穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

科学の歴史

2014-05-04 19:26:10 | 書評
科学の解釈学というのは著者独特の1960年代以降の科学哲学の総括名称であるらしい。科学の発展か変化というか、経時的解釈というか、そういう風に60年代以降の流れを捉えているらしい。

すこし読み進んだがどうも違和感がある。歴史学は歴史理論と歴史的事実の解明評価解釈という二本立てになっている。歴史理論だけ説いても、へえそうですかと聞いている方は半信半疑だろう。

野家さんの著書には科学哲学の各家の歴史理論だけがあって、当然平行して理論の根拠、例証として示されるべき科学研究の具体例の紹介がない。

著者は60年代以降の流れは二つあるという。一つはフッサールの流れを汲むものだと言うが、フッサールは当然亡くなっている訳だから彼の後継者なんだろうが、あまり具体的な人名がない。フッサールの晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」などの流れだというが、この辺はピンとこない。

もう一つはクーンのパラダイム革命の理論だと言う。こちらの方は分かるのだが。もっともパラダイム論というのも大げさで、「旧弊」なライヘンバッハにだって「コペルニクスからアインシュタインまで」という著書が有る。ここで扱っているのは理論を具体的に紹介しながらコペルニクス的転回とアインシュタインのニュートン力学からの「パラダイム革命」を解説している。近代の科学のパラダイム革命と現代のパラダイム革命を扱ったものともいえる。

野家さんは具体的事実は『注』の参考文献を読めというのかな。









Paradise Lost

2014-05-04 09:29:00 | 書評
引き続き「科学の解釈学」に誘発された話です。私に取ってセンチメンタル・ジャーニーだということを述べましたが、その辺をすこし。

哲学というパンテオンのきざはしの下をうろうろしていた学生時代でしたが、卒業と同時にあきんどの丁稚になったということはお話ししました。

そういう事情で楽園であり懐旧のなかでは聖地であったわけです。当時は科学哲学などという言葉は無かったと思う、日本では。とにかく低級なものということで当時全盛だった実存主義とか、マルクス主義とか、ドイツ観念論が主流でしたからまるで相手にされない分野であったわけです。

ウィットゲンシュタインとかエイヤーなんて言ったって多くの哲学徒は知らなかった。ましてハンス・ライヘンバッハなんて専門家でも知らない。ごく少数の人が研究していただけで、それだけ、ある意味、最先端の分野という魅力はありました。

先生にも大学に残ることが期待されていたのは分かっていたのですが、俗世間を捨ててその世界に飛び込むほどの強烈な魅力が無かったのは事実でした。無意識のうちに、科学のはしため以上の創造的なものではないという考えがあったのかもしれません。

いずれにせよ、先生を落胆させたことが長い間気にかかっていたこともあり、懐かしさもあり、Paradise Lost であるわけです。

本書を読んで、改めて科学研究と科学哲学の関係を考えさせられました。そのあたりの感想を次号以下で。