穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

68:コンサルタントはウィールス

2021-05-30 07:00:10 | 小説みたいなもの

「コンサルタントと言うのは黴菌みたいなものね、もっとも近年ではウィールスと言ったほうがいいのかな」

「言いえて妙、いやいやそんなことはありません」と彼は慌てて否定した。

「だけど、大抵コンサルタントが入ると会社っていうのは潰れるみたいね」

たしかに、と彼は自戒した。彼のアメリカ人の同僚も言っていたが、コンサルタントと言うにはウィールスのように相手の会社に広がっていくね、と彼に話したことがあった。

「ところで何で電話してきたの。なんか魂胆がなければ電話なんかしてこないだろうし」

「貴方のほうからそう切り出してくれると話しやすいな。実は前から不思議に思っていたのだが、星だこがしきりに家族制度の廃止を勧告しているでしょう。だから、なんていうかその理由と言うか、内容も打診していると思うのだが、報道が全くないんだな。不思議じゃないですか」

「それで相手の具体的な提案内容が知りたいわけ?」

「まあね」

「どうしてそんなことを急に思いついたの」と彼女は探りを入れてきた。

「なんでって。最近仕事の端境期で暇なんですよ。それでふとそんなことを考えたわけです」

「ふーん、それで何で私に連絡したの」と畳みかけてきた。

「いや、別に特別な理由はないんですよ。貴方は事情通だし、政府関係にも情報網があるようだし、特別に機密情報でなければなにかご存じかとね」

「なるほど、わかった。なんとなく釈然としないけどね。だけど申し訳ないけど、わたしもその種の情報は持っていないな」

「そうですか。それじゃ」

「待ってよ、いくら暇だと言って、どうして貴方のような大物ビジネスマンの頭にそんな疑問がヒョイと湧いたのかピンと来ないわね」と彼女が考え込んでいた。

まさか彼女に最近のタイムトラベルの話など出来ない。彼女との電話を切ると、別に当座の仕事に関係することもないとそれきり忘れていたが、数日後彼女から電話がかかってきた。

「あなたの質問はまったくタイミングがよかったわね。この間内閣府の人間と会ったのよ。貴方の話とは全く関係の無い件だけどね。そこでふとあなたの疑問を思い出して聞いてみたのよ。そうしたらベラベラしゃべりだしてさ。あなたの求めているような満足のいく内容かどうかは分からないけどさ」

「ずいぶん口の軽い役人だな。飲ましたんですか」

「まさか、この頃はそういうことはうるさいからね」

「あなたの色気で口が軽くなったのかな」

「冗談言わないでよ。話を聞きたくないの」

「ぜひ教えてください」

 

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67:殿下の疑問

2021-05-27 07:33:10 | 小説みたいなもの

  新宿駅西口に聳える高層ビルの32階にあるモンスター社の支社長室の広い窓から富士山を眺めながら殿下はほっと深く息をついた。タイムトラベルから帰還後は一週間ほどどうも調子が戻らなかった。どうやら彼の現住所である「イマ、ココ」の自律神経が戻ってきたようだ。今朝は正常にスタートアップして、ようやく人心地がついた思いだ。

 星ダコの勧告通り家族制度が廃止されたら社会はどうなるのだろう。その結果経済はどうなるのか。どんな産業が興り、どんな産業が廃るのか、とどうしてもそんなことに思いが行く。経営コンサルタントの性(サガ)とでも云うのかな、と彼は心の中で自嘲した。

『それにしても妙だな。これまでも星ダコのGHQが家族制度の廃止を勧告したという報道は何回も流れたが、どういう風にするのかと言うその内容は全然流れてこない。国会でも論議されないし、野党も質問や追及をしない。おかしな話だ』と考えなら何か吹っ切れないもどかしさを感じたのである。『そうだ、ひとつ彼女に聞いてみるか』と思いついた。

 三年前、労働組合が三つあり、それが分裂して勢力争いにうつつをぬかしていた経営陣と巴を組んでどうにもならない内紛状態にあった会社のコンサルティングをしたことがあった。年商五兆円の会社であったが、十年来のゴタゴタを取材していた女性記者から話を聞いたことがある。彼女は数年にわたり、会社の内紛を取材してかなり深度のある事情を知っていたので、コンサルタテイションの前準備として彼女から情報提供を受けたのである。勿論有償で。彼女の数回の暴露報道が余計内紛を煽ったということもあったのである。

 一応しかるべき経営改善の報告をまとめ上げて、会社に提出したのであるが、勿論それを実施に移せるような社内の状況ではすでになく、彼の予想通り、その会社は間もなく会社更生法の申告をしたのであった。大体名の通った大企業が一流コンサルタントに相談に来るときにはどうにもならないほど状況が悪くなっていることが多いのではある。よく医者がいうではないか、もっと早く来ていればね、どうにもならなくなってから患者と言うものは来るものですよ、とは彼の義弟の医者の言葉である。

 殿下は大日本産業新聞の政治部に電話した。彼女は席を外していたので名前と電話番号を告げてコールバックの依頼を残した。会社名は告げなかった。

 午後になって多少警戒するようなしわがれた声で電話がかかってきた。

「誰かと思ったわよ。名前だけで思い出すと思ったの」と彼の可聴域を超えた甲高い声で切り込んできた。

「お忘れかもしれませんが、モンスター社のアリャアリャでございます。真実

社の件ではお世話になりました」

「思い出したわよ、貴方の勧告にも拘わらずあえなく会社は潰れたわね。やっぱり奇跡は起こせなかったのね。また新しいカモでも見つけたの」

「これは人聞きの悪いことを仰る」と彼は絶句してみせた。

 

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66:個性の問題

2021-05-26 05:51:23 | 小説みたいなもの

「お疲れじゃありませんか」

「それほどでもない」

「星タコの世界ではどうなんですかね、家族なんていうのはそもそもないのかな?」と殿下は問いかけるでもなくつぶやいた。

「さあ、どうなんですかね」

「さっきの精子バンクではないが、一つの受精卵から1024個というか1024人というか、子種を育てた場合はみんな同じ人間になるのかな。個性なんて無くなるのかしら」

「さあね、そういえば何時か新聞か何かで読んだんだが、三つ子や双子を生んだ母親のインタビューだったが、一人ひとり顔つきも性格も違うし見分けられるというんだな」

「全員がそうなのかな、それともそういうケースもあるということですか」

「さあね、私も専門家ではないから分からない。たまたまインタビュー記事に出ていた母親の話ですからね」

「たしか一卵性多胎児の性格とかIQについては心理学的な研究が昔からあったようだが、どうなのかな」

「そうねえ」

「犬や猫はいっぺんに複数生まれるのが普通でしょう。あれも一匹ごとに個性が違うのかな。そんな研究はあってもいいわけだがな。日常的なことだからね」

「考えてみると不気味と言うかホラーだね。一組の両親から一度に1024人の子供がうまれるのと同じことだからな」

「どうなんですかね、理論的な最大値が1024人と言うことでその時の客観情勢で一人の時もあれば四人、八人とかの時もあるということでしょう」

「そうだろうねえ、毎回人口が1024倍に増えていたらすぐに人類はパンクしちゃう」

 明智が思いついたように発言した。「なにも上限は1024人である必要はないんじゃないかな。要するに2の乗数ならいいわけでしょう?」

「そういえばそうだね。コピーの精度が落ちていくのかな」

「なるほど。いずれにせよ、人口調節庁と言うか省というかそういう役所が出来るんでしょうな」

「そうでしょう」

「おっと、そろそろジュースが効いてきたようですよ」と明智が注意した。殿下が自分の手を見下ろすと実体化して見えてきた。

「いや、これがなくて向こうでは困りましたよ。タイムマシンに乗るときに持たしてくれればよかったのに」と殿下は恨みがましく言った。

明智は笑って、この薬剤も幽体化してしまいますからね。向こうでは使えないんですよ」

「そうか」

「ところであなたは今度の発明を商品化するのですか」

「とんでもない。そんな考えはありません」

「どうしてです。地球の上の高々百キロの旅行にも何億円と言う金を払う人間がいるじゃないですか。これはいくらでも高く売れますよ」

いやいや、と明智は首を横に振った。ふと殿下の脳裏にかすかな疑念が生じた。

 

 

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65:素晴らしき新世界

2021-05-24 09:06:43 | 小説みたいなもの

「今現在の体調はどうですか。五感は正常ですか」と明智は問うた。

「そうですねぇ」とアリャアリャは舌なめずりをしながら、どうやら正常に近いようですね、と応じた。「視覚、聴覚は問題ないようです。味覚もどうやらあるようだ」と手前のジュースをまた一口上品に舐めた。

「臭覚はどうです」

「さあ、分かりません。なにか匂っているのですか」

「いやいや」というと彼はポケットから葉巻を取り出して火をつけて煙を相手に吹きかけた。

「なるほど、臭覚も問題ないようだ」

「それはよかった。ところであちらの様子はどうでした。今とは大分違っていたでしょう。日本語はまだ通用していますか」

「ええ、それは大丈夫です。近過去といっても三十一世紀から見てですが、地球規模の核戦争があったらしい。日本も放射能汚染がひどいようでね。外出するときには防護服を着用しないといけない。とくに生殖器を保護するために皆褌を占めているんですよ。異様な光景でしたね」

「フーン、海外でもそうなのかな」

「滅亡した国家も大分あるらしい。まあ、一週間滞在したと言っても正味は二、三日ですからね。観察できたのは。病院に何日か入っていたし、到着後は実体化するまでは相当慌ててジタバタしましたから周囲を観察する余裕もなかったし」

「そうですか。大変でしたね。なにかお仕事に役立つようなヒントが見つかりましたか」

「とんでもない、あまりに違いすぎて現代とは繋がりませんよ。そういえば、放射能汚染で種の絶滅の危惧が深刻でしてね。健全な精子や卵子が枯渇する恐れがあるというので、健康な精子などを集中的に採取する枠組みが出来ていましたね」

「どうするんですか」と彼は葉巻を口から離した。

「健康な生殖細胞をプールして人工授精するシステムがあるらしい」

「昔の売血と同じですね。それで受精卵は母体に戻すのですか」

「そんなことは不可能でしょう。誰の子宮に戻していいか分かるわけがない。それに受精卵は細胞分裂を繰り返して最大1024個の受精卵のコピーを作って人工の孵化器で処理するらしい。誰が親か決められないようですね」

「それじゃどうするんですか。胎児の孵化、分娩、保育、教育はどうなるんだろう」

「全部、国家がやるんじゃないですか」

「ふーん」

「それでね、私が虚体のまま到着したのが偶々精子採取現場の病院でしたよ」

「するってと社会的には大変動が起こるのではありませんかね」と思案気に呟いた。

「なんでも、星蛸の強い勧告が出て、家族制度を廃止するという計画があるらしい。国会で議論が進んでいるようでしたね」

「それは揉めるでしょうね。もっとも星蛸は今でも家族制度の廃止を提案していますものね。今度は、今度はという言い方はおかしいが、それしかないかもしれない」

「素晴らしき新世界というわけにいきませんね」

 

 

 

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64:時間は遅くなるのではなくて停止する

2021-05-22 11:52:11 | 小説みたいなもの

 アリャアリャは習慣的な動作で腕時計を確認した。もちろん彼の腕時計もまだ実体化していないのに気が付いたので明智に聞いた。「いま何時ですか」

「えっ、そう一時三十五分ですかね」と明智は自分の腕時計を見た。

「たしか、時間は正三時に合わせてあったはずだが、時間が逆行したのかな」と思案顔で心配そうにつぶやいた。

「いや、GPSのダイヤルは三時になっていましたね。ところがね、あちらで急病になりましてね、病院に入っていて退院の許可が出ないので医者や看護婦の巡回しない時間にダイヤルを合わせなおしたのです、脱出を阻止されないようにね」

「そうですか。何時に合わせたのですか」

「一時半にしました」

そこで殿下は気が付いたように叫んだ。ここに着地してからかれこれ四、五分は経っているかもしれないとすると、向こうを出たのが一時半でここへ着いたのも一時半ということになる。本当ですかね」

 明智は薄く笑って「タイムトラベルでは時間は進行しないんですよ。もっとも世紀は吹っ飛んでいますがね。時間は進行しないんです。もっとも私は三時にダイヤルを合わせておいたから、時間が逆行したのかと驚いたのですよ。しかしあなたがダイヤルを戻したと聞いたので得心したのです」

「アインシュタインの理論では猛烈なスピードで移動すると時間の進行が遅くなると言っているらしいが、時間が止まるとも言っているんですか」と物理学には疎い彼は質問した。

 明智は「さあ、停止するとは言っていないようですね」

「そうするとタイムトラベルは相対性理論を超えているわけですね」

「超えているというのがどういう意味だかしりませんが、相対性理論の適用外であることは間違いないです」

 明智は実体化促進ジュースがちっとも減っていないのに気が付くと「心配しないで飲んでください」と促した。

「ところで、向こうで入院されたということですが、よほどひどい症状だったのですか」

「ひどいのなんのって、体中を切り刻まれたような痛みに襲われましてね」

「それはまた、、感染症かなにかですか」

「ヘルペスとか言っていましたね。感染したというよりかは、子供の時に感染して体内で不活化していたウィールスが猛烈なストレスで活性化したのだろうと医者は言っていました。タイムトラベルと言うのもあまり楽しいものではないようです。肉体的、精神的にものすごいストレスがかかるものらしい」

「いまはどうです」

「二、三日は意識不明で集中治療室につながれていたのですが、だいたい、元に戻りつつあるようです。医者はまだ退院はだめだといっていたのですがね。すきを見て病院を脱出してきたのです」

 

 

 

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私の読書法(2)

2021-05-21 09:20:49 | 書評

 一応議論の対象を延べておいたほうがいいだろう。小説とお考えいただきたい。実用書とかハウツーものの新書などには当てはまらい。そういうものは大体一気に読めなければ即燃えるゴミだ、本は溜まると捨てにくいからね。

 小刻みに読むのを中断すると続きを読むときに前とのつながりが分からなくなるのではないかという疑問が湧く。もっともだが、二、三日置いて取り上げても前回の印象がのこっていてすんなりと読めるのが良書の条件である。もし、ひと月放っておいても五ページなら簡単に読み返せる。良書なら一度読んだ本でも数年後に取り上げてもすぐに内容を思い返せる。

 SFをまれに読む。現在SFもどきを連載中なので、いったいSFなるものでどこまでチャランポランが許されているのか、確かめるために読むのである。Sfにもいろいろなものがあるね。ノーベル賞のカズオ・イシグロも新著を出したが、ロボットと少女の友情物語だという。帯による。彼の前著「私を離さないで」もクローン牧場の話だったが、彼は村上春樹をまねたのか、SFづいてきた。

 SFっぽい要素を加えると自由度が大幅に増すようだ。

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私の読書法(1)

2021-05-20 08:52:23 | 書評

 第一は作者のスピードを超えないということである。そのスピードと言うのはネットではなくてグロスである。作者の執筆スピードと言うのはいろいろだろう。流行作家で興奮剤や覚醒剤(許された)を飲んで書きまくるものもいるだろうし、遅筆もいるだろう。そんなことは読者には分からないが、ま、見当をつけた言い方である。

 今は執筆速度を表すのは何かネ。昔は一時間に原稿用紙何枚と言う表現だったが、今はパソコンつまりワープロ(ソフト)で書くだろう。いまワープロ機で書く人はいないかもしれないが。そうするとどうなるのだ。A4用紙でプリントしてもフォントの大きさでも違うし、アメリカのように字数で言えればいいのだが、なかなか日本では馴染めない。

 それとあとさきになったが、ネットでなくてグロスで、というのはインターバルを挟んでということだ。パソコンに向かっていない時でも頭の中でプロットを練っている時間もある。アイデアを発酵させる時間もある。それも入れて執筆時間と言う。

 で、よく分からんのだが、一応一日平均文庫本の標準字組で5ないし10ページかな、と勝手に決めている。だから原則として一日10ページ読んだらやめる。だけどそれじゃ時間を持て余す。だから通常一度に7,8冊の本を読みまわす。机に上には数冊の読み止しが放り出してある。

 作者の執筆速度を超えないというのは作者に対する敬意である。

 

 

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63:テープは巻き戻された

2021-05-19 08:06:24 | 小説みたいなもの

 彼は時空を飛翔しながら記憶が猛烈なスピードで巻き戻されたのを感じた。巻き戻すというのは二十世紀のテープレコーダー時代の表現だな、と彼は時間の谷間で自笑し苦笑をもらした。CDならナノ秒のあいだにひょいと最初から再生される。

 最初は真っ暗闇の中にいた。耳の周りでドクドクと血液が流れるような音が聞こえだした。そのうちに彼を覆っている肉ひだのような袋の外側から男の声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。誰だったかな、と考えているとものすごい刺激が電気のように体中に奔った。そのたびに冬のコートのように彼を覆っている膜が強く収縮して彼を呼吸ができないほど締め付けた。静寂。しばしの静寂。肉襞が緩衣のようにゆるんでほっと息をつく。と、また荒々しい別の男の声、肉襞の収縮。強い刺激臭の充満が始まる。

 彼は今度は薄暗い部屋に寝かされていた。と、いきなり小学校の入学式らしい。広い講堂に深紅の厚い緞帳がめぐらせてある。誰かが演説をしている。そのうちに映画が始まった。新入生に向けて交通事故の注意を喚起している映画らしい。いまから考えると警察が小学生向けに作った簡単な交通安全をPRする映画だったのだろうが、その映画を見て彼は生まれて初めて恐怖と言うものを「自覚」した。

 今度は防風林を抜けて色とりどりの花々が小川の土手に咲き競う楽園のような田園に飛び出す。どうも田舎に行ったらしい。とにかく記憶と呼べるかどうか鮮明な表彰が、飛ぶように無数に流れ去る。それらの画面は彼の記憶にこれまでの人生で一度も再生されなかったものであった。そのうちに、ようやく彼の記憶にある学生時代やら社会に出てからの場面が再生され始めた。しかも彼が全く考えたことも無かったというか、思いつかなかった「ものがたり」の裏面を開示しながら。これは大いに参考になる。

 ドスンというハードランディングの衝撃で彼は我に返った。周りを見回すと、どうも旅行(タイムトラベル)に出発したビルの屋上らしい。不可視化されたペガサスは出発時と同じように前足を折って姿勢を低くして、彼が下馬しやすいように配慮している。しかしペガサスの姿は見えない。そうか馬も又虚体化しているのだな。かれが下馬すると任務を果たしたペガサスは天空に駆け上がった。見えたわけではない。一陣のつむじ風が巻き起こって乗馬が天空に消えた航跡を残したからである。

すこし離れたところから「やあ、おかえりなさい」と声がかかった。明智大五郎だった。

「御無事で」

何を言いやがる、無事に帰ってくるという確信もなくて客を送り出したのか、と殿下は腹がたった。実験動物のつもりでいやがる。

「どうかそこにある机の前のにある椅子にお座りください」

見ると明智は机の先数メートルのところに立っていた。

「そして、机の上にある赤い帽子を被ってください。まだこちらからはそちらの姿が見えないのでぶつかるといけませんから目印になります」

 殿下は椅子に座ると赤い野球帽を取り上げて被った。すると彼も机の反対側に来て椅子に腰を下ろした。

「それでは、まずその赤いジュースを飲んでもらえますか」と机の上のコップを示した。

「これはなんですか」

「実体化促進剤です」

「害はないんでしょうな」と彼は念を押した。実験材料にされるのはこりごりだと警戒したのである。

「ええ」と明智は笑った。「だいぶ薄めてありますから。それだけ効果は緩慢かもしれない」

「どのくらいで効果は出るのです」

「計算では三十分から一時間と言うところでしょう」

なんだ、やっぱりこれを飲むのは俺がはじめてか」と思った。ネズミでは実験したのかもしれないが。彼は用心して一口飲んだ。

「妙に甘いな」

なんだかイチゴジュースに塩と唐辛子を混ぜたように味がした。

 

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刑罰と恩寵62:曲垣平九郎出世の階段

2021-05-17 09:52:06 | 小説みたいなもの

 明くれば五月五日は端午の節句である。いよいよ今日だ。彼は四時から目を覚ましていた。五時にはむっくりとベッドから起き上がった。ペガサスはどういう風にして現れるのだろうか。病室で待っていていいのだろうか。ペガサスは体高一メートル五十センチ、体重五百五十キロの巨体である。どうやってここまで来るのかな、と考えると彼は不安になった。そうか虚体化しているから塵みたいにどこからでも入れるのか。それとも、あらかじめ実体化する余裕を見込んで来るのか。そうするととても窓から入ってくることは出来ない。エレベータで昇ってくるのか。いやこれもありそうもない。病院の外まで出て、前庭で待っていたほうがいいのかな、と考えた。

 やがて看護婦が朝食を運んできた。「大分顔色がよくなってきたわね」

「いよいよ今日だな」と彼はつぶやいた。

「えっ?」

「いや、あの洗濯ものは今日戻ってくるんでしたね」

彼女は妙な目で彼を見たが、「下着がそんなに気になるなら催促しておきましょう」と言った。

午前十時医者が回診にきた。「退院は何時になりますか」

医者は彼の様子を見て「二、三日中に出来ますよ」と答えた。今日は退院させないつもりらしい。

 昼食後洗濯ものが戻ってきた。彼は下着から上着までいつでも外出できるように身に着けた。どうしたものだろうか、病室でペガサスを待っていたものだろうか。やはり外で待ったほうがいい、と彼は何度か迷った末に立ち上がると一時過ぎには病室を出た。廊下に出てエレベーターに乗る。二階でエレベーターの扉が開くと、待合室から人々が興奮して発している騒音が彼の耳朶を襲った。見ると待合室の真ん中に尾花栗毛のペガサスが凝然と立ち、大流星がはしる顔をめぐらして当たりを睥睨している。待合室の患者たちは総立ちになって遠巻きにこわごわと馬を見てたち騒いでいる。なんだ、もう着ていたのか、と彼も驚いて時計を見た。一時二十分だ。少し早めに来て主人を待っていたのか。まてよ、俺が昨日時計のダイヤルを合わしたときにまちがえたのかもしれない、と彼は考えた。

 ペガサスは殿下を見つけると嬉しそうに嘶いて遠巻きにしている人間たちを蹴散らして近づいてきた。彼はたてがみを掴むと馬の背に飛び乗ろうとしたが、体が持ち上がらない。脚力は戻ったが、腕に全然力が入らない。それと察した利口なペガサスは前足を折ると姿勢を低くして彼が乗りやすいようにした。

 彼が馬の背に落ち着くのを確認するとペガサスは悠然と二階の出口を出て前庭に下りる階段を何事もないかのように下りた。馬にとって階段の上り下りは非常に危険なものだが、まるで愛宕山の階段を下りる曲垣平九郎の乗馬のようにいとも軽々と降りたのである。

 ペガサスは騎乗者を気遣うかのように軽く数歩ダクを踏むとやがて短い助走で空中に浮かびあがりたちまち雲間に消えたのである。

 

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刑罰と恩寵61:四次元GPS 

2021-05-14 08:02:03 | 小説みたいなもの

 翌日、朝食後昼までは看護婦も医師も来ないだろうと考えると、彼はベッドから立ち上がり病室内で歩行演習を再開した。クローゼットのような収納の前で彼は立ち止まった。このとき彼は初めて自分の洋服や持ち物はどうなっているのだろうかと心配になった。彼はその収納のような引手を開けた。予想通りクローゼットで、彼の着ていた洋服がハンガーに掛かっていた。下には彼の大きなショルダーバッグがおいてある。急いで取り上げるとベッドの横にあるテーブルの上に持ってきてその上に置いた。開けてみた。

 からの買い物袋の中に入れたダイヤモンドのカフスボタンはそのままであった。彼はほっと安堵したようにため息をついた。もっとも彼らは模造ダイヤかガラスで出来たものと思ったのかもしれない。 サイフの中身も無事だった。

 クローゼットのなかに洋服はあったが、下着はなかった。親切にランドリーに回してくれたのかな、と思っていると後ろでドアを開ける音がしたので彼はギクッとして振り向いた。看護婦が入ってきたのである。

「あら、荷物を調べているの、ちゃんとあるでしょう」

「ええ、そのようですね。下着は洗濯に出してあるのですか」

「そうですね」

「いつごろ戻ってきますかな」

「退院するまでには戻ってきますよ」と彼女は患者を安心させるようにほほ笑んだ。

「今日中には出来ていますかね」

「さあ、だけど明日はまだ退院できませんよ」と彼女は医者と同じことを言った。いざと言うときには下着なしで脱出しなければならないかもしれない。下っ腹が冷えないといいがな、とかれは考えた。

「今日は何日ですか」と彼は医者にしたのと同じような質問をした。

「ええと、四日だったかな。そう五月四日ですよ」というと患者の不安そうな顔を見て

「なにか予定があったのですか」

「そうなんですよ、困ったな」

「それじゃ電話で連絡したら」

「そうですね、そうします」と言ったものの彼の携帯では、ここではつながらないだろう。第一明智大五郎に電話して迎えの来るのを延期することなど出来ない。これはどうしても明日は秘密裏に強行脱出しなければならないだろうと彼は考えをめぐらせた。

 看護婦が部屋を出て行くと彼はテーブルの上に置いたショルダーバッグの中から四角い箱を取り出した。これが無いと帰れないのである。ヤレヤレ無事だったかとかれは中型の携帯ラジオくらいの大きさの機器を取り上げると調べた。どうやらいじられはしなかったようだ。これは携帯ラジオのごときものではない。四次元GPSなのである。これが無いと迎えに来るはずのペガサスと決して遭遇出来ないのである。壊れてはいないだろうか、と彼は電源を入れると、『チェック』と書いてあるスライドスイッチをオンにした。しばらくしてポッと青いランプがついた。それ以上慌てて操作するとどんな事態が招来するかわからない。その時が来るまでは触らないことにした。

 彼は再び病室内で歩行練習を繰り返した。

 夜になって彼は念を入れて再びGPSの確認をした。GPSを取り出して不安そうに調べた。実は五月五日に迎えのペガサスが来ることは教えられていたのだが、時間までは聞いていないような気がした。GPSを取り出して、点検して初めて気が付いたのだが、迎馬の時間を指示するアナログのダイヤル盤があることを発見した。とすると日時も変えられるかもしれない。液晶表示には五月五日午後三時になっている。なんだ、それなら退院も伸ばすことが出来るじゃないか、と思った。しかし、帰心矢のごとし、もう三十一世紀はこりごりだ。毎日外出のたびにフンドシを巻かなければならない。やはり予定通り明日帰ろう。

 第一彼は「イマ、ココ」で通用する健康保険証を持っていない。換金した残金で治療費が間に合うかどうかも見当がつかない。いよいよ退院となれば、それやこれやで彼が三十一世紀の人間でないことがばれてしまう。医療費未払いの無宿者で収容されるかもしれない。あるいは貴重種ということで博物館か動物園で展示されて一生を終わるかもしれない。親切に治療してくれた医療スタッフには申し訳ないが、これは黙ってふけるよりしょうがない。

 しかし、待てよ、午後三時と言うのはまずいな。丁度医者の午後の回診がある時間だ。こいつはまずいな、と彼は気をもんだ。昼食は十二時に看護婦が持ってくる。十二時から三時の間は看護婦も医師も来ないだろう。かれは時間だけは直したほうがいい。そうだな、一時半に合わせるておくか。しかし誤動作でGPSが取り返しのつかない暴走をしてしまうのが怖くて彼はしばらく躊躇した。明智から渡された取扱説明書を数度注意して読み返すと彼は時間表示のダイヤルに慎重に触れた。ゆっくり、ゆっくりと時針、長針を回した。

 

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60エキストラ=お知らせ

2021-05-11 07:06:40 | 小説みたいなもの

 昨晩夢に星蛸(ホシダコ)の親分が現れて『「アップデート要求」というのでは何のことか分からん。変えろ』と言われました。そういえば、前から何となく変なタイトルだな、とおかしな話ですが、自分でも違和感を感じていました。「どんな題にしましょうか」とお伺いを立てるともう親分は消えていました。床の中で朝まで考えていたのですが、ぴったりとした題が思いつきません。大体、話がどこへ行くのか自分でも分からない始末だから困ったものです。それで仮題として「刑罰と恩寵」としました。哲学ブログとしては何となく違和感がないように思いますがどうでしょうか。

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60:トイレに行きたい

2021-05-11 06:40:40 | 小説みたいなもの

「あせらないことですよ」と医者は言い残して出て行った。しばらくすると看護婦が朝食のトレイを持って入ってきた。看護婦なんだろうか。それとも食事の世話をするのは別の付き添いみたいな女性なのだろうか。彼女は彼の体をベッドに固定していた革ひもを解くと可動式のベッドの背もたれを起こして彼が食べやすいようにした。なんだか訳の分からない色をした汁を掬ったスプーンを彼の口元に持ってきた。幼児になったようで彼は恥ずかしくなって自分で食べると主張した。

「まだ無理じゃないの」と彼女はしわがれた声で言った。そうだな、汁物はこぼすかもしれないと思い、彼は箸を取り上げて煮魚をちぎって自分の口に運んだ。半分ぐらいは胸の上に広げられたナフキンの上に落ちた。

「やっぱりまだ無理よ」というのを無視して彼はすこしずつ食べ物を口に運ぶ練習を続けた。二回目からは大分調子が戻ってきた。皿の上の物を半分ぐらい食べるともう食べられなかった。

 看護婦が彼の汚れた口を拭った。

「そうだ、トイレに行かなくちゃ」

彼女は強情な患者を呆れたようにみた。彼の排尿管はホースでベッドの横の小便溜めに直結している。

「そこにすればいいじゃないの」

「いや、トイレでする」と彼は言い募った。

「恥ずかしいの」

なにをいいやがる、歩行練習だよ。二日後の帰還に向けて足腰を試して準備しておく必要がある。ペガサスが迎えに来ても動けなければどうにもならない。この強情そうな融通の利かない中年女を説得しなければならない。彼はベッドを下りようとして床に転げ落ちた。

「ほらほら、言わないことじゃない」

「ちょっと肩を貸してくれ。今のはタイミングが狂っただけだ」

「彼女は肩をいれて彼をベッドの上に戻した。力のある女だ。

「トイレに行くから手伝ってくれ」

「そんなことしたら先生に怒られてしまう」

「先生になんて言う必要はない。お礼はするよ」

彼女は根負けしたように「じゃあ、車椅子を持ってきましょうか」

彼は考えた。そうだな、女に寄りかかって病院の廊下を歩くのは目立つかもしれない。車椅子で往来するほうが病院では自然かもしれない。

 彼女は持ってきた車椅子の上に患者を放り上げるとトイレまで押していった。彼女は中には入れない。男便所だから、痴女でも無い限り女は入れない。もっとも痴女なら入ってもいいということでもないが。彼はよろよろと車いすを離れて立ち上がると壁につかまりながら便所に入った。

トイレに入ると彼は壁に手をつきながら休み休み、そろりそろりと中を一周した。幸いなことにトイレには誰もいない。意思の力のほうが大きかったのだろうが、脚力がだんだんと回復してきたようだ。彼はもう一回トイレの中を一周した。あと二、三回練習すればなんとかなりそうだ。男子トイレの外で待っていた彼女は彼を車椅子の乗せると病室まで戻った。

 

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アップデート要求59:「今日は何日ですか」

2021-05-10 06:57:50 | 小説みたいなもの

 鎮痛剤かなにかを注射されて病院に担ぎ込まれたらしい。昏睡状態から痛みでときどきうっすらと意識がもどってきたが、すぐに暗闇の中に沈んでいった。

それは光だった、強い日差しを瞼の上に感じて光の圧力で彼は目が覚めた。かれは周りを見回した。顔の上は何やらマスクのようなものがかぶさっていた。頭の上のほうでシューシューとガスが漏れるような音がしている。時々音は疲れたように静かになるとぶつぶつと泡立つような音に変わった。そのうちにまたシューシューといいだす。体は皮のバンドのようなもので固定してあるらしくて寝返りも動くこともできない。視線を体の下のほうに動かすと、汚らしい管が体に何本もついている。

そうか、病院に担ぎ込まれたらしい。動かない頭を無理に動かした視線の横には白い壁があるだけだった。個室らしい。と言うことは集中治療室かなと思った。

ずいぶん時間がたったのに誰もこない。なんの音もしない。何時なのだろう、どうも早朝らしい。そのうちに建物のあちこちで一日の活動が始まったらしく、かすかにいろいろな音が聞こえてきた。やがて看護婦が来た。彼女はベッドわきに立って患者を観察すると体温を記録して出て行ってしまった。

 今度は中年の痩せた男が入ってきた。医者らしい。そばに来ると酸素マスクを取り除けた。「どうですか、息苦しいですか」と聞いた。

彼は弱弱しく首を横に振った。

「息苦しくなったら言ってください。またマスクをつけますから」というとベッドのそばに椅子を持ってきて腰かけた。髭の濃い角ばった顔をした医者だった。

「気分はどうですか」

口を動かすと言葉が出るようになっていた。「ええ、いいです」

「すこし、お話しできますかね。日本語はお分かりですか」

「ええ、大丈夫です。わたしの病気はなんだったのですか」

「一種の感染症でね、あなたは免疫が無かったらしく症状がひどくなったようです」

「治るんですか」

「勿論です、もう峠を越したようだから数日で退院できますよ」と励ますように言った。

なに、数日だってと彼は心配になった。「今日は何日ですか」

「ええと」と医者は腕時計を見た。「五月三日ですが」

なんだと、明智はペガサスを一週間後に迎えによこすと言っていた。そうするとあと二日しか余裕がない。

「明日退院できませんか」

医者は呆れたように彼を見た。

「大事な要件がありましてね。どうしても行かなければならないところがあるのです」

「無理ですよ」

 エラいことだ、もしペガサスとドッキング出来なければ永久に三十一世紀に無宿者として取り残されて野垂れ死にをする。

ふと思いついて彼は医者に質問した。「放射能と関係がありますか」

不審げな顔をした医者に言った。「実は昨日は防護装置を付けずに外を大分歩き回ったんですが悪かったでしょうか」

「いや、関係ないでしょう。それよりか疲労するほど歩き回ったとか、体が冷えたとかということなら発症を誘発したかもしれない」

彼の顔が真っ青になって喘ぎだしたのに気が付いて医者は慌てて酸素マスクをかぶせた。

 

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アップデート要求58:医者の見立て

2021-05-07 07:09:27 | 小説みたいなもの

 声を失ったばかりではない。起き上がれない。手も足も動かないのである。ほぼワン・ミレニアムをひとっ飛びした長旅の無理が出たのかもしれない、と彼は薄れた意識の中で考えた。今度はへそ周りで胴体を輪切りにされたような痛みを覚えた。短い間に幽体化という激変を潜り抜け、今度は無理やりに実体化するという不自然な激変が体に影響を与えないわけはない。大体明智大五郎はこういうことに関してなにも注意してくれなかった。

 彼自身も気が付いていなかったのかもしれない。宇宙飛行士だって地上では経験できない環境に行くときには半年から一年以上訓練を受けていく。ミレニアム越えの旅行では周到な訓練が必要だった。無責任な男だ、と明智を心の中で毒ずいた。

 カーテンを越してかっと差し込んでいた朝の陽光はしだいに部屋の中を移動していった。もう数時間がたったように思った。ドアがノックされた。彼は動けないし、声も出ない。そのうちにドアのかぎをガチャガチャといじる音がすると、誰かが入ってきた。そのうちに掃除機をかける音がした。清掃係の女性が入ってきたらしい。客はもう外出したとおもったのだろう。客室の床に掃除機をかけ、バスルームで水を流して洗っている音がしていたが、やがて寝室に入ってくると床の上に体を不自然によじらせて倒れている客の姿を発見して彼女は悲鳴をあげた。彼女は掃除機を放り出して部屋を飛び出していった。

 やがてボーイを連れて戻ってきた。一瞬ボーイは床の上に横たわっている殿下を見て立ちすくんでいたが、腰をかがめて姿勢を低くすると「どうなさいましたか」と声をかけた。かれは意識はあるが声は戻らない。かっと見開いた眼はボーイを見上げているから眼は見えるらしいが、声は出ない。大体口の筋肉がマヒしているらしく口が開かない。唇がかすかにひくひくと動くだけで一層不気味な印象を与えたらしい。

 「お医者さんを呼んできて」と女性に命じた。

 彼は相手を助け起こしてベッドに運ぼうとしたが体重百キロ以上はありそうな巨体は動かせなかった。

 やがてホテルに常駐しているらしい若い医者が来た。

「先生、彼をベッドに連れて行こうとしたのですが重いんです」というと医者は手を貸して二人係で病人をベッドまで運んだ。途中でからだに巻いていた毛布が床に滑り落ちた。

「さむけがしていたらしいですね」

「そうだな、昨夜は暖房は入れていなかったのかな」

「この暖かさですから、入れていませんが普通なら寒さは感じないはずですよ」

「そうだな」と医者は患者の顔を観察していたが、「ひどい汗だな、着替えをさせたほうがいい」とワイシャツを着たまま寝たらしい相手を見た。

二人がかりで大男の肌着を脱がすと医者は驚いたように声をあげた。左の肩から背中にかけて真っ赤な傷口のような鮮やかな線が体を一周している。ボーイも驚いたように「なんです」と声をあげた。

「辻斬りにあったんですかね」

時代劇のDVDばかり見ているらしいボーイは叫んだ。「真向みじんに袈裟懸けに肩口から切り降ろされている」とボーイは彼なりの診断をくだした。

医者はあきれたように彼を見た。

「馬鹿を言っちゃいけない。辻斬りなんて今の世の中にいるわけがない。二尺三寸のダンビラを振りかざして往来で人を切りつけるなんてことがあると思っているのかね。第一血が出ていない」

「それもそうだ」とボーイは初めて気が付いたように間の抜けた声を出した。第一往来で辻斬りに遭ってホテルまで帰ってこれるかね」と医者はボーイにからかうように調子を合わせた。「ホテルに着くまでに失血死しているよ」と医者は論理的に話を結んだ。

 医者は客の裸にした状態を観察していたが、

「三叉神経痛だな、新種のヘルペスかもしれない」

「ヘルペスって」

「感染症だよ。私も実物をみるのは初めてだ。教科書に出ている写真でしか見たことがない。こんなにひどい、典型的な症例は。最近ではほとんど見かけなくなった。たまに幼児で発症するのがいるが、こんなに重症化するのは珍しい」

ボーイは汗だらけの客の体を触った自分の手を慌てて自分の体から離した。

「大丈夫ですかね」と心配そうに聞いた。

「大体成人は抗体を持っているから大丈夫だろう。子供の時分に感染して抗体が出来ているからね」

「しかし、この人は抗体を持っていなかったんですかね。中東の人みたいだけど」

「うむ、まれに大人でも抗体のない人がいるらしいね。ぺルぺス・ウィールスに晒されずに育った人もいるだろう。たとえば人里離れた山奥で外界と接触せずに成長した人とか、絶海の孤島で外界と無縁で成長した人が、大人になって世間に出てきて感染するとひどいことになるそうだ」

「じゃあ中東の人は抗体がないんですね」

「そんなこともないだろうがね」と医者は言った。抗体がある成人でも、ものすごいストレスにさらされると、体の奥に抑え込んでいたウイールスが活性化する場合もあるからな、この人もなにか耐えられないようなストレスにさらされていた可能性もある」

「私は大丈夫ですかね」とボーイはか細い声を出した。

「そんなに心配しなくてもいい。手をよく洗うんだな」

「この人はどうします」

「そうだな、病院にいれたほうがいいな、それは私が手配しよう」

 

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アップデート要求57:旅の疲れ

2021-05-05 08:58:31 | 小説みたいなもの

 コーヒーは予想通り薄かった。といっても彼にとってはと言うことだ。もともと挽いていない豆を鍋にぶち込んでじっくりと時間をかけて煮だすコーヒーしか彼は飲まないのだ。舌の上にザラザラしたコーヒーのカスが残るくらいのが丁度いい。こんなに薄くてはカップの底に何も残らない。コーヒー占いも出来ない。しかも眠くなってきた。コーヒーが薄すぎるのかもしれない。彼はお代わりを注文した。

 ところがしばらくすると、前よりか泥のように濃い睡魔が襲ってきた。すこしその辺でも歩いて眠気を覚ますか、と彼はレジに向かった。女性の先客が清算をしている。ぱっと目が覚めるほどのボデイではないが、なかなかのシェイプだ。清算をすますと店を出た。先ほどの女が近くの交差点で信号が変わるのを待っている。信号が青に変わって彼も女性の後をわたった。動くと、いや歩くと彼女の肢体に目を奪われた。眠気もすこし覚めたようだ。彼女の腰の動きが複雑でそそる。どこに行く当てもない彼はしばらく女の後をつけた。

 彼女の腰の振り方を関数で表現したらどうなるかな、と考えた。規則性があるようで無い。腰のあたりの骨格とか筋肉の付き具合が特殊なのだろう。彼女ならストリップ劇場でも、普通に舞台の上を歩いただけでも観客を喜ばせることが出来る。彼女はどこに行くのか、バスにも乗らず、駅にも入らず、買い物をするでもなく、ぶらぶらと街を歩く。彼の眠気もどこかに行ってしまった。

 一時間以上女の後ろをつけていただろうか、足も疲れてきたのでそろそろホテルに帰ろうかと思ったが、気が付くと彼は全く人気のない、商店もない、倉庫のような建物が並んでいる一角にいた。なんとか人通りの多い道に出ようと歩き回ったが、どういうわけか、土地に方向感覚を狂わせる磁力であるのか、何時まで歩いても同じようなところを回っている。女はとっくの昔にどこかに行ってしまった。

 そのうちに日が暮れると急に気温がさがり、嫌な冷たい風が吹いてきた。疲れ切ったうえに骨の中までが凍てついたようになって、ようよう深夜になってホテルにたどり着いたのである。その夜は何もする気がなく買ってきた雑誌や新聞も床の上に放り出してベッドに入った。

 深夜猛烈なさむけに襲われてベッドの中でがたがた震えだした。寝ていられなくなった。彼は起き上がると靴下を履きクローゼットの中をかき回して予備のタオルを何枚も体に巻いて再びベッドに入った。

 翌朝目が覚めると背中に猛烈な痛みを感じた。左の胸から背中にかけて真っ向から袈裟がけに刀で斜めに切り下げられたようで、へその右側まで切り下されたような痛みがあった。これは大変だ、とホテルに電話しようと、やっとの思いでベッドを出ると受話器のあるところまで這っていったが、受話器を取り上げても声が出ない。そのまま床の上にくずおれた。

 

 

 

 

 

 

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