穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

白鵬三変化

2024-03-14 07:38:06 | 無題

白鵬部屋(宮城野部屋?)の暴力問題。私の白鵬評価は三変化した。

現役時代のエクセントリックな言動は苦々しく見ていた。引退してNHKなどの解説者になった後は、その解説がわかりやすいのに全く別人を見るような気がした。

NHKの解説者になってからの解説は非常に理論的で、相撲競技の技術的面をわかりやすく解説していたので感心していた。高い知性がないとこういう解説は難しい。

相撲という特殊な技術的世界を一般人にもわかりやすく説明したのに感心した。

そして今度の暴力、いじめ問題のモンゴル的異様さに驚く。

まったく別人格のような変化を見た。

報道によると、問題の力士は五歳から札幌で育ったというのに日本的常識が欠如しているのにも一驚を喫した。

 

 

 

 

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モンゴル語翻訳の難しさ

2024-03-07 07:38:04 | 無題

宮城野部屋(白鵬部屋?)の暴力騒ぎ:

報道されるところによると、問題はいじめ、嫌がらせというのが正確な表現らしい。より正確に言うなら、自分の優位な立場を利用して相手に恐怖心、不快感を与える行為であって、その効果は暴力と変わりがないと。

モンゴル語ではああいうのは「暴力」と言わないのではないか。そうすれば暴力行為にはどういうものが入るか教育の際に具体的に教えるべきだ。

かって、大相撲から追放された朝昇竜にも家庭用品や玩具を使った同様の嫌がらせがあった。ああいうのはモンゴル語で「暴力」と言わないのではないか。

だから彼らは殴ったり、突き飛ばしたりするのが暴力と理解しているフシがあるだから家庭用品や日常用品を使って(頭を使って)相手に恐怖心、不快感を与える、オゾマシイ手段を工夫する。

問題は翻って翻訳の場合にも注意する点ではなかろうか、外国語を翻訳するさいには。

 

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広さの比較単位

2023-09-23 08:52:41 | 無題

テレビなんかでよく後楽園球場、ビッグエッグとかいうんだろう。それみたいに広いというのが常套句になっているが、いまもテレビでやっていたが、あのドーム球場はちっとも広くない。

東京競馬場みたいに広いと表現すれば分かるけどね。ぱかの一つ覚えでやられるとしらけちゃうんだよね。

おそらくテレビのアナウンサーの田舎にはああいう人工の建造物はないから、広い広いと感心するのだろうが、噴き出してしまう。

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過去との混在

2023-06-13 06:15:20 | 無題

前回プルーストの死後編集者等の手の入った六巻以降が読みやすいと書いた。

その理由だが、フランス語の過去形の文法は知らないが、どうも他人が編集した後半は時系列の序列が常識にかなっている。

それにたいして、第一巻冒頭は現在、あるいは現在までの経験の要約と子供時代に追憶が入り混じって記述されているのでまごつく。少なくとも日本の訳ではこの二者が同一平面(?)で記述されているので妙な抵抗感があるのだろう。

ある書評でこの経緯を知って「なるほど」と得心がいった。

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記憶の隅に

2023-06-08 07:10:50 | 無題

しばらく眠りに落ちていたらしい。ふと目を覚ますと家はパイプオルガンの演奏をやめていた。狂風は収まっていた。階下の怒鳴り声は聞こえなくなった。兄たちは風が収まった合間を縫って帰宅したらしい。ミシミシと階段を踏み鳴らして父か昇ってきた。部屋の外から声をかけた。

「泊っていくのか」

彼は目をこすった。

「そうだねえ、また風が吹き出すと心配だから今夜は泊っていくよ」

そうか、というと父は自室に入っていった。しばらく寝入っていた体は急には動かず重たい。あたりが静寂に包まれると先ほどの怒鳴りあいのことを思い出した。兄の声も父の声も、そうして妹の声もすこし変わって聞こえた。みんな別人のようだった。パイプオルガンの演奏に乗っかって変調していた。なかでも兄の声はまったく聞きなれない妙な声に聞こえた。

「あの声はどこかで聞いたな。誰の声だったか」

思い出そうとしたが、声の主を特定できなかった。確かに聞いた声だ。

再び彼が眼を開けた時は強烈な朝日がカーテン越しに差し込んでいた。

 

 

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妹の寝返り

2023-06-07 06:01:37 | 無題

四年前まで自分の部屋だった。久しぶりに押し入れから出して黴臭い布団を敷いて横になった彼は天井を見上げた。新築時に父が祖母のための隠居部屋として作った十畳の部屋である。彼の中学時代から彼の部屋になった。網代天井を見上げながら家全体がパイプオルガンのように騒ぎ立てるのを聴いていた。

築四十年の木造家屋はいたるところで建てつけが緩んで外気の注入口が無数にあった。同様に風の通り抜け口があり、それを通過する音は実に様々な音の発生源になった。穏やかな風が吹き抜けるときはそれは、人の話し声や出入りの音のように聞きなした。若いころにはふと目を覚ました彼は階下の風呂場あたりから誰かが丑三つ時に誰かが家に忍び込んだかと身震いしたものである。

便所は風呂場の近くにあったので彼はそんな「話し声、気配」を聞くと階下に降りていくのが怖くなった。それにしても今日の狂風は例になく凶暴で建物全体を凶暴な音で絶え間なく家を満たしていた。

階下では兄と父とが大声を出してやりあっている。兄や妹はいつまでいるのだろうか。この天候の荒れ模様では遅くなると帰れなくなるとテレビの天気予報は警告していた。父と兄の怒鳴りあう合間に今晩は妹の甲高い声が聞こえてくる。

切れ切れに聞こえてくる会話から判断すると妹は兄に同調して家を処分することに賛成しているらしい。この間までは彼女は正反対に意見だった。いつの間にか不動産屋の兄に同調しているらしい。これが父を激高させたのだろう。父はこの妹に甘く、妹がガラクタの衣装を買い込んでも、遊びまわっても見逃していた。それが突如兄に同調したので一層父を激高させたらしい。

 

 

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木枯らし第一号

2023-06-05 07:04:19 | 無題

秀夫が狂風荘と命名した父の家は四囲を五十階だてのタワーマンションに囲まれた底にあった。上空から写真を撮れば井戸の底にあるように見えただろう。おまけに運河に近く常に強風が吹き荒れる。海岸から橋を一つ渡って築地あたりに来ると嘘のように風は収まるのだが、家の近くでは体が持っていかれそうな強風が吹いている。

今日は老父の誕生祝いということで兄弟姉妹が夕刻から集まっている。今夕は強風がひときわ凶暴なうなり声をあげている。

「木枯らし一号かしら」

「それにはちょっと早いようだ」などと言っていたが、暮れるについて築四十年の木造家屋が土台ごと持っていかれそうな不安に、妹たちは幼い子供ずれでもあるし一人抜け、二人抜けと早々に父の家を辞していった。

何時もの例で集まると最後は不動産屋の兄が父に家を売れとこわ談判を始める。酒に弱い秀夫は頭痛をしてきたので二階に上がり寝室に布団を敷いて横になった。

 

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胎児の記憶

2023-06-04 07:02:49 | 無題

ベルクソンの代表作の一つ、「物質と記憶」の岩波文庫版の翻訳には熊野純彦の訳がある。訳者はあとがきで夢野久作の怪書ドグラ・マグラの一節を牽いている。

#「胎児よ 胎児よ なぜ躍る 母親の心がわかって おそろしいのか」

先に述べたように初期の幼児期(ゼロ歳から5,6歳)の記憶はあると主張しても子守の寝物語が定着したものがすべて(ちょっときつい要約かな)と考えられる。

ところがそれ以前はどうか、一考の余地があるようだ。前世の記憶なんてのはあてにならない。LSDでラリッテいる連中にはそんなことをいうのがいるらしいが。

しかし胎児期の記憶と言うのはあるように思われる。聴覚は胎児のかなり早い時期に完成するらしい。妊娠五か月で完成するという報告もあるという。母親の子宮や腹の皮膚や脂肪を通して、幼児に聴覚が完成しているなら、外界の出来事は知覚できる。勿論文法などはわからないが、母親の反応で、例えばその外界の声に母親が拒否的なあるいは恐怖、嫌悪の感情を抱けば、それは胎児に伝達されるだろう。アドレナリンの放出の急増とか腹筋の収縮などを通して。

世に胎教がもてはやされるのも、この辺に根拠があるのかもしれない。

 

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東欧からのユダヤ難民の子フロイトのギリシャ悲劇の理解度

2023-06-03 07:46:39 | 無題

幼児期の母親への肉欲をエディプスコンプレックスとフロイトがなずけたことに先に触れたが、このとんでもない無知な命名について一言述べておこう。

ソフォクレスの悲劇「おいでぷす」は父親と知らず殺し、母親と知らずに母親と婚姻したという悲劇であり、母親に愛欲を感じたということではない。父と知らずに殺し、母と知らずに婚姻したのであり(スフィンクスの謎を解いたことによりテーベの市民の推戴により)、母親と知ってかつ性欲を抱いたということではない。第一、そのころ「おいでぷす」は実年に達していた。幼児性愛が悲劇になるなら、それは笑劇であり、下劣な幼児ポルノである。いかにもユダヤ難民が考えそうなことである。

こんなことは笑殺してもいいことだが、現代フランスの著名な複数の(日本の哲学界の提灯により)、代表的なフランス哲学者の理解?として翻訳も出ているから一言述べて誤解を解いたほうがいいと考えた次第である。

どうして彼が実の父親と知らずに旅行の途中のトラブルで父親を殺し、母親と知らずに結婚したかの謎解きはこれから始まる。ちょっとした古代のミステリーである。いきさつを知る証人が次々と現れたのである。

実はその時、国には疫病(コロナじゃないよ)が蔓延して危機的な状況にあり、おいでぷすは古代人らしくその原因を部下に探らせたのだが、その結果、とんでもない昔の話が明らかになったのである。フロイトごときにはちょっとややこしい話だったかもしれない。しかし、その尻馬に乗るとはフランスの代表的哲学者も情けないな。

 

 

 

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詠嘆調の「プルースト学者」

2023-06-02 05:44:09 | 無題

あれから10ページも読んでいない。先日書店で表題の書を見つけた。ちくま学芸文庫である。この種の本はやはり解説書がないとだめだ、と思い出していたので早速贖った。

東大の教授でいわゆる「プルースト学者」のひとりらしい。ちょっと読んでみたが詠嘆調が強くて読みずらい。抵抗があるというのかな。身も世もなく詠嘆調になるとかえって説得力がなくなる。それにあとがきを書いているのが、これまた東大の教授でプルースト学者のひとりらしい。

お互いに褒めあっている。ちょっと仲間内で傷を舐めあったいる感じでどうも引けちゃうね。私のような天邪鬼には逆効果である。わたしはどうも入って行けない本に出合うと、途中から終いのパートを読みだす癖がある。特にミステリーなど。この本はミステリーじゃないけど適当に見当を付けて、しまいのほうを少し読んだ。

実は14巻のうち最初に第一巻と十四巻を一緒に買おいたのだ。そういうこともあるかな、と思ってね。終章は幼年時代から半世紀がたって、夜会で老いさらばえた昔の登場人物が描かれているようだ。つまり執筆当時のプルーストと同年配の人物描写である。それだからか、描写には冴えが見られる。

もっともランダムに十頁ほど読んだだけであるが。この書はお好み弁当みたいにいろいろな具が入っている。卵焼きからつまんでもいいし、野菜の煮つけから食べてもいいようだ。

 

 

 

執筆

 

 

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幼児の記憶はすっ飛ばしているね

2023-06-01 07:44:39 | 無題

「失われた時を求めて」はどう読んでも、はやくても6,7歳の時からの記憶である。生まれてから寝たすべての部屋を思い出したという大上段に降り被った割には拍子抜けだ。

6,7歳からなら私の記憶もある。プルーストほど詳細ではないが。まあそれはいい。中には産湯を使った記憶があると豪語する三島由紀夫の例がある。この点は前に書いたことがあるが、本人の記憶ではなくて、たとえば孫を溺愛する祖母とか、バアヤ(この言葉に注釈が必要か)などが寝物語に繰り返し話したことが、自分の記憶のように変形定着したと思われる。トルストイの「幼年時代」、中勘助の(銀の匙)や谷崎潤一郎の幼年時代など皆その手の由来だろう。

わたしはジフテリア罹病以前の記憶がまったくない。そして常日頃それを思い出したいと思っている。なにかとてつもなく陰惨な、PTSDになるような嫌な記憶があるような気がする。それでプルーストの豪語につられて読んだのだが、まったくあてが外れた。

ギリシャのソフォクレスの悲劇「オイデプス王」ではないが、今の災厄の原因はなんだ、と過去を探すようなものだ。オイデプス(エデイプス)はフロイトによって幼児ポルノに変えられてしまったが。

 

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東大医学部小児科*0年史

2023-05-31 07:43:47 | 無題

かって父の遺品のなかで見つけて読んだ記憶である。人名その他は記憶で書いているので思い出せない。昭和天皇が幼年時代ジフテリアに罹病した時の経緯である。

まずジフテリアについてすこし触れなければないらない。現在は天然痘と同様絶滅宣言が出されているようだ。非常に危険な感染症で現在はシベリアの奥地で一部残っているという。

当時の主治医はドイツ帰りで開発されたばかりの血清を幼児の昭和天皇に注射しようとした。主治医の名前は忘却した。側近達が猛烈に反対した。玉体に牛の血を注入するのは何事だ、というわけである。

主治医は懐に短刀を呑んで失敗したら自殺するつもりで注射を強行したという。結果は歴史がしめすとおり、大成功であった。

なぜこの記事が今でも記憶に残っているかと言うと私も幼稚園時代ジフテリアにかかって東大病院に一週間か二週間入院した経験があるからである。

 

 

 

 

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理論物理学をメタメタにする(1)

2021-12-23 08:07:21 | 無題

 ヘーゲルは、「俺の使っている用語の意味は本を全部読み終わると分かってくる」、とどこかで言っている。定義をしないでボンボン新語、珍語を連発する。「一回通読して理解できれば俺並みに天才である」、「三回読んで分かれば頭がいい」、「百回読んでも分からなければ哲学をやめなさい」といったかどうか。
 もっともこれは「哲学者」ほとんどの、ほとんどのと言う修飾句を入れておくが、著作に当てはまる。さて、表題と違うことを長々とやってるなとご不審を抱かれたであろうが、辛抱していただきたい。理論物理学と関係があるのである。
 基礎物理学と言おうか、理論物理学と言おうか、応用工学的なものではない物理学の分野ではこういうやり方が「横行」している。ある人はこれを「法則ゼロ」と表現した。ニュートンの法則ゼロとかね、たとえば、彼の質量保存の法則である。べつに証明があるわけでもない。神様が世界を、つまり質量を作ったのだから、ここから先は何故と疑問を持ってはいけないというわけである。言い換えれば当然の前提という世界がある。
 アインシュタインの場合も同様である。この世の中に、あるいは世界でだったかな、光より早いものはない、という。これが昔から私には躓きの石なのである。これは前提らしい。直接的には証明されていない。もっとも反証も出てこない。だから正しいのか。私に言わせれば、極めて強力な仮説であるというべきだ。間接的な証明はあるのかもしれないが、私は間接的な証明は採用しない。
 一部の物理学者の間では微細構造定数という考えがあるらしい。つまり光速だとか重力定数などの自然定数は一つの無名数に集約できる。つまり重力などの定数が変われば光速はいま観測されているより遅くもなれば早くもなる、という。これは「理屈としては」排除できない。「現実としては」判断がつきかねる。
 かねてから、アインシュタイン本人はどう表現していたのか気になっている。「当然の前提として」なのか「不磨の原理」なのか、「ガチガチに証明された法則」なのか、どう本人はいっているのだろう。つまり「とする」なのか「である」なのか。

 

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ただいま勉強中です

2021-09-03 12:21:27 | 無題

 連載中の「無題」を長らく休載しておりまして申し訳ございません。最初は「アップデート要求」というタイトルで勢いよく連載をはじめ、「恩寵と刑罰」に改題し、これもどうもぴんと来ないというので「無題」としたわけですが書きあぐんでおります。一応SF的ということで進めているわけですが、どうも知識がないので、あまり業界常識とかけ離れてもいけないでしょう。それで物理学と天文学のお勉強をすこししています(小学校レベルから)。

 早速難問と言うか疑問に逢着、アインシュタインの理論が間違いじゃないのか、などと飛んでもないことを考え始めました。解説書によるとアインシュタインは思考実験をよくしたようです。もっとも思考実験をするのは量子力学も同じようですが。

 この思考実験にべったりと乗っかっていいものでしょうか。思考実験でアイデアが正しいから、つまり論理的だからということで、其処を出発点にした理論が多い。時間の進み方がその人が高速で移動していると遅くなるなんてある。これが理論のキモらしい。

 仮説としての出発点はそれでいい。それが現実にあっているかどうか、検証することが不可欠ですが、どうもそこのところはすっ飛ばしているのではないか。そうじゃない、と教えていただけると安心するのですが。

 世にはパラドックスというのがある。ウサギと亀の競争なんてね。うさぎは絶対に亀を追い越せない、理屈ではね。ところがこんな現実を信じるひとはいない。ところがアインシュタインの思考実験は現実に試せないほど規模がけた違いである。なにしろ秒速(時速ではありませんよ)三十万キロの世界ですから。実際に観測、計測したことがあるのだろうか。また、観測結果は多数回、同じ精度の結果がでたのだろうか。そんなことは書いていないようですね。

 論理的には正しくても(と言うことは言語の表現として、ということですが)実際には否定される「論理」があります。パラドックスといいますね。アインシュタインの思考実験がすべて「パラドックスではない」と言い切れるのでしょうか。また分からなくなった。連載が遅れます。すみません。

 

 

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