穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

破門が映画になるそうだ

2017-01-30 09:44:48 | 直木賞と本屋大賞

 テレビの芸能欄でいっていた。改めて本を見るとたしかに帯に映画化って書いてある。西川(だったかな)巡査部長は出てくるかな。ヤクザ、それも下っ端のヤクザの便利屋みたいな男だったが、端折るだろうな。映画だからどんどん端折る訳で警察から文句が出そうな所はどんどん端折るだろう。

思い出して後書きを読み返した。直木賞選者の浅田次郎の評だが「細密なディテールの集積は、まったく映像の表現しきれぬ、小説ならではの世界である云々」

意味がよく分からなかったがカジノのルールを非小説的に解説したところなのかな。よく分からない。映画を見に行くつもりはないが、浅田氏の評からすると映像化に問題があるということらしいが。ま、どうでも良いことだ。こちらで心配することではない。


「破門」終わりはよろしいようで

2017-01-29 19:42:03 | 直木賞と本屋大賞

あと百ページあまり残した所でどうしようかと思った。この種の小説は最後まで我慢して読むと失望がいや増すのが普通なのでね。ところが捨てる機会も無いまま放置してあったのを本日手に取って最後まで読んだ。予想に反して終わりの部分はそれまでの部分に比較すれば「非常によい」。 

この小説の出だしはどうだったのか、とか、途中の細かい筋はすっかり忘れているのだが、そんなこととは関係なく気持ちよく読めた。これは非常に珍しいことだ。相当な腕だと認めよう、終わりの部分を読んだ印象は。

ところで前にタイトルで「ヤクザは小説家である。声優である」なんて書いたがすこし補足しないと何のことかわからないだろう。その心はヤクザも小説家も自分で考えた勝手な筋を相手に強引に売りつける、である。小説家は不特定多数から一冊100円だか150円だかの印税で広く浅く売りつける。ヤクザは「因縁」という名のフィクションを特定の目を付けた個人から強請り取る。ヤクザは小説家と違い対面販売だから相手を脅す声色を練習しておかなければならない、という訳である。

 


これがハードボイルドだって? 小説家はヤクザである

2017-01-26 11:17:28 | 直木賞と本屋大賞

前回書いたが「破門」が直木賞を受賞した時に、取り上げようとして書店で見つからなかった。どうせ同じ作者が書いたなら似たようなものだろうと書名はわすれたが「*神*」とか言うのを買って途中まで読んだ。非常に退屈な本でヤマがない。ということは平野も裾野もない。同じような場面(つまり丘)は数十回、数百回続くという印象だった。 

そのときの記憶を忘れていたので、前に探した本があった、というので破門を買ってしまったのだ。立ち読みで後書きにずらずらと直木賞の選考委員の評が引用してある。これ以上ない言辞を連ねて絶賛している訳ね。今回途中まで読んで一体これらの選考委員がどんなことをいったのか、と改めて後書きをみたのだが、呆れたの一言。

ただ、高村薫の批評に「ほかの五作に抜きん出ており」とある。ほかの五作とは同じ作者のそれまでの作品ととれるが、比較の上で言うと「*神*」よりかはいいだろう。それとも「他の五作」というのはその回の他の候補作のことかな。

この後書きの作者は紀伊か何処かの地方紙の記者らしい。もとは朝日新聞にいたらしいが、この作品は「ハードボイルド」だという。これもおかしな意見でこれが「日本の」ハードボイルドなのかしら。任侠映画を崩した小説みたいで、私は任侠映画というのは、あるいはヤクザ映画というのはウェットの極致にあると思っているから、これをハードボイルドと言われると唖然とする。

ところで、何だね。これは警察を相当刺激しただろうね。暴力団対策の刑事が出てくるが、これが下っ端のヤクザから5万、10万のはした金を貰って違法な使い走りをする場面が頻繁に出てくる。しがない文芸誌に連載している分には目立たないだろうが、直木賞をとって社会ダネのニュースになると警察もなにかいいたくなるんじゃないかな。それで出版社に圧力をかけたのかもしれない。 

それと金融犯罪の手口を言わなくても良いことまで細かく書いている。それだけ一生懸命取材をしたのだろうが、オレオレ詐欺(この小説はそうではないが)の手口を紹介するようなもので警察としては待ったをかけたくなるだろう。

滑稽なのは、何回もマカオの取材に行った作者の成果をぶちまけたいのだろうが、カジノでの描写が細かすぎて興味索然とする。小説の流れから言うとこんな説明は全く不要である。

カジノで葉巻を吸う場面があるが、爪楊枝で吸い口を開けるというのを得々として書いている。専用のカッターがあるのを取材しなかったのかな。歯で噛み切ると吸い口がバラバラになるから、というのだがカッターが無い場合は吸い口を噛み切るのが普通じゃないの。葉っぱがバラバラになるなんてことは経験したことがない。田舎者が大根をかじる様に噛み切るとそうなるのだろう。よほど安物の葉巻ならしらないが、一本300ドル(香港ドルらしいが)もする高級葉巻が吸い口を噛み切ったからとバラバラになるとは有り得ないことだ。そんな巻きの粗雑な葉巻にはお目にかかったことがない。

 


ヤクザは小説家であり声優である

2017-01-25 07:39:24 | 直木賞と本屋大賞

 このブログ十日以上も更新していない。さぼってはいけませんな。もっとも書くこともなかったが。それにつれてアクセス数も激減した。

何年か前に芥川賞、直木賞の受賞作を取り上げようとしたことがある。話題性だけはあるし、多少はこのブログのアクセスが増えるかな、という助平根性からである。しかし、何人かやってみて、どうも気の滅入るような下らない作品が多くて、そのインセンティブも消滅した。

そのころに、新聞なんかの書評のヨイショ記事でちょっと注意を引いた作品があったので、書評してみようかなと思った本があった。黒川博行氏の「破門」だった。当時書店で探したがこれがない。普通直木賞なんか取ると書店がしゃかりきで店頭にてんこ盛りにするが、全然見当たらない。必死になって探すこともないのでそのままになっていた。

彼の他の作品は単行本、文庫本で店頭に並んでいるのにどうしたのかな、と思ったことだけを覚えていた。そのせいだろう。この間書店の文庫棚「ク」の前を通ったら「破門」が平済みに(といっても4、5冊)なっていた。解説を見たら2014年の受賞作という。四年目に文庫になったわけだ。これだけは普通のペースらしい。

当時書店に単行本が無かったのはどうしてかな。売り切れなんてことが有る筈がない。売れれば増刷するだろうし。なにか事情があったのか。それにしては文庫本はでるからわけが分からない。印税のことで揉めたのかな。あるいはヤクザが買い占めたのかな、教科書として。あるいは彼らに都合の悪いことが書いてあったのか。

で、今回は最近のこのブログの趣向を変えてこの本を読んでみようと思う。現在63ページ。

 


三島由紀夫が肉声テープに自己検閲をかけた

2017-01-14 06:57:07 | 三島由紀夫

 前回も指摘したが、このテープが発見された経緯が読売新聞記事にない。いわば欠陥記事であった。その後あちこちで散発的に出て来た報道ではTBSだか毎日新聞が保管していたものらしい(ただし確認不可)。 

また、マスコミ(TBSのことか)が発表を禁止したという。テープには「放映禁止」と書いてあったという(同確認不可)。また、インターネットで見たが、誰かが「だからマスコミは勝手に都合の悪いことを押さえこむ」と言ったような意見があった。?! ?!である。極右の三島の危険思想が流布するのをマスコミが検閲したというのだな。テープのすべてが報道されていないので何処が彼らにとって問題だったのか分からない。読売に出ていた部分にはそんな所はなかった。

これは三島由紀夫の自己検閲の可能性が一番高い。インタビューを公にする前に対談者に事前に原稿を見せて確認するのが普通だろうが、其の時点で三島がやっぱりやめてくれ、と言ったと推測する。

たとえば漢文の素養もないのに、偉そうなことを言った部分等公表されたら冷笑されるのではないか(ミーハーにではなく、しかるべき人たちに)と怖れた。小説は思想じゃなくて言語がマテリアルだなどという発言も彼の実際の作風と相反している。これを発表すると議論を呼びそうだ。まして当時ノーベル賞の候補になったと噂されている自分に不利になる、と考えた。この線が妥当ではないか。つまり三島が自己検閲をかけたのである。

なお、今後テープの全文が公表されるとか、テープ作成時の客観性の高い証言が出て来た場合は上記を訂正することはある。

 


三島由紀夫の肉声テープ発見

2017-01-12 19:11:37 | 三島由紀夫

今日の読売新聞に三島由紀夫と翻訳家ジョン・ベスター氏との対談テープが発見されたという記事がある。ここに書くので何度か記事を読み返してチェックしたがこのベスター氏がいかなる人物であるか記事(社会面、社会面というのも古いね。37面です)にはない。また対談テープがどこで発見されたかも書いていない。つまり記事としては体裁をなしていない。しかし、対談の要旨(此の記事を書いた記者の主観を反映した物だろうが)は出ている。

おっと待ってくださいよ。「本文記事一面」とあるな。それで一面を見ると、やはり出ていない。出版社がアレンジした対談とあるが、出版社名は記事にない。こんな無責任な記事があるのかな。それと翻訳者についての記述もない。ただ対談の時期に付いては1970年2月と考えられると書いてある。無責任な記事だね。あせってスクープにしたかったのだろう。

読んでいささか驚いたのはいつもこのブログで言っていることと類似しているのでびっくりしたことが二つほどある。このブログでは誰も言わないようなことを言っていると自負していたので、「おやおや三島もそうなのか」と思った。

さて37面の記事であるが、本ブログの年来の主張と一致する点が二つある。 

1:「漢文の古典の教養が無くなってから日本人の文章は非常にだらしなくなった」云々。 

いいことを言うじゃないか。しかし、三島の作品は大昔に読んでお呼びじゃないと思ったから記憶はぼけているが、その時の印象では三島が漢語を日本語と絶妙にミックスしているとは到底認められない。感心したなら明確な印象が残っているからね。むしろ辞書などから難しい漢語を拾って来て当てはめている印象だった。その使い方にもまったくセンスが感じられない。このテープで述べているという意見は三島本人の意見というよりかは誰かの意見の受け売りじゃないのかな。

あるいは誰かに言われた言葉ではないのか。

2:「人生や思想が文学の素材ではない。言葉がマテーリアルだ」

そのとおり。ただし彼の作品に当てはまるかどうかは、読後の記憶が薄れているので何とも言えない。

 

 


実存を中国語で言うと

2017-01-10 19:44:46 | 哲学書評

ところでインターネットでexistenzの中国語訳というのが出ている。「存在主*」というそうだ。*は中共の略字で読めない。三画の文字だったが。ここに実を当てることはなさそうだ。これで九鬼周造君の独創的な訳語がさらに目立ってくるわけである。

*って体かな、存在主体だろうか、これならなんとか意味が通じそうだ。しかし気になったから本日物好きにも書店で中日辞典を立ち読みした。*は義の略字らしい。二本の斜め棒がバツ印のように交差して一番上の空間に点がうってある。実存を存在主義と訳しているのだろう。主義は主な意味ということか。これなら人間の本性というか本来有るべき姿という意味になるかな。

現代中国語でも日本で言う「正義」という使われ方が有るなら正しい人間のあり方という意味にもとれそうだ。いずれにせよ、説明的だが実存と訳すよりかましなことは間違いない。

 


『限界状況』という訳語の不適切なこと

2017-01-09 08:24:33 | 哲学書評

ヤスパースの重要概念に『限界状況』というのがある。これが分からない。 

調べてみたら原語は「grenzsituation」である。grenzで切れる。接頭辞である。grenzeから来ている。situationは英語のシチュエイションと同じである。状況ね、この訳は良い。

さてgrenzeであるが、これは境界という意味である。複数で限界という意味も有るが、ヤスパースを読むと、これを実存開明の世界内存在というところで扱っているのであるが、個人個人、ヤスパース語でいうと個別の実存は世界の中のさらに極限られた敷地に閉じ込められている、というのだ。

ヤスパースの使い方からすると、個人個人の環境と言うか状況は狭い敷地(50ヘーベーとかね)に閉じ込められているというのだから「狭い境界のなかで」という印象なんだな。限界状況なんていったら何のことだが分からない。厳めしさは表現出来るのかも知れないが。

辞書に出ている接頭辞として使われている単語の例は;

grenzkonflikt 国境紛争

grenzland 国境地帯

grenzpfahl 境界の杭

など

 


カメラとカメラマンしかいない時

2017-01-08 10:47:36 | 哲学書評

カメラとカメラマンしかいない時にカメラマンを理解することが可能だろうか。

カメラマンが自分を分析する、反省することしか方法が無いような気がする。そして反省の結果を正しいと判定するのは誰なのか。 

カメラマンは自分の頭蓋骨を剥がして中に電極を差し込み計測するということだろうか。しかしそんなことが出来るとして誰が観測分析結果の正しさを判定するのか。

現象学というのはカメラを使かわなくても同じ結果が得られる、それはカメラを使わないことだ、という訳である。そこでも「正しさ」を検証する方法が皆無である。

実存開明あるいは分析あるいは把握あるいは理解、ということはカメラマンそのものを把握出来るという思想らしい。そんなことが可能なのか。そしてその確認は実存同士の相互承認ということらしい。共主観性とか実存と実存の交わりとか、古くはソクラテスのディアレクティケーというのがそれを保証するらしい。

カメラマンが自分で自分を生体解剖すれば正解が出るというのが、ハイデガーなどの考え方らしい。一方で自分を生体解剖したらなにかよく分からないものが出て来た。それを生体解剖すると、また分からない物が出て来るという主張もある。ヤコーブ・ベーメ等の無底という考え方である。どこまで言ってもきりがない。ヘーゲルなら悪無限とでもいうのだろう。

なにかこうやっていれば井戸の底に付く筈だと確かめもしないで主張する哲学者もいる。スピノザなんかがそうだろう。一般に、なんで、なんでと止めどなく聞く子供は両親が知恵おくれとして心配するものである。

 


『実存は本質に先立つ』

2017-01-07 09:14:08 | 哲学書評

文学かぶれのベレー帽のあんちゃん、ねえちゃんの護符である。サルトルの言葉という。断っておくが私はサルトルを一冊はおろか一字も読んだことがない。将来も読むことがないだろう。これだけ無数に本があると、読む前の値踏みというのが大切になる。 

これは読んでもしょうがないな、時間の無駄だなというカンを働かせなければならない。このカンを馬鹿にしてはいけない。このカンを大切にしないと諸君は本の海に溺れてしまう。

サルトルの考えは全然新しくない。これは実在論の一種である。プラトンであれば別だが、本質というのはホモサピエンスの知能が行った普遍化作業の結果である。したがって存在(実存)が本質に先立つのは当たり前である。詐欺書によれば(よらなくても)人間の認知革命後の産物である。人間の言語能力獲得後の「フィクション」である。

もっとも、ボーボワール・バージョンについては多少の注釈が必要だろう。以下略

 


実存考

2017-01-06 09:09:31 | 哲学書評

上か下か、といっても体位の話ではない。前か後ろかといってもいいが。

現代哲学の本では理解不能な訳語がある。いわく実存。これ日本語?支那語?

漢語として正当な解釈はなんだろう。実と存に分けて考える。存はわかる。存在の存だろう。実がわからない。シナ古典に典拠があるのか。普通に考えれば実のあるの実なのか、充実の実なのか、はたまた真実の実なのか。何の実なのかさっぱり分からない。

ヤスパースやハイデガーの訳書に出てくるからと調べてみると、もとはexistenzらしい。英語ならexistenceだ。もとはラテン語から来た語である。

ラテン語でこの語はキリスト教古代教父時代から使われている。エッセンス(本質)に対する現実という使われ方をしている。カント、ヘーゲルあたりまでは大体その延長線上にあるようだ。カントの場合は現実態というほどの意味でモードの一つである。そしてexistenzと同じ語を使っている。 

キルケゴール、ヤスパース、ハイデガー、サルトルその他のウゾウムゾウ(有象無象)の「実存主義者」も同じ語を使っているが、この辺りから日本語では実存と翻訳されている。

ヤスパースあたりから原語ではexistezと古代から変わらない言葉を実存と訳すようになったらしい。一体誰がこんなに馬鹿馬鹿しい造語をひねり出したのかと調べたら、西谷啓治とか九鬼周造あたりかららしい。また九鬼周造が出て来た。まったくいい加減な言語センスである。

これは翻訳者の不法越権行為である。してはならないことである。存在と訳して古代教父やカントと違うこういう意味であるというのは訳注で示すべきである。

ところで冒頭で触れた上か下かであるが、いわゆるキルケゴール以降、彼らの先入観と言うか、その意識のなかに共通したヒエラルキーがあるようで、それに触れようかと思ったが、今日は時間がなくなった。

つまり

1:存在(自然界を含めた客観)、

2:ダーザイン(人間の、なんというか反省前の存在、キルケゴールなら自然性とでもいうか)、

3:実存、

4:存在(神、包括者、根源にある普遍的なものなど表現は哲学者によって色々だ)という暗黙の位階ね。

3と4はチョネチョネできる。恩寵によって、啓示によって、たえまない問いかけによって、というわけだ。 

いっている哲学者本人は気が付いていないかも知れないが。したがって哲学教師、フォロワーにはなおさらよく分かっていないのだろう。

 


詐欺書「サピエンス全史」

2017-01-04 23:04:13 | 詐欺書「サピエンス全...

 先ほど(四日夜10時前からのNHK)でクローズアップ現代とかいう番組で「世界的ベストセラー、サピエンス全史」というのをやっていた。拙劣低級な番組であった。あきれた。太鼓持ちには不足がなかったようだ。池上彰なるお調子者まで出張っている。

出版社が詐欺広告をするのはしょうがない。業界別の広告の悪質さでは出版業界が一番悪質であるのだから。不動産業界、サラ金業界、エステ業界も真っ青な誇大詐欺宣伝屋がそろっている業界である。

実は二、三ヶ月まえに私は広告につられて上巻を買った。すぐに詐欺と気が付いたので途中で読むのをやめた。勿論下巻も買わなかった。それが先ほど9時のニュースを見ていたら、此の本を取り上げるという予告編だ。騙された、という経験があるので一体どう「お太鼓」を持つのかなというのでつい、続けてみてしまった。

人類が発達して来たのはフィクションを信じる能力を持っていたからだというのだな。この辺はまだいい。フィクションというよりかは「概念」という方が適切だとは思うが。人間の言語能力の取得としてすでに多くの人が取り上げている。上巻で人類の歴史を認知革命だとか農業革命だとかいっているが、これらは既に多くの本で述べられていることで、出版屋がいかにも独創的な著者の考えだというのはどう考えても誇大である。この辺で詐欺と気が付いた。

詐欺の最たるところは、人間は拡大発展にも関わらず不幸になってきたというのだな。それはいい。そういう見方もある。段々不幸になってきたというのだ。そうかもしれない。キーワードは「しあわせ」なんだが、これも「お金」、「会社」などと同様にフィクションなんだよ。なにが幸せかというのはアリストテレスからカントにいたるまで苦心惨憺して定義しようとしてきた未解決な『人類最大のフィクション』なんだよ。そんなものが役にたつのか。

それを「しあわせ」という人類史上一度も合意したことのないフィクションを特効薬みたいに扱う。此の本は悪書である。あらゆる宗教は幸せを求めてそれぞれ自派の特効薬として売り出している。それがてんでんばらばらだからいつも殺し合いをしている。欧州の宗教戦争、現代の中東戦争などがそれだ。

ある意味では「しあわせ」に取り憑かれない方が世界は平穏平和なのかもしれない。

此の番組で著者がインタビューに出て来たが、以上のべたことは著者が一番自覚しているようだった。あまりの反響に「やばいな」というおどおどしたところがあった。「そんなに持ち上げられて大丈夫かな」という感じでね。

この番組はまえに国谷とかいう人物がやっていた7時台の「クローズアップ現代」の後継番組らしいが、この番組の編集者は相当低劣幼稚である。すぐに番組は中止した方がいい。

 


正月はシェイクスピアを再読

2017-01-02 09:44:06 | シェイクスピア

 思い立って四大悲劇といわれるものを読み返している。いまハムレットを読み終わったところだ。あとオセローが残っているが。

リア王とマクベスがリニアに一気にドラマを盛り上げて行くのにくらべてハムレットは趣が違う。リニアはリニアだがあちこちで寄り道をしている。また脱線している所も多い。

新潮文庫、福田恒存訳でいずれも読んだが、ハムレットの描写には抜け、飛びも多い様に言われているようだ。ようするに、ハムレットの性格に一貫性が無いとか、矛盾しているとか。

この点について福田氏は解題で論じている。ハムレットは演戯として取れるべきだという趣旨のようだ。あまり説得力があるとも思えない。オリジナルの原稿に何回も変更を加えられて伝えられているからというのがこれまでの通説らしい。

それもそうなんだろう。もっとも福田氏の説(これはウィルソン某氏の説らしいが)はよく分からないが、私はカット・アンド・ペーストのせいじゃないかと思う。現代でも映画なんかでよくあるが、前後のつながりがはっきりしなくてもインパクトのある画面を張り合わせるでしょう。映画の観客は論理的に考えないからね。次から次へとスクリーンの上を飛んで行く画面を追うだけで精一杯だ。シェイクスピアも各場面場面で印象的な場面をつくることに腐心したのではないかな。推測です。

あくまでも舞台上演時の効果を積み上げて行ったのではないかな。他の三作とことなり、ハムレットには、また、喜劇的なペイソスを盛り込んでいる。劇の流れは早くないが、これが独特の雰囲気を出しているのだろう。

今回再読して、そう言う意味で注意を引いたのは墓掘り人夫とオズリックです。墓掘りのふざけぶりにはよく言及されているようだが、ちょいの間で出てくるオズリックにもシェイクスピアの趣向があるように感じた。それとオフィーリアね、彼女はもっぱら悲劇のヒロインと考えられている準主役であるが、狂言回しというかトリックスターの要素が強い。性格の矛盾といえばハムレットより彼女の方がある。両方とも狂気の犠牲ということで辻褄を合わせているが。

私は翻訳物で注釈を嫌うが、これだけ古い500年前のもので、後世の研究者の考証が無数にあるとすれば、それらも読んでみたい。岩波文庫にあるが、これは新潮文庫に比べると倍くらい厚い。注が多いせいだろう。今度目を通してみるか。どんな注があるか。