穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

読んで面白いのは形而上学

2014-05-06 17:39:33 | 書評
当時は分析哲学とか論理実証主義なんて言っていたと思いますが、ちょっとかじっただけで、商人の丁稚になったものですからその種の本とはご無沙汰していましたが、時々は暇つぶしに思い出したように読んだものです。

不思議なもので、分析哲学の類いには手を出しませんでしたね。第一面白くない。やっぱりほらを思い切って吹く形而上学の方が面白い。最初はショーペンハウアーでした。文章が分かりやすいし、名だたる名文家ですからね。しかし形而上学でも再読、三読に耐える本は少ない。

そのうちに腹応えがいいというか腹持ちのするヘーゲルなんかを読みました。よくもまあ、ひねくれた文章を書くなと感心するし、マッコウクジラ並みのほらを吹くので退屈しない。おおぼらのテントを張ると言えば、まずヘーゲルと思うんですが、こういうのが典型的な体系的な哲学というんでしょうが、「科学の解釈学」で野家さんが紹介しているローティの分類でヘーゲルは体系的哲学者に入っていない。あんなほら吹きは哲学者ではないということなのでしょうか。

ヘーゲルの面白さは、どんでん、どんでんとどんでん返しでいくところです。正、反、合というやつですな。それと、彼のいわゆる論理学をなんにでも適用しちゃう、その腕力ですね。これも感心する。

さて、科学の生産性に貢献するというか、推進エンジンには分析哲学はなりません。その証拠にここ一世紀近くの歴史で科学哲学が科学研究に影響を与えた事例がありますか。

あるいは最前線の自然科学研究者がもろもろの科学哲学に示唆を求めたことがありますか。

哲学と科学の関係で生産的な影響を与えるのは形而上学しかないとおもいます。次回はそのあたりを述べましょう。

仮に現場の自然科学の研究者が科学哲学の話を聞いても、「なるほど、ごもっともですな」で終わりではありませんか。