穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

天敵「形而上学」

2014-05-07 20:50:04 | 書評
科学哲学に取って形而上学は天敵でした。今でもそうだと思いますが。それなのに、形而上学に学べ、なんてとんでもないことをいっちゃって、ただじゃ済みそうもありません。

ウィトゲンシュタインの口吻などを聞いていると、まるで世の中の形而上学すべてを殲滅しなければいけないという剣幕でした。当時の論理実証主義者や分析哲学者の目標も間違いなくそこにあったでしょう。

一方、形而上学者のほうはどうだったでしょうか。無視でした。軽侮のまなざしを投げかけてね。で半世紀後はどうなったでしょうか。形而上学の一掃は無理でした。しかし、科学哲学の認知度は非常に高くなりました。哲学業界での縄張りも飛躍的に広がりました。

大型書店に行くとよく分かります。アカデミズムの世界では教員の数とか、学生の数とか、論文の数などがおそらく当時に比べて飛躍的に増大しているでしょうが、私はアカデミズムをはなれているので、書店の売り場面積で計るより他に無いのです。

大型書店の哲学関係の売り場で分析哲学、今は論理実証主義はないので、の売り場は30パーセントかもっとありますかね。ヤクザの世界で言えば、形而上学の大親分に殴り込みをかけた新入りが一定のシマを手に入れて押しも押されもしない大一家になったというところでしょう。

少し寄り道をしてしまいました。本論は次号以下で。



「形而上学」薬のさじ加減

2014-05-07 09:45:09 | 書評
私の叔父は医者だった。彼が子供の頃祖父から聞いたという。祖父は漢方医であった。

薬の処方は多すぎても少なすぎてもいけない。また、時期が非常に重要である。その時々によって与える薬が違うし量も違う、と。注:

叔父は勿論西洋医学を学んだが、祖父の家訓を守って、工夫したので「名医」と言われていた。こんなことを自慢することはないが、当面の話題と関係があるので。

田舎の小さな村医者だったので、患者の薬は祖母が作っていたそうだが、祖父が「それじゃ量が多すぎる」と小言をいうと、侍の家から嫁いできた祖母は祖父が吝嗇だと思ったそうだ。

先付けでさわりのところだけ言うと、

1・近代科学の誕生は形而上学(含む、錬金術、アストロロジー)なくしてあり得なかった。

2・現代の科学は科学哲学の助けがなくても、「それでも」動く、じゃない、進歩する。

しかし『形而上学』薬の処方は難しいが現代でも十分に役に立つだろう。

私に言わせれば、パラダイム変換などは、むしろ形而上学処方のチェンジというべきである。

注:最近高血圧の定義が見直された。これで血圧降下剤の処方が大幅にかわる。私は統計学に無知な厚生省や大学医学部の行う疫学調査など信用出来ないと思っていたが、ひとつ実証された訳である。




落とし処をさぐる

2014-05-07 08:12:08 | 書評
前回はどうも大変なことを口走ったようですね。「形而上学に学べ」なんて。

頭を抱えております。これにどう落とし前、元へ、落とし処を見つけるか。新作落語の創作になるかもしれませんが、次号でなんとかしましょう。訂正や撤回はしませんよ。