穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

入り鉄砲に出おんな

2022-11-29 09:24:02 | 小説みたいなもの

 四海貴司は地表に這い出ると近くのコンビニに入り夕刊タブロイド紙を買った。一面には毒々しいカラーインクでサッカーワールドカップの記事が躍っている。家に帰ってから読めばいいのだが、こういう記事を見るとすぐに読みたくなるものだ。そのコンビニはイートインになっていたのでカウンターに座るとタブロイド紙を広げた。一応読み終わると、新聞を畳みながら彼はさっきの地下での珍事を反芻した。
 何故だろう。相手が狂人であることは間違いないようだが、狂人の発作的行動にはそれなりの理屈はあるはずである。そう考えると最近の似たような経験が思い出された。似ているかどうかは、彼の印象に過ぎないが、ライプニッツの充足理由率の信奉者である貴司はそのように思い出した。それは池袋西口でのことであった。彼は雑踏の中を前の男にぶつからないように距離を取って歩いていたが、そのルンペン・アーティスト風体の男はいきなり振り返ると「なんだ、この野郎」ととびかかってきたのである。
 後ろからぶつかったわけでもない。足が相手の踵を踏みつけたわけでもない。相手は白髪が混じる油気のない、櫛も入れずに頭の周りに広がった髪の毛の頭の大きな、背の低い中年のおとこであった。茶色のくたびれたジャケットにジーパンと言う格好である。貴司はたしか西口にある芸術劇場?とかで働いている、その他多数のアルチザン気取りの男かもしれないと思った。  男は徹夜明けのような疲労して濁った眼で睨んできたが、そのうちに自分の間違いにはっと気づいたのか、くるりと前を向いて歩み去った。
 なんにも「表面的には」理由もないのに被害者面をして向かってくるところはさっきの地下鉄事件と共通点がある。根が徹底的に反省的に出来ている貴司はその原因を深堀りした。ショーペンハウアーは充足理由率に四つの根を与えた。四つ目は、いわく、動機である。狂人にしても、徹夜明けのルンペンアーティストにも四海に向かってくるのは彼らなりの動機があるのだろう。彼の意識には思い当たることはないとはいえ。
 彼は自分の下意識を深堀してみた。地下鉄の狂人の場合はどうか。下意識で一瞬でも何かがうごめいたのか。座禅のときに下意識に下りていくよう深呼吸を数回してから、かれは自分の下意識の空間を点検した。あるいは一瞬狂人の横に席を空けてやったのに彼がそこに荷物をどさりと放り投げた時に無作法な奴だという想念がよぎった可能性がある。それを彼がキャッチしてキレタ可能性はあるな、何しろ相手は正常ではない。常人が感じとれない、かつ四海本人も気が付かないそういう想念をキャッチしたのかもしれない。
 そうすると、池袋の場合はどうだ、と考えた。あの時に彼は前方の相手がどんな職業の人間だろうかと相手の蓬髪を見ながら考えたようだ、勿論無意識のうちにナノ秒ほど。それが相手に捕捉されたのか。両方の場合、相手の感度が異常に高かったのだろう。一方四海のほうでも本人が気が付いていない下意識の動きが「漏れ出した」のかもしれない。

 どこかで前にニーチェだったか「自我のダダ漏れ」ということ書いていたのを聞いたことがある。自我と言うものは細胞膜のようなもので、必要な情報は選別して取り入れ、また細胞膜から情報を目的に応じて選別して外界に出している。とすると最近の彼は自我の細胞膜が正常に機能していないのかもしれない。要すれば自我の細胞膜と言う関所が機能しなくなることがあるらしい。入り鉄砲に出おんなという譬えもあるからな、と彼は独り言ちたてコンビニを出たのである。

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ダダ漏れ(1)

2022-11-27 07:14:55 | 小説みたいなもの

 相手はいきなり回し蹴りを下肢に加えてきた。彼は危うく地下鉄の線路に転落しそうになった。とっさに持っていた傘を思い切り相手の腹部に突き刺した。相手はよろめいて二三歩後ろによろめくと野獣のような唸り声をあげて反撃してきた。ホームには乗客は一人もいない。こうなったらやるしかない。彼は傘を持ち直すと手をあげて襲い掛かってくる相手の空いたわき腹を横に払った。彼は異様なうなり声をあげて向かってくる。厄介なことになりやがったな、と彼は舌打ちした。
 相手は狂人に間違いない。若い、まだ二十歳ぐらいの男である。顔は端正で美男子と言ってもいい。盛り場にいて通行人に因縁をつけて小遣い銭を巻き上げるようなチンピラには見えない。最初に側のベンチに座った時には全く常人に見えた。三人掛けのベンチで彼は相手が来るときに丁度席を立とうとしていて脇の座席に置いた荷物を取り上げて席を離れた。四、五歩離れたあたりで後ろからオイと凄みを利かした声がした。振り返るとその男が血相を変えている。一瞬のうちに凶暴な殺意が表情に現れた。こいつは剣呑だ、と相手にせずにさらに離れると、再び前にも勝る大声でわめきだした。こいつは頭がおかしいな、と相手にせずに階段の裏側まで離れた。
 そうすると、いつの間にかそいつが忍び足で近づいてきたらしい。そしていきなり回し蹴りを加えて来たのである。これは後で考えたことだが、ここで説明したほうがいいと思うので書くが、おそらく相手が席に座ると同時に彼が席を離れたので、相手は自分が嫌われて忌避されたと思い込んだらしい。偶然のタイミングでそういうことはあるし、普通の人間でもそういう瞬間にはチラッとおやと思うことはあるが、それで発狂したように相手に回し蹴りを加えることは無い。
 さて、話の続き、ホームは無人である。誰も駆けつけてこない。駅には監視カメラがあるはずだから駅員はホームの異常は分かるはずだが、駅員が駆けつけてくる気配もない。しばらくやりあっていたが、傘を持っている相手には不利だと考え出したらしい。彼は剣道二段の免許を持っている。傘でも結構有効な道具になる。駅員はどうしたんだ、と思っているところへ彼よりも若い小男が異変に気が付いて駆けつけてきた。いきなりその狂人を後ろから羽交い絞めにした。狂人よりはるかに小柄で身長は彼より頭一つ低く体格も貧弱である。その助っ人は狂人の耳元に何やら囁いた。そうすると今までの狂乱ぶりが嘘のように相手はおとなしくなってしまった。
 以下は危機を脱してから彼が行った推測である。此の狂人はやはり精神病患者で止めに入った男は病院の看護付き添い人なのだろう。何かに理由で外出か帰宅を許されてその付き添いの監視のもとに帰宅?途中だったのだろう。丁度発作が起こった時に付き添いはトイレに出も言っていたのかもしれない。

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サッカーはスペースを嫌う

2022-11-23 07:58:00 | 小説みたいなもの

 容子との土曜日の定例朝食会である。陪食させているテレビがワールドカップの予想をしていた。
「そうか、サッカーではスペースを嫌うんだな」
「なによ、いきなり」と彼女はソーセージに乱暴にフォークを突き刺しながら言った。
「いやさ、これをアリストテレスはこう表現した、『自然は真空を嫌う』とね」
「なんだよ、いきなり精神分裂症患者みたいなことを言って」。彼女は昨晩の経過にいささか不満のようで欲求不満気味であった。
しょうがない、最近は体力も回復してきたのでリュックにバーベル数本を入れて負荷をかけて一日一万歩を実行しているのだ。この夏の強烈な暑気あたりの後遺症と思われる意識障害は解消したらしい。そのかわり一日の終わりにはヤヤ疲労を覚える。
 振り返ってみると、ここ一週間以上「サカイ氏」が視界に侵入して来ない。おそらく暑気あたりの後遺症で頭に空白が出来ていたのが解消したらしい。
「最近は彼が侵入して来ないんだ。体力が回復して頭に空白が無くなったからだろうな」
「ふーん」と彼女はしばらく無言で考えていたが、
「インチキ宗教でもまず、相手の頭を空っぽにしてから邪教を注ぎ込むものね。そういうメカニズムはあるんだろうな」
「大切なのはリセットであったフォーマットではないわけだ」
「体力が回復したのはいいけどさ、、」と彼女はまだ不満そうであった。「だけど仏教なんか、禅では座禅して心をカラにしろとか、無念無想とかいうでしょう。あれは同じことじゃないの」とするどく突いてきた。
 彼はたじたじとなったが、「そうだな、おなじメカニズムを利用しているんだろう。しかし、新興宗教の大部分は空になった心に邪念を注ぎ込むのに対して、まっとうな宗教は正しい教えを注ぎ込むわけだ」と急ごしらえの城壁をこしらえあげたのである。
 彼女はフンと鼻を鳴らすとトーストにジャムを塗りたくった。

 

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浮遊霊?

2022-11-21 06:26:20 | 小説みたいなもの

 窓下でか細いエンジン音が聞こえた。オートバイが駐車場を出て行ったようだ。出る時にも壮大な爆音を轟かせそうなものだが、近所の誰かに注意されたのか、消え入るような遠慮がちな音だ。気弱なサラリーマン・ライダーなのだろう。これが愚連隊みたいなやつだったらクレイムをつけた人間に凄むところだったろう。
 裕子が思い出したように言った。「そういえばこの間テレビで似たような話があったよ」
「へえ、どんな話」
「アメリカかどこかの話でさ。おばあさんの夢に鮮明な土地の記憶が出てきたんだって。しかもその場所というのが一度も行ったことのない場所で、夢に出てくる人物も全く知らない人だというのよ。しかもその人たちが話すことまで、まるで現実のように覚えているんだって」
「まるで映画を見ているみたいだな。天然色パノラマ、トーキー映画だ」
「あなたも古い表現を知っているわね」と彼女は呆れたように言った。
「そうすると、俺の場合なんか幼稚なものだな。視覚だけが断片的に表れるだけだからな。それでNHKだったのかい」
「まさか、NHKはそんな際物をするわけがないじゃない。民放よ」
彼女は空になった紅茶茶碗を未練らしく指で撫でていたが、それでね、そのおばあさんが、夢に見た場所を探し始めたの。あなたのロケハンに似ているなと思ったという。
彼は思わず話に引き込まれた。「それで見つけたのかい、その人は」
「そうなのよ」というと彼女は彼に気を持たせるように間を置いた。
「それで」と彼は先を促すように聞いた。
「それがさ、私が見たのは番組の最後だけなのよね。だからどうしてその場所を探し出したかは聞き漏らした」
「なんだ、バカバカしい」と担がれた思った彼は吐き捨てた。
「ところがさ、この話に箔をつけるためか、心理学者めいたおっさんが最後にコメントしているわけ。『記憶にはまだ分からないことが沢山あります』とさ」
「そうするとその学者は事実を認めている?」
「そうね、そうじゃなきゃテレビで出さないでしょう」
「それから」と彼女は思い出して付け足した。「その他人の記憶と言うのがもう死んだ彼女の両親くらい年の離れた人たちの記憶なのよ」
「よく分からないな。それならどうしてその人は確認したんだい」
「つまり探し当てたら、そこに現在住んでいる夫婦は彼女の記憶にある人達の子供だったわけ。で彼女が記憶の内容を確認するとそれが現在住んでいる夫婦の記憶と一致したというのよ」
 死んだ人の記憶のカタマリが浮遊していたわけだ。ベルグソンの宇宙魂説を裏付けるような話だ。

 

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Fur Sich

2022-11-20 08:10:23 | 小説みたいなもの

「どうして彼だったとわかるの」
「俺の知覚に割り込んでくるやつはそういないだろう。あいつに決まってる」
 彼女は注意深く紅茶を一口啜った。「だけどどうして顔が入ってきたんだろう。新しいフェーズだね」と語呂合わせのように不審げに呟いた。
「フュア・ジッヒだよ」
「何それ」
「つまり自分の顔が自分に折れかえって自分の視野に入ってきたんだよ。ヘーゲル流に言えば対自だな」
「また分からないと思って無学な私を馬鹿にするのね。ちゃんとわかる言葉で説明してよ」
「最初はいきなりジャリジャリという音が耳に入ってきたんだ、寝ているときにね。ネズミが天井裏をはい回っているのかと驚いて目を開けると天井にあいつが貼りついていた。第一安普請のマンションだって天井裏なんてないものな。
 驚いたのなんのって。最初は俺の顔だと思ったわけ、どうして俺の複製が天井から見下ろしているんだろうと肝をつぶした。しかし落ち着いてよく見ると俺じゃないんだ。そうするとあいつに決まっている。そのうちに視線の焦点が合ってくるとそれは鏡像なんだな」
「なによ、キョウゾウって」
「鏡に映っているんだ。ジャリジャリと言う音は髭を剃っている音で、鏡を見ながら剃っている。その姿が彼の視覚に入っているんだ」
「へえ、ややこしいこと」
「それでどんな顔をしていたの」
「さあ、三十代の男だったね。勤め人風だね。神経質そうな青白い顔色だった。顔を撫でまわしていたけどすごく指が長かったな」
「へえー」とびっくりしたように言うと彼女はしばらく沈黙した。
 我に返ったように彼に聞いた。「それで住んでいる所は分かったの」
「分からない」
「相変わらずロケーションハンティングは続けているの」彼女は紅茶カップの底をのぞき込んだ。
「いや、全然。それに考えてみるとマンション群のなかに取り残されている昔風の家屋は都内でも結構沢山残っているんだ。友人でさ、不動産会社の調査をしている友人に相談してみたんだが、そういう資料はもともとないらしいんだが、断片的な情報でも都心にいくらでもあるというんだよ」
「それで萎えてしまったのね」
「そう、それに俺の育った家もそんなところだったからな」と彼は思い出すように言った。

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土曜の朝

2022-11-17 08:35:37 | 小説みたいなもの

「君は炒り卵を作るのがうまいね」
えっと彼女は怪訝そうに聞き返しいた。「これのこと?」とテーブルの上の皿を指さして聞き返した。「炒り卵なんて今頃いわないよ。スクランブルエッグっていうのよ」と彼女は現在形で言った。
「そうか、単純な料理なんだが作る人によってうまさが全然違うんだよな」
「誰に作ってもらったの」と彼女はやや口をとがらせて聞いた。
「いや、だれというか、 例えばレストランやホテルなんかでも店によって随分味が違う」と彼女の誤解を慌てて解いたのである。
「そうだねえ」と彼女は考え深そうに答えた。「日本料理でもその店の卵焼きを食べれば料理人の腕が分かるというわね。あれも日本料理ではもっとも素朴で単純な料理だけど、ものすごい差が出るらしいから」
 突然マンションの下の駐車場で爆音が破れた薬缶のような音をたてた。彼は立ち上がると明け放してあった窓を閉めた。今日は土曜日だったな、何時かなと時計を見た。十時半だった。安サラリーマンが週に一度のお楽しみにやってきたのだ。駐車場にはアイドリング厳禁と言うコーンが置いてあるが、彼らはお構いなしに騒音を楽しむ。まるでライブ感覚だ。

 安月給でようやっと買い入れてピカピカに磨き上げたオートバイだが彼らのせせこましい家には置くところが無いし、路上に置けば盗難の心配がある。そこで住宅地の真ん中にある駐車場に預けて週末にやってくるのだ。
窓から下を見るとオートバイの横には精一杯めかし込んだ革ジャンパーを着こんだ若い男が弱よわしいガールフレンドを連れてきていた。彼の宝物を自慢するつもりだ。それなら早く駐車場から連れ出せばいいのに、延々と静かな週末の住宅街に騒音をまき散らす。一張羅の宝物だから十分にチューニングが必要なのだ。騒音だけで充分に楽しめるのだ。安っぽい若者だ。
「ひどい騒音ね。いつからオートバイをおいているの」
「そうだな、先月からかな」
彼女はここしばらく彼のところに泊まらなかったので、この朝の気違いじみた騒音には驚いたようだ。
「ところで彼は現れているの」
「うん、時々ね、この間はあいつの顔を見たぜ」
ぎょっとしたように彼女は目をしばたかせた。「やっぱ男だったのね」

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ジャリジャリ

2022-11-14 07:04:10 | 小説みたいなもの

 朝五時ごろ、そろそろ膀胱から排尿を促す信号が上がってくる頃だった。大友秀夫は時間を確認しようとした。少なくとも五時前には起きないことにしている。五時前に起きてしまうと晩飯を食べた後ですぐ眠くなってしまう。
 ジャリジャリと耳障りな音がするので不審に思い確かめようとした。五時と言うとまだ暗いから携帯の画面で時刻を確かめる。ベッドの横に手を伸ばしてスマホをまさぐったが掴めない。しょうがないから目を開けて確かめようとした。驚いたのなんのって、天井に張り付いて俺を見下ろしている男がいる。しばらく恐怖で金縛りにあった。
 俺はまた死んだのかと思った。幽体乖離ということが起きると物の本にある。睡眠中に魂が体から抜け出てどこかに行ってしまうという民話は世界各地で民俗学者によって多数収集されている。睡眠中なら朝になれば母艦に戻ってくるようだからまだいいのだが、死んだときにも魂が抜け出て天井にぶつかるらしい。魂は精神だから重量が無い。ふわっと上に昇るらしいのだ。そして天井にぶつかるということらしい。
 えらいことになったと思ってもう一度天井の顔をよく見ると俺じゃない。その男はそのうちに手に持ったシェーバーでジャリジャリと髭を剃りだした。さっきから髭を剃る途中だったらしい。シェーバーを当てていない側の頬はすべすべしている。右側(左側)はさっき剃り終わっていたのだろう。
 秀夫は最初のショックからやや立ち直ると、これは例のサカイさんかもしれないと気が付いた。駅のガード下のスタンドバーで噂を聞いた男かもしれない。映像で入ってくるだけではなくて音でも侵入してくるようになったのか。
 どうにかして、秀夫の視覚に侵入してくる人間の正体を確かめようとしてロケハンを試みていたのだが、彼の顔は秀夫の視覚には入らないから今まで一度もその機会がなかった。髭を剃るので鏡を見ていたのだろう。それでそこに映った彼の顔が秀夫の視覚に入ったということだろう。
 そのうちにジャリジャリする音が聞こえなくなったと思ったら天井の男は手のひらで顔を撫でまわしている。剃り残しが無いか確かめているのだろうか。スリかピアニストのように長い指だった。そのうち男は鏡の前から離れたのだろう。顔は見えなくなった。そのかわりシャワーのノズルが見えた。浴室に入ったらしい。やがて映像は途絶えてしまった。
 年齢は三十台に見えた。神経質そうな表情をしていた。

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胎児よ胎児よ

2022-11-13 21:15:27 | 小説みたいなもの

 貴司は夕食後ベルグソンの「物質と記憶」のページを広げた。別に理解したいとも面白いとも思っていない。夕食で食べたものが胃から腸へと送り込まれたころに入眠剤として広げるのである。二、三ページも読むと眠ってしまう。二、三時間するといい具合に転寝から目が覚める。それから皿を洗ったり掃除をしてからテレビを見たり少し物を書くと丁度寝床に入るのに良い時間になる。
 そんでもってベルグソン、岩波文庫で訳者は東大の先生の熊野純彦さん。この人はカントの「純粋理性批判」も岩波文庫で訳している。ベルグソンは有名な反カント主義者だが、熊野先生は清濁併せ飲むではないがなんでも訳しちゃう。
 ところで何でこんなことを書いているかと言うと、熊野さんの解説の冒頭で夢野久作の上記の詩を引用しているからだ。全文かどうかは夢野作品を読んでいないから分からないが、熊野先生が引用している詩は次の通り。
『胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心が分かって
恐ろしいのか』
 夢野久作の長編小説「ドグラ・マグラ」の冒頭にあるらしい。小説の内容とどういう関係にあるかは分からない。だがなにか引っかかるところがあるのだ。熊野純彦先生が引用しているくらいだからね。貴司は胎児の記憶ということに関心があるものだからかもしれない。
 各種知覚とその印象が無ければ記憶に残らないわけだから、胎児の知覚と言うか感覚と言うものはあるのだろうか。まず視覚だがこれは排除してもいいだろう。子宮には光が差し込まないわけだから、視覚など無用の長物である。実際誕生後の赤ん坊は目が見えない。相当経ってからでないと目があかない。これは人間より下等で胎児、出産後の成長が早い動物でも同じだ。猫なんかでも生まれてから相当経たないと目があかない。まず視覚は排除だ。
 触角はどうだろうか。子宮内でも発達しそうだ。聴覚も体内で機能すると思われる。少なくとも光は必要ない。それに胎教なんのもある。音楽を胎児に聞かせたり、ありがたいお経を聞かせることもあるというし。母親が音声で胎児とコミュニケイションを取るということをする人がいるようである。
 味覚はどうかな。胎児の栄養補給方法はどうなっているのだろう。素人の貴司は迷う。なんかチューブみたいなので血管に送り込まれるのかな。前にどこかで、聴覚は妊娠五週間後には発達し始めると聞いたような気がする。

 

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ここ掘れ、ワンワン

2022-11-12 09:34:01 | 小説みたいなもの

 母がふと口を滑らして気が付いてやめたのは、複雑な家族関係について、彼の考えに影響を与えてはいけないという配慮があったのではないかと思う。複雑である意味では「混乱を極めていた」当時の家族の現状を年少の彼には言わない方がいいという母らしい心遣いと思いであったと思われる。
 そういう中で一つだけまとまった起承転結の整ったいきさつを話した事件があった。物語として最後まで整っていて、しかも何回も同じ話を貴司に聞かせたのである。
 それはある日の午後に警官が家を訪ねてきて「おたくの坊ちゃんはいますか」と聞いたらしい。
 私は外で遊んでいて家にいなかった。そのお巡りさんが言うには近所の貯水池に子供が落ちて溺れたのだが、目撃者が彼に似ているとか言ったというので確認にきたというのだ。もちろんそれは彼ではなかったのだ。そのうちに彼が遊びから帰ってきて誤報だったことが母に分かったわけだが、いまひとつ分からないのは、彼が無事に帰宅したときに母親が取った態度を彼がまったく覚えていないことである。

 自分の子供が溺死しいたかもしれないという情報が間違いであったとわかって、ほっとして驚喜したであろうから、子供に向かって取った常ならぬ態度は彼にも記憶されたはずだが、全くその印象が残っていない。あるいはとんだ間違いだと安堵して子供に話すのではないかと思うのだ。ところが彼はその後成年に達してからはじめてその話を聞かされてもその日のことが思い出せないのである。
 最近になって叔母たちから妊娠中から彼の幼児だったころの家庭内でのもめごとを聞いた時に、こんな話をきいた。まだ彼が生まれる前、母のおなかの中にいたころに再婚した父親に義兄たちが激しくの反発したが、強権的な父親に反抗できなくて義理の母にその暴力と嫌がらせの矛先をむけた。

 
 母親が思い余って家出のような状態で家を出て、実家にかえるのも躊躇して街をさまよったことがあったらしい。母は故郷の実家近くまで戻ってきたものの実家に帰るのもためらわれ橋から身を投げしようとしたらしい。飛び込んでいればおなかの中の彼も溺れていたかもしれないのだ。
この出来事は終生母のトラウマだったに違いなく、警官から息子が水死した可能性を聞かされて一気にその時の情動が噴出したのではないか。禁忌としての体験で、だから彼が自宅に帰ったときもマヒしたように無感覚になっていたのではないか。普通なら彼の行動を問いただして、今日の午後お巡りさんが来てこういうことがあったのよ、ぐらい言うだろう。それが言えなかった。だから彼は自分を巡る事故だったのに成人して母親から聞くまではまったく知らなかったのである。
 そのころに兄は週刊誌の記事のような煽情的な、偽情報をでっち上げた素人小説「二人の母」を書いてばらまいたそうだ。 

 そういえば、と彼は気が付いたのである。叔母からこの話を聞いた後で水道橋の橋を歩いて渡れなくなったのである。フロイト先生ではないが、記憶の抑圧が外れて、いわば外気に触れて爆発するマグネシウムのようにフラッシュバックしたのではないか。
 ベルグソンは記憶と言うものは絶対に消えない。隠れているだけだという。夢野久作は胎児にも記憶があるという。記憶をつかさどる脳の海馬は受胎後数週間で発達し始めるそうである。叔母が最近しつこく彼が昔の話を聞きたがるので、「あんまり昔のことを調べると良くないというわよ」と言ったが。宝物が発掘されればいいが、地雷を踏んでしまうこともあるのかもしれない。

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夢が暴れる

2022-11-10 11:14:52 | 小説みたいなもの

  どうも最近夢が暴れるようになった。びっくりして飛び起きた四海貴司は夢から覚めて寝床から上体を起こした。あたりは真っ暗である。枕元のスマホを探って持ち上げると明るくなった画面を見た。二時であった。再び横になった彼はしばらくしてまた飛び起きた。夢に驚いて自分が大声をあげたのかもしれない。あるいは夢の中で恐ろしい声で怒鳴られて驚いたのかもしれない。
 夢と言うものは一旦起きても、またすぐに寝ると続きを見るものらしい。
夢と言っても色彩はほとんどないのだ。なんだか薄暗くて狭苦しいところに押し込められていて、それがどうも袋に入れられているようで、それが時々彼の体を締め付けるのである。袋の外にいる男が怒鳴りながら袋を締め付けるらしい。
 あまり気持ちのいい夢劇場ではなっかったのだ。すぐまた寝たのがよくなかったらしい。夢の続きを断ち切るために彼は起き上がると電気をつけて、昨夜書きかけた原稿を読み返し、そしてさらに二、三ページ分ほどパソコンに打ち込んだ。それから冷蔵庫からチョコレートを出してかじりながらウイスキーを飲んだ。テレビのスイッチを入れてみたが、どの局もお休み中だ。一時間ほど経過したのを確認すると床に這入った。夢の続きは出てこなかった。
 翌朝書きかけの原稿を取り上げると最初のページに「二人の母」とタイトルを挿入した。年の大分離れた異母兄がむかし同じタイトルの「小説」を書いたという話を叔母から聞いたので、わたしのバージョンを自分の立場から書いてみようと、幼児のころの記憶をまとめようと思ったわけである。
 ところがそのころの記憶と言うものはほとんどないのである。これまで思い出そうともしなかったから気が付かなかったわけだが、いざ思い出そうとすると禁忌がかかっているのかほとんど出てこない。おやじに聞くのは微妙すぎる問題だし、母親が生きている間にいろいろ聞いておけばよかったと今更ながらに残念に思った。
 幼年時代を事細かに思い出して書いている小説がある。トルストイにもあるし、谷崎潤一郎や中勘助の小説は有名である。しかし、これは読んでみると祖母や親切なばあや(いまでいうお手伝い)から繰り返し聞かされた話が本人の直接記憶のように思われたのであって、作者自身の記憶かどうかあやしい。貴司の場合は祖母と父とは不仲で別居していたし、母親は沢山の次々と成長する子供の世話に追いまくられて、しんみりと昔話を聞かせる余裕もなかったようである。もっとも、何かの拍子にふっと何か言いかけることがあったが、途中でやめてしまった。その時にもっと聞き返しておけばよかったと今にしては思うのだが、その時には聞き流してしまった。
 そこで叔母たちから話を聞いて書いているのだが、どうもそれ以来、夢が暴れるようになったらしい。

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ポジション リポート

2022-11-08 06:17:18 | 書評

  箱男130ページ、密会6ページ
この二作はペアらしい。両方の作品に解説を書いている平岡篤頼氏が書いている。箱男は盗撮もので密会は盗聴ものだそうである。
 両作の解説と箱男を半分ほど読んだところでの感想は「叙述方法についての実験作」だな、ということ。いずれも作中「ノート」「報告」を多用することである。これは他人の顔にも採用されているが、他人の顔では物語のリニアな流れを読者がフォローすることが自然に出来る。
 箱男ではストーリーの流れをリニアに追おうとすると読者は混乱する。再読三読して自分で物語を再構成するしかない。
 実験的技法を評価鑑賞するだけなら良いだろうが、それ以上内容、テーマ、文章を玩味することは出来ない。それが前衛的な作品なのだ、イイノダということらしい。それは平岡氏も認めている。文章を味読するのは無駄である。意味がない。

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安部公房その後

2022-11-07 19:32:44 | 書評

  ウィキの紹介によると彼の代表作は壁、燃え尽きた地図、他人の顔、砂の女、箱男、密会という所らしい。ま、絶対と言うわけでもないのだろうがそう職業評論家の間で意見がふらつくこともあるまい。
 そのうちの五冊は未読のまま十年以上下拙の本棚に陳列してあったので、今日密会を買いました。
 前回までで燃え尽きた地図、他人の顔、砂の女については一応報告したが、その後、壁は一応読みました。これは彼の初期の作品で芥川賞の受賞作品ということです。壁は二つの中編とショート風の何篇かが一冊になっているが、芥川賞はこれ全体に与えられたのか。あるいはそのうちの、例えばカルマ氏の犯罪に与えられたのか不明だ。解説にはなにも書いていない。とにかく、内容では作品相互の関連はない。しかし、第一部カルマ氏の犯罪、第二部バベルの塔、第三部赤い繭とあるところを見ると、作者も出版社も有機的な一体と見ているのかもしれない。
 佐々木基一という人が解説しているが、なんかぴんと来ない文章だ。カルマ氏の犯罪は不思議な国のアリスのパロデイだというが、冒頭はドストエフスキーのダブルみたいだし、続くパートはカフカの審判のコピーのようだ。それから帽子やズボンが深夜踊りだして会議をするところは確かに「アリス」風だ。しかし全体として何をいいたいのか、分からない。
 佐々木氏は満州生まれの安部にとっては壁も砂漠も同じだと解説している。このところでちょっと別のことを考えたんだが、壁と言うのはどうも自我の比喩ではないかと思われる節がある。どうだろう。突飛かな、新解釈かね。とにかく「壁」と言うのは日本国の象徴が天皇であるように、安部にとっては非常に根本的なイメージらしい。佐々木氏が言うように壁も砂漠も同じだとすると、「自我のダダ漏れ」という惨状ということになる。自我とは自と他を区別選別する関所のような、また細胞膜のようなものだろうが、通行自由ということになるのかな。
 箱男のほうは途中まで読んでいる。それはまた別便で。

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にわとりとタマゴ2

2022-11-05 12:36:47 | 小説みたいなもの

 しばらく様子を見ていたが熱は下がらない。鼻水は洪水のように出て来て止まらない。猛烈なくしゃみを壁を震わせて連発する。

 まだ朝の行事がすんでいないことに気が付いて彼は立ち上がると、トイレに入った。顔を洗った。朝食にトーストを二枚焼いた。食べた後にいつも飲むコーヒーをどうしようかと思案した。

 風邪の時はコーヒーはよくないのかな。昔からかれはそう思っていた。学生の頃に母親から注意されたのだ。たしかによくないような気がする。しかし、それを体験したことはない。第一長い間風邪をひいたことがないのだ。湯冷ましを飲んだがなんだか腹に落ち着かない。とうとうもう一度お湯を沸騰させていつもの通りの濃いコーヒーをいれた。用心して最初は一口飲んで様子を見た。具合が悪そうならそれ以上飲むのをやめようとして。

 ところが、一口飲んだコーヒーが胃に落ちてからに、三分すると効果が覿面に表れた。しゃっきとしてきたのだ。意外だった。風邪気味だからとコーヒーを飲まなかったのが悪い影響を与えたのか。コーヒーを飲まないから症状が改善しないのか。にわとりが先か、タマゴが先か、みたいな問答を自問自答した。とにかく大丈夫そうだと残りのコーヒーを全部飲んでしまった。三十分後には寒気も去り、熱も下がり、風邪っ気も消えてしまった。

 これは誰にでも通用することではあるまい。学生時代から非常に強いコーヒーを毎朝飲んでいたので一回でも飲まないと調子が狂ったのかもしれない。さて今日の町漁りはどこにしようかな、と計画する元気も出てきたのである。

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鶏と卵1

2022-11-05 09:13:54 | 小説みたいなもの

 連日のロケハンでいささか疲労が蓄積していたらしい。昨日は急に冷え込んで雨の降る中、街を長時間うろついた影響がでのだろう。床を離れて十五分後に寒気を体内に感じた。一時的なものかと様子を見ているとだんだんひどくなってくる。顔も洗わず朝食の用意もせずに長椅子にうずくまっていると、熱が出てきた。といっても体温計などというものはない。額に手を当てると明らかに熱い。やばいな、と用心して葛根湯を呑んだ。体温計はないが葛根湯はあるのである。

 只見大介から、その後連絡があって新宿の喫茶店で会った。なにか依頼したことで伝えることがあるということだった。そういうことならそちらの事務所に行くよ、というといやちょっと出る用事もあるのでついでに会いたいというのだ。

 新宿の喫茶店で会った。コーヒー一杯千円と言う店で彼の指定だったが、さすがに高い料金だけあってファストフード店とことなり客はすくない。そして客席の間にかなりの間隔がある。只見は時々利用しているらしい。事務所で会う都合がつかなくて、あまり人に聞かれたくない交渉などをするときに利用しているらしい。

「先日の依頼の件だけどね、とうもうちにはないようだ。あるかもしれないが俺にはアクセスできなかった」と言いながらビジネスバッグから膨らんだ大型の封筒を取り出した。

「あまり参考にならないだろうが、テレビ局が取材のときにヘリコプターからとった俯瞰写真なんだ。火災とか災害の時にとるだろう。知り合いがいてね、雑談の時にその時のヴィデオがあるというので、別に秘密でもないからとコピーしてくれたんだ。もちろん網羅的ではないよ。君の目的に役に立つとも思えないが、俺が持っていてもしょうがないからな」

「すまないな。それならおたくの事務所に取りに行ったのに」

彼は笑った。「うちの会社はうるさくてね。部屋には盗聴器やカメラが設置してあるんだよ。会社の機密漏洩対策だな」

「へえ、監視が厳しいんだな」

「上には警察庁からの天下りが多くてさ。これなんか会社のデータじゃないから問題はないんだけど、こんなデータをやり取りしているとなんだって聞かれるからな。少なくとも会社の業務以外のことをしていたと分かるとまずいのさ」

「それで新宿まで持ってきてくれたのか。すまないな」

 

 たしかにそのデータはあまり役に立つものではなかった。それで日課の一万歩散歩をロケハンに充てていたのだが、疲労が蓄積したのと、昨日の悪天候に晒されて風邪をひいたのかもしれない。

 

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形而上学風ジャーゴン

2022-11-04 07:15:08 | 書評

 さて、「燃え尽きた地図」「他人の顔」に続いて「砂の女」を読みましたので纏めてみましょう。
 燃え尽きた地図はほとんど記憶に残ってはいないのですが。「他人の顔」はここに短評をのせたせいか、いくらか記憶にひっかかっています。そういうわけで「砂の女」も一筆書いておけばあとで思い出すよすがになるかもしれません。
 この三冊で「感銘を受けた」作品は正直申し上げてありません。しかし、「記憶に引っかかっている」というのが類似の表現だとするならば、砂の女、他人の顔、燃え尽きた地図の順となります。もっともこれは読んだ順に新しいほうが記憶に残っているという当たり前のことかもしれません。
 しかし、そうとばかりも言えないようです。読者に与えるまとまりというかインパクトもこの順になります。海外でもフランスで賞をもらったのは砂の女のようですし。
 閉口するのは作品の中でやたらと「形而上学風のジャーゴン」を挿入することです。頭の悪い筆者はその必然性と言うか「おさまり」が理解できません。安部公房はカフカの影響を受けたと言われますが、カフカも似たような不条理性、非現実的な状況を扱っていますが、形而上学的なジャーゴンは一切ありません。そのほうがインパクトも強くなっているのではないでしょうか。 もっとも、安部のこれらの作品から形而上学的饒舌を取り除いたら半分のページ数になるかもしれません。
 この文庫本でもドナルド・キーンの解説がついていますが、「むしろ推理小説として読んだほうがいいと思う」とありますが推理小説ではありませんね。オースターの初期作的なところはありますが。
 それからキーンは表現が写実的になったと書いていますが、これは他の二作に比べる妥当でしょう。また「比喩の豊富さと正確さであろう」と書く。これは他の二作に対する比較の意味では妥当でしょう。
追記:
 安部公房もドストエフスキーの影響を受けたと言われる。もっとも日本の「純文学」作家のほとんどがそう言うのだが。ドストも形而上学的言説が豊饒な作家という一般的な受け止めがあるが、ドストの場合は読むに堪える。    それに言われているほど多くは無い。あっても工夫がある。

 かかる饒舌が多いという印象があるのは、カラマーゾフの兄弟とか悪霊や未成年だろうが、いずれも会話の中で行われるから理解しやすい。地の文でやられるので有名なのは「地下室の手記」だろうが、その中で使われる形而上学的な饒舌は適切な例示に伴われている。安部のごとくベタベタと地の文で長々と書かれると辟易する。日本の読者評論家諸君は辛抱強いね。

 

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