穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

反世界

2014-01-29 23:04:50 | 書評

「風と共に去りぬ」第四部39章あたりを徘徊中。

さて南軍の降伏で南北戦争は終わりました。戦後が第四部途中から第五部で描かれるらしい。

戦争中の銃後の社会は太平洋戦争時の日本の内地とうり二つと書いたが、戦後はまったく別の推移をたどるようだ。いわばお互いに反対世界である。

そう思って比較するとよくわかる。クー・クラックス・クラン(KKK)というと日本ではネガティヴに語られるがこの小説ではむしろ南部の抵抗運動として好意的にとらえている。

日本でも、「降る雨(アメ)リカに袖はぬらさじ」とか床の中でアメリカさんの喉仏を食いちぎってやるとか大和撫子も勇ましかったが、いざ実態は檀蜜なみのハーハー、ギッタンバッコという体たらく。平成の御世でますますひどくなっているようです。

これは一つの小説のなかで書くのは無理だが、北軍が黒人奴隷を解放したといっても、南北戦争直後の逆転現象はあったとしても、20世紀の後半まで南部では黒人問題は深刻であったわけで、南北戦争後の推移も外国人には大きな断絶と感じられる。

面白いのは北軍が黒人を南部白人を牽制するために使うやりかた。これは戦後から今に至るまで綿々と続くアメリカが半島人を日本人にけしかけるやり方とうり二つであることである。



ご疑念ごもっとなれど

2014-01-24 19:58:14 | 書評

「風と共に去りぬ」の書評をするならなぜスカーレット・オハラやレット・バトラーを論じないのかとのご疑念まことにごもっともなれど、故あってそれは一番最後にする。いや途中でやめたら触れないかもしれない。

スカーレット論なら腐るほどあるだろうし、いまさらという気がしないでもない。もっともそんなものは一つも読んでいないからなんだが、私が書くとすれば誰も考えなかったような観点から書くことになるだろう。

彼女は悪女(正確には毒婦)なんだが、作者はよくここまで書いたなと感心する。女性でないと書けないことだろうし、またそれゆえによくもここまでさらけ出したな、と感嘆する。

第四部を読んでいるが、北軍の占領軍に解放局というのがある。これはまるでGHQの民生局のようだ。

金がなくて税金を払えず、北軍の監獄に入っているレット・バトラーを訪ねて色仕掛けで隠匿した金を貰おうとして失敗するところがある。バトラーに見破られて破れかぶれで啖呵を切るんだが、バトラーが言う。「ぼくが婦人において価値を認めるだた一つの美徳は率直ということ」

さて、率直とは何ぞや、自分の欲求に率直ということか、欲求に実現に手練手管を使って男をだまさないということか、さてどちらでしょう。


懐かしの愛国婦人会

2014-01-22 08:20:58 | 書評

昔、愛国婦人会とか国防婦人会というのがあった。南北戦争も膠着状態に入り物資が欠乏してくると自然発生的にそのような組織ができてくる。仕切るのは地方の社交界を牛耳っている上流階級の老婦人たちである。

前線から続々と後送されてくる負傷兵の病院での手当に若い女性たちを駆り出し督励する。戦局が進み、資金、物資を不足しだすと寄付金を集めだす。

傷病兵のために開いたクリスマス・パーティの席上で抜き打ち的に宝石、装身具の貴金属の供出を呼びかける。老若の女性たちはありったけの宝石、貴金属を身につけてパーティに出席している。

供出に応じないことができるような雰囲気ではない。日本語でいえば「非国民」とみなされてしまう。女性は髪飾り、ネックレスから結婚指輪まで差し出すのである。

日本ではクリスマス・パーティなんて敵性国の習慣はなかったが、隣組というのがあってね、それが婦人たちに貴金属の供出を呼びかけた。アトランタみたいに抜き打ちではないから、こっそりかくして供出逃れをする女もいたが、母などは馬鹿正直だからみんな供出してしまったそうだ。敗戦後よく愚痴を言っていた。

さて、戦局が悪化して内地(ジョージア州)に北軍が侵入してくると、南軍は兵士の消耗を補給することができないから、内地から義勇兵を強制的に募る。日本ではぜいぜい大学生の学徒出陣だったが、ジョージアでは14,5歳の子供から70歳のリュウマチで杖を突いている老人まで前線に送った。

さて、「風と共に去りぬ」は南軍の降伏後の社会を描くらしい。まだ読んでいないが、日本と決定的に異なるのは、日本では中枢神経に永久麻酔をされて「忠臣蔵精神」が死滅したのにジョージアでは健在だったらしいことだ。

次回はその辺を確認してみよう。


パラレル・ワールド2

2014-01-21 09:57:10 | 書評

「風と共に去りぬ」は1926年から書かれ出版されたのは1936年。執筆開始時から見ると南北戦争が始まったのは65年前になる。太平洋戦争が始まってから今年で74年になる。ほぼ同じ年月が経過している。いまから太平洋戦争下の社会をあれだけのと迫力で書ける作家がいるだろうか。まずいないと断定してよい。

さて、前回の続きだが、アトランタが北軍によって陥落し全市が焼け野原となる。スカーレットたちは故郷のタラに命からがら逃げるが、ここも戦場となり、ほとんどの農場は屋敷は焼かれ、食糧家畜などは奪われ、畑は荒らされたあと。スカーレットの家は北軍の司令部に使われたために火をつけられることだけは免れた。

ここからは物資の欠乏の描写は食料ばかりが描写される。衣料もさらに欠乏したのであろうが、命に係わる食料の欠乏がより深刻になるわけだ。これも当時の日本の状況のコピーのようだ。

敵に占領されるまでは日本でも食料はなんとかやりくりしていたが、戦後は食料不足で生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれた。順序としても小説のとおりだろうな、と思い出す。

作者は母方の親類から聞かされていたことが取材の中心だったらしい。

さて、家に帰ってみると父親はショックで廃人となり、スカーレットが女家長になる。そして家に入ってきた北軍兵士を警告なしにいきなり射殺して、平然と義理の妹と二人で庭に埋めて隠してしまうような女になる。

あとさきになったが、次回はアトランタ陥落までの世相を見てみよう。これも当時の日本と驚くほど酷似している。


パラレル・ワールド

2014-01-19 07:29:14 | 書評

相変わらず「風と共に去りぬ」第三部の途中だ。

マーガレット・ミチェルの迫真の筆致は太平洋戦争当時の「追体験」をしているようだ。そしてそれは子供時代に聞いた当時の雰囲気をまるで「再体験」している思いがする。

「勝ってくるぞと勇ましく、歓呼の声に送られて」出征していく若い兵士たち。緒戦の勝利の報に酔ったように高揚する世間の雰囲気、その後の戦況に一喜一憂、そのうちに次々と肉親の戦死の報告が届く。

「ああよかった。うちの子供じゃなかった」という気持ち。そのうちにも自分のところに戦死の電報が届く。四人の息子を出している家庭で全員が戦死する家庭もある。息子の安否を確かめるために、電報局、新聞社の前を離れない母親。

「次の決戦に勝利すれば戦局は一変する」と言い合う婦人たち。まるで当時の日本だ。

綿花の輸出に頼る南部は経済封鎖で極端な窮乏生活に見舞われる。作者が女性だし、小説は十代の女性スカーレット・オハラの視点で描かれるから圧倒的に衣服の欠乏についての記述が多い。食事の話はあまりない。もともと農業しかない南部だからある程度自給自足できたのだろう。

それでも軍部が兵士のために次から次へ食料を徴発していく。コーヒーはあそこではできないらしく、トウモロコシを焼いた粉を代用にしたとある。これも戦中、終戦直後の日本と同じだ。

衣服の欠乏の記述は多い。ヘアピンが無くなってしまう。替えのボタンも南部では作るところがないらしく、どんぐりに穴をあけて糸を通してレディのボタンにしたなんて記述もある。

それから靴も作れなかったらしい。特に兵士に送るにも作れないから兵士は靴が破れてはけなくなると、はだしで雪の中を行軍する。北軍の戦死者からはぎ取った足に合わない靴をはく。足に布をまいて靴の代わりにする。兵士から家族への手紙で靴を送ってくれというのが多い。日本軍はここまではいかなかったようだ。

つづく



総力戦を描く「風と共に去りぬ」

2014-01-16 21:45:22 | 書評

総力戦という言葉は第一次大戦ではじめて使われたと記憶しているが、実態としては南北戦争は近代戦としては最初の総力戦といえるようだ。

戦死者の数がアメリカの歴史上桁違いに多い。4年間にわたる戦争で死者62万人という。第二次世界大戦で対独戦で米軍の死者は16万人、対日戦で11万人であることにくらべても突出している。

第一次世界大戦では戦死者は1600万人と言われているが、アメリカは遅れて参戦したこともあり、戦死者は12万人という。冷戦下の朝鮮戦争、ベトナム戦争が夫々5万人弱、イラク戦争が3万人だそうだ。

主としてWikipediaの数字だが戦死者の数には出典いよってばらつきがある。行方不明者のカウントによって差が出るようだ。激戦地ほど、行方不明者の数は増えるわけだ。

また戦死者の大半が戦病死であるということも南北戦争の特徴だ。戦闘による死亡より、補給路を断たれた劣悪な医療環境、食糧不足、軍需物資の欠乏による疫病、戦傷がその後の死亡につながることが多かった。あまり書評と関係のないことをつづったが、このような背景をしることが「風と共に去りぬ」のさまざまな描写を理解する助けになる。

海上の補給路を断つ北軍の作戦がこのようなボディブローとして南部諸州を真綿で締めるように効いてくる。ちなみに太平洋戦争の日本軍でも戦闘以外の死者のほうが多かったが、理由は南軍と同じで海上封鎖で食料の補給や軍需物資の補充ができなくなったためである。

南部は綿花を売ってすべての必需品、嗜好品を欧州あるいは北部から購入するという単純経済だったから、補給路を断たれると、綿花は売れなくなるし、たとえば婦人の着るものはたちまちなくなってしまう。ここにレット・バトラーというバッドボーイが現れる。北軍にわいろを使ったりして補給封鎖破りをして南部に商品を持ち込む闇商人である。

これがスカーレットとにらみ合い、ひきつけあうという構図なんだな。この辺は有名だから解説の必要もないが。封鎖破りという言葉を理解すればもっと興趣が増すというものである。


その辺の事情を知っていると、小説の各場面が生き生きとして迫ってくる。


「風とともに去りぬ」

2014-01-16 11:18:10 | 書評

第三部途中まで読んでいる。映画で見たときにも印象が強かったが、小説のほうがはるかに迫力がある。

スカーレット・オハラが主人公なのだが、南北戦争の推移が、戦争が銃後の南部に与える影響が印象的だ。ときどきトルストイの戦争と平和と比較されるが、歴史小説の範疇に入るだろう。

「戦争と平和」がシリアス・ノベルとすれば、これもそうかもしれないが、より一般小説(そんな言葉があるかどうか知らないが)的、通俗小説といえるかもしれない。「レミゼラブル」が通俗小説と言われるならこれも通俗小説である。

もちろん、銃後の社会を活写できているのはスカーレットという女性の一典型の見事な創出によるところが大きい。

大戦争を扱った歴史小説は腐るほどあるし、有名なのが多いのも事実だが、「風と共に去りぬ」は抜きんでている。これをよむと司馬遼太郎なんて「小説」だな、と思う。小さな説ね。

銃後のアトランタ社会の描写は太平洋戦争当時の日本の内地事情をほうふつとさせる。それが身につまされるようなリアルな感じを与える。

私はそれらを身をもって体験したわけではないが、まだ戦争を生き抜いた世代に取り囲まれてそだったから、口づてに一次情報に取り囲まれていたので、この小説を読みながらそのころの社会を思い出した。