穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

1Q84;BOOK3

2009-08-25 08:30:43 | 村上春樹

村上春樹の1Q84、BOOK2を読み終わった。なんとかまとめたね。

ちまたの書評を見るとBOOK3が出るだろうというのが多い。理解に苦しむ。

謎をばらまきすぎたとか、まだ続けないとすっきりしないことが多すぎるというのだが、この辺でやめておくのが無難だろう。

前作「海辺のカフカ」はまだ文章に艶が残っていたとも聞く。艶というのはポルノ調というのではない。女性を描かずとも、セックスを書かずとも、恋愛を物語らずといえども、艶のある文章と、ない文章がある。

それが古来言う「枯れてくる」ならまだいいが、無理やりバイアグラを飲んで書き続けるとゴツゴツしてくる。

世間では、NHKあたりのマスコミではノーベル賞候補というのだが、彼の作品のどういうところが対象になるのか。もしかりに受賞したとして(それもあるだろう、大江健三郎も貰うくらいだから)、ノーベル賞選考委員会が授賞理由をなんというか興味があるところだ。

ノーベル賞でも、平和賞と文学賞はいんちきくさい。だれが仕切っているのか。横綱審議委員会のメンバーはユダヤ人なのか。その筋のものを押さえての工作次第だと聞く。村上春樹の場合はどういうマシーンが工作しているのか。


1Q84;ジャンルにこだわる人のために

2009-08-24 06:22:47 | 村上春樹

村上春樹の1Q84だが、SFなのに月が二つあるのはおかしいなんて書評家大森望氏はクレームをつけている。

二つ問題がある。これがSFなのか、ということ。もうひとつはSFには月が二つあってはいけないか、という問題。

最初の問題に対する答えは否である。二番目はSF業界仲間内の教条論争なので論評するに値しない。

ジャンルに関していえば、「総合小説」だ。SF味もにおう。しかし、基本的にはファンタジー味がベースだろう。オカルト色も強い。通俗的なセックス・マジック本をだいぶ勉強したあともみられる。通俗ユングものの影響も強い。これは「世界の終り、」以来のものだろう。

時代風潮、思想を織り込もうとした形跡もある。これは全く成功していない。

基本はおとぎ話すなわちファンタジー風味だろう。それにセックス・マジックを中心とするオカルト趣味だ。

荒唐無稽でもいい。それをもっともらしくまとめるのが作家の腕力の見せどころだろう。前提から言えば「世界の終り、」のほうがもっと記号的で荒唐無稽である。しかし、なんとか最後まで読ませる腕力は見せていた。

1Q84では村上春樹の腕力が著しく衰えたのを感じる。マラソンでからだを鍛えても、脳みその陳腐化は止められないものらしい。リアリズムとの妥協が著しく、その割には、その効果はまったく表れていない。

これがあっという間に200万部突破とは、これも仕掛けのあるマジックかな。

大森望氏は月が二つあることに「SFの権威」として文句をつけているが、それでも「面白かった」とおべっかを使っている。書評家の常である大勢順応主義なのだろう。

麻生首相じゃないが、みんなでパイを大きくして一緒に食べましょう、ということだろう。


村上春樹とチャンドラー

2009-08-23 17:01:07 | 村上春樹

口直しにチャンドラーのロング・グッドバイを読み返してみた。読みにくく、異様な、あるいはangularというかな、1Q84を読んだあとではほっとするね。

なぜチャンドラーか。あまり関係ないのだが、二、三年前だったかな、村上春樹の訳が出たので読んだ。そんなことの連想かな。前に読んだVintage Crime版ではなくて最近出たPenguin Crime Fiction版なんだが。

実を言うとこれまでに村上春樹の文章に接したのは翻訳ロング・グッドバイだけなのだ。だからせいぜい二、三年前。

村上春樹の訳はさらりとして水のようでなかなか良かった。それで今回評判の1Q84を読む気になった。ブログというのは世間ではやっている事象を取り上げるのが習いのようだしね。

ま、翻訳でいい印象を受けた文章を創作でも期待するのは筋違いなのだろうが、受けた印象の格差ははなはだ大きかった。

小さな話になるが、村上春樹氏が翻訳のあとがきでバーで首をつる、というのはおかしいのではないか、と指摘していたがペンギン版では

They have hanged themselves in barns(not bars)

となっている。誤植というものはあるものだ。

1Q84 BOOK2はあと百ページだ。がんばれ !


村上春樹は女性が描けない

2009-08-23 07:46:27 | 村上春樹

タイトルを見て、えーっと思うかもしれない。そうならアイキャッチングな効果があったわけだ。

1Q84だが、下巻に取り掛かったが、どうもすんなり読めない。また、真ん中あたりで止まってしまった。前にも書いたが問題は青豆パートだ。下巻になって、ある章ではすこし改善がみられるが全体としては相変わらずだ。

どうしてだろうと考えたんだが、村上春樹は女性が描けないのではないか。もっと正確に言えば女性の視点からは、ということだ。

村上は女性の読者の共感を得ているらしいが、それは登場人物、あるいはナレイターの男性の視点からの描写だろう。女性に視点を据えた小説が彼には1Q84以前にあるのだろうか。

つまり村上の女性に対する優しさであって、いってみればエレベーターから降りるときに女性に示す敬意、配慮みたいなものが行き届いているということなのだろう。

それが西欧流で、バタ臭いレディ・ファーストであり、アフター・ユーのマナーが気に入られているということだろう。もっとも、西欧ではレディ・ファーストは女性を弱者と認定して保護する、習慣化されたエチケットにすぎないが。

村上春樹の場合、は日本人の大半が字句通りに信じ切っている民主主義への信奉みたいなところがある。つまりどこかあか抜けない。

喫茶店のマスターとして人生を始めたという村上春樹がカクテルの知識やサンドイッチの切り方について蘊蓄を披露するのと同じことではないか。

以上仮説おわり。


村上春樹1Q84;東アジア・マーケット

2009-08-20 08:06:03 | 村上春樹

もうすこし青豆パート。べつに小豆フェチでもいびつ乳房フェチでもないんだが、いまのところ天吾パートは無難に来ているので、オマメをいじくりまわすことになる。

日本の作家の一部の人たちは東アジアマーケットで結構いい商売をしているらしい。森村誠一なんかもそうらしいが。村上春樹にも大切なマーケットのようだ。それには一定の叩頭跪拝のエチケットをシナ、半島から強要される。

ほぼ一巻を読み終わりかけたんだが、気がついたところで二か所村上は叩頭跪拝している。青豆は歴史フェチというんだが、これがとってつけたような属性なんだね。ピンとこないと思っていたら、ありました。二か所袖の下を差し出している。そのためのキャリアとして歴史書を読むのを趣味にしたんだね。

最初はホテルのバーで男を物色する場面、青豆は「南満州鉄道史」を読んでいる、ふりをしている。唐突な場面だが、ちゃんと目的はある。村上は書いている。満鉄(南満州鉄道)は日本の中国侵略の先兵となった(侵略という言葉に注目)が1945年満州に「侵攻」したソ連軍に解体された。ちゃんと侵略と侵攻を使い分けている。

これが書きたくて「満鉄」なんて場違い、年齢違いなものを持ち出したんだ。御苦労さま。

教科書検定にいちゃもんをつけるシナ、半島のターミノロジーを忠実に守ってみせる。

もう一か所は一巻525ページにある。編集者が優秀で臆病なのか、村上春樹が卑屈なのか、どちらかだろう。

これって相当におかしい話だよ。全然必然性がない。村上春樹が好きなチェーホフ流にいえばまったく必然性がない(小説内で)。シナの検閲にこびるためにだけでっち上げたことは明白だ。国辱ものだよ。もちろん主義者として自分の歴史認識を示すのは自由だろうが、この小説でこういう形で入れるのは専制国家、アジアの後進国家に自ら検閲を求めてご機嫌取りに貢物を差し出すような行為で唾棄すべきことである。自分の小説の販路を広げるためにだけ行ういやらしい弁解のできない行為だ。

満鉄がどう1Q84と関係するのだ。

525ページもあゆみの幼児の性的虐待の話の連想で加害者は忘れても被害者は忘れない、とどこかで聞いたような媚中派政治家のセリフを持ち出してくる。連想が奇異だし、比喩にもなっていない。

これで1890円分回収したかな。村上春樹もたまったものじゃないだろうが。


村上春樹1Q84は1985-1

2009-08-19 20:00:11 | 村上春樹

結局村上春樹は初心に戻ったらしい。1985年に「世界の終りと、」を発表したが、その一年前に舞台を戻して、リセットして新しいバージョンを書き上げたわけだ。

「構造的」にはウロボロスの尾のように二つの作品は円環をなしているわけだ。

世界の終りの、の「僕」のいる「壁のなか」は、さきがけの「塀のなか」になる。

「心」と「記憶」を捨てれば壁の中で平和に暮らせる > 世界の終りと、

「個人の意思」を捨てれば、さきがけの塀の中で幸せに暮らせる > 1Q84

二作品のもうひとつに共通点、村上氏の強迫観念の一つに「世界の終末」という観念がある。1Q84でも両パートで「世界の終末の予感」が繰り返し語られている。

村上春樹はハルマゲドン信者なのかね。


村上春樹1Q84;おやじギャル

2009-08-19 19:41:57 | 村上春樹

ひきつづき、青豆パートのはなし。

必殺仕事人であることを除けば、青豆ちゃんのライフスタイルは中年オヤジのやることはなんでも真似る親父ギャルそのものだね。

酒を飲みに行っちゃ男をひっかける。そのくせ、小学校の時に一度手を握った男のイメージを守り続ける。これって、しがないサラリーマンの最大公約数じゃないの。

というよりか、ふうてんの寅さんか。


村上春樹1Q84;ブランド問題

2009-08-19 19:32:37 | 村上春樹

さてと、どれからいくか。もう少し女性マーケット問題でいこう。その前にひとつ。

この小説は青豆パートと天吾パートの二本立てなんだが、青豆パートが均衡を欠いて軽い。章の数は同じ、ページ数までは同じではなかろうが長さに関係なく青豆パートが軽い。しかも生硬である。まるで下手な政治パンプレットを読んでいるようだ。

青豆パートにはやたらとブランド名が羅列してある。出てくるというより羅列してあるというほうがいい。全部現実にあるブランドかどうかはしらないが。衣服、装身具、それからワインなど。いかにもブランド狂いのOL市場用にみえる。

このパートは青豆の視点で見ているのだろうが、キャラクターの設定では青豆はブランド志向を軽蔑するような女性に見えるが、それにしてはこの商品名の羅列はどういう効果をねらっているのか。キャラ設定ともしっくりいっていないようだ。

村上さんのかみさんがブティックでもやっているのかな。ブランド志向のOL読者をうならせようという作戦だろうか。

もっとも、このブランドのリストの半分がわざと架空のものだったりするとまだしゃれっ気があるんだが、

もちろん、現実の商品名をふんだんに入れる作家は内外に多いが、それに比べてもこの作品にあふれているブランド名の数は異常である。


村上春樹1Q84;女性市場

2009-08-19 07:57:00 | 村上春樹

ブログというのは日記だそうだ。日記は毎日つけることが大切らしい。

そこでだ、諸君

一日ようやっと五ページほど読むとする。その箇所の感想を書けば毎日ページを更新できるわけである。

さて、1Q84は「世界の終り、」同様、(「海辺のカフカ」は読んでいないが、それもそうらしいが)、二つの話が並行、交互にあらわれる。「世界の終り、」ではすべての人物が記号的であるが、1Q84でも二つのパートの語り手(視点)は記号的である。女は青豆、男は天吾。

村上春樹は自著の翻訳も並行して行っているのか、翻訳市場を念頭においているのか、名前の付け方も翻訳を念頭において決めているらしい。青豆はgreen peasであろう。これはテロリスト環境団体greenpeaceに引っ掛けてあるに違いない。

天吾というのもTengoで欧米人の耳に入りやすく、おぼえやすい名前だ。あやふやな記憶だがスペイン語でtengoはI have ということじゃなかったかな。yo tengoなんてね。

ところで空豆ちゃんね、これって女性マーケットに受けるかな。村上春樹は大きな女性マーケットを持っているそうだが、青豌豆ちゃんはどうかね。一抹の危惧を感じる。余計な御世話だって、ちげーねぇ。


1Q84年五月

2009-08-18 22:28:36 | 村上春樹

ブログだから流行っているものは一応取り上げる。というわけで村上春樹1Q84を読み始めた。5月あたりまでは何とか来たんだが、どうしても先へ進まないので一休み。

村上春樹にノーベル賞を取らせようというなら工作を加速したほうがいい。1Q84が翻訳された後では難しくなるのではないか。


村上春樹解題

2009-08-10 23:01:05 | 村上春樹

「世界の終わり」はハントウジン(半頭人?)「僕」の(日本)社会への主体的同化帰化(エンゲージメント、コミットメント)のはじまり。

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」以後村上春樹は変わったのか、変わらなかったのか。再転換したのか。「世界の終わり」しか読んでいないので分からない。

種族的集合無意識「影」の強制と重圧を振り切れたのか。


村上春樹はリトル・ギャツビー

2009-08-09 21:04:20 | 村上春樹

少し前に述べたことに戻るが、村上は尊敬する作家にスコット・フィッツジェラルド、レイモンド・チャンドラーそれにドストエフスキーを挙げているが、唯一共通点があるのはフィッツジェラルドのみだと述べた。

村上春樹の人生そのものが、さながらリトル・ギャツビーを彷彿とさせる。村上が影響を受けたのはフィッツジェラルドのグレート・ギャツビーだというが、出自不明な根なし草のようで華やかさと哀しさ(喪失感)が同居しているグレート・ギャツビーは村上の青春のスナップと思われる「1973年のピンボール」を連想させる。大分スケールは小さいが。

村上の作品にはチャンドラーやドストエフスキーを連想させるものはかけらもない。

ピンボールはまたの名をコリントゲームあるいはパチンコという。言葉の選択に必ず二重三重の含意を持たせる村上春樹である。


謎とき村上春樹、カベ、影、森

2009-08-09 14:22:04 | 村上春樹

今回はカベと影、森という、「僕」の放り込まれた城塞都市国家の諸記号についてまとめて述べる。相互に関連しているからそのほうが説明しやすい。

何度も言うように、この物語は意図的に韜晦した記号たちによる寓話であるから、幾通りもの解釈が可能である。そのなかで、這般の情報を勘案してもっとも妥当と思われる分かりやすい例解を示す。

ずばり言うが、カベは日本国家である。カベは被害妄想に取りつかれた在日半島人が措定するところの日本国の権力である。「僕」の出自は在日半島人である。

カベは彼らの闘争、反抗を封じ込めとらえこみ、制限する機能を持つ。これはエルサレム賞でのカベにつながる。

朴たちはどうしてここに来たか分からない。ここは意味深長だ。はっきりと強制的に連れてこられたといわない。ここに僕の、あるいは作者の立ち位置があることを示唆している。

「僕たち」は城塞の入り口で各人のもっている影を取り上げられる。村上春樹も日本の作家連中が無条件に信奉しているフロイト、ユングの精神分析「学」の信者だろう。とすると影とはその用語でいう無意識、それもユングのいう集合無意識のつもりだろう。実際、精神分析「学者」自身が無意識のことを影と表現する*。

集合無意識とは半島人のアイデンティティの謂いである。

つまり、影を取り上げられて民族の記憶、アイデンティティを喪失する。よく半島関係者ならびにそのシンパが主張することと一致する。

障壁の手前には森があり、「僕」は森に入らないように忠告される。「僕」は「僕の影」に頼まれて要塞の地図を作る。そのために森に入り城壁に近づく。そのあとでひどい病気になり、昏睡状態が何日か続く。

森の中に住む住人がいるが、その姿を見ることはできない。かれらは都市の町中に出てくることはない。森とはなにか。一番無理のない解釈は被差別のある地域ということである。森の住民とは民である。

「世界の終わり」にはまだたくさんの記号がある。それは次号で。

注1:上記は寓話解釈の一例にすぎない。また村上春樹が半島系というのでもない。彼が描いた対象、テーマがそうではないか、という話だ。

注2:小生は精神分析学を全く信用しない。信じない。学問であるならカルトみたいに信じることもない。科学なら「納得できれば」いいのである。それは科学ではないからもちろん小生は納得も理解もしない。

しかし、日本の、世界の作家たちや知識人たちが信奉しているなら、そしてそのターミノロジーで村上が理論構築をしているなら、メタ評論としては、おなじフレージングを使わざるをえない。それだけのことである。


謎とき村上春樹、カベ

2009-08-09 09:42:10 | 村上春樹

今回の村上春樹現象はイベントとして周到に計画されたものである。第一弾がエルサレム賞の受賞である。受賞演説もキャンペーンの一環として効果を狙ったものである。

その演説で「カベとタマゴ」てなことをいった。それがえらく受けたんだね。イスラエルでは受けなかったらしいが。

村上はタマゴ側だという。カベは敵であり、悪役である。

ところでカベという言葉が初出したのは1985年出版された「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(以下世界の終わり)である。本には庭園監獄みたいな絵地図が載せてある。この監獄を囲む城壁が「カベ」である。

この小説は「私」が語る冒険パートと「僕」が語る城壁都市の中の記述が交互にあらわれる。

「私」パートはハードボイルド・タッチであり、少年少女冒険物語であり、地中探検であり、種々の邪悪な組織、怪物との活劇である。

「僕」は記憶のないままに城塞都市に監禁されて「影」を奪われる。

私と僕は反応するようでしないような関係である。文学青年好みの言葉で言えばシンクロニックである。「私」が活劇で追われたり、襲われたり、窮地に陥ると城壁の中の「僕」は気分が悪くなったり病気になったりする。あるいは逆かもしれない。「僕」が病気になったから「私」は襲われたのかもしれない。

次回は「カベ」が寓意するところを述べる。


謎とき村上春樹

2009-08-09 06:31:54 | 村上春樹

村上春樹の「壁」はどうなったのか。1Q84で壁は崩壊したのか。まだか。ベルリンの壁が崩壊したのが1Q89年だったね。

シャフラー村上春樹の逆引き辞典がはじまる。エルサレム賞では壁は健在だったようだ。1Q85年版を見てみよう。

次号につづく