穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

自然というテクスト??

2014-05-05 22:49:55 | 書評
引き続き、「科学の解釈学」について。小説の書評でもそうですが、私の書評は現在進行形ですので、読みさしの途中でどんどん感想を述べます。全部読んで、熟考して、要約して、問題点を整理して、必要な箇所は再読をして確認したうえでまとめて書くというような入念な作業では有りません。

さて、この本、どこまでが諸家の説で、どこが著者の意見か腑分けが難しい。どうも、全部が他人の説の紹介ではないようですし。

いま、たまたま「テクストとしての自然」という章を読んでいます。ガリレオやニュートンが「自然という書物を読む」と言ったといいます。よく分かります。続いて野家氏は「自然という書物」から「自然というテクスト」を読むというのが新しい流れだと言うのですが、ここが分からない。

書物というのは権威のあるもので、神が書いた自然の書物を謹んで押し頂いて読む、というのではなく、各読者とテクストとの有機的反応と言うか、相互に影響し合う作業だと言うことでしょうか。ウンウン唸りながらこじつけたんですが、あたりですか。

テクストと書物の違いの説明は前の章を読み返してみましたがないようです。いきなり出てきてびっくりしました。もっとも、見落としている可能性もあります。こういう場合に事項索引があると助かります。

小説などの文芸評論でテクスト論という説があるように、間接的に目にしたり、耳にしたりすることがありますが、自然科学や科学哲学の分野でもテクスト論というのはあるのですか。この本を読む時には当然そんなことは理解している前提だ、と言われると恐れ入る訳ですが。

そういうことが不案内だからこの本を買ったわけですが、、これはアポリアの一種ですね。




ウィトゲンシュタインのこと

2014-05-05 06:37:38 | 書評
ライヘンバッハは先生から与えられた課題ということですが、なんといっても強烈な印象を受けたのはウィトゲンシュタインでしたね。独特の風貌、服装から「奇矯な」神懸かり的な言説、すべて青少年婦女子を魅了するものでした。わたしもその当時は青少年でしたので。

ウィトゲンシュタインで一番影響を受けたのは、真理値表とかではなくて、(その命題、設問で有意味な結論を得ることができるのか)という反問をまずするという態度でした。

この考え方は、自然科学だけではなく、社会科学、ひいては日常生活でも有効で、「処世術」としても現在まで役立っています。

そうはいっても『無意味な質問』を控えられないのはカントの言うように人間のゴウ(業)であります。もっともカントは業とはいっていない。人間の本来的な性格とかいっていましたな。それで純粋理性批判を書いただけでは止めておけず、彼自身も実践理性批判や判断力批判を書いた訳です。彼にも長い人生が残っていた訳でね。

分かっていても、無意味な反問で対処するという手も人生にはあるわけでして。

昨日インターネットで見つけたんですが、失礼著者の名前を忘れましたが、初期(二十世紀初頭)の論理実証主義者の哲学的経歴はカント主義者として始めた人が多い、というのがあった。当然のことでしょう。問題意識は純粋理性批判と同じですからね。

ウィトゲンシュタインは論理実証主義グループではないし、ウィーン学団のメンバーでもないが、いわば彼らの遠縁に当たる訳で同じ問題意識だったでしょう。

ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書く前か、書いた当時かは知らないが、ショーペンハウアーを耽読していたと読んだことがある。ショーペンハウアーは科学哲学者が軽蔑する「形而上学者」の一人であるわけですが、19世紀後半から人気のでだした哲学者だし、そういう意味で読者だったのかもしれない。カントのいうように人間(特に学者の)の業である形而上学への渇望がウィトゲンシュタインにもあったということでしょう。

すくなくとも、ショーペンハウアーの形而上学は、憂鬱なウィトゲンシュタインの性格にはあっていたでしょう。