穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

背教者に頼れ

2019-02-25 07:51:39 | 妊娠五か月

 ある思想哲学を知るにはまず論敵あるいは背教者の書を読むのが最短最善の方法である。

それも論敵であるよりも背教者の書がおすすめである。論敵は自分の立場からしか相手を見ない。したがってその相手の哲学の把握がどれだけ客観的かの保証はない。

  背教者の場合はかって同じ立場にいたわけだから、その内容は熟知している。そしてどこに問題があるかも分かっている。よき「背教者の書」は最善の入門書である。次善の方法は原典を読むことである。一番いけないのは哲学者べったりのフォロワーの書いた入門書や解説書を読むことである。同様にその哲学者の思想を学生に切り売りして生計を立てている大学教授の書いた本は最悪である。そういう大学教授にとって知識を切り売りする哲学者の書はお経のようなものである。

  前に触れたルフェーブルはその意味ではマルクス哲学へのよき入門書である。それも書いた時期を選ばなければならない。彼はフランス共産党員であった。そのころに書いた本はあまり参考にならない。彼は1958年にフランス共産党を除名されたが、その直後に書いた本がよろしい。すっかり縁が切れた後は「都市社会学」関係が研究の中心になったらしいのであまり参考にはならない。勿論都市問題に興味があるなら別である。

  彼が1958年に書いた「マルクス主義の現実的諸問題」という本がある。そのなかに「源泉への回帰」という章があり、マルクス、エンゲルス、レーニンに触れているがなかなか面白い。例えばレーニンは正反合という弁証法的図式は意味がないと言っているそうだ。これを否定したら弁証法というのには何が残るのだろうか。実際に革命運動をして正反合のテーゼを認めれば革命が成功した後で、いずれ革命を否定しなければならない。それに気づいたのかもしれない。

  これは弁証法を現実に当てはめる場合、ヘーゲル弁証法でも唯物弁証法でも逢着する大問題である。もし革命で矛盾がなくなれば歴史はそこで停滞もしくは終了することになる。あとは「人民みな幸福」という痴呆状態しか残っていない。

  つまり彼らの弁証法というのは現実に当てはめると「ターミナル駅ありの直線的運動」という極めて不自然な理論なのである。ヘーゲルで言えばゲルマン国家が終着駅であり、マルクス主義ではプロレタリア革命が終着駅なのである。

  また、レーニンは唯物論というのは公準である。あるいは公準にしか過ぎないと言っているそうだ。公準とは証明できないがある説を展開するためには「承認してもらうしかない最初の命題」ということである。観念論も公準であるから優劣はないということになる。

 なかなか穏当な説である。

 

 


使う人を詐欺師と疑わせ、信じる人を痴呆と疑わせる言葉

2019-02-24 08:43:35 | 妊娠五か月

 自然科学の論文でもないのに、売り物(思想、商品)のキャッチコピーに

「科学的」を連呼する集団、会社がある。これは詐欺師と思ってよろしい。商品販売で典型的なのは、健康食品、化粧品である。集団勧誘で典型的なのは新興宗教(とくにカルト)とマルクス主義(共産党)である。

  一ページに一ダースも科学的という言葉が出てくるのが社会主義関係の本である。たとえば、「科学的経済学」、「科学的社会学」、「科学的認識」、「科学的社会主義」、「科学的歴史学」などなど。「科学的」というスタンプをくっつければ箔がつくと思っている。要するに水戸黄門の葵の御紋の入った印籠なのである。どうだ、恐れ入ったか。恐れ入らねば粛清だ、というわけなのだ。

  そのくせ、「科学的」とはどういうことかとは一言も説明していない。本来科学というものは、「その時点での手持ちデータ」によって検証可能性を立証し、手持ちの研究データ、統計データから合理的説明としてこのような理論ができますよ、ということにすぎない。その後新たに取得あるいは観察された観測データ、実験データ、統計データが理論(正確には仮説と言う)で説明できない事態がおこれば、新しい仮説に席を譲るということである。教条主義とはこれを認めないことであり、科学でもなんでもない。「マルクスが言ったから」(これも本当かどうか疑わしいことが多い)、とか党の御用学者の解釈だからなど全く根拠にはならない。

  この「科学的」という葵の印籠にコンコロリンといくのは痴呆症であり、こういう痴呆症は老人よりも青少年婦女子に圧倒的に多い。いわゆる若年性痴ほう症ですな。

  新興宗教もほとんど例外的なく自分の説は「科学的」であると主張する。やはり、彼らも共産主義者同様この殺し文句が有効ということを体験から知っているのである。

 


カトリックとマルクス主義の酷似点、続き

2019-02-23 09:24:36 | 妊娠五か月

 現在の、というかマルクスの没後弟子たちの言うことのうさん臭さは前に少し触れた。

マルクスの死後とキリストの死後(昇天)の思想運動としての推移は酷似している。

  没後弟子たちの血で血を洗う内ゲバで声の大きいほうの言い分だけが残っているのだ。

キリスト教の新約聖書は四つかね、それとヨハネの黙示録をいうが、いわゆる外典といってそれ以外にも複数の福音書がある。焚書によって長い間闇の中だったが、近代になって発見された。福音書の選択だけでも強烈な内ゲバがあったわけである。

  近世の宗教改革では逆に新約聖書だけを読め、というのがルターなんかのプロテスタントだ。マルクス主義者でもマルクスにかえれ、と叫ぶ人たちがいる。フランスのルフェーヴルなどがその一人である。

 ル フェーヴルはこんなことも書いている。世界には、世界観というのは三つしかない。いわく、キリスト教(カトリック)、啓蒙主義(ルソーなど)、マルクス主義だそうだ。インドとか東洋はどうなんだ。ま、西欧に限れば言えることかもしれない。とするとカトリックとマルクス主義は酷似しているのも分かる。そのドグマティック、強圧的、問答無用的な残酷さではね。

  教条主義なんてのがあるね。カトリックでは民衆、信徒には聖書を読ませない。教会の解釈しか与えない。許さない。もっともこれは人口のほとんどが文盲だったヨーロッパの事情もあるのだが。 

  マルクス主義にも教条主義というのがある。高級僧侶すなわちソビエトの党幹部、スターリンの解釈しか民衆に与えない。マルクスの原典の研究などもってのほかである。さらに原典にスターリンと違う解釈をしようものなら虐殺された。

 


哲学界の三人の天一坊

2019-02-21 09:47:00 | 妊娠五か月

 哲学界には世紀を跨いで影響を持っている三人の天一坊がいます。いわく、マルクス、フロイト、ウィットゲンシュタインであります。これら三人はいまだに世間(哲学界)を騒がしております。

マルクスとフロイトは特にフランス哲学界に浸透しております。フロイトは勿論心理学者ですが、どういうわけかこれを哲学的にいじくりまわす傾向がある。フロイト本人はそのつもりがなかったのでしょうが。

  天一坊というのは徳川時代、将軍家のご落胤であると称して忽然と姿を現した男で坊主たちの参謀をつれていました。結局大岡越前に裁かれて「世間を騒がせし段重々不届き千万、よってお仕置き申し付けられ」てしまったのでした。

  フロイトはソフォクレスの偉大なギリシャ悲劇、オイデプス(エディプス)王を児童ポルノに曲解しました。ウィットゲンシュタインは工学士的な精緻さで哲学界を翻弄しました。

  マルクスですが、ヘーゲルの弁証法をひっくり返した(だけ)と誇らしげに自慢していますが、これがどうもインチキ臭い。逆さにするもなにも、全然関係が無いように見えます。

 

 


芥川賞受賞作「1R1分34秒」

2019-02-12 18:38:14 | 妊娠五か月

 お約束通り読み切りました。ほとんどモノローグだけで、最もモノローグでは表現しにくい題材を押し切ったのに感心しました。筆力がありますね。

  ボクシングのことはよく分かりませんが、読んでいて違和感はありません。一般の読者を常に意識した書き方が成功したのでしょう。業界用語、専門用語だらけですが抵抗感はなかった。

  ただ、終わりのほうは雑になったというか、独りよがりの思弁に走ったというか、そんな印象ですが、これは私のほうがそろそろ終わりだというので早く読んでしまおうと流してしまったせいかもしれません。同時に作者のほうも早くまとめようとしたようにも感じますが。

  終わり良しと言うよりも、経過良しというタイプでしょう。「純文学」はもともと経過良しのタイプが多い。

 


芥川賞作品読中ご報告

2019-02-11 11:54:22 | 妊娠五か月

 さて、今朝もニムロッドの続きを読んだのですが、2ページほどで根気が尽きました。ここで私の芥川賞作品の書評歴を振り返って見ますと、もう十年くらいになりますか、最初は西村賢太氏の作品でした。タイトルははっきりと覚えていないが「苦役列車」だったかな。この作品は褒めました。併せて高評価をした石原慎太郎氏にも言及しました。

  その後どのくらい読みましたか。十作品くらいかな。そのほかでいいと思ったのは「コンビニ人間」でしたね。このほうは作者の名前は忘れました。女性でしたが。そのほかの作品には良い印象が薄い。

  ニムロッドに出てくる仮装ネーム「ニムロッド」さんのパートですが、作品の末尾に添えた出典リストを見ると、インターネットの「まとめ」サイトから持ってきたらしい。リライトした部分があるかどうかは判然としませんが、このニムロッド・パートは作品の半分以上を占める。いいんですかね。さすがに選考委員の誰かが気にしてコメントしていましたが。しかも作品のほかの部分と何の整合性もないし、有機的な機能も果たしていない。

  ひとまずニムロッドはお預けにしてもう一つの作品を読んでみましょう。

 


芥川賞「ニムロッド」書評

2019-02-10 20:29:13 | 妊娠五か月

  本日書店を徘徊中文芸春秋今月号に「芥川賞発表」とあったので久しぶりに贖いました。

 それで久しぶりに選考委員の書評の書評をしてみました。まず「ニムロッド」ですが、芥川賞にしてはずいぶん長いですね。つまらないから長く感じるのかもしれない。

  全部で70ぺージほどある作品の最初の20ページを読んだところで書評をします。私は途中書評をしています。現在のポジション・レポートは文芸春秋三月号374ページまで読みました。

  さて、本文を読む前にざっと選考委員の選評をまず読みました。絶賛の羅列といってよろしい。ケチをつけている委員はいないようです。

 これってIT企業(きれいに言えば)中小のサーバー屋に努める文系職員の勤務ぶりの紹介と、同じ会社の同僚でヒコーキマニアのlineでのやり取りが交互に出てくる体裁ですが、たいした趣向も感じられない。

  文系職員の職場紹介は素人向けの取説的だし、ヒコーキ・マニアの「ダメな飛行機」という連載にもマニアの蘊蓄と感心させられるものはありません。彼の言う「ダメな飛行機があるから今日の進歩がある」というのを選評委員のだれかは気の利いた深遠な哲学的、文明論的な名句だと思っているらしい。これって、よく言われる試行錯誤というどの分野の技術進歩にもつきものの当たり前のことではありませか。

  途中から田久保さんというミッドサーティというかハイサーティの「職業婦人」との交情が出てきますが、描写は平板ですね。

  さて、あと50ページ頑張って読んでみます。読み切れるかどうか。

 


冠のついた宗教と思想

2019-02-02 14:07:55 | 妊娠五か月

 かんむり名がついた宗教は超マイノリティである。思想や哲学でも同断である。

キリスト教とマルクス主義はその極めて珍しい部類に入る。それにはそれなりの思惑やいきさつがある。

  もっともキリストは人名ではないという論もあろう。彼は別にユダヤ人の名前があったのであろうが、ま、人間の固有名詞と考えてよろしい。神の子で神と人を繋ぐ媒介とでもヘーゲルなら言うのだろうが。そうすると精霊はどの辺に位置するのかな。まあ、いいや。

  宗教で人名を冠したものは思いつかない。仏教、禅、道教、フイフイ教(イスラム教)、大本教、天理教、神道といくら並べても人名は出てこない。

  哲学でも人名を冠したものはないようだ。そうか西田哲学なんてのがあるかな。カント哲学ともいうが、カント主義とはあまり言わないようだ。マルクスに限って、マルクス主義とか、マルクス・エンゲルス主義とかマルクス・レーニン主義としか言わない。ということは哲学ではないということか。

  あのオーム真理教でさえ、麻原しょうこう主義とか麻原しょうこう教とは言わなかった。恐ろしや。

 英語で言うと・・ismというのかな。もっともDarwinismと言うし、これは学説という意味の接尾語らしい。そうすると主義というのは日本語的なのか、doctrineという言葉もあるな。これは政策とか主張というニュアンスが強い。いましばらく考えるべき問題なのかもしれない。なんだか尻切れトンボで、、

 

 


キリスト教とマクルス主義との酷似点(予告編)

2019-02-01 10:45:45 | 妊娠五か月

 誰かそんなことを言ってなかったけ。一神教と無神論は似ていないじゃないかって。そうなんだけどね。宗教的現象、おっとマルクス主義は宗教じゃなかった。失礼しました。

 そうだね、社会的な精神現象的にいうと、とでも言えばいいのかな。

  両方とも権力志向なんだね。権力奪取過程もおなじだ。キリスト教はキリスト時代、十二使徒の時代、初期教父時代、百家争鳴、異端ごっこ、カトリック教会の成立という具合なんだが、マルクス主義でいうと、マルクスの死から19世紀の終わりごろまでは十二使徒時代だな。ソ連革命後1930頃までは初期教父時代か。

  二十世紀前半は内ゲバ、異端呼ばわりごっこだ。まず永久革命論のトロツキーを亡命先のメキシコまで追いつめて機関銃で殺した。第二次大戦が終わると中ソ対立だ。これはローマ・カトリックとビザンチン教会(ギリシャ正教と言うのだったかな)の分裂だ。

  二十世紀後半は百家争鳴かな、妙なのが特にフランスあたりを中心として出てきた。アルチュセールだとか、なんだとかね。

  どうしてキリスト教とマルクス主義は似ているのかな。

 一つは解釈問題だ。新約聖書を読むと分かるが現在キリスト教の教義として体系化している内容はキリストの言動にはない。もちろん現在の確立したキリスト教のように解釈できる種は胚芽としてはある。あくまでも後世の解釈なのだ。

  マルクス主義も同様だ。マルクスの生前公刊されたものからは、現在のすべての理論は直には出てこないようだ。すべて、解釈問題だね。そう解釈される、という主張だ。しかし、別様にも解釈可能だ。ここから内ゲバが始まる。

  長くなったから予告編はこの辺にしておこうかな。もう一言、マルクスは彼の理論を自己疎外したわけだ、公刊することによってね、つまりそれは客観になってしまった。だから色々と他人が解釈する権利が生まれたわけだ。

  マルクスの一世代前のフォイエルバッハは「キリスト教の本質」を書き、その中ででキリスト教と言うのは人間の精神が生み出したもので、それを外化(疎外)したものだと喝破した。いったん外化した言葉は今度は人間を縛るものとして跳ね返って(折れ返って)くると「教示」したわけである。

  これを読んでマルクス狂喜した。しかしマルクスの言葉も疎外されて社会の共有物になると、ただちに他者に解釈の権利を与えた。世界なんてそんなものだ。