穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

カズオ・イシグロ氏自著解説

2017-10-29 08:44:01 | ノーベル文学賞

PHP新書で「知の最先端」と大げさに銘打った大野和基氏のインタビュー集がある。そのなかで40ページほどカズオ・イシグロ氏とのインタビューがある。話題の大半が「私を離さないで」である。

 ああいう記述というかスタイルをとった目的は著者としては意識的ではっきりとしているらしい。しかしこれを念頭に入れて「私を」を読み返す元気はまだ出ないが。

 彼の小説はこれだけを半分ほどかじっただけで、全般的な評価はできないが、よく比較される村上春樹に比べてシリアス調であることは間違いないようだ。ノーベル賞選考委員はシリアスなものが好きらしいから、今後も村上氏の受賞は難しいかもしれない。

 イシグロ氏は村上春樹をリアリズムの外で書いて成功している作家としている。こういうスタイルで書いて成功する作家は少ないとも。このような作家としてカフカとかガルシア・マルケスを挙げているが村上春樹にはカフカのようなシリアス感がないように私は感じる。

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テーマがないというより具象化されていないといったほうが

2017-10-24 06:56:30 | ノーベル文学賞

カズオ・イシグロ氏の「私を離さないで」の映像化について

22日のアップでテーマが画然としない、と書いたがテーマの具象化に成功していないといったほうがいいかもしれない。

これはイギリスでも映画化されたらしい。日本でもテレビドラマになっている。ということは大衆分かりのする具象化をしているのでしょう。見ていないから原作の敷衍なのか映像化作者の独自の解釈なのかわからないが。

たしかにイシグロ氏が漠然と整理しないまま提示している問題は映画作者あるいはテレビドラマ制作者が自分なりにいじくりまわす余地が大いにあるようです。映像化作品を見ていないのでこれは推測ですが。


日本でも類似のSF小説もあったようですね。

 

 

 

 

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私を離さないで、追記の追記

2017-10-23 07:37:32 | ノーベル文学賞

カズオ・イシグロ氏の「私を離さないで」であるが、ウィキペディアの該当サイトの「あらすじ」を読んだ。キャシーが15歳の時にルーシー先生がヘイルシャムの実態を生徒に明かすところがある。これは何章かな、私はそこまで読んでいないが。

それはともかくどうも妙だということを前のアップで書いたが、追加する。

人間には家族があって両親がいるということを生徒たちが全然しらないらしいし、疑問も抱いていないように書いてある(あるいは書いていない)。あまりにもうかつではないか。生徒たちはテレビや新聞から隔離されていて世間のことが分からないのかな。しかし、小説や詩の授業があると書いてある。当然父とか母、きょうだいという言葉に遭遇するはずだか、それでも自分たちに両親がいないことに不信を抱かないのは妙だ。小説だから、そういうことをすっ飛ばす、何というかごまかし、けれん味はあってもいいのだが、このケースのようにあまりにも明々白々で不自然なことは作者に許されるのかな、と思ってしまう。

大体幼児が共通して抱く疑問は「私はどこから生まれたの」というものだ。クローン児はそんな疑問を持たない必然性があるのかな。

 

 

 

 

 

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テレビドラマ化された「私を離さないで」

2017-10-23 07:09:55 | ノーベル文学賞

インターネットで「私を離さないで」を検索するとほとんどが日本でテレビドラマ化された作品についてのようです。このテレビが人気らしいが、それだけ通俗受け、あるいは「わかりやすい」ということなのでしょう。原作(翻訳)からは想像できないがどう料理したのかな。

しかしビデオを買って観る気もしないが。

 

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私を離さないで、その後

2017-10-22 12:04:27 | ノーベル文学賞

いや、だめだ。シリアル・リーディングがダメな時にはランダム・リーディングがいいときもある。というわけで二十三章からバックで運転してみました。最終章が二十三章です。

さかさに読んでもピンときません。それで、辛抱強く二十二章、二十一章と逆行しました。どこだったか、二十章前後でなんとなく輪郭が見えてきた。

 要するにクローン人間を生産して成長したら臓器を提供させるという話。これは完全なフィクションだろうから、どういう仕掛けなのか(社会的に)描写説明すべきでしょうね。それはない。全部読んでいないけどそう推測されます。

  いわば人間の牧場だからクローン人間の人権なんか顧慮しなくていいという設備がほとんどのなかでへールシャムというところの施設ではできるだけ収容者を人間として扱い教育も受けさせようということらしい。ところがほかの施設で現代人より優れた知能や能力もったクローンが出来そうだというので、世論がクローン全般に冷たくなりへールシャムも閉鎖した。そこを昔の収容者がルーツ探しみたいに尋ねるとまあ、こういうことらしい。柴田元幸さま、これでよろしいですか。

これが元収容者の女性の回想モノローグだけで描写されている。これでよろしいですか、柴田先生。対読者の問題はわきに置いておくとして、執筆者としてもこのような作業は相当にしんどい。テレビのインタビューでイシグロ氏が言ってましたが、原稿を三回書き直したとか。対読者の問題はもっと深刻です。

 以上に要約してみましたが本文の説明が不十分で本来要約できるような内容ではない。そこを無理やり腕力でやってみたわけですが。

 この作品に限って言えばノーベル賞ものでしょうか。せいぜい努力賞か敢闘賞ではないでしょうか。

無数の引っかかる点がありますが箇条書きにしてみると

@収容者たちが家族について考えることがまったくない。クローンだから単性生殖だから?

@名前しかない。きゃしー・Hとか。クローンだからこれは整合性をとっているのか。苗字が意味のないアルファベットの1字のみ

@収容者が介護人になる制度がよくわからない。本来矛盾しているようだが。

 文章を読むのが楽しいレベルならテーマなどどうでもいいが、この本(日本訳)の場合はテーマが画然としないとダメでしょう。それがない。

 

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「私を離さないで」というのでまだ放していないのですが

2017-10-18 18:01:58 | ノーベル文学賞

カズオ・イシグロ氏の「私を離さないで」をようやく100ページあまり読みました。ノーベル賞受賞者の作品を読んでみるかというミーハー的な動機です。数冊の作品の翻訳が出ているようですが例によって彼の作品の中でよく読まれているらしい、具体的には版数がダントツということですが、本書を選んだ次第。

 帯や宣伝でクローン人間の臓器提供などとあるので、SFっぽいかなとも思ったのですが、なかなか作品の中では種を明かしません。大体どんな本でも100ページほど読むとなかに入っていけるものですが(もちろんある程度の水準以上ならですが、)本書は全然ピンときません。

 訳文ですが文章は平明調なのだが、退屈な描写が延々と続きます。ちなみに本文庫の解説者柴田元幸氏は手放しの絶賛ですが、同調できません。インターネットものぞいてみましたが本格的な書評はまだないようです。読者コメントのスレッドはありますが、いずれも◎◎印ばかりで少し自信がなくなりました。村上春樹に似ているというが本作のことですかね。ほかの作品は見ていないので。

 一番の印象はstickyな少女小説という印象です。ノーベル賞に敬意を表して最後まで読んでみるつもりです。何日かかるかわからないけど。

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「銀翼のイカロス」の校正

2017-10-08 12:56:31 | 本と雑誌

 最近文庫になった該書を途中まで読んだ。この池井戸潤氏の作品ではたしか「下町ロケット」というのを読んでなかなか達者で町工場の人間がよく描けていると思った。この書評でも書いた記憶がある。さてイカロスであるが、十年ほど前に経営破綻した日本航空に政府主導の解体屋じゃない再建チームが入った話である。そして銀行に債権放棄を求める攻防だけに絞っている(ようだ)。モデルは日本航空と帯でも解説でも書いているがどの程度実際の経緯を反映しているかどうか疑問である。

 さて今回はモデル問題ではない。文言的に引っかかるところがたくさん出てくるのでいくつか取り上げた。小説では地の文というのがある。これには語法、語用で原則として間違えてはならない。

 ほかに会話の部分、登場人物たちのモノローグ、告白の部分がある。これは間違えてもよろしい。あるいは通用している語法でなくても構わない。それによってその登場人物の教養、育ち、性格がわかるわけで、作者が意図的に採用したものは生かすべきだろう。

 さて最初に取り上げるのは、銀行員の半沢という主人公に別の行員がいうセリフである。今度金融庁の調査が入り半沢と過去に因縁のある調査官が担当するというので、その情報を「悲報だ」と半沢に教える。これはせいぜい言っても凶報ではないか。ふつうは「厄介なことにその相手は黒崎だ」とか、「いやな相手になったな」というのが普通だろう。いっても吉凶の凶を当てるべきだろう。

 ところが私も念のために大辞林をひいたが、これらはひっくるめて類語となっているのには驚いた。類語というのはなんなのさ、同意(義)語ということかね。明らかにニュアンスが違い違和感がある。いつのまにこうなっちゃのかな。

 そんなことは実はどうでもいいのである。なぜなら行員のセリフだから彼の言葉遣いが幼稚だとわからせるように作者がつかっているならそれでいい。今の若い連中はこういう風に使うのだろう。それで思いしたが、会社の部長の奥さんが亡くなったときに、忠義なちょうちん持ちが率先して香典を集めようというのか、「凶報!!」(しかも赤の太字マジック)と書いてカラーコピーした紙を課員に配ったことだ。大辞林によると間違いではないらしい。こういう時にこそ悲報(悲しいお知らせ)とすべきだよ。ヤレヤレ。

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