穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹『1Q84』文庫版5

2012-05-29 09:57:24 | 村上春樹

単行本1、2はとっくに処分してしまった。内容もきれいに忘れた。しかし、文庫版5を読むのにどうという支障もない。そういう小説である。

一般小説家(つまりエンタメ作家より腕がたしか)が書いた一種のマンハント小説かな。

犯罪小説というのではない。犯罪小説『味』である。

ファンタジー小説ではない。ファンタジー小説『味』である。

SF小説ではない。SF小説『味』である。

一般小説家であるから、特定分野に特化したジャンル小説家より腕は確かだし、さして退屈もしないで読める。

以上は文庫本5の200ページ当たりのポジション・レポートである。

緊迫感はないが、長編であるからしょうがないかもね。

村上春樹氏はチャンドラーの翻訳なんかよかった。オイラはむしろ翻訳家として評価しているのだ。英米小説の翻訳家として翻訳するかどうかは別にして、いわゆるSF、スリラーの類は相当読んでいるようだし、その分野のテクニックも援用しているようだ。

ま、地の文がエンタメ特化作家よりはるかに腕が上なことは確かだ。あとは630円かける6冊の原価をどう評価するかだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹1Q84新潮文庫版にひっかかりそうに

2012-05-29 09:40:56 | 村上春樹

新潮社はいい商売をするね。あやうく表題3を買うところだった。何年前だったか単行本で1,2の書評をしたことがあった。そのあとで3が出たのを書店で見たが食傷気味で買うこともなかった。

最近ちょうど活字中毒でヤクが切れていたとこrで、文庫の3が並んでいたのでてっきり単行本対応だと思って手に取ったがどうもパラパラやって変だなと。これ単行本の一冊を二つに分けているんだね。

だから文庫の三は単行本の二巻の前半らしい。値段が630円だったかな。だから二冊で1300円くらいになる。単行本でも1400円か1600円くらいだった記憶がある。新潮社は商売ががめついな、というのがその時の印象で買わなかった。

普通単行本を文庫にするときには少なくとも元の単行本は何年の発行で云々というのが巻末にあるが、これは何もなし。意図的なんだろうな、新潮社としては。ちょっと、フェアじゃないな。

以上新潮社の商売のやり方だけを述べたが次回はちょっと内容を。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井荷風の豪語「生涯処女を犯さず」

2012-05-24 20:41:23 | 書評

俺は生涯処女を犯したことは無い、と荷風は自慢していたそうである。さる伝記作者の伝聞情報であるから真偽はここで問わない。しかし言いそうなことであり、荷風の本質をついているところだと思う。

荷風は若年から恋愛遊戯に耽ったことを赤裸々に述べているが、上記の言葉は素人を相手にはしなかったという主義というかライフスタイルである。

モラリストだからか、そうではない、と思う。彼の偽善を憎む潔癖を表しているのだ。

墨東奇談にいう(以下当て字で行く、ワードの変換が面倒なので)「私はこの東京のみならず、西洋にあっても、売笑の巷の外、殆どその他の社会を知らないと言ってもよい」

同書に彼の旧作『見果てぬ夢』を引いて、「正当な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せ赴かしめた唯一の力であった。つまり彼は真っ白だと称する壁の上に汚い様々な汚点を見出すよりも、投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫いとりを発見して喜ぶのだ。云々」

男女の慾情取引は公正な情報公開市場で行われることはまれである。見合いのアレンジメントに釣書という、まさにそのものずばりのものがある。見合いの場合はまだいい。様式化された習慣であったし、お互いに承知の上で割り引いて考える。

現代の社会において、つまり自由恋愛においては、だましあいに何の制約もない。

何事にも例外はある。純真無垢な恋愛にはじまり永続する幸福な結婚にいたるケースもある、稀ではあるが。世の中には仕合せな人もいるのである。だましあいも駆け引きもないカップルもある。

女性の精神をもっとも荒廃させるのは、絶えまないだましあいによる男女間の駆け引きである。

このだましあいは素人女性の場合がもっともひどいが、勿論クロウトの世界でもある。一番おおっひらではなはだしいのは銀座などの高級クラブの女給(ホステス)である。ルールもなにもない。

もっとも、だましあいの少ない公正な市場取引が行われるのが昔で言えば最下層の商売である赤線であろうか。現代で言えば風俗かな。もっとも風俗と言っても山賊と同じものも一部にはあるらしいが。そういう意味では芥川賞作家西村賢太氏は正統派である(ハタ迷惑だろうな、こんなところで参照されては)。

その市場慣行とは、現金正札販売、かけ売りなし、現金決済という理想的なものである。したがって、こういう世界には女性でも比較的精神が破壊されていないものが見出される。

つまり「投げ捨てられた襤褸の片にも美しい縫いとりの残りを発見する」のである。荷風が舞台を玉ノ井に設定したのはまさにドンピシャの必然性があったのである。

ここに数多くの荷風の花柳小説中、不動の傑作としてそびえる作品が成立した理由があるのである。計算しつくされた状況設定だろう。

「男に対する感情も、私の口から出まかせに言う事すら、そのまま疑わずに聴き取るところをみても、まだまったく荒みきってしまわないことは確かである。、、、そう思わせるだけでも、銀座などの女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも純朴とも言える。、、銀座あたりの女給と比較しても、後者のなお愛すべく、、、ともに人情を語ることが出来るもののように感じたが、」

以上主として状況設定の必然性についてのみ指摘したが、もちろん、この作品の素晴らしさは唸らせるような名文にある。

この小説を読んだ昔から考えてみるとその後おびただしい作品を読んだが、一体何の意味があったのだろうか、と再読して索然たる思いにとらわれ嘆息した。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井荷風『墨東奇譚』座標について

2012-05-24 11:21:17 | 書評

この小説は荷風の一連の女肉市場ものであるが、スタイルは『腕くらべ』や『おかめ笹』のような芸者の世界を描いたスタイルでもなく、昭和初期の女給ものでもない。

その頃の言葉でいうと、わたくしもあまり詳しくなく自信がないが、赤線ものとでもいうか。解説なんかを見ると私娼ものと一様に言っているが、これが適切な言葉か。私娼というと自前で、ひもはいるのだろうが、街頭で客を引くもぐりの営業と理解しているのだが。

もっともオイラの理解はアカデミックなものだから違うのかもしれない。

現代で言えばその位置づけは『風俗』という感じだ。勿論違う点は大いにあるだろうがね。いちいち細かいチェック対策で詰らない注をいれて感興を削ぎたくないが。なに、最初から感興なんかないって、ごもっともであります。

そこではなしが本筋に戻るが、筆の感じは、『妾宅』、『雨しょうじょう』、『雪解』や『深川の唄』に類する。注

注:岩波は文庫でも全集でも『深川の唄』を小説に分類し、『妾宅』を随筆に分類している。逆じゃないのかな。

次回は各女肉市場の性格と荷風に与えた影響

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永井荷風『墨東奇譚』

2012-05-24 10:57:32 | 書評

毎日1万五千歩、あるくことにしている。街中の歩道は歩けない。自転車という肉食恐竜が走り回っているが故である。一万五千歩稼ぐとなると大きなデパートや商業ビルの中を歩き回るしかない。ビルの中に本屋がある時には立ち読みしながらひとまわりする。 これで何歩か稼げる。

そこでだ、表記の本を見つけた。最近は文庫本でも字が大きくなっているから、読んだ本でも一応手に取る。岩波文庫だったが、随分見やすくなっている。それで購った次第。

念のために本棚にある文庫を引っ張り出してみると新潮文庫が一番字が詰っている。本文だけで、つまり作者贅言を除いてであるが、これが80ページほど、岩波は140ページくらいある。もっとも挿絵がふんだんに入っている。新潮文庫も新しいのは読みやすくなっているのだろうが。

おっと忘れていた。この辺でお断りを入れておこう。タイトルの一字目と三字目は字が違う。ボクにはサンズイがついている。三字めは糸扁だ。オイラはワードで一発変換できないときは強引にいく。

わざわざ区点変換なんて面倒なことはしない。言わずもがなの注を入れないと、細かいことを言う人がいるのでね。もっとも、こんなことを書いていると本文より注がながくなる。

以下次号。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰治『ヴィヨンの妻』新潮文庫収録短編個別に

2012-05-13 07:48:02 | 太宰治書評

親友交歓:

津軽に疎開中に小学校時代の親友だと称して現れた農夫に貴重品のウィスキーを鯨飲、強奪される話。体験をもとにしていると思われる。自分のことを語る以上に相手の様子、言動を描写している。

まさに、「私はそれをここで、二、三語を用いて断定するよりも、彼のその日の様々な言動をそのまま活写し、もって読者の判断にゆだねるほうが、作者として所謂健康な手段のように思われる」というが、成功しているようだ。良品

トカトントン:

読者の手紙をもとにしているが、どうも作者自身のことらしい。幸福になりそうな予感、予兆があると必ず意欲を萎えさせるようなどこかで釘を打つようなトカトントンという幻聴に襲われるという話だ。良品と言える。

太宰は引用がうまくない。ほかの作品にも割と引用が出てくるが、適切と思われないものがおおい。もっとも趣向やセンスの違いという言い方もあるが。

父:

父としての自分から子や家族のことを語っているらしい。並み、いくつかの引用適切ならず。

母:

旅先で隣の部屋で中年の女中と戦地から復員した年若い航空兵が交わすねやの会話を漏れ聞いた体裁の話。実体験か又聞きの話を書いたようだ。並み作

ヴィヨンの妻:

内縁の妻の視点から自分の?不始末を観察した作品。良品である。解説の亀井勝一郎のように傑作とまでいうのは躊躇する。視点を工夫したのが成功の原因だろう。

結末しまらない。これもまた太宰の特徴。本質的に彼は短編作家なのだろう。人間失格のような中編でも同じことがいえる。短編でもこの作品のように少し長くなると落ちをつけるのが苦手のようだ。

おさん:

これも妻の視点から。あまりインパクトなし。

家庭の幸福、桜桃

この両作品を一言で評すれば『ぼんやり』。ほぼ同じころに書かれたらしい人間失格にくらべれば明澄性で明らかに劣る。精神の崩壊を反映するか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰治にはまってる

2012-05-13 06:51:18 | 太宰治書評

何故か、親族に彼を彷彿とさせる男がいるのである。で、そのような興味から読むのである。

今回は新潮文庫『ヴィヨンの妻』。戦後の短編八つを記載。私小説的作家と言われるが、どこまで虚実が腑分けされるか考証家、文芸評論家ではないからわからない。

しかし、私のスペクトル分析機でふるい分けで、勝手に判断しているわけだ。エトスの部分はおおよそ過たずにとらえているだろう。

親族と彼との違いは作家ではないということである。最後は経済学の大学教師だった。共通している点は酒飲みぶりである。生活破綻者的なところである。

妻を泣かせ、バー、居酒屋を意地汚く飲み歩く。

違うところは、上記のほかに、案外要領のいい男で最後は大学の学長になった。学生や同僚教授を手なずけて子分にする才能がある。

酒と同様に、それと分かちがたく絡み合って、彼の情欲を燃え立たせたのが左翼運動であった。

時代が変わり形勢不利となると、素早く転身して地方の大学教師に落ちていき最後はそこの学長になった。あの頃の大学にはこういう人たちがまた、多かったのである。

以上が太宰を批判しながら彼にはまっている理由である。

長くなった、ヴィヨンの妻ほかについては次回。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰治タイプ

2012-05-12 07:30:48 | 太宰治書評

三島由紀夫のデビュー作『仮面の告白』は昭和24年、『人間失格』は23年。触媒くらいにはなったのかもしれない。

人間失格の中で説明しているが、女のほうから知らない間に(つまり此方から色目を使わなくても)自分にもたれかかってくる、そうして自分も頂戴してしまうと書いている。説明もしているがとても納得できる説明ではない。

しかし、現実にこういう男がいることは確かだ。オイラの知っている男にもいるのだから。いい男でもないのに、ね。

何と言ってもすごいのは心中に連続して失敗するところだ。心中に失敗して生き残る例はある。そうすると、二度としないのが普通(普通と当事者のようにいうのもおかしいが)だ。あるいは二度目には絶対に失敗しないようにするだろうに。

こうなると、仮死状態、臨死体験を味わうために繰り返し同じことをしているのではないかと疑う。一説によると乙なものらしいからね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰治『人間失格』

2012-05-11 23:59:22 | 太宰治書評

太宰治の作品でむかし読んだのは斜陽と人間資格だと書いたが、どうも斜陽だけらしい。斜陽もあるいは読んでいないかもしれぬ。斜陽が記憶に残っているのは、モデルになった元華族の持っていた借家にじいさんが住んでいたという話を聞いていた(読んでいた?)からで、多分読んだと思うがはっきりしない。

斜陽には伊豆のことが出てこなかったかな、もしそうなら一応読んだことになるだろうが。

毎日日課にしている立ち読みで、確認のつもりで人間失格を手に取ったが、パラパラやってどうも読んでないらしい気がしてきた。。それでは訂正をしなくてはと、律儀なオイラは筆をとった次第。

新潮文庫なんだが、この解説がすごい。圧倒される。奥野健男氏なんだが、例によって最上級の絶賛。どうしてこうも皆入れ込むのか。漱石や鴎外の解説ではこんな現象は無いが、女性ファンは熱狂的なのが太宰には多いと聞いたが、評論家がこう入れ込んじゃ評論、解説どころではなかろうが。

自伝的、遺書的小説らしい。小説的な昇華というかアレンジはしているのだろうが。人生の最後になってもおどけて(お道化て)いるようだ、というのが印象。

27歳の時に薬物中毒(小説ではモルヒネ、実際は睡眠薬らしい)で友人、知人にだますようにして精神病院に放り込まれて、退院した後も廃人のようになったというところで終わっている。

自伝と言うよりかは半生記だね。その後戦時下の旺盛な、時勢におもねるような多作、戦後の再びタガの外れたような人気作家人生にはノータッチである。

最後まで『おどけて、ごまかして、世間のご機嫌をとって』バイバイしたような演技人生のように感じた。

こりゃ、或る意味で三島由紀夫の『仮面の告白』先行版だな。

まてよ、仮面の告白もその頃の作品だったか ??

それにしても、彼の経歴を見ると連続殺人鬼ではないが、連続心中魔だね。感心する。その辺の自己解釈も作中に披露している。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドストエフスキーのアクメ(承前)

2012-05-09 08:38:49 | ドストエフスキー書評

メロドラマというと語弊があるが、とりあえずそれで流すとして、ドストエフスキーのメロドラマ作家としてもっとも腕の冴えをみせたのが「虐げられた人たち」である。ドストという名弦は最高に鳴り響いている。

これはロシア版「婦系図」だとむかし書いた。ロシアにもこんな小説があるんだ、と驚いた。江戸っ子のように意地っ張りで零落したお爺さんと、その娘で駆け落ちした娘と、孫娘がブラックホールに飲み込まれていく様に破滅に落ち込んでいくさまを詳細に描いた悲惨な貧窮物語である。

「地下室の手記」はドストエフスキーの運筆に重大な転機をもたらした中編である。運筆はスタイルとも言うが。

「罪と罰」がその後の長編と違うところは、密度の濃さである。壮年の充実した気力体力がそれを可能にしたのだろう。全体としての凝縮度、有機的一体感である。勿論長編であるから幾度かダレるところはあるが、場面場面の迫力は後期の作品にはるかにまさる。

登場人物のキャラクターの肉厚の感じも優れている。退職官吏マルメラードフに始まり、予審判事ポルフィリーや高等遊民スヴィドリガイロフなど、主役脇役という位置づけでは捉えられないほど描きこまれている。それでいて作品の一体感は損なわれていない。女性の描き方も後期作品のようにステレオタイプ化している印象がしない。

後期の作品の特色は思想性が優っているところだが、これは別の言い方をすれば抹香くさいということで、加齢現象の一つである。それと年齢とともに筆の潤い、艶が減少していく。ま、これがいいと言う人もいるわけである。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドストエフスキー(自身)の心理

2012-05-08 09:04:54 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーのアクメ(活動盛勢期)はつらつら考えるに、四十代前半であろうか。つまり、39歳の「死の家の記録」から「虐げられた人たち(辱められた人たち、のほうが適切)」、「地下室の手記」から45歳の「罪と罰」までの期間である。

思想劇めいた「白痴」、「未成年」、「悪霊」それに「カラマーゾフの兄弟」は小説としては下だろう。年齢相応に枯れてきている。加齢による「枯れ」は芭蕉ならいざ知らず、ドストエフスキーの場合は感心しない。思想が深化しているわけでもない。

ドストの場合、思想とかテーマと言うのは長編小説という大テントを支える支柱にすぎない。大事な支柱であるという言い方もあるが。

その思想はわりと陳腐である。彼の思想家的な面を強調するのが古今東西の「評論家」諸君の大勢ではあるが、それは間違いであろう。「作家の日記」の文明評論、時事評論からみても、ドストエフスキーの言っていることは平凡である。

罪と罰にも勿論長編小説と言うテントを支える支柱はある。主人公ラスコリニコフのナポレオン狂的なところや超人思想(ニーチェばりの??)である。しかし、これは物語を動かすきっかけみたいなもので鬼面人を驚かすが、小説家たるもの、この位の仕掛けは誰でも考える。

「超人思想」は悪霊のキリーロフや主役のスタブロ銀次にも受け継がれているが、彼の手持ち人形のキャラと考えるほうがいい。

加齢による枯れを自覚しながらこれらの長編を書き続けたドストエフスキー自身の心理を考えるのである。

つづく

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳者の手腕に左右されるもの左右されないもの

2012-05-06 11:00:48 | 書評

翻訳ものの書評だが、たしかに翻訳に左右されるところはある。しかし、翻訳に左右されないところもある。

翻訳者が一応の水準に達していない場合つまり翻訳者の腕が水準を満たしているかどうかの判断は、間接的なものしかないが、注1

* 日本語として水準以下のものが、以外に之が多いのであるが、これは翻訳を読むことは時間の浪費である。

* 一応名のある書店で何回も重版されているものは一応社会が水準と認めているわけで、素直に信用することにしている。例えば文庫で刊行後30年で100刷なんてのは合格だ。

注2:なにも上の二つの条件を同時に満たす必要はない。

特に全く理解できないロシア語みたいな小説では目安にしている。

そこで翻訳としての要素を捨象してもなお、むんむん伝わってくるものがあれば書評で取り上げる価値がある。

注1:自分が理解できる外国語なら逐語的対訳的にチェックすることが出来るがそんな時間もない。第一その場合は原文で読むだけだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰治の獲れた畑、いくつかのケース

2012-05-02 16:41:12 | 太宰治書評

理論的にはつぎの諸ケースが考えられる。

A・戸籍上の父母=実際の父母

B・戸籍上の父=実際の父、戸籍上の母X=実際の母

C・戸籍上の父X=実際の父、戸籍上の母=実際の母

D・戸籍上の父母両方ともX=実際の父母

Aでないとすると、Cの可能性が低いとするとBか。つまり父がほかの女に産ませた子供を家に引き取るケースだ。現実にもままあることである。太宰は暗々裏にこのケースの疑問になやまされていたようだ。

しかし、Dのケースが意外に有力とみる。要するに養子みたいなものだが。

子供が十人以上いたから跡取りに養子をもらう必要はない。残るケースは断れない人から頼まれるとか押し付けられるケースである。

太宰が東京で心中騒ぎを起こしたり、共産党細胞にアジトを提供したりしたときに、長兄が尻拭いに奔走しているさまは尋常ではない。

父親はすでに死んでいるわけだし、異腹の弟、それも妾かなにかの子供ならこうはしないだろう。

それで、私は、父親が世話になった、断れない事情がある人物の隠し子の処理を任されたケースがあると考える。

父親そのものが経済的な成功者であり、祖父だったかな、貴族院議員になっているわけだから、その人物とは政界、経済界などの相当な実力者の可能性がある。

太宰治がその可能性まで疑っていたかどうかはわからない。しかし、平気で何度も実家の兄を尻拭いで奔走させているところをみると可能性は考えたかもしれない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太宰治の獲れた畑は

2012-05-02 15:57:09 | 太宰治書評

まだ津軽を抜けられない。驚いただろう。小説なら正直に書く必要はない。しかし評伝ならどこまで迫っているか、と調べてみた。端的に言う、太宰治の獲れた畑はどこか、ということだ。

ところが誰も追及していないようだ。太宰のひねくれ、屈折を解読するには絶対必要なことだと思うのになんと文芸評論家たちの杜撰なことか。

のんきに太宰の家系については語りつくされたというやつがいる。驚いたね。

確かにどの資料にも立派な系図が載っている。これが活版刷りの用意された資料で逆に怪しいと思わなければいけない。

そして立派な割には内容がない。骨だけあって肉がついていない。もっとも家系図が堂々と明瞭な割には家系はよくわからないとつぶやいている資料もある。

太宰の文学の特徴は母親探しであるという。それなのにこの問題を追及した人がいない。津軽でもそうだが、いわゆる系図上の母に対して太宰の筆致は冷たい。敬して愛さず、何の情動も起動しないらしい。

無学な乳母のたけを真の母に擬したり、出戻りのおばを母だとおもったりする、だが、ほのめかすだけでするりと抜けてしまう。

無頼派、破滅派というが、なかなか要領がいい。奥歯にものの挟まったような煮え切らない態度だ。

続く

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一丁太宰治の津軽

2012-05-01 09:13:46 | 太宰治書評

オイラにとって志賀直哉とはあまり感興の湧かない作家である、それだけであるのだが、つまり好きでも嫌いでもない。うまいとも思わないし、下手とも思わない。

新潮文庫注によれば、志賀直哉に言及したところがある。津軽にむりやり挿入したと言う感じであるが、ねちねちと太宰治がからみついている。

こういう注はあってもいいね。本当かどうかは別にして。「ある作家」だけでは何のことか分からない。

他の作家で自分を批判したか自分と徒党を組まない作家を嫉妬深く執念深く攻撃するのは作家一般の弊風のようではある。

新潮文庫の注には根拠があるのかね。そのころ文壇で太宰と志賀がもめたとか。そういうことも紹介してくれるといいがね。

読んで見るとわかるが、この辺の文章は相当えげつないよ。

追加補足、このブログののどこかで東京の中学に行かないのは地方豪氏の家庭としてなにか党別な事情があったのか、と書いた。 「思い出」という太宰の短編がある。それによると、身体が弱くて東京の学校は無理だと親が決めたとある。兄たちは皆東京で中学から教育を受けているらしい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする