穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

誰かが褒めている「ダレカガナカニイル」

2017-07-28 14:19:09 | 書評

井上夢人「ダレカガナカニイル」、読みましたぜ。平均値を50点、及第点を60点とすると65点というところかな。まあボチボチだが最後まで読ませたことはえらい。しまらないのは大森望君の解説である。これは本人が言うように読まないほうがいい。読書前でも読書後も。出版社の宣伝文(推奨文)としてもあまりにも品格がない。まるでどさ回りのサーカスや芝居の大げさな呼び込みみたいだ。

 著者は「新本格」の旗手らしい。その手のギミックはビデオ編集のからくり解説だろうが、あまり読んでいてわくわくしなかったし、なるほどと手を打つような驚きもなかったな。大森氏によると最後に意外な犯人が出てきたと口を極めて激賞しているが、新本格の読者はそんなに初心なのかね。

 かの護憲派の憲法9条のような本格の「二十則」には犯人は最初のパートで必ず出てこなければいけないというのがあったと記憶している(私の記憶が絶対正しいとは主張しないが。なんだが国会の参考人質疑みたいだ)。

 この小説は半分あたりで、百歩譲っても四分の三あたりで犯人に該当する人物は一人しかいなくなる。大森さんのように最後の数ページになって腰を抜かすほど驚くことはない。小説だから事実ではなくて「作者が誰を犯人にしたがっているか」ということだが。

 大人の読み方としてはそこへ作者がどう持っていくかなという興味しかない。どたばたとむりやり持って行ったという印象である。

 


滑走路手前にクラッシュ・ランディングした「砂の王国」

2017-07-20 08:20:36 | 直木賞と本屋大賞

 

「砂の王国」を読み終わった。忘れないうちに書いておこう。最後の百ページで失速、滑走路手前に墜落した。前に書評を書いた「ガダラの豚」は最後の3,400ページできりもみ状態になっていたから、こちらの方はまだいい。最後の百ページ(つかみ)はガダラと同じく少年漫画ふう。

 教団が膨張を続けてどういうきっかけで変質し、オリジナル・メンバーの内紛が起こるかというのがキモであり、荻原氏の構想力、筆力からどう展開するかな、と期待していたのだがお粗末だった。

 そこでこの辺の失速が直木賞に落選した理由かな、と選考委員の評を読んだ。一人もラストとそれまでの落差に触れたものはない。それに対して「先行作品があるとか気になった」というコメントはほとんどの委員が書いている。

 篠田節子氏の「仮想儀礼」が先行作品というが、(記憶)では先行作品というのは理由にならない。これをそんな理由で撥ねれば「探偵小説はほかの探偵小説があるから駄目」という理屈が大手をふるって通用することになる。

 思うに、作家が選考委員であることが原因ではないか。少しでも、どこかで、設定とか登場人物の関係が似ていれば「模倣」と排除するのは作家としての作家ギルドの自己防衛以外のなにものでもない。そうやって、先行者としての自分の利権を守りたいのである。後輩者に対してこの理屈でいちゃもんを付けるのは利権を守ることになるからね。

 改めて各選考委員飲評価を見てみた。選考委員は九人いる。

 伊集院静:わりと高い評価をしている。先行作品云々には触れていない。

 林真理子:仮想儀礼を先行作品として理由にしている。かなりお粗末な論法

 阿刀田高:「ステレオタイプ」「結末もきっとこうなる」 << そんな必然性はない。結末はこの作品の最大の瑕疵である。つまり阿刀田氏の構想力、想像力は荻原氏なみということ。

 宮部みゆき:「同一テーマの先行作品があるが、そのことは大きな問題ではない」

そのとおり、しかし仮想儀礼は先行作品ではない。さらに言えば「同一テーマ」でもない。

彼女は部分的に一人称から三人称に変換しているところに違和感を表明しているが、私も同感である。

 桐生夏生:彼女は既視感があるそうだ。これは先行作品という意味だろう。

 宮城谷昌光:登場人物が急に増えることによって、希薄化(これは私の要約、かれは長々と書いているが)。後半特に最後の部分についての評なら当たっている。

 渡辺淳一:「バーチャルで(ママ)ゲーム感覚で書かれた」。最終部分については当たっている。

 浅田次郎:類似作品が取りざたされている」

 北方謙三:「既視感がつきまとう」

 以上であります。ヤレヤレ(誰かに似ているね)

追記:選考委員が全員同じ口調で「先行作品云々」という。推測だが、だれも仮想儀礼を読まないで言っているのではないか。もっとも一人ぐらいは前に読んでいたかもしれない。また、それなら読まなくちゃと初めて読んだ良心的な人も一人ぐらいはいるだろう。

じゃあ何故小学生のように口をそろえて複唱するかというと直木賞というイベント企画人(文芸春秋)の担当者が事前に候補作品のブリーフィング資料を作って選考委員に渡しているのだろう。先生たちは忙しいからね。候補作品は自分で読むだろうが(大部分は流し読みだろうが)、出版社の編集担当者がこういう先行作品があると言うので、確認のために自分の目でじっくり読むような良心的な選考委員はいないのだろう。

そうでなければ北朝鮮の幹部が金正恩の言葉を口移しにするように同じことを非クリエイティヴ

に繰り返すこともないだろう。


 

 


教団を作る話

2017-07-18 07:33:45 | 直木賞と本屋大賞

荻原浩「砂の王国」。正確に言うと「教団を作って壊される(壊れる)はなし」である。上下二冊(文庫)。PRPosition Report )、上巻読了。平成22年下半期直木賞候補。その二年前に出た先行作品がある(設定が似ている)ということで落選した。良い線までは行ったらしいが。

 作者はその後別の作品で直木賞を取っているから筆力はある。先行作品というのは篠田節子の「仮想儀礼」である。この本は直木賞の評を見て当時読んでみた。当ブログでも取り上げたが肝心の「砂の王国」は最近まで未読であった。

 もうよく記憶していないが、それほど似ているとも思えない。この程度を先行作品(模倣という意味だろうが)とするなら類似のケースは多いのではないか。同じようなテーマ(ストーリー)を扱っても歴然たる差異があるものと、本当の模倣とは違う。ま、すっかりと忘れているので「仮想儀礼」はもう一度読んでみよう。例によって読後該書は捨ててしまったので現在は手元にない。文庫になっているらしいからその内に再読するか。

 とにかく、上巻を読んでいても篠田版を思い出すことはなかった。読書興趣が尽きないというわけではないが、読み続けさせる腕力は筆者にはある。

 お断り:井上夢人の『ダレカガナカニイル』を80ページほど読んで書評を載せたが、こちらの方は読み続けさせるだけの内容からはほど遠い。中途半端になっていることをお詫びする。いずれ暇になったら続けるかも知れない。大森望氏が絶賛しているが理解出来ない。京大クランだからかな、ご推奨になるのは。

 


教団を壊す話と作る話

2017-07-17 21:21:44 | 直木賞と本屋大賞

中島らも氏の『ガダラの豚』という小説はある教祖の奇蹟というか超能力を手品師があばくという小説である。教団が壊れたかどうか分からないが、教団のトリックを暴かれそうになって不法行為を行った教祖、幹部が逮捕されるのが第一部である。

 この小説は第三部まであるが(文庫でも三分冊)、一部と(二部、三部)は有機的な関連はない。ただ登場人物が同じメンバーであるというだけである。言ってみれば毎回シャーロック・ホームズが出てくるが話は違うというわけ。それよりかは、つながりがあるけどね。物語としての緊密性というかまとまりはない。

 登場人物は民俗学者(先生、弟子、家族)、手品師、超能力青年の成れの果て(スプーン曲げ)、TV局の番組担当者。

 第二部はTV局と学者がタイアップしてアフリカに取材に行く。ケニアの呪術を民族学者が現地調査し、その様子をTVが取材編集放映するという企画である。第一部と第二部は一冊にまとめてもいい。書くと長くなるし、面倒くさいが8年前のフィールド・リサーチの時に事故死した民俗学者の娘が呪術師の呪具になっているのを奪い返して命からがら日本に逃げ帰る。この結末活劇はTVの低俗番組のことし。

 第三部は第二部終わりの活劇の続きで奪われた娘を取り返しにアフリカの呪術師が日本に来てチャンチャンバラバラする話だが、まるで低級TV活劇の粗書き(なんていうの、脚本、台本?)あるいは低級な子供向け漫画を見るが如し。

 一部と二部は割と読ませるが第三部はいきなり質が低下する。そのためかどうか、この作品は平成5年上半期の直木賞候補だったが、高い評価は得られなかったようである。

 なお、タイトルは新約聖書に出てくる話でエピグラフに全文が引用されているが、叙上の小説の内容とはマッチしない。

 


大森望君ご激賞、井上夢人「ナカニダレカガイル」

2017-07-14 06:25:00 | 書評

SFを書こうと思うことがある。全くの自己都合なんだが。

世の中が目まぐるしく変わるから描写がシンクロしないんだよね、現実と。

現代作家はピストルとか自動車電話とは言わないらしい、拳銃とかスマホというらしい。

携帯というのも、もう古いらしいな。でうっかりすると都電に乗ってスマホをいじっていたりと書いたりする。荒川や三河島あたりの話じゃないんだよ、尾張町(古いね)や銀座あたりで高級クラブのママが都電のなかでIFONE(綴りが違うけど勘弁して)をいじっている。こういう風に書くと笑われるらしい。SFはその辺のつじつまが合わせやすい。変な小道具を導入すればなんでも書けちゃう。

 ところで今朝自分のブログを見て驚いたんだが40日以上なにも書いていない。それでもありがたいことに毎日のアクセス数は減っていない。読者の皆様に感謝。しかしサボっていてはいけないと、枯れ木も山の賑わいと一席弁じる次第であります。

 井上夢人「ダレカガナカニイル」を書店の棚から引き抜いた。どうしてかな、カタカナで長たらしい書名のせいかもしれない。例によってあとがきを読もうとしたら大森望君の解説がある。四、五行読むと、「解説から先に読む悪癖のある人は解説を読むのをやめてすぐに本文を読め」とある。それで素直な私は最初から読み始めた。おっと、例によって現在進行形書評だからポジション・リポートを入れておこう。80ページあたりまで読んだところだ。

 井上氏の本は初めて読む。この種の本も初めてである。こういうのは最古、いやサイコSFというのかしら。他人の意識の中に入り込むという仕掛けだが、前に読んだフィニーだったかな「盗まれた街」も同じ趣向だったようだ。もちろん井上氏の名誉のために補足するとシチュエイションは違う(オリジナルといえばいいのかな)。

 いずれにせよ、寡読の私だがサイコ系のSFというのは少ないようだ。もちろん私の認識が間違っているのかもしれない。宇宙船だとか火星人(いまはカタカナの何とか人というらしいが)だとか、一兆億光年だとか、トランスポテーションだとかタイムスリップだとか、知能ロボットだとか子供だまし(ゴメン)のギミックが多いがサイコ系というのは珍しい。SFとしてはという主観的認識である。もっとも共通認識と断らなければ認識というのは主観的だからトートロジーかもしれない。

 この本は600ページ以上もある。本当は字数でボリュームは表現すべきなのだろうが。最後まで読めるかな。