小筆得意のパチンコ的読書術によって、坂口安吾の「ハクチ」と題された新潮文庫の短編集にぶち当たった。ハクチというのは馬鹿ワープロソフトでは変換できない。漢字に変換する手順は勿論あるが、そんなくだらないことはしない。ついでだが馬鹿(バカ)は一発変換できるのにどうしてハクチは出来ないのか、宿題を出しておこう。
さて、玉をはじいた。最初にぶつかった釘は講談社文芸文庫、田中英光「空吹く風、ほか」である。文庫も特殊だし、あまり売れていないようだ。田中の文庫本についてはこのブログで過去二回書いた。あまり注目されない作家(それも過去の)の書評を二回も書いたので、本屋で上記の本を見た時には義理感で贖った次第である。
この本はいくつかの短編が収められている。そのうち二つ三つ拾い読みしただけだが、なかに坂口安吾らしき人物とバーで邂逅した場面がある。「高雅な紳士」で親切に田中の作品に意見だか指導をしている場面がある。はっきり思い出せないが「作品の中で講義、あるいは講釈をしてはいけない」というようなテイだった。できるだけ正確に引用するほうがいいので、もう一度本をひっくり返してみたがどこに出ていたか思い出せない。たぶん当時共産党の活動家だった田中の政治談議を指しているのだろう。
「高雅な紳士」という表現にに引っかかった。田中、坂口両名は私小説作家、デカダン派と便利にラベルが貼られている。両名ともアドルムと言う睡眠薬中毒のもとで乱作し、しばしば発狂状態になったと言われる。べつに四六時中無頼派を気取る必要もないから「高雅」に構えるときがあってもおかしくはない。
それで、玉は跳ねて次の釘にあたった。坂口安吾の文庫本を探した。何しろ文庫しか読まない。坂口の作品では前に「堕落論」という、有名な、作品を読んだが、どこがいいのか印象がなく、記憶もない。で本屋で上記の「ハクチ」を見つけた。終戦直後に書かれたものだが、令和三年、百二十版だ。
玉はまた弾かれて、この文庫の後ろに掲載されていた福田恒存の解説という釘に当たった。
これが分かりにくい文章で、福田も書き散らかして分かりにくいかもしれぬという気がしたのだろう、分かり易く書き直そうとする代わりに、解説の最後に分かりにくいかもしれないが何度も読み直してくれと、書いてある。
この解説は趣旨がどこにあるか、ほめているのか、けなしているのか手ごたえはないが分かるところもある。「わかる」と言うことは「読者として同意する」と言うことではないが。
福田は言う、「私小説とは作家の処世術である」と。
第一にここに収められている諸短編が私小説かどうか私には判断できない。ま、そういうことにしておこう。しかし、「私小説は、作家の処世術に堕してしまっている」もいいが、わたしなら『私小説とは編集者、出版社が作家と共謀して行った差別化による付加価値付与的ラベル貼りである』とするだろう。
もう一つ思い出した。やはり田中英光が、彼の師匠であり、スポンサーであった太宰治のことを「高雅な紳士」と表現していた。太宰治は有名な連続心中魔でそのたびに相手の女は死んで彼は生き残ったという経歴の持ち主である。とても「高雅な紳士」というイメージはわかない。しかし、実際に面ゴ(日篇に吾)に栄に浴したわけではないから何とも言えないが。太宰は田中の作品を雑誌に掲載するように周旋したり出版社に斡旋してくれる命綱だから最大級の場違いな敬意を現わしたのだろう。文壇という狭いギルドを泳ぐのは無頼派にとっても容易なことではないのだ。