はそれだけではない。もちろん三度三度の食事の支度をしなければならない。先妻の子供はわがままで、食事の味まで苦情を言って母を困らせた。そのほかにも複雑な家庭で母の苦労は絶えなかった。母の葬式の日、父はわずかにひとこと「彼女はよくやった」と短いねぎらいの言葉を言っただけであった。第九の場合は始めればあっという間に終わってしまうのだが、「さあ、食器を洗うか」という心理的な踏ん切りには大変な努力が必要なのである。かなりの心理的エネルギーを必要とするのである。

 洗った食器を拭いて食器棚にしまうと、彼はベッドメイキングをした。枕の上に彼女の長い髪が落ちている。彼女の髪はほどくと乳を覆うほどであった。しかし、キャリアウーマンの心得で職場に行くときは髪を上げて髷を結っている。決して売春婦風に長髪を挑発的に垂らして職場には行かない。髪をほどくのは夜だけなのだ。寝過ごしたりして時間が無くなった日で髷に結う時間が無くなった時でも髪は頭の後ろにポニーテイルにまとめていく。

 おや、と彼は思った。枕の上に一本の白髪がある。よそじも視界に入りつつある彼女にも白髪ができたのか。三年前に一緒になったときは一本の白髪もなかった。彼女は自分で知っているのだろうか。窓の外はますます曇ってきてスカイツリーもおぼろに浮かんでいる。雨でも降りだしたのか。五十階だと雨が降っているかどうかは雨脚がうどんのように太くないと分からないのである。今日は傘を持って行ったほうがよさそうだ。

 突然第九以外誰もいない部屋にくしゃみの音が響いた。ベランダに通じた窓は閉めてある。開けてあれば隣室の窓も空いていれば空間を迂回して話し声が聞こえることがある。しかし、今のは壁を通して聞こえてくるのである。また二回連続して遠慮会釈もないくしゃみが轟く。このマンションの壁は安アパートでもめったにないほど壁が薄いようだ。妻はマンションを選ぶときに大手不動産会社に絞って選んでいた。そして施工会社も伝統のある巨大ゼネコンのものを購入したはずである。五十階になると耐震構造上あまり重くできないのか。それで壁を薄くして重量の負荷を減らしているのかもしれない。今度は隣からタンスかクローゼットを開け閉めする音が伝わる。隣家の住人はご出勤のご様子である。

 枕の上から長い白髪を摘まみ上げて捨てると前夜の体操で形の崩れた枕をポンポンと叩いて形状を復帰させる。さてジャズでも聞こうと思っていたが盤を選ぶのが面倒くさくなった彼はテレビをつけた。甘ったるい女の甘え声が室内を満たす。鼻梁の太い女性のゲストがご意見を陳述中である。油でも塗りたくって艶を出したような長い髪を売春婦のように肩から前に垂らしている。少女ならまだ許せるが、この政治評論家とか言う女性の年齢は彼の四十路の妻とあまり変わらないようだ。

 23:パチプロ

 久しぶりに実質分煙カフェに行くと常連の老人たちが新顔の客と談笑している。四十五歳ぐらいの大きな男で赤ら顔の胆汁質の巨漢である。薄くなった髪の毛を短く切っているのでピンク色の頭の地肌が見える。大量の紙袋が席の横に置いてある。面白そうに両手を振り回して大げさなジェスチュアでまくし立てている。第九は話を聞こうとそばの席に座った。

 下駄顔老人が第九に言った。「しばらく顔を見せませんでしたね。忙しかったんですか」

「いえ、そういうわけじゃないんですが、ちょっと、こちらに脚が向かなかったもので。こちらのほうは変わりありませんでしたか。その後クレイマーが現れるとか」

「あの女は現れないね。どうも一過性だったらしい」

禿頭老人が新顔を紹介した。「彼はパチプロなんだそうですよ。この大きな紙袋はみんな景品らしい」

「へえそうなんですか。だいぶ稼ぎましたね」

「毎日三万円は儲けるらしいよ」

「するというと、パチンコで生計をたてているんですか」

「そうですね、それで病院から転職しました」

「医師より収入があるんですか」

「まあ、職種にもよりますね。開業医なんかしていればもっと儲かるでしょうがね。病院勤務だと勤務時間がやたらと長いうえに余禄がないですからね。もっとも外科の医長なんかになれば別ですよ」

「どういうことですか」

「手術なんかするでしょう。そうすると患者の家族が百万円とか二百万円を包んできて、どうぞよろしくお願いします、というわけですよ。そうする偉い先生が直々に執刀するわけです」

「へえ、お金を渡さないとどうなるんですか」

「見習いの経験のない若い医師に患者を切り刻ませるんですよ」

そりゃー危ないね、と老人が心配そうな顔をした。「事故も起こるでしょうな」

「その収入はどうなるんです」と下駄顔が聞いた。

「もちろん税金の申告なんかしやしません。まるまる懐に入るわけです」

「先生は経験もあるお医者さんに見えますけどね。そういう余禄はなかったんですか」

「私は精神科でね、そんなものはありません。それでいて病気の性質から患者とのトラブルが多くてね。担当の患者に自殺者がでたりすると院長にネチネチ絞られるしね。女性の患者だとなにか勘違いしてストーカーみたいに真夜中に自宅まで押し掛けられたりする。

 大変な仕事でしたよ。勤務時間も長くてブラック企業なみでしたからね。そこへ行くとパチンコも土方労働者の仕事と変わりはないが、一日八時間もやればいい。場合によっては二、三時間で切り上げることもある」

 しかし、と第九は考えた。会社を辞めた直後は一日中やることのない時間を持て余して、ときどきパチンコ屋に脚を運んだことがある。パチンコ台の前に八時間も座って打ち続けるなんてやったことがなかったが、あの騒音の中でやっていたら頭がおかしくなるのではないか。そんなわけですぐにパチンコ屋に行かなくなったのである。

 

24:橘さんの脱サラ経歴(一)

 しかし、橘さんは最初はお医者さん志望だったんでしょう?と第九は聞いた。

「私の希望ではないのです。親父が産婦人科の開業医でしてね。私に病院を継がせようとしたんです。命令でしたね。それにね、私もスケベエだったから産婦人科なら面白そうだと考えたんです。女性の性器を毎日見られるんですからね」

「それがどうして精神科に変更したんですか。お父さんもがっかりしたでしょうに」と禿頭が呟いた。

 「最初は産婦人科志望だったんですよ。ところがインターンに行ってショックを受けましてね。きれいなビーナスのような性器が毎日見られると思っていたのが大間違いでした。当たり前の話ですよ。患者なんですから、きれいだなんてことは無い。これはどの部位の病気にも言えることだが、病人の体というのは汚物ですよ。だから医者の所に来る。

医者というのは汚物処理係です。金になるから医者になるだけの話です。もっとも中には高潔な人もいますがね。私の親戚にもそういう人がいましたね。彼は治りそうもない難病を直した時に喜びは最高だと言っていましたね」

 「彼は開業医だったんですか」

「いやいや」と橘さんは手を振って否定した。「難しい患者がくると、町医者は医療事故を恐れて大学病院に回します。その親戚も卒業以来ずーっと大学勤務でね。とうとう医学部長にまでなりましたがね」

 「どうして産婦人科のインターンで嫌気がさしたんですか」

「嫌気をさしたくらいならいいんですがね」と橘さんは言った。「患者の前で吐いてしまったんですよ」

「誰がですか」

「私がですよ。患者の腹部に水か体液がたまっていたんですね。それが噴出してきてもろに頭からかぶってしまいました。むっとこみ上げてきて、げろってしまいましてね。それでね、君は医者には向いていないと先生に引導を渡されました」

 「そりゃあ」と下駄顔が言ったが何といっていいか分からない。まさかそれはとんだ災難でしたね、ともいえまい。その当時のことを思い出したのか、橘氏は黙り込んでしまった。

それでどうしました、と第九がうながすようにたずねると、親父には無断で転部しましたと答えた。

「どの科にいっても程度の差はあれ私には患者は扱えないとおもいましてね」というと彼は興味津々に自分を見つめている聞き手の顔を見回した。

 「どこへ転部したんです」

「文学部に転籍したんです」

「それはまた思い切ったことをしましたね。法学部とか経済学部ならまだつぶしが聞くが文学部ではね。それで何を専攻したんですか」

彼は恥ずかしそうに小さな声で言った。西洋哲学です、と。

「それはずいぶん思い切ったことを。お父さんはご機嫌が悪かったでしょう」

「激怒しましてね。家を追い出されました」

 「それでまた医者になったんでしょう。その辺も面白い事情がありそうだ」と銀色のクルーケースを持った客が割り込んできた。「精神科というと汚物である患部を見なくていいからですか。考え方によれば精神科の患者のほうがもっと怖いような気もするな」

 

25:橘さんの遍歴(二) 

 新入りの橘氏がしゃべくりまくるので、一座では爆笑の連続であった。この静かなスタッグ・カフェでは異例なことである。他の客もびっくりして何事だろうとこちらを見ている。自分の話が受けたのに気をよくした橘氏はますます話に熱が入って、もともとの赤ら顔が興奮で高潮して暗紅色に変わっている。両手を振り回しながら熱弁をふるっている。

 とうとう女主人まで来て「面白そうな話ね。私も聞かしてもらえますか」と言った。

「ちょっときわどい話もあって危ないかな」と銀色のクルーケースの男がいったら、橘氏が新しい聴講者を得て張り切ったのか「いや危ないところはさっきで終わりですから、つまらない話ですがお暇だったら聞いてください」と答えた。

 それで、どうして哲学を選んだんですか、と第九が誘導質問をした。

「それがね、理由なんてありゃしません。大体が飽きっぽいたちでね、医者も嫌になったし、全然関係のない正反対のことをしたいと思ったのです。それで哲学を思いついたんですね」

「哲学もとんだ人に見込まれましたな」と下駄顔が半畳を入れた。

「まったく、そうかもしれません」というと橘氏は喉が渇いていたのだろう、テーブルの上にあるグラスからお冷を一気に飲み込んだ。あまりに顔面に血が上がっているので脳溢血にでもならなければいいが、と第九は思った。

 橘氏は猫が絞殺されたような変な音をだして苦しそうに水を飲みこむとしばらく目を白黒させて息もできないようだった。ようやく落ち着くと、「哲学科に入ってようやくほっとしたんでしょうね。しばらくは授業にも出ず、まったくぶらぶらしていましたね」

 「それじゃ哲学もやめて退学したんですか」と女主人が先回りして心配そうに聞いた。

「そうですね、やめようかとも思ったんですけどね。一応卒論だけは書いておこうかと思いました」

「テーマは何だったんですか」

「先生が与えてくれたのはプラトンとアリストテレスの自然哲学という題でしてね」

「それで書けたんですか」と禿頭が心配そうに失礼な質問をした。

「一応どうにかね」

「よかったですね」と女主人は自分のことのように安心したように言った。

「それがね、バカに先生の気に入ったようなんですよ。どこがどう評価されたのかわかりませんがね。それで大学院に残らないか、と打診されたんです」

 彼はウェイトレスが継ぎ足したコップの水をまた一気に飲み干した。唇の残った水を右手の甲で拭うと

「ところがね、すべて順調にいかないのが私の人生でしてね。しばらく前から同棲していた女性が妊娠しましてね。どうしても生むというんですよ。そうなるといろいろ生活費もかさむし大学院の学費なんかも払えるわけがない」

 「そりゃあ大変だ」と言ったのは病院から検査サンプルを集めて回る若い男である。

「そりゃあ面白そうだ」と無遠慮に言ったのは下駄顔である。「でどう始末をつけました」

「先生には悪かったけど大学院に行くのは断りました。彼女がいうにはしばらくは彼女が勤務を続けて生活を支えるから、もう一度医者の勉強をして医者になってくれというのです。それまでは彼女が働くというのです」

「しかし妊娠しているのでしょう」

「彼女は結構いい会社に勤めていましてね。産休もあるし、出産後も務められるというのです。私が医者の免許を取るまでは働くというのです」

「泣かせるね」とこれは禿頭老人。

 

26:精神医学と哲学の接点

 「プラトンというとソクラテスを主人公とした対話篇を書いた人でしょう。『弁明』とか、むかし一、二冊文庫で読みましたよ。もっともほとんどタイトルは勿論、内容も忘れましたが」と第九が呟いた。「自然哲学と言うと、現在で言うと物理学みたいなものなんですか。あんまりそんな議論はなかったようだが」と彼は記憶をたどりながら訊いた。「人はどう生きるべきか、とか倫理的な話だったな」

 「そうなんですね、しかしね、倫理学とか道徳なんかを言いだしたのはソクラテスが初めてなんですよ。それまでもいわゆる『ソクラテス以前の哲学者』、イオニア学派とかね、沢山いたんですが、世界は何で出来ているかとか、宇宙はどういう元素で構成されているかということを論じていたわけです。現代で言えば理論物理学ですよね。デモクリトスの原子論なんて言うのは知っているでしょう。思弁的ですがね。だからプラトンもそういう先人たちの議論を批判的に論じているんです」

 「それも対話篇なんですか」

「ええ、もっとも集中的に論じているのはティマイオスという対話篇なんですがね」

「聞いたことがないな。本屋でも見かけませんね。もっとも私は文庫の棚しか見ないけど」

「そうでしょう。あまり聞いたこともない本でしょうね。ほかにも文庫本であるものでは『国家』とか『法律』や『パイドン』なんかに出ていますが部分的な記述です」

「へえ、『国家』なんてよく見かけるな。読んだことは無いけど、タイトルからして政治論か政治倫理の話かと思っていた」

「その通りなんですけどね。プラトンは長大な対話篇の中にごった煮的にいろいろな議論を紛れ込ましているんですね。よほど注意して読まないと読み飛ばしてしまうでしょう」

 女主人はいささか議論に退屈したようだった。レジにいた若い女性を呼んだ。「長南さん、いらっしゃいよ、ギリシャ哲学の話よ」

アルバイトらしいその女性はまだ二十代の初めらしい。女主人が紹介した。「彼女は大学で哲学を専攻しているの。そうよね。いまこちらの方がギリシャ哲学の話をしていらっしゃるのよ。勉強になるからお聞きなさいよ」といった。

 橘氏は哲学専攻の大学生と聞いて一瞬身構えたように見えた。ちょっと心配そうな顔をした。なんとなく落ち着きを失ったようだった。彼女が席に座ると、第九が口を開いた。「アリストテレスには『自然学』という大著があるらしいけど、あれも自然哲学になるのですか」「そうですね」

下駄顔が追い打ちをかけるように疑問を呈した。「古代のギリシャのそういう思弁が現代にも参考になるようなことがあるんですかね」

 はははは、と橘氏は照れ臭そうに笑ってごまかした。「ないともいえない、というのが面白いところで」と言うと演じるまえに水を口に含んだ。

「プラトンは古代、中世の思想界を支配しました。12世紀になると欧州にはまったく伝わらなかったアリストテレスの思想がアラビア経由でなだれ込んできてアリストテレス一色になった。その流れを変えたのがルネッサンスです。後期ルネッサンスですが。プラトンやアリストテレスが否定されてソクラテス以前の自然哲学者が復権したんです。代表的なのはデモクリトスやレウキッポスの原子論です。17世紀の科学革命はデモクリトス思想の復活ですよ」

 プラトンはどうなりました、と禿頭が聞いた。「倫理学やイデア論の分野では相変わらず影響力は続いていますね。自然哲学のほうでは完全にぽしゃったんですか」

「それが面白いことに、二十世紀になると例えば量子力学の創始者のひとりであるノーベル物理学賞受賞者のハイゼンベルグなんかは『ティマイオス』の幾何学的原子論に興味を示している」

「復活しそうですか」

「さあ、そこまでは分かりませんがね。いずれにせよ、理論物理学なんて最先端では形而上学になりますからね。ようするに考え方ですから。ところでメタフィジックスを形而上学と翻訳するのは間違いでしょうね。メタ(上のほう、奥のほう)、フィジックス(物理学)だから、翻訳するなら第一あるいは基礎物理学とすべきです」

  

27:哲学は諸学の召使 

 ところで、と第九が口を開いた。「また医者に戻ったというのは分かるんですよ。生活のためというわかりやすい理由だから。彼女や子供にも食わせないといけないのは分かるのですが、どうして精神科を選んだかが知りたい。患者の体に触らなくてもいいからですか」

 橘氏は意地悪な質問をする人だなと困ったような顔をした。返事のしようがないというような表情を見せた。「私はね、人生の節目で理屈をつけて選択するなんてことはなかったですね」とまず煙幕を張った。「動機無き殺人、おっと間違えた。危ない危ない。動機無き選択かな」と答えた。

「神様みたいですね」と若き女性哲学徒の長南さんが要約した。橘氏は眼をすぼめて端整な透き通るような象牙色の肌をした彼女の顔を見た。「そうなんですね、充足理由率の第何律だったかな」

「ライプニッツですね。人間のやることにはすべて動機があるという」

「そうそう、自然現象には先行する原因があるみたいにね。しかし、人間の行動には動機があると充足理由率を拡張したのはショウペンハウアーでしたかね」

「それがまったくないんですか」と自分の注釈にコメントをつけられた長南さんが切り口上で浴びせかけた。

 橘さんはおちょぼ口のわりには分厚い唇を舌を出して舐めた。「あなたの厳しい糾弾に窮してお答えするとですな、多少は勉強した哲学と学際的な関係にあるのは精神医学なんですな。無意識にそういうところを考えたのかもしれない。与しやすしと思ったんでしょう」

 第九が質問した。「学際的というのはどういうことですか」

「いや、一言答えをひねり出すと新しい糾弾が飛んできますね」と彼は頭をかいた。

「哲学は諸学の母という言葉がありますよね」

「聞いたことがないな」

「そうですか、最近は言わないでしょうね。私もね、何時頃できた表現だろうと思ってインターネットで調べたことがあります。ところが分からないんですね」

「大体どこの『ことわざ』なんだろう。案外日本あたりじゃないのかな」

「なるほど」と橘さんは膝を叩いた。「そうかもしれません。そうすると明治以降だね。昔は哲学なんて言葉はなかったから」

「ところで、そのことわざのココロは何なんです」

「昔は学問と言うと今でいう自然科学も社会科学も全部哲学者が請け負っていたわけですよ」

「そうらしいですね」

「それが近代になると分野ごとに新しい学問として独立していった。データ収集とか実験とか検証とか新しい手法でね」

「それでいろいろな学問をひりだしたというので諸学の母というんですね」

「ところが母子関係が問題でしてね」

「というと」

「捨て子じゃなくて捨て母なんですよ。母親なんてうざいと言って子供たちは母親を捨てて出て行った」

「へえ、面白いね」と下駄顔が感嘆したように言った。

長南さんはちょっと不安そうな顔になった。無理もない。

「ところがですよ」というと橘氏はみんなの顔を見回した。「例外があるんですね」

そこで橘氏は熟練した噺家が高座で寄席に来た客に気を持たせるように二秒間沈黙した。

 「なんだい」とじれたように禿頭が催促した。

「それがわが精神医学なんですよ。他の諸学と違って自分のほうから哲学にすり寄っていった」

 

28:三すくみ 

 第九が目をすぼめた。ぎろりと少し光ったようである。「それで哲学と精神医学はお互いに学際的な連携をしているのですね」

「まあ、そういうことです。簡単に言うと」

「しかし」と第九は疑問を口にした。「現在の哲学界と言うとスーパースターがいないようだが。体裁のいい言葉でいうと百家争鳴といいますかね。現代哲学の諸派のなかでもおのずから精神医学と仲良くなる流派があるんでしょうね」

「いいことをおっしゃる」と橘氏はさっき汚れた手を拭いたペーパーナプキンをテーブルから取り上げるt、くしゃくしゃになったナプキンを丁寧に広げて顔を丁寧に拭いだした。とくに鼻の横を入念に拭いている。

「ご指摘のように現代の哲学界は茶道かお花の世界のようでしてね。めいめいが勝手なことを唱えている。華道や日本舞踊の家元制度みたいなものですよ」

「するってと」と禿頭が口を挟んだ。「精神医学の世界も哲学の各家元と結託しているわけですな」

「結託というのは人聞きが悪いが実質はそうですな」と今度は手にまだ持っていた汚れた紙ナプキンで抜け上がった前頭部を二、三度叩いた。

「現象学的な哲学と連携している連中がいる。そもそもは前世紀のヤスパースなんかがそうですね。ヤスパースは自分自身も精神科医でした。精神病理学原論なんて著書もある。それから実存主義と親近性のある一派がある。驚いちゃいけませんが分析哲学と交流のある連中もいるのです」というと今度は紙ナプキンで耳の穴を掃除しだいたが、思い出したように言った。

 「おっと忘れちゃいけないのがフロイトの精神分析です」

「ああ、あの天一坊のような男ね」と下駄顔が注釈を入れた。

「天一坊とはひどいな」と橘さんはびっくりしたような顔をした。

「やはりアメリカに子分が多いんですか」

「なんていうのかな、心理療法プロパーとしてはアメリカに信者がおおい。しかし精神分析というのはフランスの哲学界と親近性が強いんですね」

妙なものですね、と第九が呟いた。そして思い出したように「あなたの関連業界では、業界と言っては失礼だが、心理療法とかサイコセラピストとかいうのがいるでしょう。あれも似たように同じような流派があるようですね」

橘氏は興味深そうに第九を見た。「よくご存じですね」

 「いや彼は心理療法士の手を煩わせたことがあるのさ」と下駄顔が説明した。

へえ、と橘氏が言うと、「実はね、パニック障害というのか、前にエレベーターの中で失神したことがあるんです。それで会社の命令で怪しげな心理療法士のカウンシルをしばらく受けたことがあります」と第九は橘氏の疑問に答えた。

 「ほう」

「そのときに胡散臭いことをされてはやばいと思って心理療法なるものを調べたんです。そうしたら、いまあなたのおっしゃったことと同じ状況があるということが分かったのです。つまり哲学、心理学のいろいろな流派によってまるっきり違う診断法や治療法があるということを知ったのです。

 

29:さらに言うと 

 生理学的にと言うか生物学的というか、そういうアプローチは精神医学では皆無なんですか、と第九が疑問を呈した。

「もちろんあります。しかしね、なかなか決め手がないんですね。脳に器質的な変化があるというケースは少ない。細菌とかウィールスが見つかるわけじゃない。癌みたいに器質的な変化が見つかるわけでもない。勿論脳腫瘍というのはありますよ。だけどこれは精神病ではない。ふわふわしていて原因が分からないから宗教に頼るように哲学に頼るような気持ちですり寄るんですな。だから決定的にこの流派が正しいという論拠は求めようとしてもできない。たまたまこの流派でやってみたらら症状がよくなった、それも複数回あったなんてなると、その流派が流行るわけです」

「なるほど、実際には精神分析でもフロイト一辺倒ではないし、ラカンとかユンクとが多数の流派がある。現象学といっても複数の流派があるしね」

「精神医学では薬物療法というのはあるんですか」と女主人が聞いた。

「もちろんあります。どうにも患者が始末に負えなくなるとやたらと薬物を投与する傾向がありますね」

「それは流派によって違うんですか」

「いや同じですよ。向精神薬とか鎮痛薬とかまるきり正反対の薬を投与する。すぐきかなくなるからどんどん薬量を増やして本当の廃人にしてしまう」

 橘氏の深刻な話に一座はシーンとしてしまった。その沈黙を破るように彼は言った。

「精神疾患は、最近は精神病と言うのは禁句のようだが、英語ではMental Disorderといいますね。Diseaseとは言わなくなった。日本語で言うと失調というのかな」

「統合失調症とか訳の分からないことを日本でも言うようになりましたね」と第九が言った。

 たとえですがね、と橘氏は続けた。「たとえだから文字通り受け取られると誤解されるかもしれないが、パソコンのトラブルに喩えるんですよ。Diseaseというのは部品がぶっ壊れた状態ですね。電源がいかれたとかコンデンサーが機能しなくなったとか、ディスプレイが壊れたとかね」と言うとグラスの水を口に含んだ。

「Disorderというのはハード的に正常でもオペレイションがスタッグする場合かな」

「どういうことですか」と長南さんが反問した。

橘氏は眼をすぼめて彼女をみた。

「立ち上げる場合に一番多いが、途中で動かなくなることがあるでしょう。先月買い替えたばかりなのにもう壊れたと青くなってメーカーのサポートに電話すると、まず勧められるのが、電源を切ってもう一度やり直してくださいというと思います。それで言われたとおりにやると今度は最後まで通る。通らない場合はもう一、二度同じことをするとたいていの場合は正常に動くでしょう」

長南さんは橘氏の顔を睨みつけるようにして聞いている。きっと先月パソコンを買ったばかりなのだろう。かれは長南さんをちらっと見ると

 「起動する場合が一番多いが、作業中にも時々スタッグすることがある。間違えて別のところをクリックした場合とか、無遠慮に断りもなく広告が表示された場合なんかよくおこる。こういう場合にもう一つ前に戻ってやり直すと動き出す。それでもダメなら電源を落として最初からやり直すといい」

 「それはパソコンの欠陥でしょう。そういうことが頻発するのは」と下駄顔が訂正しようとした。

「diseaseというのですか、しかしハード的には問題ない。やり直せば通るから。こういうのをまあdisorderとしますかね。パソコンの場合はリセットするか、やり直せばいいが、人間の場合はそうもいかない。電源を落としたりリセットするというのは『殺す』ということですからね」橘氏はどうだ、分かったかと言うようにみんなを見返した。

禿頭が聞いた。「電気ショックというのがあるらしいが、あれはリセットの一種じゃないのか」

「ごく軽い疑似リセットですね。きく場合も少しはある。本当のリセットではないから」

 しかし、と第九は吹っ切れないように「どうして頻繁にパソコンはスタッグするんだろう。昔はそんなことは少なかったような気がする」

「いや、いい疑問ですね。夏目さんがパソコンを始めた時のOSのバージョンは何でした。Winがきdow95あたりかな」

「まさか、もう少し後ですよ。そうするとOSの責任なんですか」

「そのとおり、がきユーザーにおもねって、チカチカドンドンの必要もないソフトを詰め込むからですよ

「それがどうしてパソコンが頻繁に動かなくなる理由なんですか」

「パソコンのリソースを一番食うのはゲームとか音響、映像処理なんですね」

「ああ、チカチカドンドン・ソフトというのはそういうことなのね」

「ハードや集積回路の能力がそれに追いついていけばまだいいのだが、実態はハードが過重なタスクに耐えられなくなっているのです」

 

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