穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ウィトゲンシュタインのこと

2014-05-05 06:37:38 | 書評
ライヘンバッハは先生から与えられた課題ということですが、なんといっても強烈な印象を受けたのはウィトゲンシュタインでしたね。独特の風貌、服装から「奇矯な」神懸かり的な言説、すべて青少年婦女子を魅了するものでした。わたしもその当時は青少年でしたので。

ウィトゲンシュタインで一番影響を受けたのは、真理値表とかではなくて、(その命題、設問で有意味な結論を得ることができるのか)という反問をまずするという態度でした。

この考え方は、自然科学だけではなく、社会科学、ひいては日常生活でも有効で、「処世術」としても現在まで役立っています。

そうはいっても『無意味な質問』を控えられないのはカントの言うように人間のゴウ(業)であります。もっともカントは業とはいっていない。人間の本来的な性格とかいっていましたな。それで純粋理性批判を書いただけでは止めておけず、彼自身も実践理性批判や判断力批判を書いた訳です。彼にも長い人生が残っていた訳でね。

分かっていても、無意味な反問で対処するという手も人生にはあるわけでして。

昨日インターネットで見つけたんですが、失礼著者の名前を忘れましたが、初期(二十世紀初頭)の論理実証主義者の哲学的経歴はカント主義者として始めた人が多い、というのがあった。当然のことでしょう。問題意識は純粋理性批判と同じですからね。

ウィトゲンシュタインは論理実証主義グループではないし、ウィーン学団のメンバーでもないが、いわば彼らの遠縁に当たる訳で同じ問題意識だったでしょう。

ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書く前か、書いた当時かは知らないが、ショーペンハウアーを耽読していたと読んだことがある。ショーペンハウアーは科学哲学者が軽蔑する「形而上学者」の一人であるわけですが、19世紀後半から人気のでだした哲学者だし、そういう意味で読者だったのかもしれない。カントのいうように人間(特に学者の)の業である形而上学への渇望がウィトゲンシュタインにもあったということでしょう。

すくなくとも、ショーペンハウアーの形而上学は、憂鬱なウィトゲンシュタインの性格にはあっていたでしょう。








科学の歴史

2014-05-04 19:26:10 | 書評
科学の解釈学というのは著者独特の1960年代以降の科学哲学の総括名称であるらしい。科学の発展か変化というか、経時的解釈というか、そういう風に60年代以降の流れを捉えているらしい。

すこし読み進んだがどうも違和感がある。歴史学は歴史理論と歴史的事実の解明評価解釈という二本立てになっている。歴史理論だけ説いても、へえそうですかと聞いている方は半信半疑だろう。

野家さんの著書には科学哲学の各家の歴史理論だけがあって、当然平行して理論の根拠、例証として示されるべき科学研究の具体例の紹介がない。

著者は60年代以降の流れは二つあるという。一つはフッサールの流れを汲むものだと言うが、フッサールは当然亡くなっている訳だから彼の後継者なんだろうが、あまり具体的な人名がない。フッサールの晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」などの流れだというが、この辺はピンとこない。

もう一つはクーンのパラダイム革命の理論だと言う。こちらの方は分かるのだが。もっともパラダイム論というのも大げさで、「旧弊」なライヘンバッハにだって「コペルニクスからアインシュタインまで」という著書が有る。ここで扱っているのは理論を具体的に紹介しながらコペルニクス的転回とアインシュタインのニュートン力学からの「パラダイム革命」を解説している。近代の科学のパラダイム革命と現代のパラダイム革命を扱ったものともいえる。

野家さんは具体的事実は『注』の参考文献を読めというのかな。









Paradise Lost

2014-05-04 09:29:00 | 書評
引き続き「科学の解釈学」に誘発された話です。私に取ってセンチメンタル・ジャーニーだということを述べましたが、その辺をすこし。

哲学というパンテオンのきざはしの下をうろうろしていた学生時代でしたが、卒業と同時にあきんどの丁稚になったということはお話ししました。

そういう事情で楽園であり懐旧のなかでは聖地であったわけです。当時は科学哲学などという言葉は無かったと思う、日本では。とにかく低級なものということで当時全盛だった実存主義とか、マルクス主義とか、ドイツ観念論が主流でしたからまるで相手にされない分野であったわけです。

ウィットゲンシュタインとかエイヤーなんて言ったって多くの哲学徒は知らなかった。ましてハンス・ライヘンバッハなんて専門家でも知らない。ごく少数の人が研究していただけで、それだけ、ある意味、最先端の分野という魅力はありました。

先生にも大学に残ることが期待されていたのは分かっていたのですが、俗世間を捨ててその世界に飛び込むほどの強烈な魅力が無かったのは事実でした。無意識のうちに、科学のはしため以上の創造的なものではないという考えがあったのかもしれません。

いずれにせよ、先生を落胆させたことが長い間気にかかっていたこともあり、懐かしさもあり、Paradise Lost であるわけです。

本書を読んで、改めて科学研究と科学哲学の関係を考えさせられました。そのあたりの感想を次号以下で。







索引がほしい >> 科学の解釈学

2014-05-03 08:05:10 | 書評
前回に続き講談社学術文庫「科学の解釈学」。この種の書籍では索引がほしい。索引の有る無しが評価の基準(私に取って)になる。今回は別の理由で(前回述べた)購入しましたが。索引は編集者の有能性をはかる目安でもあります。

参照文献(本書では『注』)は必須ではない。必要ならインターネットで調べられる。インターネットの情報が不十分の場合は、その時に、文献に当たればいい。そしてインターネットの情報にはまず必ずと言っていいほど、文献リストがある。

参考文献は著者のアリバイのようなもので、たしかにここに出典がありますよ、とか、私はこれだけ本を読んでいます、という証拠のつもりでしょう。このようなものは、卒業論文や学位論文では必要でしょう(先生、私はこれだけ本を読んで勉強しました、というわけ)。

著者の野家さんは奥付によると、日本哲学会会長です。参照文献のリストはあっても勿論いいが、索引があってならいいが、どうなんでしょう。索引なんて講談社の編集者でも作成出来るわけで一考してもらいたい。まだ少ししか読んでいませんが、なかなかいい本のようなので。




若くしてあきんどに身をやつしたので

2014-05-01 20:56:21 | 書評
このブログの看板というか、効能書きを書き換えたのにお気づきでしょうか。書評では内外の小説を対象としてきましたが、センチメンタル・ジャーニーで哲学関係にも触れたいと思います。小説の方が、実は品切れということでして。

講談社学芸*文庫「科学の解釈学」野家啓一著。科学哲学、分析哲学、経験主義哲学の20世紀の歴史を扱った本です。幸い(不幸にもかな)若くしてあきんどに身を落としましたが、順調にいけば?私もこんなことをしていたかな、ということで、特に20世紀の終わりの頃まで記述があるので、その後どうなったかなという興味もあったわけです。

書店でパラパラやったところがちょうどライヘンバッハのところで、今の人は知っている人が少ないでしょうが、懐かしくて購入しました。

1ページめから2ページ、そうして4**ページと読む本では有りませんので(私に取っては)昔の懐かしい名前が出てくるところをランダムに拾い読みしているところです。

また、科学者の責任がクライアントへのアカウンタビリテイに移って行くというあたり(192ページ)は小保方さんや理研の問題を改めて考えさせられます。

* 訂正 >> 講談社学術文庫