穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

一人二役ではなく二人一役、承前

2011-11-19 22:20:24 | ドストエフスキー書評

 

岩波文庫の奥付をみると1954年初版になっている。そうすると私が読んだのは岩波文庫ではなかったのかもしれない。

 

とにかく、この小説が多重人格を扱った統合失調症ものの心理小説であるとするのは間違いである。シェークスピアの喜劇によく出てくる一人二役ものではない。二人一役ものである。ホフマン?などのドッペルゲンガーものの系統であり、さらに言えばアメリカ現代のホラーものでは、シャーリー・ジャクスンの一部の短編、アイラ・レヴィンの「ステップフォードの妻たち」へと連なる。

 

統合失調症と言うのは一つの乗り物〈肉体〉の上に複数の人格が相乗りし、スイッチの切り替えで人格が(テレビのチャンネルを変えるように)切り替わると言うものである。この小説は自分に酷似した人間が別の場所、空間に同時に現れて、人々が彼を本当の自分と思うようになり、自分の社会的地位が無化するということに対する義憤と恐怖を描いたものである。そしてその恐怖から発狂してしまう。このことから余計統合失調症と言う精神の病気と安直に連想されてしまうのだろう。

 

この小説は1846年に発表されたものである。主人公はペテルブルグの政府機関の小吏である。ロシアではまだ農奴解放(我が国の明治維新にあたる)の前であるが、官僚制度がようやく出来つつあるころで、役所と言う没個性的な所では氏や素性は小吏の階級では無いようなものだから、どこの馬の骨か分からないずるがしこい人間が現れて上役におべっかを使いまくり、仲間と徒党を組んでうまく立ちまわれば、上品でプライドの高い孤高の先任者などたちまち蹴り落とされるという社会である。これは現代の組織社会そのものである。日本の官僚でも会社員でも同じ状況ではないか。したがって、こういう観点からすると、ドストエフスキーはこの時代にすでに現代社会のホラーを把握していたという見方も出来る。

 

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ドストエフスキーのダブル

2011-11-19 17:03:13 | ドストエフスキー書評

 

久しくご無沙汰ですが再読物の感想です。今は岩波文庫の小沼文彦訳の「二重人格」だけのようですが、昔もこの人の訳で読んだかどうか。米川正夫だったような気もする。初読ではややこしい小説で読みにくいな、というくらいの印象しか残っていません。

 

改めて読んだきっかけは英訳のダブルを読んで大分印象が違うし、面白い小説だと思ったので、改めて日本語訳をパラパラと見た。この訳は結構平易です。平易と言うのは翻訳の十分条件でもなし、必要条件でもありません。いや、必要条件かな。出版社あたりからマーケティングの関係でとにかく、筋が通るように訳す様に現在では圧力がかかるのかもしれない。原文では意図的に筋が通らないように書いているのに、なんだがパック化粧みたいにつるつるにして出す恐れ無きにしもあらず。

 

それで翻訳が駄目になってしまうことがある。筋が通らない、ジャンプする、跳ねるということで意味が違ってくる。そこを部屋のリフォームではないがコーティングしてしまってシームレスにしては御仕舞になる。もっとも極端な例が詩でしょうが、小説でもある。

 

ちょっと、タイトルについて、二重人格と言うのは不適切でしょう。日本の翻訳小説の歴史で分身と訳されたこともあるようだが、このほうがベターです。しかし、今回読んだ英訳のダブルのほうがさらに適切でしょう。生き写しというニュアンスで。

 

「二重人格」というのは近年の解釈でこの主人公が流行の「統合失調症」だとしたり顔に批評する人が増えた影響かもしれません。つづく

 

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